妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百五十七話:失恋奥義?
 
 
 
 
 
 泣いた数だけ綺麗になれる。
 これは大嘘である。これが事実なら、女を表現する単語から醜という単語はとうに消えているだろう。
 ではこれはどうか――泣くと綺麗になる事がある。
 これも今一つ怪しい。
 ただし、ここにあるのは、間違いなくそれに当て嵌まるケースの一つであった。
「碇様、お気を付けて」
 結局シンジの肩に顔を埋め、泣きながら眠ってしまった麗香は、朝まで目を覚ます事はなく、またシンジも起こそうとはしなかった。
 この場合、身動ぎ一つせずに受け止めていたシンジを褒めるべきだろうが、今回の場合、麗香を思ってと言うよりその心ここにあらずの感が強いシンジであり、事実一度も麗香を見る事は無かったのだ。
「麗香」
「はい」
「ありがとう」
(碇様…)
 何も言わずに腰を折った麗香に片手をあげて、シンジは歩き出した。
 空港で手続きを済ませ、ロビーの椅子に座っていたシンジの横に、すっと姿を見せたのはフェンリルである。
 無論、妖狼の姿ではない。
「久しぶりだな。姉さんのところか」
「ええ。何となく出づらくて、留守してたのよ。それよりマスター」
「ん?」
「あの娘、随分と綺麗になった」
「麗香のこと?」
「そうだ」
 フェンリルは軽く頷き、
「ここへ来た時は着飾った人形だったが、数日でよくあれだけ変わったものだ。抱いたのか」
「その性格なんとかならんのか」
 呆れたような口調だが、怒った素振りはなく、
「黒瓜堂の旦那は、抱かせる為に連れてきた訳じゃあるまい。サリュの全身をまさぐったその手で抱くのか」
「そうか。で、その仕掛け人はどこへ?」
「巣に帰る!って一言だけメールが来た。日本じゃないかな」
「何しに?」
 ちらりとシンジがフェンリルを見た。
「出たのか」
「出た」
「そう言えば、いざという時には面倒見てって旦那に頼んでおいたんだ。旦那が戻ったなら、ウチの連中が全員討ち死にしても大丈夫だ」
 台詞だけ聞くと、黒瓜堂を全面信頼しているように聞こえるのだが、女神館の住人達に聞かれたら、逆さづりにしてレアで焼かれる可能性が高い。
「旦那なら、俺のボーダーラインが分かってるから心配要らない。帝都が灰になる事はないだろ」
「私に戻れと言わないのか?」
「降魔用に?」
「そうだ。今回は私も用無しのようだからな、帝都にいた方がよかろう」
「どっちでもいい。黒瓜堂(カード)が破れたなら、お前がいたって同じ事だ」
 ひく、とフェンリルの眉が上がった。気に入らないらしい。
「そこまで信頼されるとは、羨望の限りだな」
 すっと立ち上がり、
「まあいい、私も今回は面白いものが見られて楽しかった」
「面白いもの、とは」
 帝都で珍事でも勃発したかと思ったが、
「挫折を知らぬ人間が、初めて根本から挫ける所を見るのは初めてだ。ましてそれが主とあってはな。少年よ、楽しかったぞ」
 言うなり、シンジの反応を待たずにその姿は消え、
「野郎…」
 シンジが呟くまでに十秒ほどかかったが、その身体がぴくんと揺れた。
 はふうっ。
 耳元に甘い吐息が吹きかけられたのである。
「シンちゃんのばかあ」
 おまけに第一声がこれだ。
「どうしてここにいる」
「張ってたのよん」
 ミサトは事も無げに言った。
 不意に真顔になり、
「シンジ、あんたが敵の娘と出来たのは知ってるわよ。それと、市街が壊滅に近い原因がその辺にある事もね。でもさ、引きずり過ぎじゃないの」
「そうかい?」
