妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百五十話:古の末裔(四)――雷蛇
 
 
 
 
 
 シンジが日本を発つ前、帝劇の三人娘はとんでもない所にいた。
 その姿は巴里――オーク巨樹内部にあったのだ。
 しかもメンバーはもう一人、レビア・マーベリックが同行している。AMPのメンバーについては伏せられており、知っているのは限られた者達なのだが、三人はその中に入っていた。
 無論彼女達は伝説となっており、その内の一人と同行出来るとあって、三人はすっかり舞い上がっていた。
 がしかし。
「あの、一つお訊ねしていいですか」
「何かしら」
「レビアさんはその…どうして黒瓜堂さんの所で働いておられるんですか」
「黒ちゃ…じゃなくてオーナーの事を知ってるの?」
 今度黒ちゃんとか呼んだら、碇家本邸のピラニアとデートさせるぞと脅されている。
「帝劇のガードシステムは黒瓜堂さんに発注した物が多いですから。結構使ってるんです」
「それで?」
「え?」
「それで、私の入ったことがどうして疑問なのかしら。AMPとの関係、じゃないわよね?」
「い、いえそのっ」
 黒瓜堂などに行かずとももっと良い所が――そのニュアンスを見抜かれたのだ。
 キロ、とレビアに一瞥された娘達は固まってしまい、パキッと指を鳴らした途端出てきた触手に忽ち拘束されてしまった。
 三人を置いてさっさと歩き出したレビアだが、一つ角を曲がった所でその足が止まった。
「これでいいのよ。あの坊やのお婆さんから協力するよう言われたんでしょうけど、本当の目的を知ったらきっと自分が許せなくなるもの」
 別に黒瓜堂の事を言われたから機嫌を損ねたのではなく、それはあくまでも振りだ。
 レビアは最初から、この三人を一緒に行かせる気はなかったのである。
「さて、こっちに着く前にさっさと終わらせないとね」
 歩き出してレビアの背に、
「まったく、四人を一人に減らしてどうするんだよお前は。来て正解だったぜ」
 豪快な友人の声がした。
「キディ!?あなたどうしてここに」
「助っ人に来たって言ったろ」
「…旦那は?」
「置いてきた」
 留守番してる、ではなく置いてきたとキディは言った。
 キディ・フェニル、彼女も元AMPの一員だが、今は幸せな夫婦生活を送っている筈だ。わざわざ、こんな所へ来る必要はない。
「別れたの?」
「別れたんじゃねえよ!ただまあ…ちょっと性の不一致ってやつで」
「……」
 おそらくキディがおねだりし過ぎたに違いない、とは思ったが口にはしなかった。
 おねだりする相手すらいないだろうと、切り返されるのが嫌だったのだ。
 
 
 
 
 
