妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百五十二話:古の末裔(六)――吸精公主
 
 
 
 
 
 シンジ達が巴里へ向かう前、フユノはニューヨークにいた。
 当地での打ち合わせにはいつもこのビルが使用され、複数企業の業績報告と、碇財閥の金庫番を務める女性からの報告を受ける事になっている。
 文字通り世界中にネットワークを持つ碇財閥だが、その全貌をほぼ掴んでいるのがフユノ一人なら、金庫番として全財産を管理しているのも一人なのだ。
 無論、ただの女如きに出来る事ではない。
 シンジが会っても反応しないだろうが、黒瓜堂が会ったら度肝を抜かれるかも知れない。
 人並み外れたでぶだが、普通に見れば余分に思える面積には知識と魔力、そして何よりも金に対する並はずれた執着力が詰まっていると言われる。
 その名を、トンブ・ヌーレンブルクという。
 そう、黒瓜堂の腕を創った大魔道士ガレーン・ヌーレンブルクの実妹である。実力は劣らぬ物を持っているが、人間性に関しては文字通り天と地ほども違う。
 質実剛健を旨とし、儲け話など一度として目を向けようとしなかった姉のガレーンだが、フユノがトンブを見つけたのはある意味で幸運であった。
 ガレーンと同じ性格なら、間違っても大財閥の資産管理になど興味は示さなかったろうし、何よりも役に立つまい。
 既に後を譲ると決めているシンジにその気がない以上、目下全責任はフユノの双肩に掛かってくる。
 シンジに移譲するまではとやって来たが、それにしたって限界がある。トンブに約束された報酬は莫大な物であり、それが莫大であればあるほどトンブは燃えるのだ。
 帝都へ移住して魔法街を作って大もうけしようと企んでいたのだが、その野望が取り消しになったのはひとえにフユノが雇ったからだ。
 フユノは報酬に見合っただけのものを要求する為、トンブも悪さを企む余裕は無くなったのである。
「いつも通り順調だね。こっちの事はあなたに任せてあるから、好きにやっておくれ」
 フユノの年齢はシンジの数倍だが、書類に目を通して判断する能力はシンジと互角、いや或いはそれ以上の物を持っている。
 書類をテーブルの上に置いたフユノは、立ち上がって窓辺へ歩いていき、眠らぬ街を見下ろした。
「この街がかつて妖魔に支配されかけたなんて、旅行者に教えたらまず信じないだろうね。人間の復興力は大したものだよ」
「珍しい事を言うじゃないか」
 よっこらしょと立ち上がったトンブがフユノの後ろに立って肩に手を置いた。
「神経的な疲労がだいぶ溜まってるね。頑固な孫は未だに相手をしてくれないのかい」
「それもあるよ」
 フユノはあっさりと認めた。
「まあ、あれは儂が自惚れていただけの事じゃ、報いとしては軽かったろうよ。ただ最近、仕事が面倒になってきてね」
「やる気はないのかい」
「無いだろうね。それでも、いつかはと思って続けて来たんだが、シンジにその気がないならこんな物など持っていても無駄さ。あなたが全部引き継いでみるかい?」
 フユノの口調に冗談の色はない。
 トンブは、フンと笑って首を振った。
「面倒な事を押しつけるのは止めておくれ。あんたが親玉であたしは金庫の管理人、最初からその約束だよ。今までも、そしてこれからもね」
「分かってるよ」
 小さく息を吐き出したフユノは空を見上げた。
 あっさり拒否はしたが、トンブにもフユノの胸の内は分かる。トンブ自身は無論見た事が無いが、何かにつけてシンジの名前を出すフユノが、いかに期待していたかはよく知っているのだ。
 また、出来もしない相手に過剰な期待など微塵もしない事も、また知っている。ヒトを見抜く目は、トンブ以上のものを見せる事もしばしばあった。
 それだけに、
(あたしが一度行って洗脳してやろうかね)
 ろくでもない事を考えているのだが、そこには無論、嫌気がさしてフユノが事業から手を引きでもした日には、この唯一にして膨大な収入源が途絶えてしまう事が絡んでいるのは言うまでもない。
 トンブの思考に於いて、まず第一は金銭なのだ。
 でぶが邪悪に笑った時、不意にフユノの携帯が鳴った。
 この時間は一切の電話を禁止、と言うよりこの電話番号を知っているのは三人といない筈だ。
「黒瓜堂です」
 フユノが一瞬首を傾げたところを見ると、電話の相手はその中に含まれていなかったと見える。
「ああ…シンジが世話を掛けるね」
「これから数倍する予定だ。それと、二つ程やってもらいたい事がある」
「どうしたね」
「帝劇の三人を貸して頂きたい。巴里で作業がある」
「分かった。もう一つは」
「巴里の花組とやらへ連絡を。市街地が戦場になっても決して出撃しないようにと。出撃すれば間違いなく壊滅する事になる。私には関係ない話だが、わざわざ命を捨てに行く事もあるまい。ではよろしく」
 一方的に切られた通話を終わらせてから、フユノは振り向いた。
「黒瓜堂のあの声は久しぶりに聞いたよ。どうやら巴里は祭りになると見えるね」
「坊やはそっちかい」
「多分ね。シンジもまだ儂の手が掛かる年頃じゃ。やはり放ってはおけぬの」
「そう言う事さ。好きに遊ぶには、政治力が必要という事をきちんと教えておやり。あんたが見捨てるにはまだまだ経験不足だよ」
 
