妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百四十九話:古の末裔(参)――I'll be your sexy toy…I'll be your lover
 
 
 
 
 
「あんたの腕を少し改造しておこうと思ってね」
「そうですか」
 この世で唯一尊敬出来る存在と認める大魔道士に呼び出され、何の説明もないまま手術台に載せられた黒瓜堂は、その言葉を聞いても顔色一つ変えなかった。
「聖地へ?」
「そうさ」
 小柄だが、全身から凄まじい妖気を発している老婆は軽く頷いた。
「あんたはどう言っても聞きそうにないし、かと言って今のあんたじゃ連れて行っても単なる足手まといさ。あの龍皇相手に足手まといの人間などいては、流石の私も成功する可能性はまずない。だからあんたの片腕を、多少なりとも使い物にしてやろうというのさ――怖いかい」
「いいえ」
 黒瓜堂は軽く首を振った。
 この時、髪はまだ天に挑むようなスタイルにはなっていない。
「私が聖地で見つけてきた卵をあんたの腕に埋め込んでおく。いずれも大量に精を消費する物だが、精を補う物も入っているから干涸らびる事はない。せいぜい、足を引っ張らないようにしておくれ」
 後にN・Yで妖魔との戦いを終結させて息絶えた娘を生き返らせ、無機物から魔道士の人形娘を作り上げたガレーン・ヌーレンブルクにより、黒瓜堂の危険な主人が腕を創られた瞬間であった。
 彼女から見ればまだまだヒヨッコだが、そのヒヨッコが後に降魔大戦の鍵を世界中のある一点から見つけ出す事になろうとは、さすがの大魔道士も予想してはいなかった。
 無論、手術を受けた方がそんな事を夢にも思っていなかったのは、言うまでもない。
 
 
 その日、トウジは少々機嫌が悪かった。
 原因は分かっている、ケンスケと李紅蘭だ。
 何時の間にそこまで進んだのかは知らないが、久方ぶりに会った友人は女連れで、しかもちゃっかり腕まで組んでいる。
 茶店では特にいちゃつく素振りも見せなかったが、そこに漂う雰囲気がある一定ライン以上を超えた男女の仲を物語っていた。
 トウジが彼女をほしがっているとか、そう言う事ではない。
 あのテの雰囲気というのは、側にいるだけで気分が悪くなったりするものなのだ。
 ピキッと眉の上がったまま歩いていたトウジが見たのは、竹刀女達が何やら囲んで袋叩きにしている図であった。
 最初トウジは、手を出す気はなかった。
 どうせその辺のチャラチャラした奴が絡まれているのだろうと思ったし、竹刀を持っているとは言え、女如きに袋叩きなどとは男の風上にも置けない。
 だが蹲っているのが女と知った時、トウジの身体は勝手に動いていた。
 振り下ろそうとしていた竹刀を掴み、
「止めんかい」
 低い声で一喝したら、今度はこっちに向かってきた。
 少なくとも、トウジが気を許す友人の一人はこんな時、困ったねえと首を傾げながら女を黒こげにするタイプだ。
 そこまでは行かなくとも、この街で得物を持った女を相手にして躊躇するほど、トウジは間抜けではない。
 女を前にして躊躇するなら、シンジの友人などつとまらない。いや、それ以前にこの街で生きる資格はない。
 贈られた花束が突如凶暴な生き物と化して牙を剥き、呪詛を籠められた降り止まぬ雨が、不意に強烈な酸と化して身体を溶かすのがこの街なのだ。
 何よりも素手では無い上に抵抗してくれた事で、気の咎める部分も大幅に減るというものだ。
 八名あまりを手加減せずに叩きのめしたトウジだが、一瞬自分の目を疑った。
 蹲っていたのは可憐な美少女に非ず、自分よりよほど大柄な娘だったのだ。相当な武芸の訓練を積んでいると、漂う気配が伝えてくる。
(なんでこんな女が?)
 一瞬首を捻ったが、
「大丈夫かあんた」
「あ、ああ。ありがとうよ」
 助けられた娘――カンナは立ち上がろうとして、ぐらりと蹌踉めいた。
 倒れかかる寸前でぐっとトウジにおさえられ、
「肩貸したる」
「え?」
「肩貸す言うとんのや。さっさと掴まらんかい」
「お、おう」
 何故かドスの利いた声に慌てて掴まったカンナに、
「なかなかいい所あるんやな」
「え?」
「子猫無事だったんやろ」
(こ、子猫?)
 まさか自分が子猫と呼ばれた訳じゃあるまいし、一体何がどうなっているのかとカンナの脳内で数個の?マークが渦巻いた。
 
