妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百六十六話:おかずにされるは管理人のみにあらず
 
 
 
 
 
 俯いていたまま、あふれ出る涙を拭おうともしないシンジの動きが止まった時、黒瓜堂の主人は、知り合いが変化(へんげ)した事を知った。
「オーナー、お久しぶり」
 妖々と上がった顔には、涙の痕など微塵もない。
「久しぶりだな」
 応じた黒瓜堂に、
「実力だけ見ても、所詮守れる娘ではありません。麗香には迷惑を掛けました」
「彼女には、迷惑の意識はさしてない。それよりもむしろ、想い人の役に立てる事の方が重要だ。だからこそ引き受けたのだ――恋敵から吸血する事を」
「分かっています」
 シンジは軽く頷いた。
「尤も、僕ならさっさと置いて引き返してきていたでしょう。もしそうしたら、どうしました?」
「さてね。君の願いを叶えるほど私はお人好しでもないし、暇人でもない。とりあえずこれを」
 懐から取り出したのは小さな丸薬であった。
 シンジは受け取ると、ためらいもせず口に入れる。
「甘い」
 すっと口元に触れた指の動きも、明らかに普段『俺』の時とは異なっている。
「甘くしないと吐き出すかと思ってね」
「僕は、オーナーの薬を吐いたりはしませんよ。俺ならいざ知らず」
 俺、と言う言葉が冷ややかに聞こえたのは気のせいだったろうか。
「吐き出されると後始末も面倒だ。で、その効用だが精神安定剤」
「安定剤?」
「勿論、それは表向きの話。正確に言えば、先般私に吸われて不安定になった君の精(ジン)を安定させるためのものです」
「美味しかった?」
「マズー」
「……」
 普段のシンジは、黒瓜堂の事をオーナーとは呼ばない。自分の呼称が変わる時、黒瓜堂の呼称も変わるのだ。
 ただこれは、
「君がオーナーと呼ぶのはまだ早い」
 と、前に一度だけ言われた事による。
 黒瓜堂の主人をオーナーと呼ぶシンジであれば、サリュを喪う事は無かったろう。
 決断を誤って想い人を喪ったのは、『俺』なのだ。
「それはそれとしてオーナー」
「何か?」
「今度付き合って下さい――ドイツまで」
「ドイツ?そう言えば、あの時城を手に入れて以来、一度も行ってなかった。あの時はずっと君と一緒だったな」
「忘れられていたらどうしようかと思いましたよ。一つだけ訊いてもいいですか?」
「うん?」
「もし、最初から僕が一緒だったら、それでも目隠しを?」
 黒瓜堂が、ちらっとシンジを見る。
 その視線が、答えであった。
 
 
 
 
 