「そう見えなきゃ言わないわよ。無理なら、しばらくドイツへ行って来れば?城でのんびりしていた方がいいわよ。今のシンジの状態なら、葉子も来られたって迷惑よ」
「別に、同情してもらいに行く訳じゃないさ」
「んなこた分かってるわよ。葉子が迷惑だって言ってるのよ。頑固な母親が病院拒んでるから、自分で面倒見てるんでしょ。そこへ腑抜けになったあんたがいったら、葉子が可哀想でしょうが」
「……」
「ごめん、ちょっと言い過ぎたわ」
 最初から自制すれば済む話だが、
「いや、別に…」
 シンジは軽く首を振った。
「別に、サリュを喪った事が一番大きい訳じゃない。俺はそこまで人間出来てないよ。一番は、自分の無能っぷりにあるんだ。姉貴がどう聞いたか知らないけど、振られて自棄になって市街を破壊したわけじゃないよ」
「あ、あたしは別にそんな事…」
 そう、そんな事を言う為に来たのではない。グリシーヌの話を聞いて、シンジが落ち込んでいると見抜いたのはさすがにミサトだが、ツッコミを入れる気などなかった。
 もっと普通に抱き付いて励ましてやろうと思っていたのだ。
 ただ、初めて見る弟の姿に妙なスイッチが入ってしまったのである。
「俺が両手足喪ったとか、そう言う事なら後悔もしないし、すぐに精巧な義手と義足の手配でもするさ。でも、喪ったのは初めて想いを寄せた女だ。姉貴の言う通り、そう簡単に立ち直れれば苦労はしないよね」
 それだけ聞けば、普段のシンジと変化はない。
 立ち上がったシンジがミサトの肩に手を置き、
「姉さんの言う通り、葉ちゃんの所に行ったら連れ帰るのは止めとくよ。萩でも行って観光でもしてくるさ。じゃあね」
「シンちゃん…」
 立ち尽くすミサトの目から一筋の涙が落ちる。
「時々熱血になるから、今のシンジ様には会わない方がいいって言ったのに」
 離れた柱の陰で、小さく呟いたのは瞳であった。
 姉弟の感情を抜きにして、二人の性格を計算すればこうなる事は目に見えてあったのだ。
 とは言え、このまま放っておくわけにもいかない。
 小さくため息をついてから、瞳はゆっくりと歩き出した。
 
 
「マ、マリアさんそれどういう事ですかっ」
 自分はシンジと関係がないし、興味もないと言ったではないか。
 それを以前の事を思い出したから敵を逃がしたなどと、あたかもまだ想いが残っているような事を口にしたのだ。
 いくらなんでもひどい。
 しかし、
「先に帰るわ」
 マリアはくるりと踵を返すと、そのまま歩き出した。
「ちょ、ちょっとマリアさんお待ちな――!?」
 すみれの言葉は、最後まで紡がれる事はなかった。
 マユミがすっと霊刀を突きだしたのだ。
 無論鞘に収まったままだが、こんな行動は初めてである。
「マ、マユミさんあなた…」
「止めた方がいいですよ。とりあえずマリアさんには絶対勝てないし、それに碇さんに知られたら色々と…あら?」
 そこへ滑り込んできたのは大型のリムジンであり、降りてきたのは天に喧嘩を売るヘアスタイルであった。
「黒瓜堂さん?」
「黒瓜堂です。関係者に話があってきました。乗って下さい」
「関係者?」
 ぴぴっと指差したのは、アスカを始めさくらとすみれ、それに織姫の四人であった。
 レニとアイリスに視線を向けて、
「君らにはまた別に。さ、乗って」
「……」
 四人は一瞬顔を見合わせたが、それでも黙って従ったのは、シンジが頼りにしているらしいのを知っているからだ。
 裏を返せば、単なるボンクラなら頼る筈もなく、ならば逆らった時に攫われる可能性もあると踏んだのである。
「一時間もしないでお送りします。夕食係にはそう言っておいて下さい」
 音もなく走り出したリムジンを見送ったカンナが、
「マユミ、いいのかあれ?」
