妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百五十一話:古の末裔(五)――私は私、あなたには従わないわ
 
 
 
 
 
 オーク巨樹の内部と言うのは、本体が街中にある以上、本来ならば巴里の一部になっている筈だ。
 しかしその内部はこの地上ではない。
 正確に言えば亜空間であり、少なくともこの街とは別の場所にある。その本体は現在のところ、ごく普通の街路樹であったとしてもだ。
 そこへ潜り込んで一仕事終えたレビアと、夫を置いてお手伝いに来たキディが帝劇の三人娘を肩に担いでよいしょと出てきた。
 一般人が目にしたらぎょっとするに違いない光景だが、レビアが見られたくないのはただ一人、自分の雇用主だけであった。
「オーナー、あの坊やのお婆さんが素人を三人寄越したんですが。足手まといなので置いていきます。構いませんね」
「ほほう」
「え?」
「碇フユノが寄越したと誰に聞いた?」
「だ、誰って…違うんですか?」
「私があの三人を貸してくれるように依頼したのだ。あれでも女神館の娘達よりは役に立つし、雑用係くらいなら使えるだろう。中身が中身なんで君に頼んだが、一人だと危険が大きい。いざとなればクッションにして構わない」
 雇用主の台詞は相変わらずとんでもない物であった。
「…出来るわけ無いじゃないですか。ところで、あの坊やとはどういう関係の?」
「ヒトメボレってやつらしい。さゝ錦って知ってる?」
「いいえ」
「ヒトメボレを使って出来るんだが、この間仙台に行った時買ってくるのを忘れた。帰ったら注文しておいてくれ」
「…宮城米ですか」
「そうそう」
(もういいわよ)
 これ以上話していると神経に過負荷が掛かるので、レビアはさっさと電話を切った。
 しりるや豹太辺りは普通に付き合ってるようなのだが、自分は未だに全貌が把握出来ていない。
 だいたい、この仕事だって夜の巨樹から枝を一本持ってくるとか、そんな事では無いというのに。
「どういうつもりだったのかしら」
 レビアがぼやいた時、寝かされていた娘達が動いた。
「おい、お嬢さん達が起きそうだぜ」
「分かってるわよ」
 視線を向けもせず、レビアはワインをきゅっと呷った。
「それにしてもレビア、お前の所のオーナー本当に大丈夫なんだろうな」
「大丈夫、とは?」
「決まってるだろ、こんな時に地脈に穴を空けて来いなんて尋常じゃないぞ。それにあの巨樹、凄まじい魔力を持ってただろ。どうしてあたしらを通したんだ?」
「敵じゃない、と思ったのよきっと」
 レビアは薄く笑った。
 そう、黒瓜堂が彼女に命じたのは地脈に穴を開ける事だったのだ。
 地脈に穴を――言葉にするのは簡単だが、実際はとんでもない大犯罪である。そのこと自体は犯罪でもないのだが、こんな大都市の地下となれば話は別になってくる。
 言うまでもなく、オーク巨樹は地脈から養分を採取しているのだが、それ自体はいわば太い水道管から針金を通して水を吸い上げるようなものであり、多寡が知れている。
 だがそこに大穴が空いたらどうなるか?
 これが何もなければいい。地脈のエネルギーが噴出したって、道士が数名いれば防ぐ事は出来る――少なくとも、魔道省に籍を置く者なれば四名いれば足りる。
 しかしここにはオーク巨樹がある。
 地脈の莫大なエネルギーを得た時にその力がどうなるか。
 この街くらい簡単に滅ぼす事が可能になるのだ。
 つまり、一妖樹に一国の首都を落とす力を与えた場合罪に問われるか、と言う至って簡単な話であり三つ子でも分かる。
 がしかし。
 そんな事に拘泥するなら黒瓜堂という店はとっくに潰れているし、何よりもどうしてその麾下に魔人と呼ばれる者達が集うものか。
 黒瓜堂は何も言わず命じ、レビアはあっさりと受けた。
 これがこの店の姿なのだ。
 正確に言えば少し違う。
 黒瓜堂は別に狂人ではないし、世界征服にも興味はない――世界を制服化するという危険な野望位は持っているかもしれないが。
 この男が地脈への工作を選んだ理由はただ一つであった。
 そう、神すらその従魔になる事を良しとした男――五精使い碇シンジがその場所へ向かう為だ。
 もしもシンジが敗れれば、この街は妖樹と太古の怨念に征服され、それが世界情勢に与える影響は凄まじい物となる。
 世界情勢と碇シンジを天秤に掛けてシンジの方が重かった、と言うただそれだけの事である。
 そして、戸山町の若き美貌の当主に取ってもまた。
 
