妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百六十三話:中途半端なジャイアニズム
 
 
 
 
 
 その日の空港は、ある意味で最高危険人物を迎え入れていた。
 黒瓜堂の主人と夜香だ。
 帰国する麗香を迎えに来たのだが、片方はICPOが総力を挙げる極悪犯罪人を使いこなすオーナーだし、もう一人は戸山町の若き当主である。
 夜香はともかく、黒瓜堂の主人は正体がばれれば即座に連行されたに違いない。
 たとえ一キロであっても、制限速度をオーバーすれば逮捕は出来るし、この男の場合には間違いなく公務執行妨害を追加注文できる。
 そもそも、ここへ来るまで道中では制限速度に五十キロを上乗せしてきたのだ。
「夜香殿」
「何です?」
「麗香殿は、もう立ち直られましたか」
「当然です」
 夜香の口調は少し冷たい。
「その辺の相手ならいざ知らず、碇さんに想いなど寄せるからこうなるのです。帰ったら、当分精神修養させるつもりです」
「さ、左様で」
 頷いた主人は、脳裏にふっと浮かんだ考えを打ち消した。
 可能性はかなり高いが、口にするのは躊躇われたのだ。
(やはりそうか)
 見回すまでもなく、先ほどから自分達が周囲の視線を殆ど受けているのに気付いていた。
 無論、二人への視線は意味が全然違う。
 細身のスーツに身を包み、サングラスで視線を隠した長身の夜香と、紫のダブルに加えて天に抗うウニ頭への視線が、まったく意味合いを異にしているのは当然だが、少々目立ちすぎる。
 懐中に武器を持っているわけではないが、ここまで来ると殆ど珍獣扱いだ。
 もう少し左右に散らして来れば良かったかと、あまり変わり映えのしない事を考えた時、
「着いたようです」
 夜香の声に、黒瓜堂が視線を向けた。
 と、次の瞬間その顎がカクンと落ちた。
「…え?」
 麗香だとは分かった。
 だが、ゆっくりと歩みを進めてくる麗香は、黒瓜堂が知る麗香とはあまりにもかけ離れていた。
 憂いをそのまま美しさに変化できる女は、極めて少ない。大抵は負の方に行くが、この麗香は前者に当たる数少ない例であった。
 少し視線を落として歩くその横顔に、男女問わず視線を引きつけられており、数名がカウンターへ突撃する光景を、黒瓜堂は半ば呆気に取られて見ていた。
「夜香殿あれは?」
 口から出た言葉は、意識した物ではなかった。
「妹のようですな」
 答えた夜香の表情にも口調にも変化はない。
 麗香が気付いて頭を下げた。
「黒瓜堂殿、ありがとうございます」
「いえ、暇持て余してましたから。それに――」
 麗香の全身を上から下まで見て、
「麗香殿を電車に乗せると、乗客が降車を忘れそうです」
 この男が人を褒めるのはかなり珍しい。元々が、辞書に賞賛と言う言葉の載っていないような性格である。
「ありがとうございます」
 麗香はひっそりと頷いた。
 
 
 
 
 綾小路葉子が、まだシンジの世話をしていた頃、実質シンジを操縦できるのは、本邸では葉子一人であった。
 両親が年中出歩いているせいもあるが、感性が少し通常とはずれていた為、思考が読みにくいのだ。そもそも、番犬ならぬ番魚ならまだしも、ペットとしてピラニアを飼う辺りからして尋常ではない。
 加えて、邸に仕えるメイド達がまだ入れ替わっていない事も、大きな要因であった。
 薫子を始め、シンジを押さえるに足るメンバーが入ってくるのは、もう少し後の事になる。
 だから、ピラニア真上まで持ってこられ、あと十秒遅かったら間違いなく骨だけになっていた者もいたし、シンジを起こしに部屋へ入った途端、飛んできた火球に自慢のストレートをアフロにされた者もいた。
 結局、葉子が全部任されるまでにさほど時間は掛からなかったのだが、葉子も気に入った上ではないから、どうしても甘やかす。
 起こそうとしたらベッドへ引っ張り込まれ、そのまま抱き枕にされて一時間捕まる事もざらだったし、それに対してフユノは一切小言を言った事はない――密かに嫉妬の炎を燃やしていた実姉は除く。
 レニの事が発覚するまで、シンジとの関係は極めて良好だったのだ。
 とまれ、葉子にとって抱き枕はいつもの事であり、時間は経っても身体の方で覚えている。
 
