妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百六十五話:電柱に突撃――管理人の帰還
 
 
 
 
 
「『えーと…』
 渡された物を手に、娘達はとまどっていた。
 黒瓜堂の店からレビアに送ってもらったのだが、着く直前で紙袋を渡され、中に入っていた物は彼女たちを絶句させた。
「あ、あのレビアさん…」
 辛うじて声をかけたすみれに、
「何か?」
 機械的な反応が返ってきた。
「こ、これはその…なんですの」
「品物の名称と構成に関する答えを私に要求しているの?」
「い、いえそんな事は…」
 慌てて首を振った。
 黒瓜堂へ運ばれて分かった事がある。
 店員達はいずれも大人であり、彼らから見れば、自分達はただのお子様に過ぎないという事だ。冷たくあしらわれたりはせずとも、そこに超えられない壁が存在する事を、彼女たちは感じ取っていた。
 となると、どうしてあのオーナーの下で、と言う疑問が湧いてくるのだが、なぜか身の危険に直結しそうで聞けなかった。
(ね、ねえこれなんだと思う)
(何って、水着でしょう)
(あたしの違うわよ)
 どれどれと覗き込むと、アスカの中にはエプロンが入っている。
 うーん、と腕を組んで考え込んだ四人だが、これがエプロンはエプロンでも、アダルトグッズの方のエプロンだと、知るものはいなかった。
 黒瓜堂の店員達とは違い、まだ未発達の乙女達なのだ。
 勿論、レビアは物も用途も分かっているから、教えるのはご免だと却下した。これがしりる辺りなら、豹の一撃が飛んできかねない。
 と、そこへさくらの携帯が鳴った。
「はい真宮寺です…あ、黒瓜堂さん」
「物は受け取りましたか?」
「え、ええ。あの、これ何なんですか?」
「スク水とはだエプです」
「スク水とはだエプ?」
 声を潜めたのは、理由があった訳ではない。
 ただ、普通の声で繰り返すのは躊躇われたのだ。
「正確には、スクール水着と裸エプロンです」
「そうなんですか…え!?」
 さくらの顔が、首筋までみるみる内に染まっていくのを、他の娘達は怪訝な顔つきで見ていた。
「ど、ど、どうしてそんなのをっ」
「私に見せてくれ、と?」
「え…」
 言われて気が付いた。少なくとも、黒瓜堂の主人は自分達になど興味がない、と。
 では何の為に?
「詳細なデータは分からないので、多少サイズにずれはあるかも知れないが、君たちがそれを着るのだ。無論、エプロンの下には何も付けてはいけない」
「え、ええ…」
「使い方が肝心ですが、分かってますね」
「わ、分からないんですけど…」
「一度しか言いませんから、よくお聞きなさい。シンジ君が帰ってきた晩に、それを着て夜襲するんです。分かったね」
 返事を待たずに電話は切れたが、振り向いたさくらの顔は確かに、違う意味で紅潮していた。
 
 
 
 
 