 
「こらっ、起きろっ」
 ぺちぺちと頬を叩かれてシンジは目を開けた。
「やっと起きた。まったく、にやにやして寝てるんだから。シンジのえっち」
「サリュの夢を見てた…サリュ?」
「そう、私」
 頷いたサリュを見たシンジが、何かに気付いたように周囲を見回した。
「ここは?」
「シンジの精神世界。ついでに、私はもう死んでるの」
 死人にしては異常に明るい口調だが、シンジは起きた事態を一瞬で読んでいた。
「サリュ…俺に移したね」
「うん。だってシンジってば無茶するんだもの。黒瓜堂さんに言われたんだけどね、あの状態だと数十秒保たなかったんですって」
「そう…か」
 ため息を一つ吐いたシンジが、
「好きな女の一人も守れないボンクラって事、か」
「それは違うわ。黒瓜堂さんに預ければ、シンジは一人でオーク巨樹を倒せたかもしれない。でもシンジはそうせずに私を連れて行ってくれた――私達の未来の為に。それに放っておいたらあなたは死んでたの。夫が妻の為に命を賭けてくれるなら、妻が夫の為に一命を投げ出すのは当然でしょう?」
 サリュの言葉にやっとシンジの顔が上がった。
「妻なの?」
「そうよあなた…駄目よシンジ!」
 不意にサリュの表情が鋭い物に変わった。
「それも悪くないけど幽冥境を異にしたんじゃ意味がない――あまりろくでもない事を考えないで。そんな事の為に夜香さんはあなたを救ったんじゃないわ」
「…夜香が?どういう事」
 シンジの表情からすると、どうやら図星だったらしい。
「これを見て」
 サリュの手がすっと上がり、真っ白な空間に映像が映し出される。
 それを見た瞬間、シンジの顔色は変わった。
 
 
「闇牙!」
 サリュが我が身を貫いた直後、その姿はシンジの中に溶け込むように消えた。
 もはやこれまでと命をシンジに与えたサリュだが、それはシンジの回復であってパワーアップではない。
 いくら相性のいいサリュと雖も、瀕死状態のシンジにベホイミを唱えて完全復活させる事は出来ない。
 闇の姿を取った龍が黒瓜堂の手から放たれ、それは一瞬にしてデルニエからの攻撃を無効とせしめた。
 ただし今度は吸い取ったのではなく、その場で破壊した為に周囲は大爆発に見舞われた。その寸前に飛び込んできた黒翼がシンジを抱き込み、十数メートルの距離を一気に飛翔したのだ。
 それがなかったら、シンジも爆発の衝撃には耐えられなかったに違いない。
「あれは…夜香?」
「黒瓜堂さんがそう呼んでたわ。シンジ、まだ続きがあるの」
 想い人が我が身を貫くのを目の当たりに見せられ、なおも続く場面でも自分の行動は一切無い。
 それでもシンジは唇を噛んで頷いたのだが、今度の映像もまたシンジの顔から血の気を退かせるに十分であった。
 自爆テロの現場、そう呼ぶのが相応しいような地上の状況であり、竜巻が過ぎ去った後のような地上だが、どれだけいるのか分からぬ程の人間が地上に転がっており、映像越しなのに血生臭い匂いがそのまま漂ってきそうだ。
「外人部隊が壊滅したそうよ。二百名近い部隊が全滅、それでも民間人に死者が出なかったのは文字通り奇跡ね。それとシンジ、巴里の子達が出撃したわ」
「巴里花組が?」
「出撃して壊滅、機体は全機大破、死者は無かったけど病院へかつぎ込まれたわ」
「……」
 