 シンジは留守中、特別部屋を閉め切るような事はしておらず、そのベッドは夜ともなると魚河岸市場と化す。
 数体のマグロが並んで転がり――もとい、娘達で埋まるのだ。
 そもそもの発端は、シンジが黒瓜堂に携帯を預けた事にある。
 住人達はその番号しか知らず、掛けたら黒瓜堂が出た。
「どちらさんで?」
 第一声がこれである。
 シンジが携帯を持っていないと、マユミだけは聞いていたのだが他の住人達には伝えなかったのだ。
「あ、あの真宮寺と申しますが…い、碇さんはいらっしゃいますでしょうか」
「ああ、真宮寺さんですか」
「はい?」
「黒瓜堂です」
「黒瓜堂さん?あの、真宮寺です。碇さんはいらっしゃいますか?」
「こっちにはいません。シンジから携帯を預かってます。電波を受信出来なくなるので、預かっていてくれと言われまして」
「そ、そうなんですか…」
 受話器のこちらで表情の曇ったさくらを察した訳ではないが、
「そうなんです。それと、シンジから伝言です。自分の留守中、寂しがる子がいると思うので、室内の物は好きに使ってくれて構わない、との事です」
 勿論大嘘だ。
 が、携帯がない事でシンジと連絡が付かない事がわかってしょんぼりしている所に、室内の物を自分代わりにと言われて嘘だと看破出来るほど、さくらはまだ世慣れしていない。
 これで言葉の片鱗に淫らさがあれば、少しはおかしいと思ったかもしれない。
 だが、
「ベッドって使わないとほこりが溜まるのをご存じで?」
「ベッドですか?」
「ええ。シンジがいないと使う人がいないから、埃が溜まるでしょう。帰ってくる前の間、使ってあげたらどうで――」
 いきなり切られた。怒ったわけではなく、即実践しようと飛んでいったのだろう。
 泪が帰った後、浴場ではとんでもない光景が展開していた。
 アスカとすみれが十字架に掛けられているのだ。
 そしてその足下には、縛られたマユミが転がっている。
 言うまでもなく三人とも全裸だ。
 十字架、とは言っても苦痛責めではなく、色々な道具を使ってくすぐられる訳で、二人の顔には妙な絶頂を繰り返した疲労の色が濃い。
 転がっているマユミは、勿論反対したから粛正されたのだ。
 そう、今夜シンジのベッドはマリアに占領されてしまったのだ。
 純粋にマリアが寝たいから、と言うのではない。
 さくら達がシンジのベッドに寝ると言いだした時、マリアは一つだけ条件を出した。
「誰が寝ても構わないわ。ただし、シンジの留守中に誰かが喧嘩するような事があったら、その晩は私がここを使うからね」
 と。
 他の誰が寝てもいい、だがマリアにだけは渡してはならない。だから揉めたりする事は無かったのだが、泪が来た時つい言い合ってしまったのだ。
「約束よ。今日は自分の部屋で寝なさい」
 有無を言わせぬ口調でそう言うと、マリアは早くも鍵を閉めてしまった。
 ただし、本人はカンナを捜しに出かけた筈だ。
「あーあ、今日はおにいちゃんと一緒に寝られないんだよねえ。どこかの誰かさん達のせいで」
 二人の股間に取り付けた麻縄の先をきゅっとアイリスが引っ張り、二人の身体がびくっと揺れた。
 既に縄は濃い愛液でたっぷりと濡れており、それを淫唇からクリトリスに掛けてきゅっとこすられるともうたまらない。
 最初の頃は痛みもあったからまだ我慢出来たのだが、数回で痛みの寸前におさえる、つまり快楽だけを与えるポイントを知られてしまったのだ、
 こうなるともうさくら達のなすがままであり、或いは乳を揉まれ、或いは縄で乳を一周してきゅっと縛り上げられたりして、その上で体中をくすぐられると二人には堪える術が無かった。
 きゅっきゅと縄を擦っていたアイリスが、ふっと振り返った。
「ねえさくら、お酒ある?」
「飲むの?」
 ううん、とアイリスは首を振った。
「そろそろ二人を許してあげようかと思って」
「え?」
「私達が女王様でしょ。だから二人には、最後に一つずつ好きな事をやってもらうの」
 一気飲みさせるのかと思ったら、
「コップ一杯をそれぞれ相手に口移しで呑ませるの。途中で失敗したらまた最初からやり直し。ねえレニいいよね?」