 
「女神館の子達が全員?困ったものね」
 名簿を見ながら、リツコの口調にはちっとも困った様子がない。
 それどころか、むしろそれを愉しんでいる風情すらある。
 碇財閥の次期総帥――本人は頑なに嫌がっているが――碇シンジが女神館の管理人になった事は、既に教師達の間では知れ渡っている。
 以前、二日酔いで出てきたから小一時間説教してやろうとした教師が、えらい目に遭った事があり、それ以降あえて地雷を踏もうとする者はいない。それに、その後は一応いい子にしていたから、特に問題も無かったのだ。
 が、今朝になってまた問題が起きた。
 全員が揃って欠席した上、
「二日酔いの為欠席します」
 と、堂々と学校に電話があったのだ。
 勿論マリアではなく、朝になって様子を見に来た泪の電話だったのだが、受けた教師はそんな事を知る由もない。
 で、結局総理事長の所に持ち込まれたのだ。
「如何なさいますか」
「マヤ」
 問うた教師は無視して、リツコはマヤを呼んだ。
 やって来た教師五名を、全部干物にしてシンジの所にでも送ろうかと考えているのだが、一応顔には出さない。
「はい?」
「こう言ってるけど、どう思う?」
「私は地雷原に飛び込むのは嫌です…絶対に。それに、酔ったまま学校に来て暴れたわけじゃないですし…」
 碇さんが居ないから、と言いかけたのだがそれはさすがに躊躇われた。
 自棄酒だろうとは言えなかったのだ。
「その通りね。まあ、二度目とあっては私の一存では決められないから、御前様にお話ししておくわ。ボンクラな孫の管理が悪いと、東京学園の教師一同からクレームが来ておりますがいかがなさいますか、と。それでいいわね?」
 
 こんな事持ち込んでくるなんて、よほど命が要らないみたいね。
 なら、お望み通りにしてあげるわ。
 
「お、お待ち下さいっ。わ、私達はそこまでは何もっ」
「あらそうかしら。あの子達の管理は次期総帥ご自身よ。ならば、その祖母へ話が行くのは当然でしょう?管理不行き届きという事で」
「い、いえ私はそんな意味で言ったのではなくっ」
「じゃあ、別にいいの?」
「『は、はいっ』」
 教師達が這々の体で退出した後、リツコは笑いもせずに煙草に手を伸ばしかけたが止めた。
「臭い人は嫌」
 シンジにこう言われて以来、スパッと断っていたのだ。
「会えないって…つらいわよね」
「はい?」
「何でもないわ。向こうへは黒瓜堂のオーナーも一緒なのよね」
「碇さん日本におられないんですか?」
「今巴里よ。あの二人がセットと言う事は、多分大暴れね」
 くすっと笑ったリツコの指が、一枚の紙片を愛しそうに撫でた。
 そこには、“出かけます。リッちゃん後はよろしく”とだけ書いてある。シンジから送られてきたのはこれ一枚だが、住人達の世話でない事は分かっているし、シンジもそれは見こしてある。
 さっきはああ言ったが、もしも教師達が強硬な姿勢を変えなかった場合、強制洗脳しても握りつぶすつもりだったのだ。
 シンジへの“お土産”を駄目にされるなど冗談ではない。
 もうお返しも決まっているというのに。
(あ…)
 シンジの指が浮かんだ瞬間、身体の中心が小さく疼いた。
 リツコの視線が置かれたコーヒーカップからマヤへと動く。
 マヤちゃんが俺を見る目は憧憬だってば――シンジの言葉が脳裏に甦る。
 うっすらと口紅を掃いた口許に、妖しい笑みが浮かんだのは間もなくの事である。
「マヤちゃん」
「はい?」
 振り向いたマヤの顔は、紛れもなく虎狼の前に投げ出された子羊の物であった。
 
