妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百五十四話:ああっ、シンジ様っ
 
 
 
 
 
 喫茶店「キャッツアイ」はその日、あまり好ましくない客を迎え入れていた。
 正確に言えば、留守番していた愛に取って、である。
 セーターを編んでいた愛が顔を上げたのは、何の気無しであった。虫の知らせでもなく、第六感が作動したわけでもない。
 セーターはシンジに贈る物だが、これも“贈り付ける”と言った方が正しく、普通のプレゼントとは少々趣を異にしている。
 去年、姉の瞳がシンジからマフラーをもらったのだが、よりによって手編みと来た。
 手編みでも別に構わないのだが、手編みの単語に反応した瞳に、
「泪は知らないけど、愛ならこう言うの簡単に作れるでしょ。そんなに珍しいの?」
「愛には無理ですよ。愛は手先が器用じゃないし」
「そうなの?上の二人は器用なのにねえ」
 いくらご主人様とはいえ、ボーダーラインという物は存在する。
 かくなる上は、きっちり手編みのセーターを仕上げて送りつけてやると固く決意し、猛練習の末本番に取りかかったのだが、出来上がった頃には当の本人などとっくに忘れているという罠がある事は、少しも考えていない。
 そもそも、それなら教えようかとシンジが言ったのを断ったのは愛であり、その時点でシンジの記憶からは消去された可能性が高い。
 がしかし、乙女の傷付いたプライドはそうそう癒えるものではなく、名誉回復の為全力を挙げているところだ。
「シンちゃんびっくりするかな〜」
 目的とはあまりそぐわない表情で呟いた愛だが、入ってきた客を見てその表情がすっと変わった。
「何の用で来たの」
 愛が来店者にこんな視線を向けるのは、以前にシンジが麗香を伴って来た時以来である。
 ドアの鈴を鳴らして入ってきたのは、桐島カンナであった。
 無論、愛はカンナを含め、住人達の反応は知っての上だ。
「いや、何ってその…る、泪さんいるかな」
「君に会わせる姉はいない」
 愛の冷ややかな口調を黒瓜堂の主人が聞けば、
「誰ぞの影響を受けたようだ」
 と分析したかもしれない。
「ちょっと待ってくれよ、あたいはこの間の事をあ――」
「会わせない、と言った筈だよ。それと、君はウチのブラックリストに載ってるんだ。二度と顔を見せないでくれる」
 なお、この店にブラックリストという物は存在しない。そんな物を作って入り口で阻まねばならぬほど、この店のオーナーはヤワではない。
 そして、その姉妹達も。
 とまれ、愛は頑として通す気配がなく、さすがのカンナも表情が険しくなりかけた。
 確かに自分が悪いのは分かっている。
 とは言え、今日はその続きをしに来たのではない。
 純粋に謝りに来たのだ。
 それをあからさまに門前払いとは、あまりではないか。
「あたいはな、あんたに用が会ってきたんじゃねえんだ。揉めに来たんじゃねえ事くらい分か――」
 言葉が途中で止まったのは、泪の姿が目に入ったからだ。
 ガウンに身を包んだ泪の髪はしっとりと濡れており、こぼれそうな胸がガウンから覗いている姿はかなり扇情的で、カンナをしても思わず目を釘付けにした程のものであった。
「愛、リスト入りするようにとは言ってなかった筈よ」
「る、泪姉…」
「通せんぼしてないで、買い物に行ってきてちょうだい。ハーゲンダッツを四つよ、お願いね」
「うん…」
 長姉の言葉は絶対なのか、愛は一言も反論せずに出ていった。
「ちょっと頑固なところのある子なのよ、ごめんなさいね」
「い、いや別に…」
 どうぞ、と椅子を勧められて座った瞬間、泪の手が動いた。
 文字通り秒速のそれは、カンナの動体視力を以てしてもまったく捉える事が出来なかったのだ。
 テーブルに突き立ったカードを見て呆然としているカンナに、
「あなたを五体バラバラにしても、シンジ様は何も言われないわ。でも、一度だけは見逃してあげる――バラすのも面倒だしね」
 すっと椅子を引き寄せて腰を下ろすと、
「それで、誰に会って気が変わったのかしら?」
 客を相手にする時と、少しも変わらぬ口調で訊いた。
 