 
「ねえ、シンジ様もう起きないと…」
 抱き付いてくる葉子に、シンジの口元に笑みが浮かんだ。
 時計の針は午前六時を指しており、、既に太陽は顔を出しているが、シンジは三十分前から目覚めている。
 結局、最後に達した後、家に運ばれてベッドに寝かされても、葉子は目を覚まさぬまま今に至る。
 家の中に自分の抱き枕はなかったから、久しぶりに身体を重ねて記憶が戻ってきたのだろう。
 目覚めたシンジが、ずっと葉子の髪を撫でていたのも一因かも知れない。
 夢の中では、もう少し寝てると駄々をこねるシンジが、葉子を引っ張り込んで抱き付いているに違いない。
「人は変わる――変わらないと生きていけないから。尤も、肝心な所で成長できない役立たずもいるわけだが」
 余人の事ではあるまい。
 頬にそっと口づけしたシンジがベッドを出ようとすると、葉子の腕がもぞもぞとしがみついてくる。
「うん?」
 引き離す代わりに、代替品を選んだ。
 枕を持ってきて腕の中に収めると、今度はそっちに抱き付いた。
 起こさぬようにそっと抜けだし、表に出ると空は青く澄み渡っており、ちょうどシンジの心とは正反対である。
「じゃ、朝ご飯を」
 普通のスーパーは当然開いていないが、この辺りは田舎である。早く開けてさっさと閉める店も多いし、何よりも無人店が多い。
 無人店とは、野菜などを置いておき、一つ百円と書かれた空き箱がレジの代わりになっているシステムを指す。
 都会では考えられない安さに加えて量だが、最近はモラルの低下がとみに問題化しており、監視カメラを設置する所も増えてきた。
 この辺はまだ絶滅していないだろうと、三十分ほどウロウロした結果、大量の野菜を手に入れた。
 肉が欠けているが、たまには菜食主義もいいだろう。裏山へ行って、猪を獲ってくる手もあるが、葉子はそこまで要求しないはずだ。
 家へ戻ると、葉子はまだ眠っており、起きる気配はない。
 出かける前にご飯はセットしておいた。野菜と卵の炒め物に野菜サラダ、ネギと豆腐を具にした味噌汁、朝食には少し濃いが栄養はかなり集まる。
 おかずを作って味噌汁の火を止めた瞬間、後ろからにゅうと腕が巻き付いた。
「もう、あたしが美味しいご飯作ってあげようと思ってたのに」
 こんな時、どんな表情をしているかなど、見るまでもない。
「あ、ごみんなさい」
「駄目、許してあげない」
 言うまでもないが、シンジは長身である。
 父から受け継いだものだが、180は優に超えており、葉子よりも二十センチ近く高い。
 そのシンジが、あっという間に抱え上げられたのだ。
「え!?」
 しかも、軽々とシンジを抱き上げた葉子は、ふらつきもせずに寝室へ歩いていく。
 どさっと放り出されたかと思うと、上から葉子がのしかかってきた。
「くえっ」
 潰された雨蛙みたいな声で呻いたシンジに、
「重かった?」
「いや、重くはないけど」
「じゃ、痛かった?」
「少しだけ」
「この辺が?」
 シンジの反応は待たずに襟をはだけ、鎖骨にかぷりと歯を立てた。シンジの眉根が僅かながら寄ったのを見て、やっと葉子の表情が緩んだ。
「どうしたの、葉ちゃん?」
「だって…」
「だって?」
「シンジ様別人になっちゃったみたいで…」
「一応本物ですけど」
「あ、ううんそう言う意味じゃないの。ただ、最後にお会いした時よりすっかり大人びていたしそれに…女の扱いも上手くなってたし」
 シンジの胸の上で、指がぐりぐりと動く。これが言いたかったようだ。
「女の扱いが上手くなって、想い人一人守れなかったら世話ないよね」
「あ…」
 ハッと葉子が顔を上げた。思い出したのだ――シンジがここへ来た時、外傷はなかったが内部は大きく傷心だった事を。
「ご、ごめんなさい私…」
「あ、いいの」
 シンジは軽く葉子の頭を撫でた。
 無論、サリュの事は気にしていない、訳ではない。ただそれは、自分が一生十字架として背負っていくつもりでいた。
 たとえ、自分が世界を征服する力を手に入れたとしても、決して慢心せぬ為の戒めとして。尤も、そんな力を手に入れるよりは、精神力の方が遙かに需要は高いが。
「育て方が間違った訳じゃないし、葉ちゃんのせいじゃないよ」
「でも、力が足りなかった訳じゃないんでしょ?」
「うん」
「じゃ、やっぱり私が育て方間違えたんです。私が育て方間違えたばっかりに…」
(ムカッ)
 確かにサリュの事は、純粋な力不足とは少し違う。二人で行ったりしなければ、デルニエなどシンジの敵ではなく、単に精神力の問題だ。
 とはいえ、黒瓜堂の主人が言うならまだしも、とっとと実家へ帰った葉子に、育て方を間違ったなどと言われるのはしゃくに障る。
 起きあがったシンジが、葉子を組み敷いて、がしっと腕を捕まえた。
 互いの吐息を感じられる距離まで顔を近づけ、
「イーイ?俺は小学生か中学生じゃないの。たとえ、ミスでサリュを失ったとしても、葉子に育て方を云々言われる筋合いじゃなーい!葉ちゃんは母親の心配でも…むぐっ!?」
 いきなり唇を吸われた。
 不意をつかれたシンジが、目を白黒させている間に、舌まで入り込んできた。
 一頻り、シンジの口を愉しんでからやっと離す。
 ふふっと笑った葉子が、
「安心しました」
「?」
「喜怒哀楽から、怒が抜けて哀だけ倍加していたらどうしようと思ったんです。ご免なさい、おかしな事言って」
「……」
 起きあがって衣服を直し、
「さ、シンジ様ご飯にしましょう。折角作って頂いたのに冷えちゃい――あっ」
 触手のようにシンジの手が伸び、あっという間に葉子は引っ張り込まれていた。
「それはそれは、ドゥーもお気遣いいただきまして」
「シ、シンジ様?」
 アヌスに妙な液体を流し込もうとした時と同じ表情、そう気付いた葉子が慌てて抜け出そうとしたが、十秒ほどで、ショーツ以外はすべて脱がされていた。
 辛うじて、胸を庇うように押さえた葉子だが、シンジの手は伸びてこない。
(あら?)
 見ると、シンジの手は侵攻を停止しており、葉子の手元を眺めている。
 耳元に近づいてきた顔が囁いた。
「葉ちゃんが嫌ならしないよ」
 と。
 ゆっくりと胸から手が離れ、解放された乳房が揺れた。
「もう、意地悪…」
 一転して、ぎゅっと身体を抱き付かせてきた葉子の頬は、ほんのりと染まっていた。
 
