妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百四十八話:古の末裔(弐)――危険な想われ人達
 
 
 
 
 
「お連れしました」
 ソファで軽く腕を組んだまま座っていた黒瓜堂は、祐子の声に立ち上がった。
 気配をまったく感じさせずに入ってきたのは、戸山町の若き当主とその妹である。
「夜香殿、麗香殿、無理を言って申し訳ない」
「いえ、構いません。そろそろ頃合いかと思っていたところです」
 妙な事を口にした夜香は、優雅に首を振った。
 二人に席を勧めてから、
「麗香殿、早速だがお願いします」
「分かりました」
 すっと立ち上がった麗香が、祐子の後に続いて出て行ってから、
「それで?」
 と訊いたのは夜香であった。
「ん?」
「麗香をあえて外したでしょう。あの娘さんの事ですか」
 黒瓜堂が妹を呼ぶ前、一瞬何か言いかけたのを見逃す夜香ではなかった。
「夜香殿は、シンジの相手はどんな女だと思われる?」
「難しい所でしょう。力無き者ではとかく足手まといになる。かといって力を有した者は碇さんの望むところではない」
「なるほどね。取りあえず、冷めない内にどうぞ」
 勧められて、紅茶の入ったカップを持ち上げて一口飲んだ。カップに触れた指先から飲む仕草まで、その全てが美しい。
「夜香殿の言われるとおり、シンジの相手などそうそういるものではありません。ある種の条件を満たせばいいなら、シビウ病院の院長か魔界の女王でも構わない。尤も、私に言わせれば夜香殿の妹君の方がお似合いですが」
「妹が喜びましょう」
 ほんの少しだけ夜香の口許が緩んだ。
「現時点ではっきりしているのは、碇シンジが愛するのに最も適しているのは、間違いなくあの娘サリュだという事です。あの娘と添い遂げれば、文字通り世界すら滅ぼす力も手に入れるでしょう。あの娘が精をエネルギーとする存在であり、またシンジが莫大な精の持ち主である以上、これは動かぬ事実です」
「……」
「だがそれともう一つ、あの娘は決してシンジと結ばれる事はない、これも現実です。うちのコンピューターは、あの娘をオーク巨樹から切り離す方法はないと、はっきり結論を出していますから」
「ここのコンピューターがそう結論を出したなら間違いないでしょう。でも黒瓜堂殿、一人では少々不安があったのでしょう」
「不安?」
「そう。だから私と麗香を呼び出した」
 にっと笑ってから、黒瓜堂は首を振った。
「夜香殿も時には読みが外れると見える。ガレーン殿にもらったのは、ほうれん草を食べると太くなる腕ではありませんよ」
「では、まさか一人で碇さんを?」
「最初からそのつもりです。それより夜香殿、最初から共犯を承知で?」
 夜香の反応(リアクション)には数秒を要した。
「そうです。だが少し違う」
 美しき吸血鬼の双眸に紅の光が点った。
「私は見てみたいのです――碇さんの…五精使いの持つ本当の力を。普段十分の一程度に抑えているそんな力ではなく、理性という戒めの鎖を失ったシンジさんの実力を」
「麗香殿も?」
「ええ」
「困ったお人だ」
 黒瓜堂の笑みは変わらぬまま、
「想われ人がこんなに危ない兄妹とは、シンジも想像していないでしょう。とはいえ、こうでないとうちの商売もあがったりでね」
「もう完成を?」
「完成です」
 ゆっくりと頷いた。
「言ったでしょう。数時間とは言え、陽光の下を歩ける吸血鬼を作ってみせると」
 懐から取り出した小瓶を夜香の前に置いた。
「私はシンジの両親から、シンジを悪の道に引っ張るよう頼まれました。シンジもあれでだいぶ成長しましたよ」
 この場合の成長とは、無論悪の方面だ。
「今回夜香殿を呼んだのはその褒美です」
「褒美?」
「ええ。それと麗香殿には少しの間付いていてもらう事になるでしょう」
「フェンリル殿は」
「私が封じます」
 事も無げに言ってから、
「あ、それからその薬は三時間限定なので、絶対にオーバーしないで下さい」
 頷いた夜香に、
「それと、言いにくいんですがまだ人体実験はしてないんです。あいにく被検体がうちにはいないもので」
 要するに、未承認の薬をいきなり使うようなものだが、夜香の表情に変化はない。
「構いません。黒瓜堂の名に於いて受けた依頼で、ミスは一回もないと聞いています」
 何事にも動じないないのは元から備わった素質なのだが、ここまで泰然自若に構えられると却ってこっちが不安になってくる。
(これが一号にならなきゃいいが…)
 ふっと浮かんだ不吉な考えを慌てて嚥下した。
 
