妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百六十四話:五月の雪の日には涙の贈り物を
 
 
 
 
 
 AはDに及ばない。
 例え天地が逆しまになろうとも、その法則は変わらない訳で、上下になってお互いを愛撫し合う二人の勝負は、あっさりとレニが勝った。
「いいよ…約束だもん」
 大の字になって目を閉じた――どちらかと言えば男らしい――アイリスだったが、レニは舌で嬲る事も手錠で束縛する事も…バイブであちこち責める事もせず、頬にそっとキスしたのみであった。
「どうして何もしなかったの?」
 風呂で身体を洗った後、並んで湯に入りながら、アイリスが訊いた。
「シンジに怒られるから」
「おにいちゃんに?」
「俺の物は俺の物、アイリスの物は俺の物――シンジならきっとそう言うよ」
 ?マークを頬に貼り付けているアイリスに、
「アイリスを弄るのはシンジの方が僕よりずっと上手だから」
「そうなの?」
「勿論。それに…」
 ほんのりと頬を染めたレニが、
「アイリスと僕と、二人一緒にシンジに可愛がってもらうんでしょ?」
「!?」
 首筋まで真っ赤に染めたアイリスが小さく頷く。
「レニ、だーいすき」
 ぎゅっと抱き付いたのはいいが、自分は現在ストライクゾーンからは少々外れている事は、忘却したようだ。
 上がってから身につけた、やや大きい、というよりパジャマに近いTシャツは、無論シンジの部屋から拝借してきた物である。
 本人が知らないのは、言うまでもない。
 
 
 
 
 
「あの、旦那この車…」
「何か?」
「いや、何って言うかその…」
 一見しただけで、普通の車でないのは一目瞭然である。
 大体、黒瓜堂の名を冠する男が、単なる高級車だからとシンジにくれる筈がない。AMGのエンブレムはないが、明らかに道交法ギリギリのマフラーが奏でる音からして普通ではない。
「最高速は?」
「260と少し」
(少し〜?)
 百キロを上乗せしていても、この男は少しと言うだろう。既に、車自体が危険なオーラを発している事にシンジは気付いていた。
「嫌なら持って帰りますが?」
「あ、ううんそんな事はナイ。頂きます」
 嫌だと言ったら、地対空ミサイルを搭載した電動自転車でも持って来かねない。いくらシンジでも、そんな物に乗って帝都を走り回りたくはないのだ。
「一応訊くんだけど、襲われた時は逃げるに如かず?」
「ウチも随分と平和主義になったものですな」
「というと、やっぱり戦闘仕様で?」
「大した事はありませんよ。ナンバーの真上にミサイル四基、四輪と前後にそれぞれ短機関銃を装備しているだけです」
「上は?」
「ご希望ならつけますよ」
 うーん、と考えてから、
「じゃ、対空砲をお任せで」
「了解」
(やっぱり武装付きー!)
 とはいえ、これ位の車ならあってもいいかと、取説を眺めているシンジの表情は、既に大部分回復している。
「じゃ、帰りますよ」
「ウイース」
 さすがにMT仕様ではなく、オートマチックだが、採用してあるのはSマチックに近いタイプだ。
 ギアをドライブにして、軽くアクセルを踏んだ途端、シンジの顔色が変わった。
「キャーッ!?」
 ゴン!
 電柱に突撃した。世に言うファーストインパクトである。
「何やってるんですか」
「い、いや車が急に動き出して…」
「アクセル踏んだんだから、動くのは当然でしょう」
「ごもっともで」
 降りてみると、電柱はダメージを受けているが、車のバンパーにはかすかな傷しかついていない。普通なら、逆のケースである。
 多分、数センチも踏み込んではいないだろう。それなのに、あっという間に二十メートル近く、それも完全停止位置から動いたのだ。
 今度こそ、とほんの少しだけ踏み込むと、エンジンが妙な音を立てただけで動いてくれない。
「あれ?」
「サイド引きっぱなし」
 サイドブレーキが掛かったままになっており、ブレーキを解除した途端、くるりと車が回転した。
「キャーッ!?」
 ハンドルを立て直す間もあらばこそ、あっという間に漆黒の車体は、真横から電柱に突撃していた。
 これが、セカンドインパクトを指している。
「痛た…」
 窓ガラスにぶつけた頭をさすった時、エアバッグが動作していないのに気が付いた。さっきのは別としても、今回の衝撃なら動作する筈だ。
 エアバッグは、と訊こうと顔を向けると、そこには捏造遺跡にまんまと騙された間抜けな役人を見るような視線で、こちらを見ている男がいた。
「何か」
「う、ううん何でもないの。出していい?」
「さっきから待ってます」
 人生で、上から数えて四番目位に入りそうな屈辱を感じながら、それでもどうにかハンドルとアクセルに集中する。
 乗れない代物ならば、ここにあるわけがない。最低でも、黒瓜堂の主人がここまで乗ってきた筈なのだ。
 ゆっくりと深呼吸して、全神経をステアリングに向けた。
「GO」
 すっ飛んだ後の操作に賭けて踏み込むと、今度は真っ直ぐに進んだ。とはいえ、少しでも油断しようものなら、どこへ飛んでいくかは分からないが、十分ほどの間に二度の突撃を経験したおかげで、何となく分かってきた。
(真っ直ぐには強いんだ)
 不器用なバッターみたいな台詞を内心で呟いて、漸くシンジは空港から脱出した。
 雪のせいで、警備員がウロウロしていなかったのは幸いであった。普通なら、挙動不審でたちまち捕縛されているところだ。
「えーと、女神館帰っていいの?」
「いいわけ無いでしょう。このまま帝都に入ったら、玉突きの多重衝突事故起こしますよ。あっち行って」
「あっち…」
 指された先には、アクアラインの看板が出ている。
「途中で海ほたるへ」
「了解」
 首都高からアクアラインへのルートは、殆ど直線である。これなら良しと、ぐっとアクセルを踏んだ途端、凄まじい衝撃が身体を襲い、無謀なドライバーをシートに押しつけたまま、車は矢のように吹っ飛んでいった。
 