 
 朱に染まった胸元は大量の喀血によるものだ。
 血相を変えたシンジだが、幸いサリュはすぐに目を開けた。
「大丈夫っ?」
「ん。あたしは平気だから」
 シンジの手に掴まりはしたが、殆ど自力で立ち上がったサリュは自分の胸に触れた。
(おかしい…)
 喀血した原因は分かっている、臓器への直撃だ。
 だがそれはすぐに止まった。
 それどころか完全に回復したのだ。
 自分の身体であって自分の身体ではなく、痛打も回復も巨樹の仕業なのだが、サリュが知る限りオーク巨樹にここまでの力は無かったはずだ。
 よしんば自分を殺す、乃至は致命傷を与えたとしても瞬時に回復させるなど、そんな力は持っていない。
「サリュ」
 不意にシンジが呼んだ。
「なに?シンジ」
「引き返そっか」
 精を奪われない限り、一対一ならシンジは間違いなく世界最強だろう。
 別に誇張でもなんでもない。
 本当に強いのはスーパーマンでも武器を自在に使える物でもなく――自然を使いこなせる者なのだ。
 本人が分かっていない、と言うのはこの際別にして、そのシンジが向ける視線は限りなく優しい物であった。
「シンジ…」
 その視線に胸の奥がきゅっと疼く。
 既にサリュはこの時、生きて帰れるとは思っていなかった。自分への影響力が断ち切れぬと知った時、シンジと生きて結ばれる想いは捨てていたのだ。
 ただ同じ滅びるならばオーク巨樹だけは滅ぼすと、可憐な身で固く決意していたのである。
(そんな目で見つめられたら…)
 引き返せたらどんなにいいか。時としてわき上がる想いを、ここまで必死に抑え込んできたのだ。
 逃げる事は簡単だ。
 パリシィは元々怨念であってこの地を征服した者が悪いのだし、帝都へはシンジがプライドに賭けても侵攻させないだろう。
 帝都に結界を張る位なら、シンジにとっては至極容易い事の筈だ――妖樹の影響を一切受けぬ結界を。
 それでもサリュは来た。
 自分の使命を思い出し、そしてそれを滅ぼす為に。
「ううん、大丈夫よシンジ。黒瓜堂さんも言ってたでしょう。ここから先は二人で進む道だって。それとも私を自由にしてくれるのが嫌になっちゃった?」
「サリュに心配されてれば世話はないぞ」
 シンジがサリュの頭をくしゃくしゃと撫でる。
「サリュだけは腕の三本や四本に変えても守ってみせる。絶対にだ」
「…あの、シンジ」
「ん?」
「三本とか四本ってなに?」
 一本や二本、乃至は三本位までなら分かる。
 だがどうして四本なのか。
「いや、それがね」
 両腕を失っても想った女くらいは守ってこい。亡くした腕は倍にして増やしてやるから。
 黒瓜堂がそう言ったのだという――それも何故か嬉しそうな顔をして。
 阿修羅状態になった自分を想像したのか、シンジは少々複雑な顔で、
「でも腕が増えれば、その分サリュの身体を同時にいじれるでしょ。キスしながら四点同時とか」
「……」
「……」
 数秒後、二人の顔が揃って赤くなった。
「シ、シンジの馬鹿ぁ…」
「サリュだって想像したくせに。さてと、さっさと終わらせて帰るぞ。サリュの身体思い出しちゃった」
 危機感の欠片もない男だが、これはこれで珍しく真面目だとサリュも気付いている。
(もしも…もしも生きて帰れたら…)
 シンジの手をぎゅっと握ったサリュだが、その顔が首筋まですうっと赤くなった理由は定かではない。
 