「う、うん…」
 シンジのベッドは、時々寝ぼけたフェンリルが数メートルの大きさになっても、シンジを押しつぶしたりしないように特注のキングサイズになっている。
 だからその気がある者は全員寝られるのだが、そこに寝ていない夜はいつもアイリスに嬲られており、最近はすっかりレニの性感帯は開発されてしまった。
 開発主がにこっと笑って聞くと、どうしても首を振れないレニである。
「ほらね、レニもいいって言ってるよ」
 大人しい顔で末恐ろしい女王様の片鱗を見せたアイリスに、織姫でさえもここは止めた方が後々の為にいいかと思った位だが、
「アイリス、その位で許してあげたら?」
 姿を見せたのはマリアであった。
「マリア…カンナはいたの?」
 いいえ、とマリアは首を振った。
「でも多分大丈夫よ」
 町中を歩いていたら、タクシーに乗せられたカンナを発見したのだが、その直前の雰囲気で問題ないと判断したのだ。
「二人ともすっかり色っぽくなっちゃって」
 別に咎めるでもなく、十字架に歩いていくとそっと二人を下ろした。
 立てずに寄りかかってきた二人が一瞬で復活したのは、十秒後の事だ。
「色っぽいとは思うけど、もう少し胸があった方がいいんじゃないかしら。シンジとしてはね?」
 生胸の感触を腕に受けての台詞であり、二人にしか分からぬ所で笑ってみせるとマリアはくるりと踵を返したのだ。
「アイリス」
「なあに」
「あまりやり過ぎは駄目よ。程々にね」
「う、うん」
「織姫とさくら、あなた達が付いていたらもっと止めないと駄目じゃない」
「『す、すみません』」
「シンジの部屋は空いているから好きに使いなさい。でも、もう喧嘩しないでね」
 私はシンジじゃないんだから、と言う言葉はぐっと飲み込んでマリアが出ていく。
「良かった。怒られるかと思ったわ」
「そうね。マリアさんの事だからとんでもないって怒るかと思った」
 ほっとした二人が、突然異様な雰囲気にぎょっとして振り返ると、そこには文字通り炎を背景にした二人がいた。
 ジェラシーファイア。
「す、すみれさん?」
 アスカやすみれだって小さいわけではないが、マユミと変わらぬ胸のマリアにはどうしても及ばない。しかも身長と比してバランスが取れているから、余計に胸のパーツが目立つのだ。
 かくなる上はシンジに揉んでもらってでも、絶対大きくしてやるんだと一瞬にして意気投合して、静かに息巻いているのだが、さくらはそんな事には気付かない。
「あ、あの〜大丈夫ですか?」
 声を掛けた瞬間後悔した。
 ついさっきまで、自分達に嬲られてすすり泣くような声の重奏を奏でていた二人が、キッとこちらを睨んだのだ。
「確かに少し言い合いはしたけれど、大喧嘩まではしてませんわ。それなのに」「随分と好き放題やってくれたわよねえ」
「ちょ、ちょっと二人ともどうしたんですか」
「どうしたですって?よくもそんな事が――」
 言葉は途中で止まった。
 扉が一人の闖入者を吐き出したのである。
「カ、カンナさん…」
 場の雰囲気がすっと代わり、揃って冷たい視線が向けられた。
 シンジがいない以上、カンナの気が変わる訳はないし、どうせまた非難でもしに来たと思ったのだ。
 だがカンナの反応は意外な物であった。
 カンナは頭をかきながら、
「さっきの事はあたいが言いすぎた…いや、あたいが勘違いしてたよ」
 さくらもすみれも、そして織姫やまだ解かれていないマユミでさえ、ぎょっとして目を剥いた程であった。
 間違っても、こんな台詞は出てこないと思ったのである。
「そんな顔してあたいを見るなよ。あたいだって猿じゃねえんだから、一回思った事をバカみたいに繰り返すだけじゃねえよ」
「カ、カンナさん」
「あ?」
「それ、どういう心境の変化ですの」
「どういうっつうか…一応言っておくけど、あたいは泥棒自体が良い事とは思ってねえよ。マリアみたいなのとは別のケースみたいだしな。ただよ…その、あたいも人殺しになる可能性があるって事なんだよな」
「『え!?』」
 場が硬直したが、それに気付いたか気付かなかったか、
「エヴァは大将が手を入れたって事だよ。すみれそうだろ」
「え、ええ」