 ウケケケ、と高笑いするのは、黒瓜堂の主人の専売特許であり、既に占有権も持っている。
 というより、ウニ頭が口元をおさえてうっすらと笑ったりするのは、似合わない事この上ない訳で、それはそれでいい。
 既得権の侵害には当たらないのだが、
「ヒーホー」
 と、パンプキンモンスターの如く、嬉々として浮かれているシンジは、現在山道を飛ばしている真っ最中だ。
 人化したサリュ――山本洋子を見て、すっかり回復したらしい。
 ただし、ハイテンションはそのままミスも誘発するわけで、既に車は数カ所がへこんでいる。
「こら」
「なあに?」
「なあに、じゃない。あと二回ぶつけたら、逆さづりにして運び込むぞ」
「そんな殺生な。俺と旦那の仲じゃない」
「…なら、機銃掃射だ」
「そんな事言わな…あ」
 言い終わらないうちに、バンパーが壁にぶつかった。
「い、今の無しね」
「却下。ラストチャンスだな」
 厳かに宣言した黒瓜堂の主人に、
「ところで、あれはやっぱり麗香なの?」
「さっきの件か?夜香殿は認めていないが、長老殿は既に夜香殿を当主に指定された。夜の一族の当主に未熟な少年の後始末は頼めない」
「ふうん」
 頷いてから、
「ただ、俺としては夜香の方がいいと思ったの」
「なぜ?」
「んー、何となくだけど」
「ほほう」
 夜香兄妹とは仲がいいが、麗香が自分を想っているのは知っている。無論、麗香は嫌だとは言わなかったろう。
 それでも、決して進んでの事では無かったはずだ。
「そんな事はありませんよ」
「え!?」
 シンジは何も言ってない。
 だが、黒瓜堂の主人はあっさりと思考を読んだ。
 刹那、度肝を抜かれたシンジだが、これが致命的な油断となり、車はあっという間に茂みに突っ込んでいた。
「キャーッ!?」
「GEMEOVER」
「あの、出来ましたら先に押すのを手伝ってもらえると…」
 車輪は既に空転を始めている。
 当然押して出すしか手はないのだが、
「必要ないから拒否する。押したければご自由に」
 黒瓜堂はあっさりと断った。
「もう、冷たいんだから」
 ぶつぶつ言いながら降りたシンジが前に回り、よいしょと押そうとした途端、ぎょっと目を見張った。
 車が、するすると後ろに動き出したのだ。
「あ、待てぇ!」
 慌てて車に乗ると、
「だから、必要ないって言ったでしょう?一時的にですが、四輪駆動にも出来るんですよ」
「ウガー!!」
 地団駄踏んだシンジを見て、黒瓜堂がニマッと笑った。
 実に楽しそうだ。
 
 
 シンジが泣いたり笑ったりハイテンションになったりしている頃。
 シビウ病院の院長室では、少々ご機嫌斜めのシビウがいた。シンジが帰国した時点から、既にその動向は掴んでいた。
 無論、元メイドだった娘の元へ行った事も知っている。
 仔細までは知らないが、既にこちらは向かったシンジが、いっこうに戻ってこないのが気に入らないのだ。
 そう、戻り次第強制拉致する予定だったのに。
「居所は掴めたの?」
 書類を手に入ってきた人形娘に問う声も、普段と比べると少し尖って聞こえる。
「はい…」
 頷きはしたが、あまり気乗りのしない命令であった――衛星へハッキングし、シンジの居場所を探せと命じたのだ。
 シビウがこんな事を命じるのは初めてである。
「房総半島の山中で、車を運転しておられました」
「車を?」
「その…」
 少し言いにくそうに、
「黒瓜堂さんとご一緒でした」
 それを聞いた途端、院長の美貌に危険な色が浮かんだ。
「あそこのオーナーと?」
 ただそれは一瞬で消え、すぐに笑みへと変わった。
「まあいいわ。日帰りから宿泊へ日程変更すれば済む話だもの。そうでしょう?」
「は、はい」
 シビウも人形娘も、シンジの詳細までは知らない。
(碇様、お早いお帰りを)
 これ以上シビウが機嫌を損ねると、本来の業務に支障が出る。人形娘は胸の前で可憐な手を組み合わせ、そっとシンジに呟きかけた。
 
 
 
 
 