 
「黒瓜堂殿」
「ん」
 腕組みしてシンジ達が消えた後を見ていた黒瓜堂は、夜香の声に振り返った。
「やはり、地脈への細工は余分だったような気がしてきました。余計な力を持ったせいで敗退でもしたら…」
「いや、無ければ困るんですよ」
「困る?」
「勝てないと知った時、オーク巨樹の取る行動は」
「あの娘を人質にして、最後は道連れでしょう」
「そう。だが人質と言っても普通に人質にしたのでは意味がない。一度は致命傷を与えておかないと」
 黒瓜堂の言葉に夜香の表情が動いた。
「何と」
「今までのままなら、致命傷を与えてそのままだ。だが今は違う。生かすも殺すも自分次第、だから従えと言う事が可能になるのです。その方が説得力があるでしょう」
「なるほど…」
「弱い妖樹に五精使いを向けたのでは失礼になる。優しくするだけが想いではない、そう言ったのはあなただ」
「分かっています」
 頷いた夜香は、ふと気になっていた事を聞いた。
「黒瓜堂殿、もしシンジさんがあの娘を連れて引き返したらどうされる?」
「無論、日本まで連れて帰ります」
 即座に断言した。
「例え誰であろうと、うちの店にいる者への手出しはさせません。もっとも――」
 黒瓜堂はうっすらと笑った。
「シンジがサリュごと妖樹を撃つ事は出来ませんよ。少年が恋の文字を知ったのはこれが生まれて初めてになる。あっさりと撃てるようなら、今頃は覇王の道を踏み出しているはずだ。なによりも…戸山町の当主が想いを寄せる事もあるまい」
 黒瓜堂がちらりと視線を向けると、今は無き大魔道士に創られた腕が妖しい光を帯びた。
「さて…何の事やら」
 そっと視線を逸らした夜香だが、その美貌は僅かながら確かに赤らんで見えた。
 