「あ、こら待てぇ」
 掴まれた手を振りほどこうとはしなかったが、
「お願い…碇さん離して下さい…」
 か弱い声で訴えたさくらの目には、涙がいっぱい溜まっていた。
「何で俺様がお前の頼みなんぞ聞かなきゃならんのだ。断る」
 引き留め、という部分では一緒だが、巴里で麗香にしたのとは根幹から異なっているのは、やはりやむを得まい。
「人の話の途中で走り出すのはイイ事じゃないよ。さ、お座り」
 離して、と言ってシンジが絶対に離さないのは分かっていることだ。
 悄然と腰を下ろしたさくらを、シンジはすっと引き寄せた――膝の上に載せたのだ。
「い、い、碇さんっ!?」
 これは完全に予想外であり、顔を赤くして狼狽えたさくらに、
「聞いた時はびっくりしたけどね。と言うか、正確に言えばそのことじゃないの」
「それって…あ、あたしがしてた事ですか?」
「うん。さくらはアスカやすみれと違って、必要から裸に剥いた事はないけど、風呂で侵入された時に身体は知ってるし、どこの誰とも分からない娘が対象にするよりはよほどいい。それに、さくらが俺を想ってくれてるのは知ってるから」
「碇さん…」
 ほんのりと赤くなったまま、さくらは小さく頷いた。
 ただ、それとこれとは、つまりシンジの心境の変化は別物である。自分がさくらの自慰対象になっている事は知ったし、文字通り両親から頼まれていわゆる親公認にもなった。
 それでも、シンジにとってさくらの想いはあくまでも憧憬なのだ。いずれ、さくら達の前でも、人を斬ったり裂いたり――乃至は燃やしたりする時がくるだろう。
 命を狙われて、泰然自若とそれを甘受するシンジではない。その時に、さくらは自分を受け入れる事ができないだろうとシンジは思っている。
 無論、それはさくらに限った話ではない。逆に言えば、マリアが今でもストレートにシンジを想っていたら、とっくに話は決まっていたという事になる。
「ちょっとびっくりはしたけど、それよりはむしろ、ごく何でもない事のように話した若菜さんのせいで、それはもう寿命が十年縮みました」
「母はきっと、碇さんを信頼していたんだと想います」
「否」
 シンジはあっさり否定した。
「え、違うんですか?」
「違うというか、多分性格だと思う。仙台行きは旦那に言われたんだけど、墓見物は最初からコースに入ってたの。でも、若菜さんは最初躊躇っていたからね。墓所行きのゴーサインを出したのは、桂さんの方だったから」
「お祖母様が…」
 それなら、どうしてメールを見せたりしたのか分からない。やはり、シンジの言うようにそう言う性格という事なのだろうか。
 事情は掴めないが、結果自分はこの場所にいる。ありがとうございます、と若菜に内心で礼を言ったさくらだが、どうしても気になっている事があった。
 すなわち――。
「あの、碇さん…」
「なに?」
「その…あ、あたしの事…け、軽蔑とかしないですか?」
「あの、市場とかで品物をより分けるあれ?」
「それは選別」
「じゃ、旅行行く人にお土産買ってきてねってお金を渡す――」
「それも餞別」
 シンジがポンと手を打ち、
「あ、分かった。濡れとか草加だ」
 奇怪な事を言い出した。
「濡れ?草加?」
 数秒首を傾げてから、
「それはお煎餅でしょ!碇さん、真面目に答えて下さいっ」
「はいはい。じゃあさくら、脳内にカビが生えた変態とやおい穴の関係を三百文字以内で述べよ」
「……え?」
 脳内にカビの生えた変態、までは分かった。
 が、その後が分からない。
「あの、すみません、やい穴って何ですか?」
「やい、じゃなくてやおい。言うまでもなく、文章は起承転結が基本だ。山あり谷ありで、最後にオチが付いて、ちゃんと意味のあるものになる」
「は、はあ」
「しかし、世の中にはそう言う物と縁がなく、またそれを良しとする種族もある。たとえば、いい男二人を見た時、すぐさまアンテナが伸びて電波を受信し、受けと攻めに分類する作業を始める種族だ」
「あの、そんな人いるんですか?」
「いる」
 シンジは重々しく頷いた。
「やまなく、おちなく、意味無く――文章で言えば三重苦だが、正しくは女性読者のために創作された、男性同性愛を題材にした漫画や小説などの俗称を指す。こんなのを好む時点で脳裏に小さなお花畑が出来ている証拠だが、美少女同士の恋愛ゲームを好む男もいるから、一概には否定できない。趣味自体は個人の自由だしね。問題はやおい族――所謂やおい女の現実逃避にある。たとえばさくらだって、一方的に思われた挙げ句トイレにも行かない――ましておなかを壊したりしない、なんて思われたら嫌でしょ」
「嫌じゃないです。ただ、気持ち悪いだけで」
 さくらの答えに、シンジはうっすらと笑った。
「それと似たようなものさ。実際問題として、男にはヴァギナがない。これは男女の性差から来る当然の違いだ。では、どこに突っ込めばいい?」
「つ、突っ込むってそんな…」
 かーっと赤くなりながらも、
「そ、その…ふ、普通はお、おしりかなって」
「不正解」
 あっさりと却下された。
「ち、違うんですか?」
「やおい穴、だそうだ。美少年同士、或いは美青年同士の絡みに置いて、肛門などという無粋な物はあり得ない。正常な男なら、誰しも自分の身体をまさぐって探してしまう名称だが、おまけに初めて触れられていきなり濡れる便利な物らしい。美少女アイドルは――実際には大した事ないのが殆どだけど――トイレにいかないとか、思いこんでる方がよほどましだ」