 シンジとサリュが浴場に送り込まれる少し前、ミサト達ご一行の姿は、シャルル・ド・ゴール国際空港にあった。
 誰かと腕を組んでいる弟など見たくないと、この地を発つ事にしたのだ。
 ここ最近の怪人騒ぎで、空港は入り口から厳戒態勢になっており、無論金属探知器も仕掛けられているが、例によってまたエリカは引っ掛からなかった。あれでもマシンガンを持っているのは間違いなく、一体何処に隠し持っているのか、こればかりはミサトの頭脳を以てしても皆目分からない。
「じゃ、あたしもう行くからね」
「ミサトさんお気を付けて」
 びっと敬礼した一郎に、
「あ、そうだ。アンタちょっと来なさい」
「はい?」
 歩み寄ってきた一郎の首をきゅっと絡め取る。
「ミ、ミサトさん何を!?」
「大神」
「はい」
「お前がどれほど私を想っても、私がそれに応える事は決して出来ない。想いなんてのが叶うのは、基本的に百人に一人いるかいないかだ。私だって、想いは結局通じなかった。分かるな」
「は、はい…」
 表情はいつも通りだが、その声は今まで一郎が聞いた事もないものであった。
「私が弟を諦めたのは、それが破倫になるからではない。決して届かぬ物と知ってしまったからだ。もう、お前も目を覚ましていい頃だ」
「で、ではミサトさんはっ」
 自分達を嬲ったりしたのは嫌わせる為、と思わず言いかけたのだが、
「あれは趣味だ」
「しゅ、趣味…」
 どちらが本当なのかは分からない。ただ加持ミサトと言う女性は、そのいずれも真実だと思わせる部分があるのは事実だ。
 ふっと一郎を放し、
「エリカ、花火来い」
「『は、はいっ』」
 不安げに見ていた娘達だが、不意に呼ばれて二人が慌ててやって来た。
「大神が、やっと目が覚めたらしい」
「え?」
「私などを想っても不毛だと気付いてな、遅まきながら想われ人達の方を見る気になったそうだ。そうだな、大神?」
「え、ええ…でも自分などは…」
「お前の意見は聞いてない。お前を必要かどうかはこいつらが決める。エリカ、花火、こんな男だがどうする?」
 何も言う前に、二人の目にじわっと涙が浮かんだ。
 何時かは自分達の方を見てくれるだろう、それだけが彼女達の支えだったのだ。無論彼女達とて馬鹿じゃないし、人形でもない。
 自分達の想い人が、自分達の及ばぬ女(ひと)を想っているのを目の当たりにするのは、プライドだって傷付くし、少なからず心を痛めていたのだ。
「お、大神さん本当…に?」
「…俺でいいのかい」
「大神さんじゃないと駄目なんですっ」
 きゅっとエリカが左腕を取ると、少し遅れて花火も抱き付いた。僅かな遅れは、戒律を制御するのに掛かった時間だろう。
「ふ、二人とも…」
「大神、結論は出たな」
「は、はい…」
 十秒ほどの空白があったが、それでも一郎は力強く頷いた。男として、向き合わねばならぬと思ったようだ。
「それから花火」
「はい?」
「グリシーヌとロベリアに言っておけ。いずれお前達も日本に来るだろうが、私の弟碇シンジにだけは死んでも喧嘩を売るなとな。売ってもいいが、灰燼に帰した遺体の破片だけが帰国する事になる」
「わ、分かりました」
 いつにない、どころか初めて目にするミサトの雰囲気に呑まれてしまい、そんな性格の持ち主なのかとか訊く余裕もなく、首を数度縦に大きく振った。
「それでいい」
 軽く頷いたミサトが、
「大神、よく決意したな。これは私からの褒美だ」