 
 撃てぬと断言されたシンジだが、そんな後方の動きなど知る由もなく、サリュを腕に抱くようにして進んだ。
 が、数十メートル歩いた所でその足が止まった。
「兵隊はどこへ行った?それと奴は?」
 前回来た時、本体はこの辺りにあった筈なのだ。
 何よりも、敵影がまったく見えない。
 雲霞の如く居たはずなのに、残敵掃討しようにも影すら見えない。
「多分…奥よ」
「奥?」
「シンジ、オーク巨樹は間違いなく力を増しているわ。それも以前とは比較にならないほどに」
「どういう事」
「さっき私が血を吐いたでしょう。あれは本物なの…あの、そう意味じゃなくて…妖樹がすべてやったのよ――ダメージから回復まで」
「痛めつけてから回復させたって事?」
「ええ。でも見せしめじゃないわ。自分にはこれだけの力があると見せたかったのよ」
「わざわざ挑発しに来たってかい」
(違うわ)
 その言葉をサリュは心の奥に飲み込んだ。
 サリュはオーク巨樹の行動を読んでおり、それは黒瓜堂の読みとぴったり重なっていた。
 だが、それを口にする事は出来なかったのだ。
「多分、自慢したがりなのよ。さ、生きましょう」
 今度はサリュが先に立って歩き出した。
 シンジもここから先はまだ未知であり、サリュの案内に任せて後に続く。
 二人が止まったのは、そこから角を四つ超えた、距離にして二百メートルほども歩いた地点であった。
「『こ、これは…』」
 そこに二人を待っていたのは文字通りの巨樹であり、その中心には人の顔が付いていた。
 シンジは前回封じはしたものの、今見ているそれはまったく桁違いの力であり、それはサリュにしても同様であった。
(どこからこの力を…まさか地脈っ!?)
 地脈から養分を取っているのは知っているが、そこに干渉する力が無い事もまた知っているサリュだ。
(何という事を)
 愕然とした表情になった時、中心にあった顔が口を開いた。
「遅かったなサリュよ。碇シンジの説得に手間取ったか」
「……」
「お前の知識がどこから来てるか知らないが、ベルリンの狂人だけは止めた方が良かろう。第一国違いだ」
 サリュを庇うようにして、シンジがすっと前に出る。
 シンジの指摘通り、その顔はアドルフヒトラーを模した物であった。
「ボナパルトでは小物でな。流刑で幕を下ろすなどつまらぬ生き物だ。我が名はデルニエ、覚えておくがいい」
「日記に書いておくとしよう。サリュ、下がって」
 シンジの動きに、デルニエがおやという表情になった。
「小僧、何をする気だ」
「しれた事、お前を滅ぼしてサリュを連れ帰る。お前がいたんじゃ、サリュの目覚めが悪くてしようがない」
 すう、と妖刀を青眼に構えたシンジの全身から、見る見るうちに凄まじい気が立ちこめ始めた。
「サリュ、俺から離れないで」
 抱き寄せられた途端、サリュの全身にもとんでもないエネルギーが流れ込んできた。
(シ、シンジ…)
 だがサリュが思ったのは、シンジは自分に力を注ぐのに精一杯で、攻撃を受けたらひとたまりも無いという事であり、それはデルニエに取っても同様であった。
 両脇の触手が不意に動いた刹那、咄嗟にサリュは前に出ようとしたが、それを押し留めたのはシンジ本人であった。
 文字通りの暗闇にも似た物がシンジを襲った瞬間、その肩口は大きく裂けていた。
「くっ…」
 一瞬蹌踉めいたがそれでも体勢は崩さない。
 傷口から吹き上げた鮮血が見る見る地を赤く染めていき、それに顔色を喪ったのはサリュであった。
「シンジっ」
「だい…じょうぶ。もう少しで結界張り終わるから…ちょっと待ってて」
「無理よシンジ、その身体でこれ以上…っ」
「何とかなるなる」
 肩から下を朱に染めた状態で、シンジはふふんと笑った。
 一転して真顔になり、
「お前の前でこれを始末しなきゃ、安眠出来ないでしょ」
「シンジ…」
 笑ってはいるが、決して浅手でないのは額に浮かぶ汗を見れば分かる。流れ出る出血のショックも気力だけで補っているのだ。
「威勢のいい事だな小僧」
 面白くも無さそうにデルニエが言った。
「さっさと帰る道もあったというのに。帰れば追いはしなかったぞ?一度だけ機会をやろう。さっさとその娘を連れて帰るがいい」
「黙れ生ゴミ。俺様の素肌に傷なぞ付けおって。八百五十倍にしてきっちり返してやるから待ってろ」
「元気だな。そこまで身体が保つ事を祈っているぞ」
 再度触手が動いた。
 今度直撃したら――。
 もうこれ以上シンジに傷は負わせられぬとサリュが飛び出そうとしたまさにその時、
「少年、捕まえておけ」
 聞き慣れた声がするのと、シンジの手がサリュを捕まえるのとが同時であった。
 触手は動き闇は放たれた。
 だがそれがシンジを直撃する事は遂に無かったのである。
「闇牙」
 龍の形をした“闇”がそれに襲いかかったかと思うと、あっという間にそれは飲み込まれてしまったのだ。
「刀が嫌な予感を伝えてきてな。来てみれば案の定だ」
 軽く肩を回しながら歩いてきたのは黒瓜堂であった。
「少年、奴の話を聞いたか」
「話?」
「あの様子だと、何が何でも取って食おうとは思っていないようだが。そうだな?イケニエとやら」
「…デルニエだ。人間に我が技を破られたのは初めてだが、何の用だ」