 
「麗香ってば、ちょっと大胆?」
「はい?」
 真っ白な裸身を滑り込ませてきた麗香を抱き寄せたシンジは、何を思ったかその耳元に囁いた。
「碇様?」
 シンジと違って堕落してない麗香には、言葉の意味が分からなかったらしい。美貌を愛らしく傾けた麗香に、
「おいで、とは言ったけど脱いでとまでは言わなかったんだよね」
「はい…?」
 まだ分かっていない様子だが、二秒後にすうっとその表情が変わった。何となく意味が通じたらしい。
「いくら碇シンジが厚顔無恥でも、麗香をサリュの代わりに抱こうとまでは思ってないよ。麗香は麗香で、誰かの代わりじゃないんだから」
「そ、それでは…」
「ちょっと抱き枕にでもと…麗香どこへ」
 全裸のまま起きあがった麗香の手を、シンジは慌てて捕まえた。無論、横になっていた時裸だから、全裸なのは当然である。
 ただ、シンジの勘が何か違うぞと告げていたのだ。
「碇様お許しを」
「ちょっと待ってぇ!」
 走りださんばかりの麗香を、シンジは強引にベッドへ引っ張り込んだ。
「お、お離し下さい」
「離したら出ていくでしょ」
 こくんと頷いた麗香の目には、涙がいっぱい溜まっているのだが、あくまで正直に答える術しか知らない娘らしい。
「ごめん、俺が悪かった。ツッコミは無理だけど、違う反応期待してたの」
「ち、違う反応を?」
「うん。首筋まで真っ赤になってもじもじしてくれるかなって。追い込む気は無かったんだ、ごめんね」
「碇様…」
 ぶるぶると首を振った麗香の顔を引き寄せると、溜まった涙をそっと拭い取った。
 今度こそ麗香がぽうっと赤くなり、シンジの胸元に顔を埋めた。
 なお、麗香は全裸だが、シンジは寝間着のままである。
 麗香の黒髪に手を伸ばし、やさしく撫でると麗香の肩が僅かに震えた。
 やがてそれも治まった頃、麗香がゆっくりと顔を上げた。泣いた跡は残っているが、もう涙は見られない。
「もう大丈夫?」
「はい…お見苦しい所をお見せしました」
「いいの」
 首を振ったシンジが、
「それはそうと、そこに落ちてるブラとパンツ」
「はい?」
「買いに行ってなかったでしょ。夜香は今度一夜干しにしてやる」
 わだかまった下着を見て赤くなった麗香が、
「あ、兄のせいではなく私が…」
「ベビードールは嫌だって駄々をこねたの?」
「い、いいえ…」
「じゃ、買いに行こ」
「はい?」
「夜香に任せたら百年後になる。だから俺が買いに行く。サイズ分かるけど、試着した方がいいから麗香も一緒に行くの。いい?」
「お、お供させて頂きます」
「うん」
 シンジは頷いたのだが、
「あの、碇様」
「はい?」
「その…どうして私のサイズをご存じなのですか?」
 不思議そうな顔で訊いた麗香の表情は、汚れを知らぬあどけない少女のものだ。
 吸血鬼という、ある意味生と死を究極の位置から見つめる生き物として生を受けながらも、生きる糧として人間を襲い、命がけで生きながらえる生活とは無縁であった。
 夜香の妹であり、当主の孫娘であった麗香、いわば純粋培養なのだ。少なくとも、異性に関しては、シンジに対して淡い想いを寄せてはいたが、手管などと言う単語は麗香を逆さにしても出てこない。
 だから。
「抱いた感じで、だいたいこれくらいなのかなって」
 全身から火を噴いた直後に脱力した柔らかな肢体を、シンジはそっと抱き留めた。
「ね、麗香」
「は、はい」
 全身がふにゃふにゃと溶けているような状態で、辛うじて返事した麗香に、
「軟体から人体に戻ったら買い物に行こう。でも、それまでは俺の抱き枕ね」
 きゅっと抱き締められたおかげで回復魔法も効かず、麗香が元に戻ったのは一時間以上も経ってからであった。
 