 
 
 
 
 御前様がお待ちです、そう言って通されたのは、受付で名前を告げてから二分後の事であった。
 さすがに、本邸へ赴く気にはなれず、それでも品川のこのビルへやって来る決心を固めるには、丸三日を要した。
 最上階まで、受付の娘が着いてきた。
 どうぞ、と重厚な樫の扉の前で一礼し、娘はそのまま去っていく。
 ゆっくりと深呼吸してから、扉を叩いた――まったく音がしない。完全に吸い込まれているのだ。
「あれ?」
 三回繰り返して、手を振り上げた時、
「お入り」
 どこからともなく声がした。一瞬、びくっと身を震わせたが、気を取り直して扉に手をかけた。
「し、失礼します」
 見た目はごく普通の会議室だが、通常を超えた能力を持つアスカには、この部屋に施された術の存在が感じられた。
 来る者を阻む、シンジの結界のように強力ではないが、単なるお守り的なものを施す訳はないから、それ相応の力は持っているはずだ。
「ちょうど良かったよ、さっき会議が終わったところでね」
 フユノは笑ったが、アスカ来訪の一報を聞いた途端、予算案の報告を途中で切り上げたと知ったら、アスカはどんな顔をするか。
「まあ、お座り」
「はい…」
 アスカが椅子に座った十秒後、ノックと共に若い娘が入ってきた。楚々とした仕草でアスカの前に紅茶を置いたが、その娘が巫女の衣装に身を包んでいる事に気付く余裕はなかった。
「それで、帰る気になったのかい」
 シンジに聞かれたら今度こそ首が飛びそうな台詞だったが、アスカは小さく頷いた。
 用件は話していないが、元より全部言うまで分からないなどとは思っていない。
 相手は碇フユノ――碇シンジの祖母なのだ。
「お見せ」
「はい」
 ハンドバッグから取り出した通帳を渡す。指がすっと開けた項は現在の残高が記載されている項であった。
「なるほど、もう二ヶ月連続かい。なかなかいい根性だよ。ところでアスカ、シンジに代替わりしてから、一度も落ちていないのに気付いていたかい?」
「ええ、そのことも御前様にお伺いしようと思って…」
「気付いてはいたかい。あれは、シンジがまだ遣り繰りに慣れていないのさ。食費で落とすとばらつきが出る。当分は持ち出しだろうよ」
「持ち出しってあの、自分の分から?」
「そうじゃ。シンジは元々、使わぬ生活の方を好むからの。それより、見合いを強いられて生活費を止められた故帰国する、とシンジには言っておくか?」
「え…?」
 シンジの評判なのか、それ以外の理由かは分からないが、義理の両親からは見合い写真がだいぶ溜まったから帰ってくるようにと、矢継ぎ早の請求であった。それも、シンジが日本を離れた直後からだが、勿論アスカは断った。
 なぜか、家賃が落とされていない事もあって、当面は持つと思ったが、既に二ヶ月仕送りがない。
 このままでは、自分一人が家賃未納者になると、仕方なくアスカは決意したのだ。
「レニの生を狂わせたと、儂すら五体を吹き飛ばそうとしたシンジが、お前の話を聞いて、仕方ないねえと納得すると思うか?」
「そ、それは…」
 赫怒はしないにしても、快く思わない事は間違いない。とはいえ、シンジは一行に帰ってくる気配がないし、授業料すら滞納するような事態になっては、惣流・アスカ・ラングレーの名前に傷が付く。
「お前が看病で帰るなら、シンジは何も言うまいよ。だが、金の力に物を言わせて従わせるのは、シンジが最も忌み嫌う事じゃ。無論、お前がもうここに見切りを付けたのなら別じゃ。シンジには儂の方から話しておく」
「そ、そんなことっ」
 アスカは思い切り首を振った。シンジを想っている自分に変わりはないし、出て行きたいなどとは欠片ほども思っていない。
 ただ…シンジが帰ってこない以上、どうしようもないではないか。
「お前が積極的に帰りたくないのなら、そのまま放っておおき。シンジが帰ってきたら何か考え出すさ。帰りたくないお前を戻したと知られれば、矛先は間違いなくこっちに向かってくるからね」
 