 三割引きから七割引きのバーゲン、その広告を発見した娘達は、さっそく出かけようという話になったが、ふとアスカ同様の話になった。つまり、引き落とされていない事に気が付いたのだ。
 という事はつまり、自分達は現在シンジに飼われているのかと、ろくでもない話になったのだが、そこへやってきた織姫が、
「単に落としていないだけ。赤字状態だからそうしてるって言ってたわ」
「え?それどういう事?」
「だから、今までの金額だと食費が赤字になるから、目下考え中だってこのまえ聞いたの」
「ふうん」
 さもありなんと納得してから、
「『で、どうしてそれをあんた(あなた)が知ってるの?』」
「パパを空港へ送った時に聞いたの。ベッドで二人きりの時に囁かれた訳じゃないわ」
 さも残念そうに言うものだから、また誰かが突っ込みを入れるかに見えたが、
「ちょっと待て。食費に原因って、そりゃあたいの事か?」
 先に遮ったのはカンナであった。
「碇さんはそんな事言ってなかったけど?」
「え?」
「大体、自分に心当たりがあるからそんな反応するんでしょう。分かっているならもう少し大食漢の体質をお直しなさいな」
「誰が漢(おとこ)だ!」
 そこへ、髪を拭きながらマリアが入ってきた。
「大食女、という単語はないわ。でも、カンナ一人だけの問題ではないでしょう」
「そうそう、後はレイとか」
「何でボクなのさ!」
「だって、カンナの次に食べるのあんたじゃない。この中では群を抜いているのよ」
「だから、そう言う話じゃないの。多分、シンジがまだ慣れていないだけよ」
「慣れていないって、マリア、それどういう意味?」
「元々かかる費用自体が安定していた訳じゃないから、シンジがまだ遣り繰りに慣れていないのよ。元から主夫に向いている性格ではないもの」
(主夫…?)
 何を想像したのかは分からない。
 が、なにやら想像したらしい娘達が、数人ぽうっと赤くなった。シンジに内容を知られたら、ほぼ間違いなく逆さづり確定である。
「とにかく、シンジはプライドが高いから併徴は考えなくてもいいと思うわ。今までの分は使ってしまっても構わない筈よ」
「で、でもマリアさん、もしも碇さんが、金額が決まったから今までの分を一緒にって言われたら…」
 さくらの言葉に、マリアは薄く笑った。
「どうしてですかって訊かれて、自分が計算できなかったからとか、まだ不慣れだったからとか、そんな事言わなくてはならない結果を、シンジが予想できないと思う?予想していながら、シンジがそんな事をあなた達に言うかしら?朝日が西から昇る日まであり得ないわ。それより、買い物に行くなら早くしないと、売り切れてしまうわ」
 自分達のミスで忘れておきながら、十年分の税金を要求したりする厚顔無恥きわまりない税務署も存在するが、シンジは違う。
 利益よりもプライドが優先するタイプだ。
 マリアの言葉に、それもそうだと納得し、慌てて立ち上がった娘達だが、
「たまにはマリアさんも一緒に行きましょうよ」
 さくらの言葉にマリアは首を振った。
「私まで行ったら留守番がいなくなってしまうでしょう。あなた達だけで行ってらっしゃい」
「いいわよ、あたしが番してるから」
 すっと手を挙げたのはアスカであった。
「アスカ、行かないの?」
「ちょっとだるくてね、あまり気乗りしないのよ。たまにはマリアも行っておいでよ。ああいうところで買い物するのもいいものよ」
 無論嘘だ。
 帰国の事があるから、それどころではないというのが事実だが、そんな事はこの場で口に出来ない。
「アスカがそう言うなら…」
 マリアが立ち上がりかけた時、
「ご免」
 玄関で声がした。
「あれ、誰か玄関で謝ってる。見てきますね」
 ぱたぱたとさくらが出て行ったが、玄関には誰もいない。
 妙だと、一歩外に出た途端、その首筋に刀が突きつけられた。
「はうっ!?」
「誰が玄関で謝ってるんですって?」
 チキ、と刀を突きつけているのは無論黒瓜堂である。
「く、黒瓜堂さんだったんですか。お、お世話になります」
「ったく、どこの国の生まれなんだか。まあいい、これにサインしてもらおう」
「サイン?」
 色紙かと思ったら、荷物の受取書であった。
 差出人は黒瓜堂で、品名は十字架となっている。
(じ、十字架?)
 内心ではてと首をひねったが、この黒瓜堂のする事に常識の二文字は適用されないのだと、もうさくらも分かってきているから、黙ってサインした。
「結構です。じゃ、セルフなので自分で取りに来て下さい。では、私はこれで」
「あ、あのっ」
 くるりと身を翻した黒瓜堂の主人を、さくらは慌てて呼び止めた。物は知らないが、ここから房総半島まで取りに行くのは遠慮したい。
「に、荷物ってどこにあるんですか?」
「門の外です。結構大きいですから――そうですな、四人位人手はあった方がいいでしょうね」
 これがすみれかマリアなら、黒瓜堂の言葉の意味を理解したろう。
 が、さくらにはそこまで分からない。
「何でしたの?」
「なんか、黒瓜堂さんが荷物あるから取りに来るようにって。えーと、あたしと織姫とすみれと、あとカンナさんも手伝ってもらえますか?」
「あたいも?」
「ええ、何でも四人位いるって言ってましたから」
「待ってさくら」
 出て行こうとするさくらを、マリアが鋭い声で呼び止めた。
「え?」
「私も行くわ」
 立ち上がったのはいいが、手に銃を持っているのにはさくら達の方が驚いた。
「マ、マリアおめえどうしたんだよ」
「何を送ってくるか分からない相手である以上、用心は当然でしょう」
(マリアさん…)
 確かにマリアの言う事は、極めて正しい。何を送ってくるかなど、想像するだけ無駄な相手ではある。
 ただ、銃を持っていかねばならないような物を送ってくる相手ではない、とそれは黒瓜堂の店へ行って痩身体験をしたさくら達には分かっていた。
 性格が危険という事と、危険な物を送ってくる事は別問題なのだ。
 とはいえ、言っても聞き入れまいと、何も言わずにゾロゾロと出て行った。
 玄関では分からなかったが、確かに出てみると門の外に何かある。ドン、と置かれた物体には、黒布がかけられており、いかにも怪しそうだ。
「ま、待って下さいっ」
 無言で銃を向けたマリアを、慌ててさくらが止めた。
「も、もし普通の物だったら碇さんに怒られますよっ」
 ぴくっとマリアの手が動き、何も言わずに銃口を下げた。
 なにやら思い出したらしい。
 とりあえず中身を確認した方がいいと、全員の本能が激しく囁いたのだが、何せここは往来である。
 シンジの留守中に、挙動不審で通報されて警察が来るような事だけは避けたい。
「警察が?撃退用意」
 がセオリーの黒瓜堂とは違うのだ。
 ガラガラと押していき、中に入れた所で門を厳重に閉める。よいしょ、と布を下ろした途端、全員の表情が固まった。
 十字架に架けられていたのは、イエス・キリストを模したものでもどこかの罪人でもなく――碇シンジであった。
 ぱちりとシンジの目が開き、軽く腕を振ると簡単に縄は外れた。
 ひょいと飛び降りたシンジが、
「あーもう、ひどい目に遭った」
 首を数度回してから、
「あ、ただいま」
 うっすらと微笑ったシンジに、漸く我に返り、
「い、碇さんっ」
 真っ先に飛びついたのはさくらであった。
「ちゃんといい子にしてましたか?」
 泣きながら抱き付いてくるさくらの頭を、シンジはよしよしと撫でた。
 