 
 間一髪でシンジを運び出したのは夜香であり、黒瓜堂はその後から悠々と出てきた。
 天に挑んだ髪の毛が二本焦げただけだったが、夜香が地上の状態を知ったのはそれから十五分後の事である。
「黒瓜堂殿これは?」
「触手が乱射してきたので闇牙を手加減せずにぶち込んだら、攻撃は食い止めたがそのまま内壁を破壊してしまってな。植物人間共が一斉に表へお出かけだ」
「数は?」
 無論、それを聞いても夜香の反応は変わらず、重ねて訊いた声は普段とまったく変化がない。
「ざっと四百。夜香殿、帝都に銀角がいたでしょう」
「ええ」
「今暴れてる植物人間共は、あれのざっと三倍以上の強さを持っている。降魔に蹂躙された事のない国の軍隊が始末出来る相手ではない」
「あの、黒瓜堂殿」
 そこへそっと口を挟んだのは麗香であった。麗香にしては珍しいのだが、実は祐子から暴走してないか見てくるように頼まれたのだ。
「何です?」
「このまま放っておかれますの」
「自国の軍隊は出さないでしょう。取りあえず、出しても人的被害の大きくない外人部隊か何かを使うはずです。正体不明の相手と戦うのに自分の兵士は減らせません」
「ここの方達は?」
「碇フユノに連絡して、出さないように言ってあります。老いたりとは言え、その位の事は出来る…!?」
「黒瓜堂殿、どうなされたのです」
「出てきました」
「え?」
「巴里花組が全機勢揃い、間抜けな面を下げてやって来た。どいつもこいつも命が惜しくないと見える」
「……」
「夜香殿、大波が中程度になったら私が出ます。取りあえず穴蔵の中に押し返してシンジの獲物は取っておかねばならん」
「私も行きましょう」
 
 
「結局、表に流れ出した数は七百を超えていたそうよ。黒瓜堂さんと夜香さんが半数近くを殲滅、後は出てきた穴に逃げ込んだわ」
「サリュ待って」
「なに?」
「どうして連中が穴から出てきたの?」
 黒瓜堂のせいで出口が出来た事をシンジは知らない。
「デルニエが触手から攻撃を乱射したのを黒瓜堂さんが止めたんだけど、勢い余って壁に穴を開けたらしいの」
「それって手加減しなかったってこと?」
「そうらしいわ」
 珍しい事だが、ここに至ってもまだ黒瓜堂は自我を保っていた。殺戮を好む姿に変貌していないのだ。
 どうやらカラミテ達を相手に大暴れした事が、吉と出たらしい。
「それとシンジに言っておく事があるの。今回、オーク巨樹が随分と勢力を増したでしょう。あれってね、実は黒瓜堂さんが地脈に細工して力を大幅にアップさせたのよ」
「…?」
 一瞬シンジの口がぽかんと空いたが、
「新手の試験かな?」
 首を傾げた途端、いきなり抱き締められた。
「良かった。合格よシンジ」
「ふえ?」
「どうしてそんな事をって言ったらね」
「い、言ったら?」
「坊やだからさって、言うようにって」
「……」
「……」
「旦那が?」
「うん」
「今度一回、絶対ギャフンと言わせてやる」
 実のところ、一瞬はそう言おうと思ったのだが、何となく裏があるような気がしたのだ。
 そのシンジを見ていたサリュが、うっすらと笑った。
「シンジ、もう大丈夫ね」
「もういく…いたっ!?」
「行くじゃなくて、もう限界なのよ。生命力全部あげちゃったんだからね、会話するのだって大変なんだから」
「あ、ごめん…」
「いいの。最後にシンジと話せたんだもの。ねえ、最後に一つだけお願いがあるの」
「なに?」
「もう一回、愛してるって言ってほしいの」
 頷いたシンジがサリュに手を伸ばす。
 既に片方はこの世の存在ではなく、生身ならば触れ合う事も適わぬ同士だ。
 だがここはシンジの精神世界――いかなる姿形も可能になる場所――シンジに抱き寄せられたサリュが、そっとシンジに手を回した。
「サリュ、愛してる」
「私も…ずっと…ずっと」
 触れ合った頬に涙が伝い落ちる。
 それが今生の別れの合図であった。
 