 
 
 
 
「車は、直線だけ操れれば何とかなると思ってるタイプですか?」
 ぶるぶる。
 海ほたるで名物の菓子を食べながら、シンジは首を振った。
 直線の操り方は大体分かったし、コーナーも一応何とかなる。これで良し、と海ほたるへ車を乗り入れたのだが――バックはマスターしていなかった。
 またも電柱に、それも後ろから突撃したのだ。
 これでサードインパクトである。
「だって、後ろは見なかったんだもの!」
「逆ギレしてどうするんですか。それにしても――」
 黒瓜堂の主人は、色が変わるほどマスタードを塗ったフランクフルトを囓りながら、
「車には慣れてるのに、三十分で三度も電柱に突撃できるのは、ある意味才能ですよ」
(ムカッ)
 とは言っても、的を突いているだけに反論のしようがない。
 降りてから周囲を一周したが、シンジが付けた物以外に傷は見あたらず、つまり数百キロの走行距離を、無傷で乗りこなしたという事になるのだ。
「旦那、一つ訊いていい?」
「なんです」
「あの車乗るのって、コツの問題でしょ。腕?それともハート?」
「君には無理」
「な!?」
 予想以上の答えが返ってきた。
「最初はハンドルを真っ直ぐ持って、前だけ見てるんです。で、直進が分かったら後はもう、車に任せるんです。乗りこなそう、と思ってあの車を操れる人はまずいません」
「車に任せる…」
 鸚鵡返しに呟いてから、フェンリルの巨躯に乗っている時は、いつもそうだったと思い出した。
「やってみる」
 黒瓜堂は頷いた。
「最初は何回か、色んな物に突撃するでしょう。でも、一度慣れてしまえば一級品の戦闘機ですよ」
 戦闘機、というのが誇張でないところが、黒瓜堂の黒瓜堂足る所以である。
「直線には慣れたみたいだし、このまま帝都へ戻りますか」
「駄目、もっと走る。半島一周してから帰る」
「そこまでの時間はありません」
 腕時計を見てから――どう見ても千円程度の代物である――黒瓜堂は首を振った。
「後三時間位は大丈夫ですが、続きはまた今度にしましょう。あれはもう君の物なんですから」
「しようがない、それで手を打とう」
 偉そうに頷いた。
 が、反応がない、
(あれ?)
 おそるおそるそっちを見ると、もう車に乗り込んでいる。
「どうしました?」
「もうイイ!」
 地団駄踏んだシンジに、黒瓜堂がうっすらと笑ったのだが、それには気が付かなかった。
 そして、
「六割」
 と呟いた事にも。
 