 
 それから四時間後――。
 弛緩した身体を投げ出したまま、それでも表情は幸福そうにシンジの上に顔を乗せている葉子がいた。
 ただ、ほんの少し微妙なのは、自分だけが何度達したかも分からない位なのに、シンジがまだ一度も放出していないからだ。自分が全身で喘いでいる時にも、シンジには余裕がある。
 裏を返せば、シンジがそれだけ慣れたのだ――と葉子は思っている。
「ねえ…」
「何?」
「シンジ様、あっちの修行でもしたんですか?」
 気怠げな葉子の声には、ちょっとだけ尖った物が含まれているのは、やむを得まい。本を広げて読めば、そのまま成果に繋がる事ではないのだ。
「あっちって?」
「だからその…」
 一瞬言いよどんだが、
「せ、せっくすのっ」
 勇気を強要された問いの割に、答えはシンプルであった。
 シンジは即座に首を振り、
「してない」
「うそ。だってあたしばっかりこんなにイクなんて…」
(そう言われましても)
 困っちゃう、というのが本音だ。数を数えたって、それこそ片手で収まる位だし、これで経験豊富と言った日には、一生見栄っ張りの十字架を背負って生きる運命になってしまう。
 考えられる要因は一つしかないのだが、この場では口にしない方が良さそうだ。
「本当に訓練なんてしてないよ」
「ほんと?」
「うん。ただ、出しちゃうより、葉ちゃんの感じてるとこ見てる方が楽しいから」
 無理がある、と脳内のシンジが強烈に突っ込んでくるが、生憎とこの手の捏造スキルは持ち合わせていない。
 案の定、葉子は反応しなかった。
(やっぱり怒ってるー!)
 全裸のまま追いかけられるのは嫌だな、とろくでもない事を考えた時、ゆっくりと葉子の顔が上がった。
「あの、葉ちゃん…」
 下手な嘘の上塗りをしようとしたが、ふと葉子の目元に気づいた。
 心なしか、潤んでいるようにも見える。
「そ、そんな事…シ、シンジ様なんて信じないもんっ」
 んちゅーっと唇を吸われた――文字通り吸われたのである。
「だ、騙されないんだから」
(あ、やっぱり)
 ただし、行動の方は裏付けされておらず、そのまま心臓の鼓動を聞くかのように、そっと頭を乗せかけた。
「ちゃんと…音がしてる…」
(音!?)
 さては、既に人外認定されたのかと思ったら、
「この音は、昔と少しも変わっていない…」
 ある意味で微妙な台詞が出てきた。
「うん」
 シンジの手が葉子の髪に伸び、葉子がそっと目を閉じる。
 数分後、二人は揃って寝息を立てていた。
 