 
 
 
 
「マリア、現場の指揮はあなたに任せるわ。いいわね」
「分かりました」
 取りあえず頷いてから、
「あの、あやめさんは?」
「オレと一緒だよ」
「よ、米田支配人!?」
 霊刀を引っ提げた米田が歩いてきた時、あやめ共々身軽な服装なのに気が付いた。
「あ、あのあやめさんそのお姿は」
「殿だよ」
 引き取ったのは米田であった。
「現場の事は、実際に戦っている者の方が掴みやすいわ。それなら、指揮はあなた達に任せた方がいい。あたしと米田支配人は、側面援護に回るから。機体が無い分だけ、アスカ達の方が不利でしょう」
「あの、あたし達は別に大丈夫だから…」
「駄目よ」
 あやめは一言で退けてから、
「あなた達が弱い、と言ってる訳じゃないの。ただ――」
 娘達を見回してから、
「この帝都に、いえ日本に碇シンジはいないの。あなた達の管理人は…ここにはいないのよ」
 その一言で、アスカ達は何も言えなくなった。
 シンジが激怒する、と思っているわけではないだろう。
 だが、シンジの留守中に住人達が重傷を負ったりするような事は、何としても避けたいのに違いない。
 自分から進路の後押しはしないシンジだが、一度娘達が決めたなら、絶対にそれを行かせる管理人である。その事は対降魔の件でも、自分が前線に出る事はない代わり娘達の全面バックアップに回った事でも分かる。
 とは言え実際の所、帰ってきた時、娘達の負傷を知っても怒る可能性はほぼ無い。
 負傷などするのはアスカ達ならいざ知らず、搭乗組ならば自分達の未熟が原因だとか言出す男である。
 ただ、一度は使い物にならぬと思われたあやめを、わざわざ魔界へまで連れて行き、その上で個人的に託された以上、あやめにも自負がある。隊員達の出来不出来は差し引くとしても、自分が口頭で指示を伝えるだけに終始し、結果娘達が負傷して帰ってきたとなればプライドが許さない。
 シンジ云々は、むしろ娘達の反論を封じる為のものであり、行動の大半を占めているのは自らのプライドであった。
 そしてそれは、米田も同様である。
 そこに住んでいながら、重要性が今ひとつ分かっていない娘達とは違い、米田は女神館が持つ重要な意味を知っている。敵がそれを知っている可能性はまだ低いが、万が一にも女神館を奪われるような事があれば、敵に大きな力を与える事になる。
 十年前の降魔戦争の折、自らの力不足を痛感した米田に取って、同じ轍を踏むことだけは避けたかった――例え、自らの命を危険に晒すとしても、だ。
「分かりました」
 静かに頷いたマリアが、
「花組はすぐに出撃します。アスカ、女神館の方は任せたわよ。椿達と協力して、一般住民の避難に当たってちょうだい」
「オッケー、任せておきなさいって」
「いや、お前さん達は出るんじゃない」
「え?」「米田さん?」
「なに、足手まといだから出るなと言ってるんじゃない。女神館を守ってろと、こう言ってるんだ」
「守る?」
 怪訝そうな顔で聞き返したアスカに、
「おめえさん達は知らねえみてえだが、あそこはただの寮じゃねえんだ。多分、敵はまだ知らねえだろうが、知れば間違いなく狙ってくる代物があるのよ」
「あの、シンジはその事を?」
「聞かされてなきゃ知らんだろう。知ってれば、むしろ機体がないおめえさん達の方を鍛えようとした筈だ」
「要するに、自分ちの番をしてればいいって事ね」
「そう言うことだ。それも立派な役割よ」
 女神館へ戻る道すがら、
「マユミ、あんたは何か聞いたことあるの?あそこにお宝でも埋まってるとか」
「金銀財宝じゃないと思うんだけど。でも、私も聞いたことはないわ。それに、御前様が伝えられるなら、私達より碇さんが先だし、碇さんが知っているなら私達に内緒にする事はないでしょう」
 ふむ、と数秒考えてから、
「帰ってからとっちめるか」
 妙に嬉々とした口調で口にしたアスカに、
「で、ベッドの中で返り討ちを期待してるの?」
 レイが吐息と共に囁いた瞬間身体がびくっと震えた次の瞬間、
「火球連打!」
 五精というのは、どれ一つを取っても使いこなすには精神の安定が要求されるものであり、全てを使えてその上精神が不安定でも使えるのはシンジくらいのものだ。
 コントロールの定まらない火球が電線を直撃し、分断されて激怒した電線がまっすぐに突撃してきた。
「キャーッ!?」
 