 
 
 
 
 二人きりになると、どちらからともなく手を回して抱き合い、唇を重ねた。
 知り合って一月にもならないが、相手の身体は隅々まで知り尽くしている。
 勿論、感じやすい所も全部。
 物足りなさげに二人の唇が離れ、その間を繋いだ透明な糸をサリュがそっと絡め取った。
 お互いを見つめる瞳には、相手の顔しか映っていない。
 当然と言えば当然なのだが、シンジの場合は珍しいのだ。元から身体を重ねる相手は限られている上に、今ではシンジが受けに回る事は零に等しい。
 つまり――妙な言い方をすればシビウに開発されたおかげで――愛撫には長けているし、一方的に終わったりする事はないのだが、想いが通い合いようなそれではない。
 そう、サリュとのこれが初めてなのだ。その意味では、いわば初体験である。
 何も言わず数十秒見つめ合ってから、
「ねえシンジ」
「何?」
「本当は、私をきゅっと抱き締めながら射精(だ)して欲しかったけど…よく考えたらそれっていや」
「いや?」
「黒瓜堂さんは、私がシンジの側にいた方が安全だから、一緒に連れて行くように言ったんでしょう」
「うん」
「だからね、今はいいの。私はシンジを信じてるから。きっと、きっと私の存在を解き放ってくれるって」
「サリュ…」
「約束だからね」
「分かった」
 ゆっくりと、力強くシンジが頷く。
 ただし、二人とも既に全裸だからあまり雰囲気はない。
 と、何を思ったかサリュが急に赤くなった。
「どしたの?」
「あのねシンジ…そ、その…」
 首筋まで赤くして、
「帰ったら…た、沢山なかに出してっ」
 言ってから恥ずかしくなったのか、きゅっとシンジに抱きついたが…離された。
「シ、シンジ?」
「悪いけど止めて」
「シンジ…」
 怒らせてしまったかと、すうっと情欲の色が消えていく。
「今その顔で甘い声出されたら理性飛ぶから。ちょっと待って」
「シンジ…」
 思いも寄らぬ言葉に、顔中を幸せという名の甘い液に浸したような顔になったが、抱き付くのは何とか踏みとどまった。
 大きく数回深呼吸してから、
「もう大丈夫」
「いい?」
「うん」
 頷くと同時にぎゅっとシンジに抱き付いた。サリュから漂ってくる甘い匂いがシンジを妖しく呪縛するが、どうにか理性が勝った。
 膝の上で抱え上げ、くるっと回転させて座らせる。
 自分には背中を向ける姿勢になったサリュの肩口から腕を回し、耳元へはふうっと息を吹きかけた。
 その瞬間にびくっと身体を震わせたサリュが、漏れ出る声を抑えて唇を噛んだところへ、
「声出していいのに」
 妙に甘い声で囁かれ、
「ふああっ!」
 愛らしい声は少し押されたようなもので、
「もう…シンジのいじわる…」
 キッとシンジを睨んだが、それだって端から見れば甘えて、何やらおねだりでもしているようにしか見えない。
「ごめんね」
 こんなシンジをシビウが見たらどうなるかなど、想像したくもない光景ではあるが、
「じゃ、キスして」
「どこに?」
「ん」
 サリュが指したのは唇ではなく、首筋であった。
 頷いたシンジが首筋に唇を押しつけて吸う。うっとりと目を閉じるサリュの表情が恍惚のそれと変わり、うっすらと目許が染まってきた頃シンジは顔を離した。
「きっと痕になるわこれ」
 愛しそうに唇が吸った箇所に触れながら、
「今度はこっちがいい」
 よいしょと向きを変えると、自分の胸元を指した。
「いいでしょシンジ」
 うるうると潤んだ瞳は、本人にはその気も自覚もないのだが、この表情で頼まれると内容が何であれ断るのは至難である。
 少なくとも、今のシンジでは。
 乳輪の上にくっきりと残った鬱血の痕を見て、
「これを見るとね、シンジの物になったんだなって思うの。だから、さっきの首はちょっと失敗しちゃった」
「見えないから?」
「うん。首がにゅうっと伸びて自分の首が見えたりしないもの。シンジ、もっとあちこちにシンジの痕を付けて。私をシンジの物にしてほしいの」
 独占欲ではない。
 いずれはそれも生まれるかも知れないが、現時点のサリュにはそこまでの余裕がないことくらいシンジも分かっている。
 不安なのだ。
 確かに黒瓜堂の主人はサリュの同行を勧めたが、それはその方が効果があると読んだに過ぎず、絶対勝てるとは言っていないのだ。
 甘えは不安の裏返し――シンジはサリュをぎゅっと抱き締めた。
 頷いて反対側の胸に口を寄せたシンジだったが、
「あの、シンジ出来れば手も…」
「手?」
 妙な事を言うと思ったら、
「さっきの吐息で…マンコ疼いてきちゃった。もうぐしょぐしょなの」
 サリュに任せた手は股間に導かれ、軽く当てただけでシンジの手はねっとりとした愛液で濡れた。
「ほんとだ。ほら、触っただけでこんなになってる」
 二本の指を拡げて粘つく液を見せると、サリュはかーっと赤くなってふるふると首を振った。
 もう一度手を秘所に戻し、赤く染まった耳朶を軽くかぷっと噛んでみる。
「ふにゃあっ!」
 鼻に掛かったような喘ぎが洩れた途端、秘所からはまたこぷっと愛液が流れ出してきた。
 