 
「何やこら?」
 荷物を置きに、自分の部屋へ入ったシンジは、入り口で立ちすくんだ。
 無論、結界も施錠もしてはいかなかったが、ベッドは明らかに毎日使われていると分かる様子だったし、何よりもシンジは室内の空気に漂う性の匂いを感じ取っていた。
「碇シンジのダミー?」
 呟いたのは、理由と現状がさっぱり掴めなかったからだ。
 俺の留守中に一体何が、と呟いた時、
「やはり、シンジは許可してなかったのね」
 後ろで冷たい声がして、シンジは振り向いた。
「許可、とは?」
「黒瓜堂の主人から電話があったのよ。あなたの留守中、ここを使っていいと勝手に許可したようね」
「何だ旦那が?ならいいや」
「ちょ、ちょっとシンジそれでいいの?」
「どうして悪いのさ」
「どうしてって」
「話は聞いてないけど、嫌がらせでそんな許可は出さない。縦しんば出したとしても、嫌がらせだったらさくら達が従うはずはない。違う?」
「それはそうだけど…」
 勿論、黒瓜堂はシンジが留守中実家に連絡などしない事は知っており、またさくら達がそう言うタイプでは無い事も知っている。
 だから勝手に貸し出したのだ。
 そして当然、
「住居不法侵入だ。謝罪と賠償を」
 と、どこかの無知で破廉恥な半島民族の如く、叫ばない事も分かり切った上だ。
「ま、旦那なら何かの根拠あってのことだ。それよりマリア、留守中元気にしてた?」
「うん…」
 シンジの言葉に、マリアの表情が緩んで小さく頷いた。
「で、でもあの――」
「あーっ!」
 マリアの声は途中で遮られた。
「ど、どうしたの?」
「服がナイー!TシャツとかTシャツとかTシャツとか。ついでにタンクトップもシャツも無くなってる!マリア〜」
 ゆっくりと振り返ったシンジの頭には角が、そして尻には確かに尻尾が生えていた。
「わ、私は持って行っていないわ。本当よ」
「こういう持って行き方をするなら、旦那は関係ない。旦那なら、タンスごと運び出させるはずだ。で、誰が持って行ったって?」
 ちょうどそこへ、
「おにいちゃんお帰りっ!」
 アイリスが飛び込んできたが、シンジの視線に遭って足が止まった。
「お、おにいちゃん?」
「アイリス、そのシャツドゥーしたのかしら?」
「これ?これはおにいちゃんの部屋から…あ」
 ぶかぶかのシャツは、無論シンジが自分の部屋で見た物だ。
「アイリス〜」
「キャーッ!?」
 