 
 大神一郎がベッドで後悔している頃、また違った意味で煩悶している娘が病院の屋上にいた。
 グリシーヌ・ブルーメールだ。
 趣旨は一郎と似たようなものだが、彼女の場合他の娘達とは根本的に異なる部分がある。男女平等を叫ぶほど間抜けではないが、一郎とは愛し、愛されたいと思っているのだ。
 そのグリシーヌに取って、自分達の軽挙妄動の結果、一郎は重傷を負い、花組は文字通り全機能を喪ったと言う事態は到底許せるものではない。
 敗北の二文字は、まだ仕方ないと受け入れられる。誇り高いグリシーヌでも、常に常勝出来ると思いこむ程に自惚れてはいないつもりだ。
 だが今回の敗戦は、明らかに自分達が――正確には自分だと思っている――招いたものである。
 正義を掲げる自分達が一般市民の窮状を見殺しにしていいのか、そう言って強く迫ったのは自分なのだ。
 これでは愛し愛されるどころか――迷惑を掛けるだけの役に立たない女ではないか。
 殿を引き受けて重傷を負ったのは一郎だが、グリシーヌもまた無傷ではなかった。傷を負った所など見られたくないと、包帯すら拒否して絆創膏を貼っている状態だが、実際にはそんなもので済むほど軽傷ではない。
 右腕の筋を痛めていたのだ。
 安静が絶対必要だし、何よりも治療せずに治るほど軽くはない。
 にもかかわらず、グリシーヌは戦斧を振り下ろす手を止めようとはしない。心弱き自分への憤りか、それとも違う何かに対するものなのか――。
 或いは、自分でも分かっていないのかも知れない。
 鍛錬に打ち込む者が皆、己の心を把握しているとは限らないのだ。
「私は…私はっ!」
 ぎりっと歯を食いしばったまま、振り下ろそうとした戦斧は空中でぴたりと静止し、微動だに動かなくなった。
「何者だ」
「さて」
 スーツに身を包んだ長身の青年が、指二本で斧を止めていると知った時、憤りは驚きに変わった。
 一郎でさえ、自分が本調子なら両手でないと受け止められないし、いくら負傷しているとは言え、指二本で受け止める者がいるとは思いも寄らなかった。この斧を片手で受け止めたのは、ただ一人碇ミサトの名を持つ女のみである。
 男は斧を引っ張ろうとはせず、あっさりと手を離した。
「自殺したいのなら、さっさと飛び降りた方が良かろう。酷使されては体も迷惑だ」
「何だと」
「出るなと言われたものを勝手に出た挙げ句負傷し、今度は傷ついた腕でそんな重たい物を振り回させられるなど、腕もいい迷惑だ」
 男の言葉に、グリシーヌの表情が変わった。花組の出撃は、無論関係者しかおらず、どう見ても東洋人のこの男は関係者ではない。
 ぐっと戦斧を握ったグリシーヌだが、男は気にした様子もなく、
「碇フユノから出撃禁止令は出ていた筈だが、どうして出撃した?巴里の花組というのは、勇気と暴勇の区別も付かない連中揃いか?」
 教師が生徒にするような口調で訊いたが、内容と違って口調には蔑む物も呆れた物も含まれてはいない。
「貴公が何者かは知らないし、興味もない。だがこれだけは言っておく。私達は正義に命を賭けている。この街の平和を守ること、それが正義だ。たとえ命を賭けた戦いであっても、私達は決して退く気はない。それが、私達の存在意義だからだ」
「その程度の役立たずなら、さっさと引退した方が良さそうだ。碇ミサトも視力が減退したもんだな。そんなにド近眼だったか」
 その瞬間、グリシーヌの全身から凄絶なまでの殺気が立ち上った。
 それでも斧を振り上げられなかったのは、身体が束縛されていたからだ。
 身体を動かす源――本能が気圧されていたのである。
 明らかに武器は持っておらず、その気も常人と変わらぬ程度に過ぎない青年に。