 
「起きたか、少年」
「ただ今帰りました」
 ゆっくりと起きあがったシンジに、黒瓜堂は軽く頷いた。
「お前の分はまだ保存してある。好きなだけ遊んでくるがいい」
 こくんと頷いたシンジの顔に、もう涙の痕はない。
 傷は完全に癒えており、既に服も新しい物に替わっている。
「黒?」
 シンジは普段黒を基調にはしておらず、ましてこんな黒づくめに近い格好などしたりはしない。
 どうしてこの色をと黒瓜堂を見たシンジに、
「お前を運んできたのは私ではなく夜の一族だ。色ぐらい合わせても良かろう」
「ふーん…」
 自分の姿を見ていたが、間もなく頷いた。
 これはこれで気に入ったのかも知れない。
 すっくと立ち上がったシンジが、
「旦那、一つだけ教えて」
「何だ」
「どうして奴を強く?」
「あの娘に坊やだから、と言われたか」
 シンジは首を振った。
「そこまでは落ちなかった」
「結構。奴があの娘をどう扱うか、それを考えるがいい」
(?)
「人質か見せしめに…」
「違う」
「え?」
「少年、最初はお前を引き込む気だったと言った筈だ。極限までダメージを与えた後に完治させてみせれば、それだけ影響力があると言う話になる。もっとも、自分のプライドを通した夫とそれに殉じた妻のせいで無意味になってしまったがな」
「夫妻…」
 鸚鵡返しに呟いたシンジだが、それでスイッチが入ったらしい。
「逝ってきます」
 全身に怒気とも殺気ともつかぬ、凄まじい気を漲らせて歩き出した。
「キレた五精使いに、役立たずの植物人間はぶつけられんよ。少年、それが一番の理由だ」
 
 
 結局シンジは、フェンリルを呼び出す事はしなかった。
 無論、呼べば拒否はしなかっただろう。
 だがシンジは黒瓜堂に言われた事を――ここから先は二人で歩いていくのだ、とそう言われた事を守ったのだ。
 守った、と言うよりは自らの命をシンジに与え、足かせとなるより散る事を選んだサリュへ唯一贈れる花であったろう。
 従魔も呼ばずエクスカリバーを使う事もなく、黒瓜堂に借りた妖刀だけを手にシンジは再度中へと向かった。
 結論から言えば、勝つ事は勝ったが大層な苦戦であった。
 黒瓜堂と夜香が、ペアを組んだとは言え地上にて半数を簡単に討ち取ったのは、それが地上だったからだ。シンジが赴いたのは、力を授けるボスが勢力を拡げているそのど真ん中である。
 しかもサリュの力を得た事で相性が上がったか、素人が持てば狂うと言われる妖刀を嬉々として振り回すうちに、黒瓜堂の二の舞を踏んだ。カラミテ八体を壁ごと切り裂いてしまい、またしても外界への扉が開かれてしまったのだ。
 が、今度は数体しか出なかった。
 今回は過小評価されなかったようで、人海戦術に出てきたのだ。
 結果、全身に十あまりの傷は負ったものの、シンジはすべて片づけた。デルニエに対しては、文字通り切り刻んで始末したが、にやあ、と笑って振り返ったシンジの顔は完全に人外の物と化していた。
 そう、妖刀に取り憑かれてしまったのだが、貸し主がこれを予想していたかどうかは分からない。全身これ人斬り包丁と化してしまい、あまつさえフェンリルまでもが妖気に当たって巨大化してしまった。
 身の丈十数メートルにも及ぶ巨狼と、妖気の滴る刀を引っ提げた青年が街へ出た日には、一体どんな被害が出るか想像も付かなかったのだが、慌てもせずに放たれた縛妖蜘蛛が彼らに取り憑き、あっという間に精を吸い取り始めた。
 暴走した主従を見た黒瓜堂と夜香の表情を見る限りでは、やはりこれも想定していた可能性が高いと思われる。
 殆ど命に関わるラインまで精と魔力を吸い取られた一人と一匹は、またいつもの関係に戻った。
 フェンリルを体内に納められたシンジは、そのままとあるホテルの一室へと運び込まれ、麗香が付き添う事になった。
 黒瓜堂はもういつも通りに一介のオーナーへと戻っており、あれほど凄まじかった妖気は微塵も感じられない。
 一通りの事を指図した黒瓜堂が部屋から出ようとして、その足が止まった。
「あ、そうだ麗香殿」
「はい?」
「300までなら構いませんよ」
「300、ですか?」
「ええ、300」
 指を三本立てた黒瓜堂が、
「300cc迄なら構いませんから、ちゅーっとやっちゃいなさい」
「や、やるって…」
「血を吸っていい、とこう言ってるんです」
 かーっと赤くなった麗香の表情を愉しむように、ニヤッと笑う。どうやら、まだ後遺症は消えていないらしい。
 
 
 
 
 
(つづく)

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