 
 マユミがキャッツアイを訪れた翌日の夕方、いつもより少し早く食堂へ呼ばれた住人達は、結界をあっさりと抜けてやって来た泪に驚き、更に出てきた料理で二度驚かされた。
「こ、この味って…」
 マユミはふふと笑い、
「碇さんが作った物に近いでしょ。同じ事してるのに私とは大違い」
「え?」
「碇さんからね、お料理のレシピ集は行く前にもらっていたの。この通りに作れば大抵大丈夫だからって。それと…駄目だった時の連絡先も」
「それが…あなたですの?」
 ええ、と瞳は軽く頷き、
「シンジ様から発たれる前にご連絡があって、多分電話があるからと」
 シンジ様。
 その単語に住人達の数名が反応した。
 泪にしてみれば雇用関係でそう呼んでいるに過ぎず、別に愛人でも玩具でもないのだが住人達に取っては違う。
 マユミの料理が下手だから失敗した訳ではない。それを普段食べている物に近づけたというのは、少なくとも自分たちよりはずっとシンジに近いことは間違いない。
 おまけにシンジ様と来た。
 しかもどう見たってミサトか、それ以上のグラマーな肢体だし、内心穏やかでない部分もあったのだが、それに気付かない泪ではない。
「大丈夫よ。あなた達が心配するような関係ではないわ」
 婉然と笑った。
 視線を向けられたさくらが赤くなり、
「べ、別にあたしはその、何も…ね、ねえすみれ」
「そ、そうですわよ。わたくし達は何も心配なんて…で、でもどういうお知り合いですの?」
「捕縛されたの」
「『ほ、捕縛?』」
「そう」
 泪は頷き、
「もうだいぶ前になるけれど、絵ばかり専門に狙う怪盗がいたでしょう」
「絵ばかり?」
 首を捻ったアスカが、
「そう言えば確か…赤い猫の顔がトレードマークの…なんかほら、いたじゃない。えーと…思い出した確かキャッツアイよキャッツアイ。それで、それがどうしたの?」
「これがうちのお店の名刺」
 はいこれ、と渡されたそこにはキャッツアイと書かれており、ご丁寧に猫の顔までついている。
「えーとキャッツアイ…赤い猫…え?」
 まさか、と言う表情を住人達が見せた次の瞬間、泪の手が光速の動きを見せ、何かが空を切ったかと思うとテーブルに一枚のカードが刺さっていた。
「来生泪・瞳・愛。私達がキャッツアイよ。シンジ様に捕縛されて、御前様のボディーガードになったの。怪盗はお嫌いかしら?」
 ぞくりとするような声で囁かれ、室内はしんと静まりかえった。
 