 それはそうだとしても、そう言う種族がいる、と言う話にしては妙に語尾が強い。
「何か…変わった人たちですね」
「彼らに取っては、それでも十分おかずになる。当然、そんな器官を持っていない男から見れば、おぞましい限りだ。そんな物があると思ってる時点で、脳内にカビが生えている事はほぼ確定だ。或いは、精神病を患っているかのどちらかだね。そんな、脱まともな人間宣言してるような女に比べれば、さくらのなんてかわいいもんだよ」
「あ、あんまり比較してほしくない対象のような気も…でも分かりました。私は碇さん信じてます。あの…何か被害でもあったんですか?」
「あった」
 頷いたシンジが、なぜかさくらの髪をくしゃくしゃとひっかき回す。
 もしゃもしゃとひっかき回してから、
「行かされた先の娘が、オカルトマニアでやおいマニアだった。しかも部屋に貼った護符が間違っていて、低級霊を大量に呼び込んでいたんだ。被害者の近況で真っ先に見せられたのが、その手のおぞましい同人をいっぱい。あの時はもう、精神的外傷(トラウシ)になるかと思いました」
「た、大変でしたね」
 さくらの言葉に、シンジは内心で舌打ちした。
 不発に終わったのだ。
「いずれにしても、さくらの性癖をどうこう言う気はないよ。おかずにされるのは管理人だけじゃないんだから」
「は、はあ…」
 頷きはしたが、微妙な物は残る。
 無論さくらはまともだから、男同士の恋愛など興味はないし、ましてありもしない物を想定してまで妄想する変態の思考は分からない。
 そんな物と比較されて、それよりいいと言われても、ちょっと引っかかるというのが本心だ。
 とはいえ、変態の烙印を押されて口をきいてくれなくなったりしたら、もう泣きながら仙台に帰って尼にでもなるしか道はないわけで、それよりは余程ましだと言える。
「ところでさくら」
「はい?」
「この部屋のベッドを使っていいと言ったのは、旦那だね」
「え、ええ」
「で、服とか着てもいいよって言ったのはだあれ?」
「そっ、それはあのっ…べ、別に言われた訳じゃなくて、ただその…き、着ていると一緒にいる感じであのっ」
「ふうん」
 シンジの反応に、さくらの肩がびくっと震えた。
 怒らせたかと思ったのだ。
 しかも、膝の上に座っている状態では、逃げるのはおろかガードすることさえ不可能だ。
 ミディアムになってしまうのかと覚悟したが、やって来たのは違う反応であった。
 首筋に唇が触れたと思うと、ちうっと吸われた。
 一瞬強く吸われ、すぐに離れた。
「い、碇さん…」
「とっちめるのは簡単だけど、そんなことしたら、ネタをネタと分からない子はって、また旦那に言われそうな悪寒がするから止めとく。服はまた買ってくればいいんだし」
「す、すみません。でもあの、びっくりしました」
「驚いたってなにを?」
「碇さんの服って、もっと高そうな服ばっかりかなと思ってたんです。でも見たら、あたし達の服と変わらなくって、それでつい…痛っ!?」
 ぽかっ。
「お前の服と一緒な訳ないでしょ。俺はオカマってかい?」
「ふえ…?」
 言葉の意味を解したさくらは、慌てて首を振った。
「ちっ、違いますっ。碇さんが女物を持っているって意味じゃなくて値段ですっ」
 スパン!
「いったーい」
「俺はすみれじゃないって、何回言わせるのさ。服の条件は、丈夫で長持ちすることであって、大して変わらないのにブランドの名を冠しただけで数十倍もするような服は、最初から好きじゃないよ。すみれじゃないんだから」
「ご、ごめんなさい」
「んまったくもう」
 ぼやいてから、
「ところで、毎日してたの?」
「え…ち、違いますっ。ま、毎日なんてそんなっ」
「じゃ、何時?」
「い、何時ってそれはその…」
 無論訊かれたい事ではないが、せめて冷やかすような口調でないと、答えにくい。
 冷やかしなど微塵もない、むしろ研究成果を助手に問うような口調で訊かれ、さくらは穴があったら入りたくなった。
 が、訊いているのは当の本人なのだ。
「中途半端に疼かされたりした時とか?」
 耳朶に吐息を吹きかけられ、さくらの身体がぶるぶるっと震えた。
「或いは…理由もなく身体が疼いてしまう晩とか?」
 手が伸びて、首筋をゆっくりと指先が這った。後れ毛の生え際に爪を当て、軽くかいてからゆっくりと移動していく。
「どうなの?」
 吐息のような囁きに、さくらの首が小さく縦に振られた。
「り、両方です…」
 耳を澄まさねば聞こえぬような声だったが、シンジは頷いた。
 満足したらしい。
「さて、さくらちゃん」
「は、はい」
 シンジの口調に、今度は何を言われるのかと身を固くしたが、
「食堂行ってビール担いできて。箱ごとね」
「ビール、ですか?」
「そ、ビール。今日は月を見ながら飲みたい気分だから。さくらも付き合う?」
「い、碇さんが言われるなら…」
 それでも足取りは嬉々として出て行ったが、扉の所でつまずいて転んだ。
「あうっ」
 無論、段差も仕掛けもない。
「なぜ、あんなところで?」
 ネタとしてはいいんだけど、とシンジは首を傾げた。
 