「大将が指揮を執ってれば、いやあやめさんでも別にいいと思うけどよ、周りがそれに従うとは限らねえだろ」
「民間人に犠牲者が出るってこと?」
 レニの声はもう元に戻っている。
「そう言うこった。降魔をぶちのめしにか見物にかは分からねえけど、一般人がふっと出てくるかもしれねえ。そのバカをもしあたいらが殺しちまっても、殺人罪に問われる事は絶対にないだろうよ。でもよ」
 一旦言葉を切って周囲を見回した。
「そいつに家族がいれば、その家族にとってあたいらは人殺しなんだよな。法に問われないから殺人じゃない…って事にはならないだろ」
 トウジは難しい事を言わなかった。
 浪人生ではあるが、別にバカではない。それ以上の語彙を持たなかった訳ではなく、それよりも相手の理解を優先したのだ。
 加えて、こんな奴を飼ってるとはシンジも大変やのう、と内心でひそかに同情した部分はある。
 とまれ、だからこそカンナもあっさりと考えを変えたのだ。
 これでカンナの理解など関係なく、言葉の甲冑で覆って正論を並べられていれば、カンナも受け入れる事は出来なかったろう。
 ただし、トウジに聞かれたら丸写しは著作権違反だと、代金を請求される事は間違いない。自分が説得された言葉を、早速転用して仲間に使っているのだ。
 が、
「カンナ、それマリアに聞いたの?」
 さすがに、カンナ本人が考えて翻意したと思うほど、住人達は甘くなかった。
 アスカもこれがカンナ本人の発想ではないと、既に気付いている。
 そして、住人達は再び度肝を抜かれる事になった。
 余人では気付かぬ程だが、カンナがうっすらと赤くなったのだ。
「べっ、別にその誰って言う事はねえよ。ま、まあその…や、優しかったけどよ」
 ごにょごにょ言ってるカンナに、娘達は思わず顔を見合わせた。この娘のこんな姿など、当然出会ってから一度も見た事はない。
「あ、あたいの事はいいじゃねえか別にっ」
 照れ隠しみたいに、カンナは声を張り上げた。
「あたいは悪かったって言ってるんだからそれでいいだろ。文句でもあるのかよ」
「カンナ、そんな事は言ってないわ」
「マ、マリア…」
 浴場を出たらカンナが帰ってきた所で、ここに来るのを見て自分も戻ってきたのだ。
「紳士だったんでしょ、彼は」
「な、なな、何言ってんだよおめえ、ば、馬鹿じゃねえのっ」
 真っ赤になったカンナが、
「あ、あたいはもう寝るからなっ。邪魔すんなよっ」
 マリアを押しのけて出ていこうとするのを、すっと避けた。
 初めて見るカンナの姿に、まだ娘達は呆然としていたが、マリアだけは一人うっすらと笑った。
「あ、あのマリアさん」
「どうしたのさくら?」
「カンナさんの相手ってその…い、碇さんじゃないですよね?」
「外国にいるのに?」
「え?碇さん外国なんですか?」
「知らないわ。でも、電波が届かないと置いていったんだから、その可能性が高いんじゃないかしら。そのシンジに、カンナがわざわざ電話するとは思えないわ」
「そ、そうですよね。あたしったら勘違いしちゃって」
 小さく舌を出したさくらだが、実は他の娘達も同じ事を考えないでもなかったのだ。
 つまり、どうしてマリアがシンジの行き先を知っているのかと。
 口にしないで良かったとほっとしたのだが、それはすぐに翻された。
「それに、カンナが握りしめていたハンカチは、シンジが持ってる物とは違うわ」
「え?」
「あれはシンジの趣味じゃないもの」
(何ですって?)
 確かシンジは持っていなかった、なら分かる。だがシンジの趣味じゃないとはどういう意味なのか。
 レニでさえ、そこまで言い切る自信は無いというのに。
「マ、マリア…」
 呼んだアスカの声はどこか掠れて聞こえた。
「なに」
「も、もしかしてシンジの事…」
「あなた達があまりしつこいから、気が変わっちゃったのよ」
 マリアは妖しく笑った。
「私がシンジの恋人になれば諦めもつく――そうでしょう?」
「そ、そんな…」
 さくら達が気にしたのも、マリアがその気になれば敵わないと自覚していればこそである。
 そのマリアが恋敵になる事を知り、娘達の顔に絶望の色が浮かんだ。
 