   
「わ、分かったから旦那首絞めないでってば」
「何が分かったんですか。たっぷり時間はあったのに、何もしなかったとはどういう了見だ」
「ち、違うの。だからほら、旦那を信用してるから――くえっ」
 じゃれてただけで何もしなかった、と白状したシンジは現在、文字通り締めあげられている最中だ。
 ぼてっと床に落とされたシンジが、
「だってサリュも帰ってからがいいって言ってたし」
 帰れないんですよ、よっぽどそう言おうかと思ったが止めた。
 シンジが絞首刑の憂き目に遭いかけているのも止めず、我が身を抱くようにしてうっとりと想い人を見つめているサリュを見ると、さすがにそれは言えなかった。
「まあいいでしょう。それで信用がなんですって?」
「うん。もしも万一の事があった場合、俺が側にいた方がいいんでしょ」
「ええ」
「だからさ、サリュは手元に置いといて俺が直接守っておこうと思ったの。どこに置いても完全隔離は出来ないって、旦那が言ったのなら間違いはない。その上でサリュにもしもの事があれば、俺がボンクラだったって事さ」
「あんな事言ってますけど」
「…はい?」
 急性うっとり病に罹ったサリュがやっと戻ってきた。
「シンジがボンクラだった場合、君は消滅する事になるが」
「構いません」
 あっさり言い切ったサリュはくすっと笑って、
「シンジがあなたを信じているように、私もシンジを信じています。あなたを信用したからこそ、シンジは私を巴里へ連れて行く。私もシンジを信じたから、身も心も任せたのです」
「身も心も全部?」
「ええ、全部」
(この揺るぎない愛は一体どこから来るんだか)
 二人を逆さまにして振ってみたくなったが、
「分かりました。既にウチの若いモンを向こうに行かせてあります。私はちょっと出てきますから、あと一時間くらいしたら出立しますよ」
 揃って頷いた二人に、
「向こうまでの直行便を手配してあります。それからシンジ」
「はい?」
「キャッツアイに連絡が行ったようです」
「あ、行ったんだ。やっぱり山岸には無理だったか」
「予定通り?」
「だいたい。でも、他の誰かに嫌味言われたからとかそんなんじゃなくて。ただ山岸が生真面目なんだ」
「どうして分かるんです」
「ウチにそう言う娘(こ)はいないから」
「信頼、と言うより性格分析に近いですな。それで誰が?」
「泪に頼んである」
「末娘ではなくて?」
「前にレイが紅葉と喧嘩した時に、余計な事口走って悪化させたんだ。それに泪の方がいい――正体を知って反発するようなら、二度と俺の部屋なんか入れないの」
 僅かに黒瓜堂が笑った。反発しない、ではなく自分の部屋にやってくるような娘なら意図を読む筈――シンジの言葉の裏を読みとったのだ。
「では私はこれで」
 出て行きかけてから、
「そうそう、飛行機の中で不衛生な菌を撒かれても困ります。地下一階に浴場があるから湯浴みしておきなさい。ただし、水道代と電気代が勿体ないから、二人で一緒に入る事。いいですね」
 こくっと頷いた二人を後にして、黒瓜堂の主人は扉を閉めた。
 ただし、
「仕草まで完璧にシンクロしてる。おそらく前世は禁断の関係にあった母子か、乃至は兄妹だったに違いないな」
 と呟いたのは二人には聞こえなかった。
 なぜ禁断にこだわるのかは不明だが、おそらく店の商売柄だろう。
 無論、本人の性格も関係しているのは間違いない。
 