 
 それから二時間後――。
「らいたい…碇さんが悪いんじゃないれすかあ…」
 ボタンを三つ外したパジャマ姿で、シンジに絡んでくるさくらがいた。
「俺が悪いの?」
「そうですっ!」
 睨んでくるさくらだが、既に酔っぱらっているせいで流し目にしか見えない。相手さえ間違わなければ、強力な武器になった筈だ。
 シンジの顔色に変化はないが、マリアが側にいれば度肝を抜かれたかも知れない。
 既に十本近く缶は空になっているが、シンジの吐息には僅かにアルコールの匂いがしているのだ。
 そう、今フェンリルはいないのだ。
「なんか…どこか行って髪は切っちゃうし、いっつもいっつもあたしの事子供扱いするんだからあっ」
「そう?」
「分かってないでしょっ。あたしが…あらしが好きってひってるのにぃ…碇さんのばかぁ…」
 しなだれかかってきたさくらに、一瞬身体をずらそうかと思ったが、よく見ると既に寝息を立てている。
 あっさりとダウンしたらしい。
「別に…子供扱いしているわけじゃないよ」
 手を伸ばしたシンジが、さくらの髪を撫でる。
「ここの子達はみんな、碇シンジの負の面を知らない――マイナスの部分だらけなのにね」 
 自嘲気味に呟いた台詞を、さくらが聞いたら何というか。
「それに俺は…さくらを子供扱い出来るほど、大人じゃあない」
 白い月を見上げたまま、缶を開けたシンジは、一気に飲み干した。
「さて、と」
 飲むとは言ったが、そのまま泊めるとは言ってない。
 第一、こんな格好のさくらが、朝になって目覚めたら何と言うか。
 責任とって下さい、ではなく――責任取りますと言い出しかねない。何と言っても、真宮寺さくらなのだ。
 缶をさっさと片づけてから、よいしょ、とさくらを抱き上げて歩き出したシンジの足が直前で止まった。
(……)
 抱いていたさくらを、肩に担ぎ直し、すっと右手を挙げた。
「爆風」
 呟いた瞬間、放たれた風が重たい扉を勢いよく開け放ち、同時に小さな悲鳴があがった。
「ハロゥ」
 唇を奇妙な形に曲げて挨拶したシンジが見下ろしているのは、レニとアイリスであった。
「『こ、今晩は…』」
「そこで何をしている?」
「あ、あの…お、おにいちゃんの所に泊まりに来たんだけど、お、お客さんみたいだったからっ」
「…まあいい。さくらを送ってくるから、部屋で待ってて」
 二人を部屋に残し、完全に眠り込んでいるさくらを抱いたまま、シンジは部屋に入り込んだ。
 布団を持ち上げて、そっとさくらを横たえる。おやすみ、と布団を掛けようとしたその手が止まった。
 さくらの手が動いたのだ。
 にゅう、と伸びた手がシンジの首に巻き付き、
「おか…えりなさい…」
 と呟いたのである。
 一瞬驚いたが、眠っているのは間違いない。器用な娘だ、と呟いてから、シンジは部屋を後にした。
 歯を磨いてから戻ってくると、もうベッドに潜り込んでいるかと思ったが、二人ともベッドの上にちょこんと座っていた。
「あの、シンジ…」
「なに?」
「その…お帰りなさい」
 ん、と頷いたシンジがレニの頭を撫でるのと、
「おにいちゃんっ」
 アイリスが飛びついてくるのとが同時であった。
 続いてレニにも抱き付かれ、シンジはベッドの上にひっくり返った。キスの雨を降らせてくる二人からは、わずかにマウスウォッシュの匂いがする。
 数分経って、ようやく解放されたシンジが、
「さ、もういい?」
「『うん…』」
 頷いた二人の目には、涙が溜まっている。
 両側からぎゅっと抱き付いてきた二人は、早々に眠ってしまったが、この日のシンジに眠気はまったく無縁であった。
 ここに帰ってきて、自分の慣れてきた感性が、住人達とは少し違うと気が付いた。
 シンジが一度も連絡しなかったのは、
「連絡させる程手が掛からないだろう」
 と言う発想から来ており、単に放っておいたわけではない。
 そしてそれは、本邸にいる時も同様であった。
 自分が連絡して状況を聞かねばならぬような事態が起きる筈はない、と言うことであって、無関心とは少々異なる。
 ただ、住人達の反応を見た時、彼女たちの思いは異なっていたようだと知ったのだ。
「本当は、留守を放っておいて旅行に行ける関係が一番いいんだけどね」
 小さく呟いてから、シンジはすっと目を閉じた。
 三途の川の畔をウロウロしていた睡魔を捕まえ、自分に取り憑かせたのはそれから二時間後の事であった。
 