 
 それから二時間後。
 シンジはベンツの助手席にいた――目隠しをされた状態で。
 人家に突撃しようとしたから、寸前で運転権を没収された訳ではない。ちゃんと上達してきてはいたのだ。
 それなのに、館山道に乗って戻る寸前、車から降りるように指示した黒瓜堂が、後ろに回ったかと思うと、あっという間に目隠しをしてしまったのだ。
「あの〜、旦那これは?」
「道中を見られると困る。少し眠っていて下さい」
 頷いた瞬間、強烈な眠気が襲ってきた。
 催眠ガスが、それも吹き出し口から流れてきたと気付いたが、その時にはもう吸い込んでおり、あっという間にシンジの意識は遠のいていった。
(こんな物まで!?)
 今度、絶対逆に使ってやると、薄れゆく意識の中で決意しながら。
  
 
 
 
 
「戻ってきた?随分とごゆっくりの帰還だな」
 報告を受けた京極慶吾の口元に、冷たい笑みが浮かんだ。特殊部隊『ハウンド』の装備は、既に八割方出来上がっている。
 元より、戦場に女子供の出る幕はないという思想の持ち主だから、帝国華撃団花組構想など、片腹痛いものでしかない。
 だから敗退して引っ込むのは当然だと、最初からたかをくくっていたのだが、関係者を調べ上げる中で、唯一目を引いたのが碇シンジであった。
 精(ジン)を使う、という事と、類い希な美女をいつも従えている事は分かったが、その正体が神狼フェンリルであり、おまけに五精を使える事は分からなかった。
 それでも、その動向に目を光らせていた辺りは、単なる盆暗ではない証と言えるだろう。
 無論、そのシンジが行く先々で傷心に傷心を重ねる結果になっていた事などは、知る由もなかったが。
 部下の一人が、空港のゲートでシンジの姿を発見し、連絡してきたのだ。
 ところがその後、車に乗ったと思ったら二度も電柱へ突撃したという。
「電柱に突撃するのが趣味なのか?」
 なんの理由もない行動ではあるまいと首を捻ったが、横にいた人物がどれだけ危険かを知れば、持てる限りの監視の目をそちらへ向けた事は間違いあるまい。
 そしてその結果、部下の大半を喪うであろうこともまた。
 
 
 
 
 