 
「べ、別に嫌って言う事はないですけど…」
「けれど?」
「で、でもあの、どうして御前様のボディガードに?」
「日中は黒服のボディガードが付いているけれど、夜間はそうも行かないでしょう。それに御前様は本来、護衛される事を望んでおられないの。だから陰ながらお守りするようにと」
「あのそうじゃなくて、どうしてっていうか…やっぱり警察に引き渡すとか言われたんですか?」
「違うわ。それにそんな事は、間違ってもシンジ様の前で口にして駄目よ」
「どうしてですの?」
「あの方はそんな低俗な脅迫など、間違ってもされないわ。警察の要請で動いて、捕らえた私達に引き渡さない代わりに何かをしろなどと迫る方だと思う?」
 すみれは即座に首を振った。
 もしもシンジにそんな事を訊いたら、やっぱりお前とは一生分かり合えそうにないと縁を切られてしまう可能性が高い。
「確かにね、最初は脅迫に似た部分もあったわ。でもそれは私達を警察に渡すとか、そんなレベルではないわ。ただ、私達が今でもお仕えしているのは、この方ならばと思ったからよ。警察へ引き渡すと脅された位で、それを避ける為だけに誰かに仕える程、キャッツアイは安くないわ」
「そ、そうですよねすみません。でも御前様の護衛って言うくらいだから、武術とかもできるんでしょう?」
「出来ないことはないけど、下の二人の方が腕は立つわ。私はもう元現役って所ね」
「そうなんですか」
(同じ事考えてる)
 とりあえず敵ではない、と知った娘達が何を考えているか、マユミには手に取るように伝わってきた。
 これを機に、シンジのことを色々と教えてもらおうと言うのだ。
 実際の所、シンジに関してはよく分からない部分が多い。目に見える部分はある程度分かるが、目に見えない所、例えばメンタル的な部分ではさっぱり分からない。
 元から掴み所の少ない男ではあるが、ちょうど良い機会だからあれこれ訊きたいに違いない。
(でもこの分なら…)
 マユミがほっとしかけた時、烽火は思わぬ所から上がった。
「ちょっと待てよ。あんたら、要するに泥棒だったんだろ。それがそのまま、何食わぬ顔して大手振って歩いているのかよ」
 声の主に視線が集まった時、箸がぴたりと止まっているのに気が付いた。
「カンナさん、あなた泪さんが気に入らないとおっしゃるの」
「気に入るとか入らないとか、そう言う事じゃねえだろ。あたいは別にマユミの作った物に文句は言ってねえし、おめえらだってそうだろう。それをなんでわざわざ泥棒に作ってもらわなきゃならねえんだよ」
(アイリスだめだよ)
 ピクッと眉の上がったアイリスの手を、横に座っていたレニが抑えた。
 カンナがシンジに返り討ちされた事は、マリアと見ていたレイを除けば、レニだけが知っている。
 どうして同じ轍をとは思うが、だからと言ってアイリスを開放する訳にはいかない。
 放っておいたら、椅子ごと持ち上げて壁に叩き付けるくらいはやりかねない。それの是非はともかく、今はシンジがいないのだ。
「あのさあカンナ」
「あ?」
「確かに泥棒かも知れないけど、別に殺人者じゃないのよ?」
 口調は変わらないが、表情には少し呆れた色を浮かべてアスカが言った。
「それがどうしたんだよ」
「シンジは何もしなかった、だけじゃなくて御前様の護衛まで任せてるの。信用も出来ず実力も分からない女に祖母の護衛をさせると思うの?」
「で、でもだからってやった事が消える訳じゃないだろ。だいたいな――」
「カンナ」
 なおも言い募るカンナを静かな声で制したのはマリアであった。
「それはつまり、私と一つ屋根の下でなど暮らせない、とそう言うことなのね」
「な、何でだよ」
「言ったはずよ。生きるためとは言え、私は幾人も人を殺して来ている。紅に染まった手は、泪さん達とは比較にならないわ。泥棒は拒んで殺人者は受け入れる、などと言う気はないわよね」
「ま、待てよマリア、あたいは何もおめえにそんな事…」
「だったら黙っていらっしゃいな」
 冷たく言い放ったのはすみれである。
 ただこの不機嫌は、幾分マリアの方に原因がある。マリアが悪い訳ではないが、自分の想い人が自分よりマリアに近いことを、何となく感じ取っていたのだ。
「どうせ深く考えもせずに口が先に動いたのでしょう…な、なんですの」
 カンナがつかつかと歩み寄ってきたのだ。
 一瞬すみれは身構えたが、すみれの後ろはすっと素通りして泪の間に立った。
「一つ教えてくれよ」
「何かしら?」
「確かにマリアの言うとおり、それだけ見れば泥棒より人殺しの方が大きいだろうよ。けどよ、マリアは好きで殺してきたわけじゃねえ。少なくとも、何にも不自由ない生活を送ってきた奴が趣味で殺したんじゃねえんだ。あんたがもしそうなら謝るよ。教えてくれ、あんたは生活に追われてやむなく泥棒やってたのか?」
「違うわ」
 泪は即座に首を振った。
「私達は喫茶店を経営していたし、少なくとも困窮するような事は一切なかったわ」
「そうかい。よく分かったよ」
 カンナの顔から表情が消えた。
 ガタッと数人は身構えたのだが、カンナは手を上げるでもなくそのまま身を翻した。
「分かったよ。どうせおめえらは、大将に言われればホイホイ頷くんだろうが。泥棒でも何でもよろしくやってろよ」
 さすがに蹴り飛ばしはしなかったが、ドアは威勢のいい音を立てて閉まった。
 閉じられたドアを見ながら、
「いいの?追いかけなくても」
「あたしはいい。おやつ抜きになりたくないもん」
「お、おやつ?」
 さすがに怪訝な表情で訊いた泪に、
「シンジがあなたに連絡した時、元キャッツアイだった事話すなって言わなかったんでしょう?」
「言われてないわ」
「シンジは元から、あたし達に取り憑かれたら一般人でも…最悪の場合には、自分でも斬る用意はしておけって言ってたの。人でも斬れって言われてるあたし達が、元泥棒だからって言ってはねつけたりしたら、シンジに嗤われるだけだもの。何よりも、それ聞いた日から一週間くらいおやつ抜きかもしれない。それだけは絶対にイヤ」
「おやつって…そんな事でいいの?」
「いいんです」
 アスカは頷いた。普段から初対面の相手でも――年齢問わず――普通に話しかけるアスカだが、泪相手には幾分固い。
 これからの付き合いもあるしと、一応考えているのかも知れない。
「おやつもそうだけどあたしは――」
 アスカが言いかけたところへ、
「まあ、わたくしは碇さんを信じていますもの。それに怪盗であったとしても、それが災いをもたらす存在ならば、御前様の護衛に任じたり、ましてわたくし達の所へ来させたりはされませんわよ。それで十分ではなくて?」
 ムカッ。
(あたしが言おうとしてた台詞を〜)
 横から持って行かれて面白い訳はなく、
「じゃ、あんたは素直にシンジを信じてなさい。あたしは物欲に走るから、あんたの分もおやつもらったげるわ」
「じょっ、冗談はおやめなさい。どうしてわたくしが、あなたなんかに碇さんのおやつを譲らなくてはならないんですの。寝言はベッドの中だけになさいな」
「よく言うわよ。あんたこそ、あたしのとなりでもぞもぞ動きながら喘ぐの止めなさいよ。どうせエッチな妄想でも夢に見て喘いでるんでしょっ」
「その言葉そっくりお返ししますわ。昨日の晩なんかあなたが…もご」
「そこまでになさい」
 すっと手を伸ばしてすみれの口をおさえたのは、無論泪だ。
「二人がシンジ様を想ってるのはよく分かったから。ところで、シンジのベッドってどういう事かしら?シンジ様は一緒じゃないようだけど」
 途端に二人の顔が揃って赤くなった。
 しかも反応は二人だけには留まらない。
(つまり、シンジ様の寝室を不法占拠してるって事ね)
 さすがにそれは口にせず、
「それはあなた達のことだから、私の口を出す所ではないわ。とりあえず、シンジ様から連絡があるまで、夕食はお世話させてもらうから」
「『よろしくお願いします』」
 一斉に頭を下げた娘達に、
「マユミさんは純粋だから、あまり大上段にはなれないものね。それとマリアさん」
「私ですか」
「ええ。さっき出ていった桐島さんの事はお願いね」
「分かりました。あの、もう全員の名前を?」
「当然でしょう?」
 初歩だと言わんばかりの口調で言ってのけると、泪はうっすらと微笑した。
 成熟した大人の笑みに、誰もがつい見とれてしまう。
 皆が我に返ったのは、
「じゃあ、今日はこの辺で失礼するわね」
 と、泪が席を立ってからであった。
 