「碇さんの知り合いみたいだし、大丈夫でしょう。この間ほら、碇さんの乗った飛行機がハイジャックされた時、御前様は今の人に任せたみたいなの」
「あたいにはパンクにしか見えなかったけどなあ」
 店員に聞かれたら、ほぼ十割拉致されて想像もしたくない目に遭わされる事は間違いない台詞だが、カンナに悪気はない。
 良くも悪くも、直情径行型なのだ。
「けどマユミ、マリアが何であんな事言ったのか分かってたのかよ」
「私だけじゃないわ」
「え!?」
 見回すと、レニの姿が目に映った。
 僕に振らないでよ、とその表情は言っており、
「んじゃ分かってないのはあたいだけ…そっか、あいつらも分かってないんだよな」
 ほっとしたように呟いたが、
「でよ、結局マリアは何考えてたんだ」
「……」
 
 
「そらまあ、プライドの話でしょ」
「『プライド?』」
 車が走り出してから、
「お疲れ様でした。ところで何か揉めてたみたいですが、どうかしたんですか?」
 と、黒瓜堂がアスカに訊いたのだ。
「別に。ただ、カップルが成立したのよ」
「カップル?」
「マリアとシンジよ」
 黒瓜堂は二秒考えてから、
「それはないと思いますが、シンジ君から告白でも?」
「あの、そうじゃないんです――」
 話を聞かせたさくらに、黒瓜堂が冒頭の台詞を告げたのだ。
「一つ訊きますが、そのろくろっ首女は助けてとか言ったんですか?」
「そう言えば…」
 顔を見合わせてから、
「そんな事は全然言ってなかったわよね」
「そう言う事です」
「え?」
「シンジ君との事を思い出させられてあの小娘が…もとい、彼女がどう思ったかは知りません。ただ、一つはっきりしているのは、その妖怪に死の恐怖がないと言う事ではなく、碇シンジを抜いた花組など全然恐れていなかったという事です」
「黒瓜堂さん、それはどういう事ですの」
「実は、シンジから頼まれていたんですよ。うちの可愛い子達が限界になったら助けてやってほしい、とね」
 それを聞いた途端、娘達の表情が緩んだ。
「シ、シンジがそんな事言うなんて思えないけどっ」
 横を向いたアスカの顔は、よく見ると赤くなっている。
「つまり私が君たちに嘘を言っている、と?」
「べ、別にそう言う意味じゃ」
 今度は一転して、慌てて取り消した。
「まあいいでしょう。頼まれていたんですが、鬼女が参入してきたんで、援護は見送りました。劇場の支配人まで気絶させた相手ですしね、邪魔しちゃ悪いと思ったんです。結果的に降魔は壊滅、敵のボスも捕まったわけですが、もし来なかったらどうなってましたか?」
「来なかったらって?」
「鬼が助けず、うちも動かなかったらですか?失礼だが、最前の状況を見る限り敗色濃厚だったと思いますよ。シンジが装備を不備にしたまま行くわけはないですから、まだ機体に慣れきっていなかったのでしょう。いずれにしても、あの女にとって花組に負けたという思いはなかったんですよ。自分の事を覚えているか、と一件関係なさそうな事を訊いたのも、それを確かめる為だったのでしょう。命乞いのような台詞が少しでも出れば、また対応は変わっていたと思いますよ。分かります?」
「……」
 どの顔を見ても、狐につままれたような顔をしている。
「つまり、シンジ君に後を任せると言われながら、自分達の力では敗戦ぎりぎり迄に追い込まれた挙げ句、敵のボスは捕まえてもらったんです。おまけにそいつは、自分達の事など全然恐れていなかった。もうすり胡麻状態でしょう」
「すり胡麻?」
「プライドが木っ端微塵って事ですよ」
「は、はあ…で、でも碇さんの事を思い出したからって!」
「それも、嘘ではないでしょう。ただ、これは微妙でしてね」
「どうしてですの」