 
「『ん…』」
 二人が同時に目を覚ました時、既に太陽は役目を終えて、その姿をほぼ水平線へと消すところであった。
「あ」
 先に起きたのはシンジであり、
「あん、もう少し…」
 もぞもぞと手を伸ばしてくる葉子に、
「ご飯がすっかり冷えた、じゃなくってご母堂の所行くんでしょ」
「別にいいの。ちゃんとお世話はしてくれるから」
「…さっさと起きんかー!」
「気持ちよく寝てたのに…」
 ぷう、と口を尖らして恨めしげに見つめてくる。
 これは起こし方に問題があったかなと、
「とりあえずシャワー浴びてすっきりしてくる――君も来るの」
「え?」
 理解に三秒ほど要したが、解読した途端がばと跳ね起きた。
 たかがシャワー、されどシャワー、なのかは不明だが、一緒に入った二人が出てくるのに四十分掛かった。
 なお、葉子は髪を洗っていない。
 ご飯は保温だが、おかずは言うまでもなく、これ以上にないほど冷え切っている。
 放っておかれてすっかりむくれたおかず達を温め直し、三食を一食にまとめた実に効率の良い夕食をとった。
 食べ終わってから、
「葉ちゃん施設まで送って、俺はそのまま空港へ向かうから。最終便位はつかまるでしょ。出かけるから用意して」
「はーい」
 すっかりご機嫌の葉子が荷物をまとめている間に、後片付けを終えたシンジは、服を鞄に詰め込んだ。
 元より長居する気はなかったから、服も三日分程度だし、荷物の大半は怪しげな道具である。
「あーあ、全部使えなかった」
 ろくでもない事をぼやいているシンジには気付かず、
「暖機してきますね」
 鍵を手にして葉子が出て行く。
 その姿を見送ったシンジが、
「葉ちゃんはこの生活があってるみたいだし。今一緒に帰ったら、堕落しそうだ」
 後ろ姿に語りかけるような口調で呟いた次の瞬間、その耳に飛び込んできたのは悲鳴であった。
「!?」
 瞬時に全身が戦闘モードへと入れ替わり、葉子とベッドで戯れていた時の雰囲気はすぐに消し飛んだ。
 それでも一気に扉を蹴って飛び出さなかったのは、葉子の能力を知っているからだ。
 例え、乱れた自分の姿態を思い出して赤面していたとしても、葉子は葉子である。まだ幼かったとはいえ、碇シンジを完全に操縦していた娘が、その辺の男などに引けをとる事はない。
 何よりも――シンジの感覚が妖気を感じ取っていたのだ。
 シンジの読み通り、すぐに向こうからやってきた。最初に扉が吹き飛び、ついで太い蔓が侵入してきた。
 その先端には、葉子が捕らえられている。
「久しぶりだね…碇シンジ様」
 元は人間だった事を示す証は、何一つない。一応五体の形を取ってはいるが、身体はすべて植物の蔓であり、その上に乗った女の顔が憎々しげにこちらを見ている。
「やはりか」
 呟いたシンジの口調に驚きはない。女の顔は、綾小路葉子の母親の物であり、それが偽物などではないと一目見て気付いていた。
 蔓の攻撃力を見ても、意志無き者への洗脳にしては力が強すぎる。何者の仕業かは分からないが、シンジを快く思っていない所を付け込まれたのだろう。
 ふっと、全身から力を抜いたシンジが、
「狙いは葉子ではあるまい。葉子は放すがいい――片手では、俺は討てんぞ」
 言葉通り、既にその指先には力が入っておらず、必殺の気も宿っていない。
「シ、シンジ様駄目っ」
 葉子が辛うじて叫ぶのと、その胴が締め付けられるのとが同時であった。
「オマエは黙ってオイデ」
 生まれは生粋の日本人だから、訛りではあるまい。既に、正常な言語は失っているのだ。