 反応する間もなく顔が捉えられ、頬で小さな音がしたかと思うと、あっという間に離れていた。
「あ…」
「元気でな」
 エリカと花火が異変に気付いたのは、ミサトの姿が消えてからであった。
「ミ、ミサトさん…」
 頬ではあったが、憧れの女性からの口づけに、一郎は首筋まで赤くなっている。
 すぐにびくっと腰が揺れた。
 エリカと花火がおもいきりつねったのである。
「大神さん、さっき言ったのは嘘だったんですかっ」
「ち、違うそんな事はない。あれは真実だ」
「それなら構いませんけれど、大神さんもう浮気などなさっては困りますわ。あなたはもう…わたくしの大切な人なのですから…ぽっ」
 ぽっ、と音を立てて赤くなるならまだ分かる。が、そうではなくて言葉の中にぽっと入っているのだ。
 それだけでも十分人外の理解不能な範疇だが、
「あーっ、花火さんずるいですっ。大神さんはあたしと結ばれるんですからっ」
 付き合いが長い仲間にとってはそれどころではなく、早くもしっかりと張り合っている。
 とそこへ、
「貴公ら、泣いたり笑ったり一体何をしているのだ。遠くから見てると喜劇にしか見えんぞ」
「ここで即席のお芝居やる必要はないんだからさあ」
 うぞうぞと他のメンバーがやって来たのだが、一郎がフリーになった事を知り、
「なんだ、なら問題ないな。隊長、すぐに挙式の用意をさせる」
「ちょっと待ってよ。一郎、ボクがもうちょっと大きくなるまで待っててくれるって言ったじゃないかあ」
「なんだなんだみっともない。大人の男には大人の女、さあアタシと一緒に帰ろう」
 忽ち収集が付かなくなった。
 そもそも、元から共有しようと思っていた訳ではない。
 大神一郎に目を付けたらもう、一郎はミサトしか眼中になくなってしまっており、これは致し方ないとやむなく共同戦線を張ったのだ。
 そのミサトが消え、一郎がフリーになった以上、もう団結する必要はなく、後は争奪戦になるのは当然の理屈であった。
 結局その騒ぎを収めたのは、ミサトが事態を予期して呼び寄せておいたメル・レゾンとシー・カプリスの二人であった。
 突如始まった男の取り合いが、メイド姿の娘二人によって終了させられ、しかも両側をメイド娘に固められて連れ出される姿は、別の意味で空港中の視線を集めたのだが、一番の犠牲者は一郎だったかも知れない。
 ミサトの雰囲気に呑まれて頷いてしまったばかりに、メイドさん二人に連行されるという、ある意味では夢の達成であり、ある意味では奇異そのものの事態になってしまったのだから。
「メルちゃんとシーちゃんが彼を連れて行ったわよ」
「そ」
 ミサトはもうそっちは見もせずに、缶コーヒーを傾けている。
「でも驚いたわ」
「何が」
「あなたにあんな一面があったなんて。やっぱりシンジ様の姉弟よね」
「あんた――馬鹿じゃないの」
 二本指でプルタブを器用に押し込みながら、ミサトは冷たい口調で言った。
「馬鹿?」
「さすがは碇財閥総帥のお孫さんだ、これなら次期総帥も間違いない。やはりフユノ様のお孫さんだ――あたしがそんなふうに“言われないで”ほっとした事が何度あると思ってるのよ」
「ご、ごめん…」
 口調に変化はないが、二本指の間で缶がくしゃりと潰され、ミサトはすっと立ち上がった。
「あんたを買いかぶってたみたいね」
 その一言が瞳を貫き、返す言葉もないまま、瞳はその場に立ち尽くした。
 