 
 留守中の事など、今のシンジの脳裏にはない。
 サリュと黒瓜堂の三人でオーク巨樹内部に侵入したシンジだが、その顔には珍しく焦燥の色がある。
 サリュの顔色が悪いのだ。
 大丈夫よとサリュは笑って見せたが、
「大丈夫ではない。いいのか、少年?」
「え!?」
 サリュよりもむしろ、初めて目にする黒瓜堂の妖気にシンジは振り向いた。
 いつもと同じ、だがどこかが確実に変わった黒瓜堂の主は、
「そのまま連れて行けば、その娘は間違いなく倒れるぞ。オーク巨樹が既に力を取り戻している事に気が付かないのか」
「サリュ、戻ってる?」
 ええ、とサリュは苦しげに頷いた。
「理由は分からない。でも、間違いなく前よりも力が増しているわ」
「…どうしたものかな」
「手を繋いでいけ。それで少しは収まる」
「手?」
 言われるままサリュの手を取ると、急激にその顔色は回復した。
「どういう事なの」
「決まっている。その娘が弱まっているのは、オーク巨樹がダメージを受けているからではなくオーク巨樹の意志そのもの、つまり見せしめという事だ。とは言え、それは所詮遠距離攻撃に過ぎん。手を繋いでいるお前の方が、影響力が大きいのは言うまでもあるまい」
 黒瓜堂の言葉にシンジの表情が一瞬変わった。
 ダメージではなくオーク巨樹の意志、と黒瓜堂はそう言った。つまり、オーク巨樹が自らの分身を滅ぼそうとしている事になるのだ。
「上等」
 シンジの気が戦闘モードに移行する。
 すっと手を伸ばし掛けて、その手が止まった。
 この状態でフェンリルを呼び出すのは少々躊躇われる。
「少年、持っていくがいい」
 言葉と共に飛んできた物をシンジは片手で受け止めた。
「妖刀の村正だ。エクスカリバーには及ばんが、鈍刀よりは役に立つ。使うといい」
「ありがとう。借ります」
 すらりと抜くと、刀身が妖しく光る。
 シンジがにっと笑った瞬間、数体の草人形が襲いかかってきた。文字通り、何の気配も感じさせぬ動きにシンジの対応が一瞬遅れた。
「シンジっ」
 サリュが叫ぶのと、
「雷蛇」
 黒瓜堂が一言口にするのが同時であった。
 落雷が直撃したかのように黒こげになったそれを見て、シンジが唖然とした表情で振り返る。
「女の一人や二人、手に入れて見せないでどうする。少年、ここから先はお前達だけで行くのだ」
「ん、分かった」
 どうやらこれが黒瓜堂の本来の姿らしいと気付いたシンジが、軽く頷いた。
「サリュ、行こう」
「はい」
 どこか挙式に臨む感もある二人が、ゆっくりと歩き出す。
「絶望の果てにあるのは狂気――見せてもらうぞ、少年」
 危険な声がした直後、
「黒瓜堂殿」
 すっと横に立ったのは、戸山町の美しき当主であった。
「夜香殿、効き目の方は如何?」
「痛みどころか、違和感すら感じません。さすがは黒瓜堂の仕事、外れがない」
「少しでも焦げたりすれば、私が無事に帰れなくなってしまう。麗香殿は」
「今はまだ、休ませてあります。体の具合ではなく、目の当たりにしたくはないでしょう」
 黒瓜堂は頷いた。
「私がかつて、ガレーン・ヌーレンブルクに埋め込まれた獣魔の一つ雷蛇。こんな物であの少年は止められない。だが――」
「縛妖蜘蛛ですか」
「ええ。従魔とその主ごと、たっぷりと吸い取らせてもらうとしよう」
 吸血鬼達が危険な事を企んでいる頃、麗香と祐子はホテルにいた。
「よろしいのですか?黒瓜堂殿に付いておられなくて。あなたがいないと、戻る事は出来ないのでしょう」
「大丈夫です。今はまだ、触発されてはいませんから。それに、もし万一の事があれば戸山町の若き当主にお任せします」
「まあ」
 うっすらと笑って麗香はタルトを口に運んだ。
 ガレーン・ヌーレンブルクの改造――それは成功したものの、少々問題を残した。腕に埋め込まれた獣魔をすべて解放する時、相当量の妖気や魔力を吸い取らないと本人の性格が元に戻らないのだ。
 非常に好戦的で都市の破壊など何とも思わぬ性格になる。
 その意味では、シンジは間違っている。現在の黒瓜堂が本来の姿、と言うわけではないのだ。
 元に戻せるのは、目下祐子一人しかいない。
 性格反動の事を知ったガレーン・ヌーレンブルクが、彼女にある物を授けた。
 元は魔人だとか、そんな良い物ではなく、単に性格が破綻するようなものだ。創り主によると、どうやら卵を埋め込む順番を間違えたらしい。
 やり直しも出来たのだが、被験者が断固として拒否したという。
「祐子さん」
「はい?」
「黒瓜堂殿とはあの、前からのお知り合いなんですの?」
「下僕ですわ」
「げ、下僕…あの、どちらがどちらの?」
「内緒です」
 笑った祐子に麗香もつられて笑ったが、同じ事を聞いたサリュが同じ反応をされた事は、勿論知らなかった。
 