「身体を植物化した程度で、ザ・管理人を討てると思った度胸に免じて、的になってやる。さっさと葉子を放せ」
 冥界へ帰されているフェンリルが見たら、血相を変えたに違いない――シンジは、文字通り無防備だったのだ。
「イイ度胸ダネ」
 言葉と同時に触手が襲い、シンジは吹っ飛んだ。
「シンジ様っ!」
「まだ」
 まだ、の後に何が続くかは不明だが、さして広くない家の中で吹っ飛ばされたシンジは、背中から壁に突っ込んだ。
 つう、と腰をさすりながら起きあがった所へ第二撃が襲い、壁をぶち破ったシンジがゴロゴロと転がっていく。
「も、もう止めて…」
 葉子の目には、反撃どころか防御さえしていないシンジが映っている。自分が人質になっているせいで、自信を持って育て上げた筈のシンジが一方的に攻撃されるのは、見るに堪えなかった。
 がしかし。
 触手と化した蔓の攻撃で、既に服はあちこち破れているし打撲傷は負っているが、痛打はまだ一度も浴びていない事に、葉子は気付いていなかった。
 当たる瞬間にかすかな――肩が触れる距離まで近づかなければ分からぬほどの――風で先に自分を浮かせていたのだ。
 何よりも、草木を操る事は碇シンジのカードである。
 思いの外持ちこたえるシンジに業を煮やしたか、人の腕ほどの太さに絡まった蔓が、槍となってシンジを襲ったが、シンジはふらりと蹌踉めき、その真上を通過した蔓が電柱を分断した。
(何とかして正気に戻したいが…)
 とりあえず、葉子を放せば一発かまして、後は東京まで搬送すれば済む。
 だが、葉子が人質になっていると手の出しようがないのだ。
(捻った)
 攻撃は見切ったが、わざと蹌踉めいた時に腰でも捻ったらしく、鈍痛が走る。まずいな、と内心で呟いた時、次々と触手が飛来してきた。八本までは避けたが、四本は避けられずに直撃した。
 刹那歪んだ顔は、演技の物ではない。
 いかんな、と呟く余裕はまだあるが、ふと脳裏にある顔が浮かんだ。
「少年、所詮その程度か?」
 天に抗うウニ頭は冷ややかに見下ろしており、
「そんな事言ったって、この状況でどうしろと」
「自分で考えろ」
「あら?」
 幻影はすぐに消えたが、シンジの眉がピクッと上がった。
「やったろうじゃないさ」
 葉子のピンチより、ウニ頭の挑発の方で燃えたらしい。
 すっくと立ち上がったシンジが、
「葉ちゃん、俺もいずれ行く。先に行っていて」
「はい」
 シンジの惨状に、目に涙を浮かべていた葉子が即座に頷いた。このままではシンジが殺される、そうなる前に自分が殺されればと密かに決意していたのだ。
「フン、オマエ如きにナニが出来る。黙って殺されるが…!?」
「俺の物は俺の物。葉子の物は俺の物」
 俗に言うジャイアニズム――こちらに向けて開かれた右手は、左の手がしっかりと抑えている。
 未熟な精神のせいで、失った想い人の顔が脳裏を過ぎった。
(サリュ、力を貸して)
(Pardon?)
(力貸せー!)
(Oui)
 心の住人は、悪戯っぽく微笑んだ。
 シンジの目が見開かれた次の瞬間、
「風裂!」
 刃と化した一陣の風は一直線に葉子を襲い、そして身体に当たる寸前でその向きを変えた。
 植物化した身体の上に、唯一残っていた人間を示す顔が地に落ちた途端、身体は破裂して、葉子は緑色の汁に包まれた。
 ゆっくりと歩み寄ったシンジが、汚れるのも構わずに葉子を抱き上げる。
 既に原形をとどめていない顔に向かって、シンジは小さく十字を切った。
 