「シンジは、二人が会ったときのことを君たちに話しましたか?」
 娘達が首を振ると、
「やはりそうでしたか。ま、これは二人の個人的な問題ですからね、余人が首を突っ込む事じゃない。ただ一つ言えるのは、思い出して嬉しくなって、やっぱり自分はシンジを愛しているって分かったから恩赦で放した、訳では無いという事です。例えば真宮寺さん」
「は、はい」
「お父さんの事を思い出した時、勿論懐かしく思い出す事もあるけれど、哀しい気持ちになる事もあるでしょう。何かを思い出すと言うのは、必ずしも良い思い出とは限りません。あの小娘…もとい、彼女がそう言ったのは、多分虫の居所か悪くなったのでしょう。最強の恋敵が復活したわけじゃないと思いますよ」
「さ、最強の恋敵って、べ、別にあたし達は何にもっ。ねえっ?」
「そ、そうですわよ、わたくしたちはなにも…」
「ほう?」
 ふふんと笑った黒瓜堂が、
「どうして君ら四人を限定したと思ってます?」
 ばれてる!?
 かーっと赤くなった娘達に、
「シンジはいいカモ葱…いや、お得意でね。例えば、今回の件で君たちが何も知らず、マリア嬢を問いつめた場合、自分で考えなさい位は言われるかも知れない。そうなった場合シンジの留守中に、住人達が不仲になるわけで、帰ってきたシンジに物を買わせるのが難しくなる。そうなると、うちとしても困ってしまうんですよ」
「それであたし達をわざわざ?」
「それは一割以下です。シンジの近況の事で、話がありましてね」
「碇さんに何かあったんですかっ?」
 思わず身を乗り出した娘達に、
「今外国なんですが、これ以上にない規模の失恋を経験しました。ついでに敗戦も」
「……」
 娘達の口がぽかんと開く。
 意味が分からなかったらしい。
「『し、し、失恋と敗戦っ!?』」
 四人もいれば、重量は二百キロ前後に達する。
 一瞬車体がぐらりと揺れ、ハンドルを握っていた運転手の眉がわずかに上がった。
 
 
「宮村優奈の名前は、儂も聞いた。以前、夫が魔道省にいたが先だって降魔との戦いで死んだ筈じゃ。確かその時、シンジが五千万ほど渡したと聞いておる」
「ご、五千万円!?」
 ついマリアの声が上擦ったが、フユノは平然と頷いた。
「シンジにとっては、どうという金額ではない。もっとも、自分の事であれば、その万分の一くらいしか使わぬからの」
 ふっと笑ったフユノに、
「それで御前様」
「何じゃ」
「あの、黒瓜堂というのは信頼出来るのでしょうか」
「お前が銃口を向けても、殺さなかったのであろうが。それに、シンジが何より信頼しておる。それでよかろう。それに、先だってシンジを助けてくれた相手じゃ。とりあえず、儂は任せておる」
「は、はい…」
 女神館に戻ったマリアは、フユノに呼び出されていた。
 米田とあやめは、病院へ搬送されたし、今はかえでが付き添っているところだ。
「それよりマリアよ」
「はい」
「お前の苛立ちは分かる。シンジに留守を任され、機体も揃えておかれながら敵を倒すこと能わず、挙げ句には倒した敵から蔑まれたのじゃ、プライドなど微塵に砕けていよう」
「御前様…」
「とはいえ、シンジは自分と同じ事をお前に求めてはいなかった筈じゃ。無論、お前達だけで戦う事も考えてはおらぬ。黒瓜堂配下の者達が、既に数名潜入しておったわ。お前がシンジの事を思い出したのは、シンジに会った時の事であろう。だがそれしか言わねば、あの者達には通じぬ。お前の悔しさは分かる。なれど、あの者達に当たるものではない」
「はい…」
 マリアはきゅっと唇を噛んで俯いた。
 黒瓜堂が看破し、今またフユノが言い当てた通り、マリアの言葉はシンジとの甘い日々を懐かしく思い出したからではない。