「着きましたよ」
 黒瓜堂の声にシンジはゆっくりと目を開けた。
 急速に意識が覚醒してくるが、どこをどう見ても女神館ではない。
「あの、ここは?」
「通学路です」
「通学路?」
 シンジは少し窓を開けて、外の空気の匂いを嗅いだ。
 違う。
 女神館どころか、ここは帝都でもない。つまり、住人の誰かの登下校ルートでは無いという事だ。
 ちらりと黒瓜堂を見たが、別にからかっている様子はない。
 おそらく、ここへ来るまでの道筋を、シンジに知らせたくなかったのだ。だからこそ目隠しに加え、催眠ガスまで使ったのだろう。
 手段を問わぬ性格は知っているし、自分の寝顔に化粧してそれを激写し、然るべきルートに横流しして儲けもしないだろうと、そのことは言わなかった。
「遮断モードに変えます」
 黒瓜堂の手がボタンに伸びると、みるみる内に窓ガラスはその色を変えた。普通に外が見える透過率の高い物から、検閲ではまず引っかかりそうな色へと変わっていったのだ。
 ただし、中から外は見えている。
 依然としてよく分からないまま、シンジは周囲を見渡した。
 歩いてくる学生達の服装を見ると、どうやら近くにあるのは高校らしい。
「さて、シンジ君」
 不意に黒瓜堂が呼んだ。
「え?」
「この間巴里で、私が地脈に穴を開けて敵を強大化させました。覚えていますか?」
「覚えてるけど、それが何か?」
「怒ってますか?」
「ううん、それはない」
 シンジは即座に否定した。
「敵が強大化しようと何しようと、あれは俺の制圧可能範囲内でした。つまり、俺がサリュを置いていけばあっさり片は付いていた。でもね、旦那」
「うん?」
「今回の旅行で、少しだけレベルアップしたと思う。旦那に言われた事――目的のためには手段を選ぶな、ってその意味が分かったんだ」
 黒瓜堂は軽く頷いた。
「前にも言いましたが、能力で比較すれば、私は君の足下にも及びません。私の獣魔で封印する事は出来ますが、その前に五体を引き裂かれてウェルダンでしょう。でも君は私より弱い。それは単に、余裕の有無の問題なんです」
「……」
「私は、自分が強くない事を分かっているから、それをカバーする為に取れる手段はすべて使います。でも、君は自分の能力を分かっているからどうしても余裕がある、つまりきれいに勝とうとする。逆に言えば、シンジ君が自分から余裕を消せば、二度と敗戦はありませんよ」
「そうしたら、サリュも少しは喜んでくれるかしら」
「そうだな」
「ところで旦那、出雲で洗脳したのはあれ誰?」
「文法が不明ですが、つまり綾小路葉子の母親を洗脳したのは誰か、という事ですか」
「そうそう」
「水狐ですよ」
「水狐って、あの敵方の女で機体に大きな乳首がついてて、以前金剛担いで逃げてったあいつ?」
「そう、それです。どうして知ってるのかって顔ですな。向こうでウロウロしていたのを、うちの店員が確認しています」
「は、はあ」
 シンジは曖昧に頷いた――事態が掴めなかったのだ。
 教唆の罪に問える行動ではない、と勘が囁いてはいるが、事情がよく分からない。
「分かっていない顔ですね。洗脳して君を襲わせるとしたら、綾小路母子のいずれかです。しかし、娘は君と一緒だし、母親の方も頻繁に通っているから、放っておいても問題ないと判断したんです」
「そう言えば、何で行かなかったん…けほん」
 シンジの顔が、ほんの少し赤くなった。
 思い出したようだ。
「納得しましたか?」
「ウイース」
 結構、と頷いてから、
「今度の一件では、私情を抜きにして分析した結果、君にサリュは守れないと最初から私は判断していた。夜香殿は、違う意見だったようだが」
「……」
「とはいえ、恋を知らぬ君が初めて想いを寄せた相手だし、それをあんな無惨な形で喪っては、君は一生心の一カ所に穴が開いたままになる」
 正論だが、今のシンジには触れて欲しくない話であった。
 どうしてそんな事を、という視線を向けたシンジに、
「そろそろだ」
 黒瓜堂の視線と一緒に腕時計を見たシンジが、奇妙な表情で首を傾げた。
 千円程度で売っていそうな時計だったのに、今その腕にはまっているのは間違いなくブランド物であった。
 ヴァンクリーフ&アーベル社制で、指針の周りにはダイヤが埋め込まれている。
(い、何時の間に)
 もしかしたら、このときの為のネタ作りだったのかもしれないと、ふと思った時、
「この車は、私から君への贈り物。そしてあれが――麗香殿と夜香殿から、君への贈り物だ」
「え?」
 黒瓜堂の手が上がり、その指がある一点を指す。
 歩いてくるのは、数名の女子高生であり、変わったところはない。
 どこに、と言おうとしたシンジの表情が凝結した。
 かっと見開かれた目が、その一人に止まる。
「そ、そんな…そんなまさか…」
 シンジの震える声など、誰が想像できたろうか。きつく握りしめられた拳の上に、滂沱と流れ出した涙がしたたり落ちる。
 友人と談笑しながら歩いてくるのは、巴里の地で今生の別れを告げたサリュその人に間違いなかった。
「か、彼女は…」
 分かっていた。あれが偽者でも、ましてやダミーなどでもないと。
 自分がこの腕に抱き、そして初めて愛を囁いた相手をどうして見間違えよう。
 それでも、訊かずにはいられなかった。確かめずにはいられなかったのだ。
「彼女はサリュ。間違いなく、巴里の地で君が喪った想い人だ」
 頷いてから、
「ただし、今の彼女にサリュの時の記憶はまったくない。今の彼女は普通の人間になっている」
「に、人間に?」
 震える声で聞き返したシンジに、
「そう。彼女の名は、山本洋子という」
 数十センチしか離れていない筈なのに、黒瓜堂の声はなぜか、ひどく遠い物に感じられた。
 
 
 
 
 
(つづく)

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