 
 翌朝、朝食はシンジが作ることになった。
 本当はベーカリーに行ってもらいたかったが、シンジが作るという意見が多数を占めた為、民主主義の当然の結果としてそうなったのだ。
 アスカが少し落ち込んで見えたのが気になったが、マリアとカンナを使役して、館内の大掃除をしている内に、いつの間にか忘れてしまった。
 大掃除して、ついでに結界を戻したら、ほぼ半日を要した。
 昼食は蕎麦で済ませ、
「ちょっと出かけてくるからね。後はよろしく」
 遠慮無く扱き使われ、ダウンしているマリアとカンナに声を掛けて出ようとしたら、
「あの…大将」
 カンナに呼び止められた。
「何?」
「その…これなんだけどよ」
 言い淀みなど、まったく似合わないカンナだが、何やらもじもじしている。
「どれ?」
 カンナが見せたのは、見覚えのある代物であった。
「このハンカチは…トウジが持ってたやつじゃないか?確か――」
 なぜかは分からない。
 ただ、言葉を続けようとした刹那、ピクッと電流に似た物が走ったのだ。
 妹に貰ったもの、と言おうとしたのだがなぜか止まった。
「これは俺の友達のだよ。どうしておまいさんが持ってるの?」
「いやその…色々あって、これの持ち主に助けてもらったんだ」
「何時?」
「もうだいぶ前にな…あたっ!?」
 ぽかっ。
「ぬあーんで、あんたは借りた物をさっさと返さないんだ」
「ち、違うんだよ、その…大将の知り合いみたいだったからそれで…」
「あん?」
 シンジの目がすっと細くなった。妙な匂いをかぎつけたのだ。
 カンナは助けて貰った、と言った。
 エヴァに乗っている以上、アスカやレイならいざ知らず、カンナが一般人に助けて貰う可能性はまずないと言っていい。
 それに、日常生活であれば、これまたカンナが不覚を取ることはそうないだろう。
 トウジはケンスケと違い、武器を得物にはしておらず、つまりカンナと同じタイプなのだ。
「桐島、お前――アーウチ!」
 言いかけた時、きゅっと首が絞まった。
 無論、絞めたのはカンナではない。
「シンジにお話があるの」
 はふっと首筋に吐息を吹きかけ、次の瞬間ずるずると引きずっていったのはマリアである
 生け贄に選ばれた処女みたいに引っ張って行かれたシンジに、
「まだ話は聞いていなかったの?」
「い、いえ聞いておりませんが」
「じゃ、話してあげる。一度しか言わないわよ」
「お手数掛けます」
 神妙に頭を下げながら、この金髪女は一回解体してボルシチの具にでもしようかと考えていたのだが、マリアの話にその表情が動いた。
「マリア、お前それ放っておいたの?」
「私が言って…どうなることでもないもの。私はシンジじゃないんだから」
「んな事は当たりまえでしょ。俺は巨乳じゃないし子宮も持ってないし、大体名前からして碇シンジだ」
「そういう意味じゃないわ。だ、大体シンジが子宮持ってるなんて…いま、巨乳とか言わなかった?」
 マリアの視線がシンジを捉えたが、シンジはすうっと受け流し、
「まあいい。留守中のことはマリアに任せたんだから。と言うわけで、桐島の件はこうするように」
 耳元に口を寄せて何やら囁いた。
「それ位教えられるでしょ」
「出来ないことはないけれど…でもどうして私なの?」
「マリアちゃんが鈍いから」
「……」
「反応が今ひとつだ」
 評論家のように指摘するシンジに、変化させたハリセンで一撃を加えたくなったが、何とか抑えた。
「ま、それは帰ってから話す。言った通りにやっておいて」
「…分かった」
 頷いたマリアだが、
「ああ、それと」
 一瞬何が起きたのか分からなかった。
 それ位、シンジの動きは自然だったのだ――薄地のシャツの胸を、むにむにと数度揉まれ、手が離脱してから気付いた。
「ね?」
「な、なっ!?」
「胸大きいでしょ」
「シンジ…」
 マリアの声には、明らかに殺気がこもっている。
 ひょいと動いたシンジが、今度はマリアの首筋にふうっと息を吹きかけた。
「あぅっ」
 思わず首筋をおさえたマリアに、
「マリアだってそこ弱いくせに。じゃ、後は任せる」
 シンジは飄々と出て行った。
 後ろ姿をキッと睨んでいたマリアだが、
「マリアだって…?」
 表情がふっと緩み、うっすらと笑った。
 何やら掴んだらしい。
 
 
 
 
 
(つづく)

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