 脇侍に追っかけられた小娘、とミロクは言った。
 あのとき、シンジに助けられた自分は何も出来なかったのだ。
 そして、今回もまた――。
 敵数体を倒したとはいえ、完全に追いつめられており、ボスを倒すなど到底不可能な状況であった。
 碇シンジといちゃついていた小娘とか、そんな事ならまだよかったかも知れない。
 だが古傷を思い出させられた上に、自分達の事など微塵も恐れていないとくれば、もはやプライドなど影も形もない。
 さくら達には悪い事をしかたな、と少しだけ思う。うっすらとだが、さくらの目に涙があった事に気付いていたのだ。
(でもさくら達も悪いのよ)
 マリアは内心で呟いた。
 あの中でマユミとレニは自分の真意に気付いていた。と言うよりも、あれで気付かないようでは困るのだ。
 試した、などときれい事をいう気はない。
 自分の機嫌が悪かったのは事実なのだから。
 俯いているマリアに、
「今日はご苦労であった。もう帰って、ゆっくり休むがよい」
「…分かりました。帰ったらさくら達には…」
「必要あるまい」
 フユノは首を振った。
「黒瓜堂の主人が出てきたなら、心配は要らぬ。お前達が不仲では困るからの、上手くやってくれるであろうよ」
「あの、シンジがそこまで?」
「そんな事ではない。シンジが手空きでなければ、怪しげな薬の実験に使えぬであろうが。あれはそういう男じゃ」
「あ、怪しげな薬…」
「そうじゃ。とにかく、さくら達の事は心配要らぬ。分かったな」
「はい」
 屋敷を出てから、マリアは月を見上げて大きなため息を吐いた。
 シンジなら、もっと上手く言うのだろう。
 そう、シンジだったら。
 そして、娘達もすんなりと受け入れたに違いない。
 だが自分の場合には。
「駄目よね…私じゃ」
 シンジ以外、誰にも見せた事のない表情で呟いた途端、不意に肩を叩かれてびくっと振り向いた。
「カ、カンナ!?」
「そんな幽霊でも見たような顔しなくてもいいだろ」
「ど、どうしたのよ」
「いや、今日はみんないないからよ。たまには飲みにでも行こうと思ってよ。付き合うだろ」
「さくら達帰ってないの?」
「さっき連れてった黒瓜堂って人から電話があってよ、今夜は朝まで返さないって言ってたぜ」
「何ですって」
「別に心配要らないだろ。大将の知り合いみたいだし、多分煽りだってマユミも言ってたよ。さ、行こうぜ」
 引かれるようにして歩き出したマリアだが、黒瓜堂への警戒心が強まったのは事実であった。
 そう、黒瓜堂は少々見通しすぎたのかもしれない。
 
 
「そっ、それでその失恋って巴里の人達なんですかっ?」
「巴里ってあっちの花組?」
 こくこくと頷いた娘達に、黒瓜堂は首を振った。
「まさか。そう簡単にシンジが堕ちるならあなた達がとっくに…いや、何でもありません。とにかく、その関係ではありません。ただ、今回向こうに行って出来た恋人ですがね」
「『……』」
 どういう反応が返ってくるかと思ったら、予想に反して沈黙であった。
 十秒ほど経ってから、
「あの、シビウ先生の事はご存じですよね」
「知ってますよ。シンジの愛人と言ってますから」
「愛人って恋人より下ですよね」
「ランクは四つ位下がります」
「……」
 また黙ってしまった。
 つまり、黒瓜堂の話をそのまま受け入れると、シンジに恋人が出来てしかもそれが一目惚れに近い、と言う事になるのだが、碇シンジを見てきただけに、どうしても想像が付かないらしい。
 さくらがシビウの名を出したのは、あのシビウでさえと言う事なのだろう。
 たっぷり三分間、娘達は考え込んだまま口を開かなかった。
 最初に口を開いたのは織姫だが、
「その人はそんなに綺麗ですかー?」
(は?)