 
 住人達の顔を見て、マリアはくすっと笑った。
「冗談よ。私じゃシンジとは釣り合わないもの。ただこんなに月の綺麗な夜は」
 ぽっかり浮かんだ満月を見ながら、
「一途に誰かを想っている子達をからかってみたくなるのよ。驚いた?」
 どうしてそうなるのかはよく分からないが、本気ではないらしいと知った娘達が勢いよく頷いた。
「それとすみれ」
「な、何ですの」
「私が人を殺した、と言っても動じなかったわね。どうして?」
「碇さんの影響ですわ」
 すみれの答えは早かった。
「シンジの?」
「正直に言えば、わたくしもその現場を見ればまた違う反応をしていたかもしれませんわ。でも…それはまたその時の話で、少なくとも今、マリアさんが好き好んで人を殺しているわけではありませんもの。そうでしょう?」
「…ありがとう」
「そうですよマリアさん。動物愛護って唱える人だって、牛や豚や鶏を殺した肉を食べてるんですから…あれ?」
 そう言う背反とはまったく別次元であり、一斉に白い視線が向けられた。
「さくら…それとは違うと思うの」
「そ、そうですよねすみません。やだ、あたしったらまた勘違いしちゃって…」
「まったくさくらさんは時々ななでもないことをいうでーす。どうして碇さんはこんな人に甘いですか」
「あんたと同類項だからよ」
「アスカどういう意味よ」
 一瞬で元に戻った。
「ななでもないじゃなくて、ろくでもないよ。あんたよく東京学園に編入出来たわね」
「ふふん」
 織姫は笑って、
「碇さんがアスカよりおっぱいの感触がいいから、転入していいって言ってくれたの。残念でした〜」
 ムカッ。
 この間の乳勝負は、引き分けではあったがアスカの方が分は悪く、織姫はそれを突いたのだ。
「はん、どうせ大して変わらないくせによく言うわよ。だったらここで決着つけようじゃない。どっちがいい乳か…痛っ!?」
 ぽかっ。
 睨み合う二人の頭に揃って一撃が着弾し、
「喧嘩しないって言ったでしょ。シンジに聞かれたらこう言われるわよ――フェンリル以上なら誰でもいいよって。フェンリルさんを超える自信があるなら構わないけれど」
 しゅうしゅうと二人の闘気が萎んでいく。
 それを見たマリアは、入り口からワインをぶら下げて戻ってきた。
「シンジの部屋で見つけたんだけど、折角お風呂に入ってるんだし飲む?」
 娘達が同意したところで、
「さくら、その前にマユミをほどいてあげて」
 猿ぐつわは外されていたが、実に数時間ずっと縛られっぱなしだったのだ。
「あ、忘れてました。マユミごめんね」
「……」
 はいと言ってほどくだけでいいのに、と内心でツッコミを入れた者は数名おり、当のマユミもその一人だったのだが、解放された後逆襲するのは止めておいた。
「服を着てるのは私だけね。今カンナとレイを呼んでくるから、揃ったら乾杯しましょう」
 レイはすぐ来たが、カンナはハンカチをじっと見つめている所へ声を掛けられ、器用にも座ったまま十センチ以上もぴょんと飛び上がったから、そっとしておいた方がいいだろうと誘わなかった。
 浴場だから脱げと、尤もな理由でマリアとレイが脱がされ、全員風呂に入って飲み始めたのだが、十字架に目を付けたレイに当事者達が色々と突っ込まれて再燃しかかったり、アスカと織姫が勝負だと一気飲みを五回繰り返してダウンしたりと喧しく、結局翌日は揃ってダウンする事となった。
 マリアはさほど飲まなかったのだが、それでもダウンした。
 これには理由がある。
 盛り上がる住人達を余所に、ぼんやりと綺麗な月を見上げていたからだ。
(ねえ、シンジ)
 目を凝らすと月面で餅をついているウサギの姿が見え、顔だけ入れ替わったシンジにマリアは呼びかけた。
(どしたの)
(私が過去を話す時はね、ここを去る時だと思っていたの。私の過去は、ずっと持っていくつもりだったのよ…でもね、話しちゃった)
(ボンクラな反応はしなかったんでしょ。良かったじゃない)
(シンジのおかげよ…ありがとう、シンジ)
(ん)
(帰ってきたら、一緒に飲みましょう。嫌だって言ったら、本当は一滴も飲めないって皆に話しちゃうから)
 無言で語りかけている内に、成都での思い出が次々と蘇ってきたのだ。
 一杯のワインが、十杯分位に感じるほど酔いが濃い。
 多分、自分に酔っていたのかも知れない。
 そして、思い出と。
 こんな時って一度きりのあやまちを犯しやすいのね、とマリアはぼんやりした意識の中で何故かそんな気がした。
 それも多分、妙な酔いのせいだったろう。
 