「この少年がサリュを連れて行けば、二度と干渉しないと約束するか」
「しても良かったが既にそやつは私に牙をむけた…と言いたいところだが、初めて私に痛打を浴びせた人間に免じて聞いてやろう」
「お前に一撃を浴びせたのは私ではない。おばあさまだ」
(おばあさま?)
 三人が揃って首を傾げたのだが、ぎょっとした表情になったのはサリュとシンジであった。
 触手が生えていたところの脇に、大きな穴が空いているのに気付いたのだ。
「少年、あの化け物はああ言っている。野望に支障が無ければ約束は守りそうだが、さてどうするね?」
「嫌だと言ったら」
「奴は倒せるだろう。だが代わりに想い人を失う事になる」
「ありがと」
 シンジは血の気を失った顔でうっすらと笑った。
 自分が代わりにやる、と黒瓜堂は言わなかった。
 ここから先は二人で行け、黒瓜堂はそう言ったのだ。この場をどうするか、ではなく五精使いのプライドを優先したのだ。
「さあ、どうする。私はそんなに気長ではないぞ。どっちでも構わぬ故、さっさと決めるが良い」
「黙っていられん奴だ」
 黒瓜堂がちらりと見た。
「もう一発闇牙撃ち込むぞ」
「……」
 数秒俯いたシンジの顔が上がった。
 血の気を失った顔は、怯懦ではなく、ひとえに出血の多さによるものだ。
「サリュ」
 その手がそっとサリュの肩に置かれた。
「旦那の力は借りられない。ボンクラな俺のプライドを優先してくれたんだ。サリュ、一度だけあの攻撃を防げるかい?」
「一度位ならなんとか…でもどうするの」
「あの攻撃は、効果がでかい代わりに連発は出来ない。少しの間が空くんだ。次の一撃を耐えればその間に結界は完成する。後は奴を始末――」
「それは出来ん相談だな」
 危険な声がするのと、シンジが咄嗟にサリュを抱き締めるのとが同時であった。
 攻撃用の触手は一対ではなかったのだ。
 さっきは幾分遠隔だった為、直接手を下す事無くサリュにダメージを与えたが、今は本体に戻っているせいで直接攻撃しかできない。
 間接だと暴走する可能性があるのだ。
 それがシンジにとっては幸いであり、また不幸でもあった。
 攻撃をまともに浴びた背中は、大きく口を開けたのだ。
 間違いなく致命傷と分かるそれに、黒瓜堂でさえも一瞬顔色を変えた。
「縛妖――」
 口にしかけてそれでも召還しなかったのは、
「待って…」
 死神が既に側で鎌を研いでいると知りながら、なおかつプライドを崩さぬ五精使いの声であった。
「手出し…しないでくれたんでしょ。ごめん…俺の我が儘聞いて」
「…分かった」
 黒瓜堂はあっさりと頷いた。
(意識を失うまで保って三十秒。少年、悪いが後始末は私がさせてもらうぞ)
 数十秒の分離なら黒瓜堂でも出来る。
 既に射手は一撃必殺の狙いを付けて待機しているのだ。
 肩口と背中が大きく裂け、文字通り全身を朱に染めてもまだシンジの目から光は消えない。
「つっ!」
 思い切り足を踏みしめて立ち上がったシンジが、ゆっくりと倒れ込んだのは次の瞬間であった。
「もう…もういいのシンジ…もう…」
 小娘の拳にすら耐えられぬ程、シンジの傷は重傷であり、この身で精を放てばそれこそ文字通り命と引き替えになったろう。
 黒瓜堂が力を貸せば、もっと簡単にけりはついていた筈だ。今頃は、サリュを抱き上げてよいしょと帰っていたかもしれない。
 だがシンジはそれを選ばなかった。
 あくまでも二人だけで決着を付ける方を選んだのだ――たとえ、命を賭す事になったとしても。
 その思いは、サリュには痛いほどによく分かる。
 だからこそ、ギリギリまでシンジの思うようにさせたのだ。
 しかしもう限界であった。
 シンジは瀕死の重傷を負い、デルニエにはまだ一撃も浴びせていないのである。
「シンジ…愛してる」
 シンジの頭をそっと抱き締めたシンジは、シンジの血で手も服も朱に染めたまま、黒瓜堂に向き直った。
「黒瓜堂さん…ありがとう」
 一度ぬぐった後、もうその目に涙は無かった。
「例え短い間でもシンジを愛したこと…私は決して忘れません。こんな日がずっと続けばいいって…でも続かないって分かってた。こんな化け物が誰かを愛せるって、シンジは教えてくれました。私がたった一つだけ持って行ける思い出です」
 その言葉が終わらぬ内に、突如として辺りは激しい揺れに襲われた。
「地震!?」
 思わずシンジを庇うような体勢を取ったサリュに、
「奴だ」
「え…!?」
 サリュが見たのは、まさしく狂人の様相になったデルニエの顔であった。
「サリュ、貴様の考えよっく分かったぞ。そこのお前は手出し出来まい。そこの小僧諸共滅びるがいい!」
 血走った目がかっと見開かれるのと呼応して、動き出した触手は十対ほどもある。
 だがサリュは動じない。
「Au revoir」
 哀しい別れを告げた少女がすっと立ち上がった。
「私は私、あなたには従わないわ」
 服をはらりと落とすのと、その手が我が身を貫くのとが同時であった。
(シン…ジ…)
 薄れゆく意識の中でその名を呼んだ直後、辺り一帯は猛火に包まれた。
 
 
 
 
 
(つづく)

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