「あの方を侮辱する気か」
 辛うじて出たのはこれだけだったが、だったらどうする?とは返ってこなかった。
 青年はそれには答えず、
「お前達が乗る光武というのは、建設は無論維持にも随分とコストがかかると聞いている」
「…それがどうした」
「今回、お前達が命令を無視して出撃した結果、全機が大破し、花組はその能力を喪失した。金銭的な損失も莫大なものだ。出撃しなければよし、仮にしたとしても市民の救助に回っていれば、ここまでの被害はなかっただろう」
「何が言いたいのだ」
「要するにあれだ、命を賭けるなんて言ってるやつを兵隊にしている限り、次から次に替わりを探して来なけりゃならないってことだ。兵器にコストもかからず、無人兵を使っているなら無謀な出撃でも良かろう。だがお前達の使っている光武はコストもかかるし、戦死したお前に代わる新人を入れても、使いこなせるまでにはこれまた時間もかかる。いくらお前が金銭の心配など無縁の境遇で育ったとは言っても、それくらいのことは考えていよう」
「…だ、だからと言って…」
「それともう一つ、怯懦と危険回避は別物だ。今回の一件でも、それはよく分かったろう。それが分からないのなら、さっさと降りた方がいい。維持費と建設費の無駄だ」
「……」
 グリシーヌが唇を噛んだのは、言われたことで雷に打たれたが如く目が覚めたからではない。
 対費用効果も考えるように、とそれはミサトにも言われていたのだ。
 ただし、こっちの言い方は比して大幅に軽量化されており、
「光武が壊れるとお金掛かるんだからね、あんまり無茶するんじゃないわよん」
 と、ミサトらしい台詞であった。
「貴公は…一体何者なのだ」
「教えないとさっき言った。それより腕出して」
「腕?」
「そのままだと使い物にならなくなるぞ」
「……」
 グリシーヌが素直に従ったのは、威圧と言うよりは、ミサトと同じ台詞に押された部分があったのかもしれない。
 だがそれは、あっという間に驚愕へと取って代わることになった。
 長い黒髪を揺らした青年が自分の腕に触れた途端、交互に襲ってきていた鈍痛と激痛は、あっという間に撤退したのである。
「そ、そんな…」
「これならまだ治療の効く範囲だ。これ以上振り回されていれば、シビウ病院に搬送ものだ」
 聞き慣れぬ呼称にも、グリシーヌが反応する事はなかった。気持ちいい、のレベルを通り越して快感レベルまで達していた感覚に、自分でも気付かぬまま目を閉じていたのだ。
 それがどんな種類であれ、必ず時間に終わりはある。
「さてと、終わった」
 数分と経たぬ内に腕に宛われていた手が離れた時、グリシーヌは自らの腕が常態に復しているのを知った。
「あ、ありがとう…礼を言う」
(普通に言えないのかな)
 過日、祖父を亡くしたある娘が脳裏に浮かんだ。
「礼を言うほどでもない」
「え?」
「今回植物人間共が大暴れした原因は私にもある。もっとも五パーセントくらいだが」
 残りは全部、黒瓜堂のせいにする気らしい。
「貴公が…あの化け物を操ったのか?」
「……」
「い、いや失礼」
 金星人でも見るような視線で眺められ、慌てて視線を外す。
「これで失礼する。あまり、自分の身体は痛めないことだ」
 くるりと身を翻した男に、
「ま、待って…」
 声を掛けたが、シンジの足は止まらない。
「貴公は…ミ、ミサト殿を知っているのか」
「触ったことはある。後ろだったが」
「?」
 奇怪な返答への補足はなく、青年はそのまま姿を消した。
「あれは一体…」
 夢にも思える邂逅だが、完全に治った腕がそれを否定する。
 グリシーヌの呟きを、春の風がそっと包んで浚っていった。
 