 
「何や、猫見つけたんやなかったんかい」
「誰も猫なんて言ってないだろ」
 トウジとカンナは近くの公園に来ていた。渡されたハンカチを水で濡らして患部に当てると、鈍痛がゆっくりと消えていく。
 トウジの話を聞いて、カンナは助けられた原因が子猫か何かを抱いているせいだと勘違いされた為らしいと知った。
 浦島太郎の主人公と思われたようだ。
「猫じゃなかったら、助けなかったんだろ。当然だよな、あたいみたいな奴はほっといたって自分で何とか出来るんだしよ」
「違う理由で助けんかったやろな」
「違う理由?」
「おまえがアホっつうことや」
「…どういう意味だよ」
 さすがにカンナの口調が尖ったが、トウジは気にもせず、
「さっきお前、一緒に住んでる仲間が泥棒を受け入れたのが許せんかった、そう言うたやろ」
「ああ、それがどうしたんだよ」
「お前、エヴァに乗るのやめとけや。その方が世の為やで。ええか、誰が作ったんかは知らんけど、手を入れたのはシンジや。勿論降魔相手が目的やけど、殺傷能力は数十倍に上がっとる筈やで。それともお前はエヴァ無しで降魔を片づけられるんかい」
「……」
「その顔は、さっぱり分からんちゅう顔やな。つまりやな、エヴァに乗ってたって苦戦する事もあるやろ」
「あ、ああ」
「武闘大会ちゃうんやから、降魔と戦うのは街の中や。シンジが指揮を執ってればまず大丈夫やけど、逃げ遅れたり物好きなアホが出てくるかもしれへん。空振りした一撃がそいつの首を落としてお前が人殺し呼ばわりされた時、お前はなんちゅうつもりや。これは正義の為の戦いだから人殺しやない、そう言うつもりなんかと訊いとるんや。降魔と戦うっちゅうのんはそういう事やで。きれい事で済まんのは、シンジが一番よう分かっとる。で、一番分かっとらんのはアホのお前だと言ったんや」
「あんた…大将の知り合いなのか?」
「大将?ああ、シンジやな。シンジとは前からの付き合いや。けどお前、別にシンジの事を好きやないんやろ。良かったやないか」
「?」
「お前がシンジを好きで、その上でこんなアホな理由で飛び出してみい、一生付き合いなんて出来へんで。まあ、シンジの事やさかい、お前の反応くらいは多分読んどったんやろうけどな」
「あんたは、泥棒とかに嫌悪感はないのかよ」
「ない」
 トウジの答えは即答であった。
「この街では、泥棒になるより人殺しになる可能性の方が高いんや。ええか、降魔や妖物に取り憑かれてたかて、人間を殺せば正当防衛でも人殺しや。法に問われないから人殺しちゃう訳やないで。それ位の事はわかるやろ」
 トウジはちらりとカンナを見た。
「お前もオレも、この街の住人や」
 カンナがはっと顔を上げた。
「ま、偉そうなこと言うたけど、要はそう言う事や。シンジは味方にするなら最上、敵に回したら最凶や。細かい事で目くじら立てんと、もっと全体で見た方が得やと思うけどな。あんたが機体をきっちり乗りこなせれば、それこそ無敵やろ。ほな、オレは帰るわ。ほれ」
「え?」
 ちょうどトウジが手を挙げて、タクシーを止めた所であった。
「歩くにはちと傷むやろ。またアホに襲われてもかなわんから、これに乗ってったらええわ」
「だ、大丈夫だろこれ位の傷なら…痛っ」
 勢いよく立ち上がったが、またすぐに蹌踉めいた。
「だから言うたやろが。いくらいい女でも、弱っとったらがた落ちや。素直に聞かんかい」
(い、いい女?)
 無理矢理タクシーに押し込まれたカンナが、
「あ、あたい金持ってねえよ。ちょっと待ってくれ今降り…な、何を」
「運ちゃん、女神館まで頼むわ。これで足りるやろ」
 千円札数枚を運転手に渡し、
「一回助けてその後襲われたら、オレがシンジに八つ裂きにされるわ。たまには素直に聞いときや。ほな」
 身体ごとドアが押し込まれ、車はすっと走り出した。
「まったく強引な奴だな…でも大将と性格は似てないんだな」
 ぽつりと呟いてから、
「あ、あたいハンカチ返してないじゃねえか。まあ、今度大将にでも頼んでおけばいいかな」
 シンジに頼む気でいたのだが、即座に却下される事になるとは、この時点で気付いていなかった。
 