 
 シンジには月で餅をつく余裕はなく、オーク巨樹の中で大苦戦を強いられていた。
 敵が妙にレベルアップしている上に、サリュの手を離せないから苦戦は当然の結末なのだ。一時的でも手を離せば楽になれるが、サリュが苦しむ可能性を考えれば、プライドに賭けても離すわけにはいかない。
 それでも何とか目的の半分以上を侵攻した時、不意に声がした。
「戻ってきたかサリュ――私を裏切った愛しい娘よ」
(あれって本体?)
 サリュが小さく頷いた。
「この間俺に眠らされた親玉だな。悪いがサリュはもらっていく」
「行く?来るではないのか?」
「…サリュはもらった。今から首切りに行ってやるからちょっと待ってろ」
「そうか、それは楽しみだ。では見せてもらうぞ、この私にどこまで抗えるのかをな」
 声と共に、それが聞こえてきた箇所にあった気配はすっと消えた。
「何でわざわざ出てきたん――」
 次の瞬間、シンジの全身は硬直した。
 手を繋ぎ、自らの力を送り込んでいた筈のサリュが喀血し、その服は胸元まで朱に染まっていたのである。
「サリュっ!」
 顔面を白蝋と見まごう色に変えたサリュが、ゆっくりと倒れ込んでいった。
 
 
 
 
 
(つづく)

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