 
 十分後、シンジはマリアを伴って降りてきたが、アイリスの姿はない。
 アイリスの命運は、一部始終を見ていたマリアだけが知っているが、その顔がうっすらと赤らんで見えるのは気のせいか。
「シンジ…お帰りなさい」
「ん」
 黙って肩に顔を埋めてきたレニを、そのまま担いで膝に載せ、
「さてと、君らへのお土産は別便で手配したから。数日したら着くからね」
「お土産ってどこの?」
「巴里産を手配しました。何せ、今回は史上最大級にご機嫌ですから」
 娘達が、一瞬思わず顔を見合わせたのは――事情を聞かされている四人が――精一杯の気遣いではないかと思ったのだ。
 勿論、彼女たちは吸血美姫の特大の贈り物を知らない。
「どした?」
「あ、あの碇さん…」
 さくらが言いにくそうに、ちらっとシンジを見た。
「?」
 そんな顔で見られても分からない。
 ただ、黒瓜堂の主人が自分達四人にしか言っていない――と思っているから、さくらの方も告げるのは躊躇われている。
「あの、ちょっといいですか」
「いいよ」
 何がいいのか、聞く前にシンジは頷いた。
 そっと耳を寄せたさくらが、
「あの、黒瓜堂さんがその…は、敗戦と失恋があったって」
「旦那が?」
「はい」
「困ったお人だ」
 全然困っていない口調で言うと、
「さくら、耳かして」
 言われるままに寄せたさくらの耳朶へ、事もあろうに、はむっと歯を立てたのだ。
「ひゃんっ!?」
 いきなり甘噛みされて、尻餅をついたさくらの顔は真っ赤になっている。
「い、い、碇さんっ!」
 帰館後、吊し上げ第一号かと思われたが、シンジはふっと笑った。
「その上でだよ、さくら」
「え?」
「確かに今回、失恋と敗戦をまとめて経験してみました。でもね、虚勢張ってる訳じゃないの」
「い、今なんて?」
 驚いたのは、事情を聞かされていない娘達だ。
 マユミはまだしも、マリアとカンナに至っては、唖然としてシンジを見つめている。
 言葉の意味が理解できなかったらしい。
「失恋と敗戦、と言ったの。オーケー?」
 数秒経ってから、かくんと首が縦に振られた。
 訊く方は気楽だが、もしもサリュの人化を知らされていなかったら、シンジにとっては傷の掘り返しになっていたろう。
「それと、この髪は巴里に置いてきた。ちょっと勿体なかったかな、とも思うけどね」
 ふふっと笑ったシンジだが、尚更分からない。
(碇さんは…少し感じが変わった?)
 短くなった髪のせいだけではないと、住人達の誰もが感じていた。どこが、と言われるとすぐには指摘できないが、明らかに発つ前とは雰囲気が違うのだ。
「さて、留守中の報告はゆっくり聞くとして、今日の夕食は俺が作るから山岸一緒に来てくれる」
「いいですよ。お買い物ですね」
「先に泪の所へ行ってからね。色々作ってもらったでしょ」
「あ、そうですね。分かりました」
 