 
「これっていわゆる富士の石ってやつでないの?」
 浴槽の壁が全部岩で出来ているのは女神館と一緒だが、材料は違う。同じ岩石でもこちらは富士山から頂戴してきた物――いわゆるご禁制の品の筈だ。
 しかも大型の岩石がふんだんに使ってある所からして、ここの主を良く表してはいるが尋常ではない。
 ただし、シンジの膝の上にいるサリュの方は、そんな事に興味はない。
 ちょこんと乗っかった姿勢から上体を曲げて、艶めかしく腕を巻き付けてきた。
「ねえ、シンジ」
「ん?」
「さっきさ、ここに来る途中カメラあったでしょ」
「うん」
「じゃあやっぱり、ここの様子も撮られちゃってるのよね。こう言うのとか」
 今度は向きを変えて正面から抱き付いてきた。
 柔らかい胸がふにゅっと潰れ、
「なんか、見られながらってイイと思わない?」
 得物を前にした首狩族みたいな視線を向けてきたが、
「旦那はそういう人じゃないよ。あれはダミーだ」
「ダミーって、偽物のこと?」
「そんな感じ。正確に言えば単なる飾りじゃなさそうだけどね。でも、碇シンジとその彼女なんて撮らないと思う。撮るならもっと違うモンだ」
 例えばメイド姿とか、とは口が裂けても言えない。
 ただ、シンジは通路へ等間隔に設置された監視カメラの用途に気付いていた。
 撮(と)る為ではない――殺(と)るためだ。
 犠牲者がいたのかどうかは分からないが、レンズの上部に小さな穴が開いており、ほぼ間違いなく何かの発射口だ。
 小型の針なのか、あるいはレーザーの類なのか、いずれにしても証拠など殺さず始末出来る物に違いない。
(全部で幾つぐらい仕掛けがあるんだろ?)
 いいなあ、とぼんやり思った時、サリュの様子がおかしいのに気付いた。
 目許を染めて、潤んだ瞳でこっちを見上げている。
 女だけが感じる媚薬でも湯に混入してあったかと思ったが、そうでもなさそうだ。
「ど、どうしたの?」
「シンジ今…」
「今?」
「今なんて言ったの」
「いや、だからあのカメラは映してないけど、単なる飾りでもないって」
「その後」
「その後?…あ」
 どうやら、スイッチを入れたのは自分だったらしい。
「忘れちゃった」
「忘れた?うそ、ちゃんと覚えてるでしょ。シンジもう一回言って」
「やだ」
「なんで!」
「サリュ聞いてたでしょ。もう良いじゃない」
「いや。お願いシンジ…ちゃんと言って欲しいの」
 いつの間にか濡れたような瞳は消え、違う意味で半分泣きそうな顔になっている。
「シンジどうしても…だめなの?」
 サリュの口調に、まるで最期のお願いにも似た物を感じ取り、そう言うのじゃなかったらねと言いかけたら、
「じゃあ、私も言ったら言ってくれる?」
「私も?」
「私がシンジの事どう思ってるのか…ちゃんと言ってなかったから」
 ふむ、とシンジは一瞬考え込んだ。
 これが日本人なら面白くもないが、この娘が何というかは少し興味がある。
「いいよ」
 頷いたシンジに、
「約束だからね」
「うん」
 すうっと息を吸い込んだサリュが、シンジの耳元に口を寄せる。
「Shinji,I'll be your sexy toy,I'll be your lover」