 
 その晩、
「い、碇様…」
 隠す場所があり過ぎるが腕は二本しかなく、目許をうっすらと染めて立っている麗香を見て、シンジはうっすらと笑った。
 愉しいらしい。
 麗香の服装は、有り体に言えばスリップとショーツである。
 が、シンジが普通にそんな物を選ぶわけはなく――透けているのだ。
 白を基調でおまけに透けているから、小さめの乳暈やほんのりと色づいた乳首も、まったく隠しようがない。これなら、まだ全部見られた方がましだと思うが、丸出しにはなってない分、余計に羞恥度数は高い。
 別に試着会を始めた訳ではない。
 勿論、買う前に下着は全部身に着けている。
 これをパジャマ代わりに、とシンジが選んだのは、買い込んだ数ある中で、麗香の頬が一番染まった代物であった。
 しかも、原因はショーツにもある。
 こっちはシースルーではないが、
「そのショーツ、ちょっとふわふわしてるよね」
「あ、あまりご覧にならないで下さい…」
 内股になって前をおさえても、そこは隠しようがない――股が割れているのだ。ふわふわと言うより、ヒラヒラである。
「碇様…こ、これは不良品では…」
「正規品だよ。不良品なんか麗香に着せられないでしょ」
「で、でも底が裂けていて…」
「ほら、その方が挿れやすいから」
「はい?」
「――というのは冗談で、脱がなくても弄りやすいから。反応もすぐ分かるでしょ」
「い、碇様もう…」
 羞恥が限界を超えたのか、麗香はその場に座り込んでしまった。
「ありゃ」
 抱き起こそうとしたら、そのまま腕の中に倒れ込んできた。触ると、全身の力が抜けている。
「ちょっとやり過ぎたかしら」
 囁くと、麗香はふるふると首を振ったが、よく見ると目許はさっきより染まっているような気がした。
 おそらく、気のせいではあるまい。
 その夜もシンジの炊き枕として一緒に眠った麗香だが、実体は逆転していた。
「あ…んっ…い、碇様…」
「何故!?」
 ぎゅっと抱きつかれた挙げ句、何故か時折うっすらと開いた唇から、甘い喘ぎが漏れるのだ。
 無論、シンジは一方的に抱きつかれているだけだし、寝る前に何かした訳でもない。
「何の夢見てるんだか」
 幸せそうな顔で眠る麗香を見ていたシンジが、ふとニマッと笑った。
 ろくでもない事を思いついたらしい。
 ショーツは股割れのそれを穿かせたままだから、脚は閉じられているものの、うっすらと生えている淫毛は見えている。
 シンジがにゅっと手を伸ばし、太股の付け根付近にそっと指を這わせた次の瞬間、
「ああっ、シンジ様っ」
 夢現ながら、麗香が可愛く喘ぐのと、
「ぐえっ!?」
 思い切り抱き潰されたシンジが、潰れた雨蛙みたいな声を出すのとが同時であった。
 
 
 天網恢々の単語を身を以て思い知ったシンジだったが、
「五パーセントとか言ってたな。後の95パーセントは夜香殿か?」
「オーナーでしょ」
「あのガキャ…ふんまにもう」
「ちょっと行って首取ってきますか?」
「余計な事はせんでもらおう。年始に仕返ししてくれる」
 遠い地で会話が盗聴され、あまつさえ自分のまったく知らぬ所で復讐という名のスイッチを入れてしまった事は、まったく知らないのだった。
 しかもそれが、表面に真っ黒い瓜の紋章が描かれたノートに記帳され、きっちりと覚えておいて実行される事などとは、夢にも思っていなかった。
 
 
 
 
  
(つづく)

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