 
「これで、良かったんです」
 墓石に花を添えた葉子が、ゆっくりと立ち上がった。
「もし、このままずっと母の看病で帰れなかったら、もしかしたら私は母を恨んでいたかも知れません」
「……」
「シンジ様」
「うん?」
「お願いがあるの。あたしはここで、菩提を弔っていきます。でも、ずぼらだからお墓参りも忘れるかもしれない。だから…一年に一回だけ見張りに来てください」
「分かった」
 振り向きざま、胸に顔を埋めてきた葉子に、シンジはどうしても手を回す事が出来なかった。
 結局、葉子の母親を改造した犯人は分からなかった。
 ずっと施設にいた以上、シンジと葉子の姿を見て自分から何かを取り憑かせた、という可能性は低い。
 背後からの一撃で捕らえられる相手ではないと、シンジの勘は告げていた。結果だけ見れば、やむを得ない処置ではあったが、少なくとも自分が来なければ葉子は母を失う事は無かったのだ。
 シンジが上を見上げた時、
「こら」
「え?」
「自分のせいで、とか思ってるでしょう」
「四割位合ってる…いた」
 きゅむっと頬をつねられた。
「実験ミスじゃないし、そんな事思わないで下さい。もし、少しでも悔やんでるならもっと強くなって下さい――ここを」
 葉子が手のひらを押し当てたのは心臓の真上に当たる。
「力を持っているという事は、それだけ頼りにもされるけれど、狙われる事も多いんです。襲ってきた相手を始末した位で、悩んでる余裕はないんです。例えそれが、私の母親であったとしても」
「葉ちゃん」
「はい?」
「来年来る時は、三割り増し位で心臓に植毛しておくから」
「それでいいんです」
 シンジの頬で、小さな音がした。
 
 
 翌日、実に二ヶ月近く離れていた帝都に、シンジは帰ってきた。今日着く事は誰にも言っておらず、帰りのルートも決めていない。
 葉子にお説教されたが、まだ精神的外傷は回復していなかったのだ。
「あ、真っ白」
 周囲を見回したシンジが呟く。
 空港を出たシンジを出迎えたのは一面の大雪と、そして黒塗りのベンツであった。
「おかえり」
「あれ…旦那?」
「今日か明日だと思って、待ってたんですよ。結果、この有様だ」
「え?」
「五月なのに、大雪でしょう?私の勘が当たると大雪になるんです」
 笑った黒瓜堂の主人が、運転席のドアを開けた。
「私から君への贈り物です。さ、乗って下さい」
 
 
 
 
 
(つづく)

TOP><NEXT