 囁かれたシンジが、ワンテンポ置いて思わず吹きだした。
「サ、サリュ…」
「これが私の気持ちよ」
「ん…」
 後半は嬉しいが、前半は微妙である。
 ちょっと首を捻ったが、すぐにシンジの手が動いた。
 サリュの顔をそっと引き寄せて、耳元で何やら囁く。
「シンジ…」
 わき上がった涙を隠そうともせず、サリュがシンジにきゅっと抱き付き、二人はそのまま倒れ込んだ。
 ただし――ここは浴場内の床ではなく湯船である。
 二十分後、風呂から出てきた二人を黒瓜堂は妙な視線で出迎えた。
「上がった?」
「はい」
 ちらりと二人を見やった後、徐に受話器を取り上げた。
「風呂の施行業者をすぐ呼んで。そうだ、指詰めさ――」
 最後まで続かなかったのは、シンジが咄嗟に受話器に飛びついたからだ。
「旦那一体何を」
「シンジ君」    
「な、何」
「うちの浴槽は基本的に、誰かが溺れたり泣きながら上がってきたりするようには出来ていません。なのにそうなったと言う事は、浴場の床に人面瘡でも仕込んであったのでしょう。業者にはきっちりケジメを取らせます」
 さすがのシンジも、この台詞には度肝を抜かれた。
 シンジは外耳道に侵入した湯を出すのに顔を傾けていたし、サリュの泣き顔は感極まった事よりも、シンジが溺れかけた事の方に比重がある。
 確かに溺れでもしたような風情ではあったが、無論床などに人面瘡はない。抱き付いて倒れ込んだ後、シンジが思い切り湯を飲んだ事に、すぐには気付かなかったのだ。
 サリュはどうやら、水中でも呼吸が出来る存在らしい。
 風呂にはまったく問題がなかったし、何よりも目の前の男はやると言ったらやるタイプであり、虚仮威しとは縁がない種類の人間だ。
「ち、違うの旦那これはその…」
「サリュ」
 不意に黒瓜堂が穏やかな声で呼んだ。
「は、はい?」
「優しい男を想い人に持って君も幸せだな。だが業者のミスは放っておけません。さ、シンジ君電話を」
 受話器がそっと取り上げられた途端、思わずサリュは叫んでいた。
「く、黒瓜堂さんっ」
「何か」
「わ、私なんです…そ、そのシンジを溺れさせちゃって…」
「冷たい想い人に殺意を?」
「そ、そんなんじゃなくてその…抱き付いちゃって…」
「ほほ〜」
 抱き付かれて溺れる理由が分からんぞ、とシンジを見た視線は言っており、
「いやまあその、起きあがり方を忘れちゃって」
「起きあがりこぼしに弟子入りでもする事だ」
「そ、そうします」
「今度紹介状を書いておこう。でもこれで彼女も、まだ冷たい東京湾に沈まなくて済んだというものです」
「か、彼女?」
「ここの工事を請け負った事務所の所長は女性でしたよ」
(や、やっぱりマジ?)
 ころっと表情を変えると、
「さて、表に車を待たせてあります。私は先に行って待ってますから、用意が出来たらいらっしゃい」
 逆立った髪を揺らしながら出ていった。
 シンジ達が巴里へ――運命の地へと旅だったのは、それから二時間後の事である。
 
 
 
 
 
(つづく)

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