 これには黒瓜堂も呆気にとられ、
「皆さんも同じですか」
 見ると揃って頷いた。
 黒瓜堂の思考などとは違い、どうやっても攻撃すら出来なかった娘達としては、それが最重要関心事となるらしい。
「それについては、あまり訊かない方がいいと思いますよ。振っておいて何ですが、一般人が太刀打ち出来るレベルではありませんから」
「もしかして…その、人外とか…」
「勿論です」
「え!?」
「ただし、幽霊とかお化けとか、そう言うレベルじゃありませんよ。ちゃんと、普通の娘です」
 サリュを人間と呼ぶには少し問題がありそうだが、だからと言って単に人外と定義しては娘達の面子が潰れる。
 第一、この黒瓜堂からして所々人外と評されているではないか。
「それで、はっきり言うともしもシンジが彼女と帰って来た場合、間違いなくそこで終戦です。もう玉音放送です」
「そ、それってあたし達がですか」
「そうです」
 頷いて、
「ですが、彼女はもう幽冥境を異にしていますから、続く事はありません」
「黒瓜堂さん、その幽冥境を異にってどういう事ですの」
「死んだんです――シンジを庇って。政府レベルで秘されていますから大っぴらにはなっていませんが、実は巴里の市街は壊滅状態までなりました。原因はシンジです。正確に言えば、彼女を守りきれなかったシンジが原因です」
 守れたが、つまらないプライドを優先した為に守れなかった、とは言わなかった。
 シンジを以てしても守りきれなかった相手、とは一体何者なのか。
 娘達の顔からすうっと血の気が引いていく。
「その事は心配いりません。もう敵は滅びました。万が一にも、この街にまで累が及ぶような事はありません」
 ほっとした表情を見せた娘達だが、カードはまだ切られていなかった。
「とりあえずそっちの終戦危機は終わりました。でもまたもう一つあるんです。今シンジは別の所に向かってますが、そこから二人連れで帰ってきたらこれまた終戦です」
「わ、わたくし達が玉音放送を流すんですの?」
「さすがに神崎重工の娘さんは、いいセンスしてらっしゃる。その通りです。しかしですな、終戦かどうかはもうシンジ任せなんですが、その後まで指をくわえている必要はありません。と言うわけで、これは私からのアイテムです。マリア、例のものを」
「はい」
「『…え?』」
 前から聞こえてきた声に、娘達がぴくっと反応した。
「あの、黒瓜堂さん今…」
「うちの運転手ですよ。あ、紹介がまだでしたね。マリア、皆さんに自己紹介を」
「はい」
 すっと顔を出したのは、間違いなくマリアタチバナその人であり、
「黒瓜堂さんの運転手をしているマリアタチバナです。よろしく」
「……」
 ぽかんと口が開いたところへ、
「なーんちゃって、そんな訳ないじゃない。あんた達バカァ?」
「あ、あたしっ!?」
「やっぱり引っ掛かったですねー。これだから女神館のガキンチョなんて、バカばっかりでーす」
 ムカッ。
「あーら、本当の事を言われて怒ったんですの?これだから庶民はいやですわ、おーほっほっほ」
「わ、わたくしまで…!」
 くるりと変わった顔は、無論真宮寺さくらのものだ。
「やっぱり、あたしが一番碇さんに似合いますよ。ね、黒瓜堂さん」
「多分ね」
「嬉しい」
 身をくねらせた途端、どさっと音がした。
 あり得ぬ現象に娘達の神経が持たなかったのだ。
「がーっはっはっは、こんなので失神するなんて大した事ないわよねーい!スイートよスイート!」