 
 その晩は、久々にシンジが作ったのだが、選んだのは寿司であった。
 マユミと二人で大量の魚介類を買い込んできたのだが、住人達はそれよりもむしろ、漆黒の車体から危険な雰囲気を放ちながら、なぜかあちこちへこんでいるベンツに視線を奪われていた。
「あ、あのこの傷は一体」
 どうみても真新しいそれは不審であり、シンジに聞いたら、
「内緒」
 イヒッと笑って口元をおさえたから、尚更であった。
 白ではなくて黒の、しかも法被を着たシンジが、
「さて、好きな物を握ってあげるからね」
 と、食べ終わった時には、帆立が一人分残ったのみであった。
 全員が満腹――五分に亘って全身をくすぐられて脱力し、回復するのに二時間を要したアイリスを含む――になったの見たシンジは、
「アスカとすみれ、後始末は頼む。それとさくら、俺の部屋へ」
 それだけ告げるとさっさと上がっていった。
 一瞬事態が理解できなかったさくらだが、部屋へ戻っていった。直接行かなかったのは、それなりに準備が必要だったからだろう――色々と。
 十五分後、シンジの部屋を訪れたさくらが見たのは、シンジが発つ前と寸分変わらぬ状況に戻された部屋であり、
「原状復帰に少し苦労したよ。この部屋は使った?」
「え、ええ」
「じゃ、服は?」
 訊かれた途端、あからさまに狼狽えたさくらを見て、やはり黒瓜堂の主人が無断許可を出したのは、ベッドだけだとシンジは確信した。
「あ、あの、そのっ…い、一枚だけシャツを…」
「そう」
 頷いたシンジは、別に返せとも言わず、
「今回事情があって、少し成長した。飲んで」
 大きめのグラスに、赤ワインをなみなみと注ぎ、自分が一口飲んでから差し出した。
「毒は入っていないよ」
「そ、そんな事は全然思ってませんっ」
 受け取ったグラスを一気に傾けた顔が赤くなったのは、ひとえに酒のせいだ。
「お、美味しいけど…け、結構来ますねこのお酒」
「子供にはまだ早かったかな」
「あ、あたし子供じゃありません!」
「子供だよ――真宮寺一馬と若菜のね」
「い、碇さん?」
 単なるお子様扱いではないらしい、と気付いたさくらの顔から朱が消えていく。
 きちんと両手を膝の上に置いたさくらに、
「この間、仙台へ行ってきた。一馬殿と若菜さんにお会いしてきたよ」
「じゃあ碇さん、真宮寺家の墓所へ行かれたんですか?」
「行ってきた」
 短く頷いたが、文字通り一馬に会ったシンジと、墓参りしたという比喩の意味で捉えているさくらとの間には大きなすれ違いがある。
「若菜さんは賛成ではなかったが、桂殿が許可されたんだ」
「お祖母様が…」
 呟いてから、なぜか嬉しそうに笑ったさくら。脳裏で、ある結論に達したらしい。
 笑っている場合ではなくなるのだが、それはもう少し後の話になる。
「若菜さんは、いいお母さんだね」
「はい」
 さくらは笑顔のまま頷いた。
 本心からそう思っているのだろう。
(いい母娘だ)
 シンジは内心で呟いた――自分はもう、父母とは決して会えないのだから。
「で、その若菜さんなんだが、娘との交流の話になって、手段が話題に出た。携帯ならいざ知らず、普通のメールを娘との交流であれだけ使いこなせるのは、そうそういないだろうね」
「お母様はもう慣れてるから、メールも上手なんですよ」
 まだ気付かない。
「少し内容を見せていただいたが、よく見た名前があってね」
「え…」
 漸く気付いたらしい。
 赤くなるかと思ったが、逆であった。
「い、い…いやあああっ!!」
 真っ青な顔で走り出した所を、慌ててシンジは捕まえた。
 
 
 
 
 
(つづく)

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