 大笑いしたボン・クレーが、
「ところで黒ちゃん、この子達ドゥーするの?」
「当分は起きんだろう。取り合えず、店へやってくれ」
「りょーかい」
 彼女達が車へ乗る時、俯き気味の運転手が一瞬だけ身体に触れたのだが、そんな事は勿論知らない。
 ましてそれが、自分達に変貌する為仕組まれた陥穽だったことなどは。
 女神館へ連絡が入ったのはこの直後だったが、さすがにマリアの声で電話するのだけは止めさせた。
 無論、黒瓜堂もそれをチラッと考えた事は、言うまでもない。
 
 
「さて、歩きますか」
 バス停を降りたシンジは大きく伸びをした。
 タクシーでも行けるが、歩いていくと三十分近く掛かる。健康と爛れた脳内の為に、リフレッシュが必要だろうと徒歩を選んだのだ。
 十分ほど歩いて山にさしかかった時、不意に横から人影が飛び出した。
「『神扇!』」
 二つの人影がシンジの頭上で交差したと思った次の瞬間、強烈な膝蹴りがダブルで飛んできた。
 普段のシンジなら、これ以前に頭上で交差などさせなかったろう。
 が、今のシンジは普通と比べて半分以下に堕ちている。
 両腕をクロスさせて防ぐのが精一杯であり、威力全ては殺せずに吹っ飛んだ。
「アーウチ!」
「ふん、性懲りもなく葉子を狙うからよ」
「葉子の所には行かせないわ」
 音もなく地に降りたのは、まだ若い二人の娘であった。スタイルはいいが、無駄な肉付きは全身に微塵もなく、それでいて筋肉質の感じはない。
 少なくとも、単なるボディビルダーや格闘系のそれとは、質を異にしているのは明らかだ。
 冷ややかに見下ろした二人だが、
「あ、あら?」「起きてこない…殺っちゃったかしら?」
 ぴくりとも動かないシンジを覗き込んだ瞬間、
「あやねとかすみ〜」
 ゆらあ、と背後に青白い炎を立ち上らせてシンジが起きあがった。
「あんた、その髪どうしたのよ。まるで別人じゃない」
 シンジはふっと笑った。
「巴里に置いてきた――失恋奥義…」
 何やら印を組み始めたシンジに、
「し、失恋?あんたまさか」
「黙れ!失恋奥義――火龍乱舞!」
「『キャーッ!』」
 地中から立ち上った龍を象った巨大な炎が二人を襲い、あっという間にミディアムが二つその場に転がった。
「まったくいつもいつも邪魔ばかりしよってからに」
 ちょうどそこへ、
「シンジ君無事かっ」
 息せき切って駆けてきた男に、
「たった今襲われて処分したところだ。で、相変わらず近親相姦含みの3P三昧かい、疾風?」
「そう言ってくれるな。自分でも分かってはいるさ」
「別に責めてはいないさ。俺も本来だったら、あの二人を毎日抱いて過ごしてみたいもんだし。さて、ミディアムだから入院までは要らんだろう。担いでいくか」
 あやねとかすみを軽々と担ぐと、バッグを疾風に渡してシンジはゆっくりと歩き出した。
 あの二人、の中に魔女医の名も魔界の女王も入ってはいるまい。
 シンジは一体誰を指して痴情プランに含めようとしたのだろうか。
「ところでシンジ君」
「何?」
「その…その髪は?」
「切っちゃった。失恋したの」
「失恋っ!?」
 朝起きて枕元にあった水差しから注いで飲んだら、中にオタマジャクシが入っていたような顔になった疾風に、
「目下微妙に落ち込み中」
 シンジはふーっとため息を吐いてみせた。
 
 
 
 
 
(つづく)

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