 それから二十分程経った頃、飛び出したカンナはピンチに陥っていた。
 自分でもすみれやアスカの言う事が正論だとは分かっている。
 詳しい事情は知らないが、私利私欲のためだけに民家に押し入るような連中なら、シンジが使う筈もないし、それを捕まえて断罪するような筋ではない事も分かっている。
 ただ、そこまで割り切れていない自分が、咄嗟に顔を出してしまったのだ。
 それがこの様だ。
 長身の女がふらふらと歩いていて、いきなり誰かにぶつかった。
 悪いな、と謝ったが、いきなり何やら喚きながら竹刀を打ち込んできた。その辺の不良ならさっさと叩きのめすのだが、相手が女と知って手加減したのが悪かった。
 代わる代わる竹刀を打ち込まれ、さすがのカンナもダウン寸前であった。精神の動揺がそのまま動きに出てしまい、思うようにかわせないのだ。
「痛っ!」
 強烈な一撃が足首を襲い、思わずカンナが体勢を崩したところへ、
「天誅!」
 大上段に振りかぶられた竹刀は二本、もはやこれまでかと目を閉じたのだが、いつまで経っても一撃は来ず、その代わりに鈍い音がした。
(?)
「ガキが竹刀振り回して何しとんねん」
 そっと目を開けたカンナが見たのは、竹刀を振りかぶった姿勢のままぶっ倒れた小娘二人であった。
 
 
 
 
 
(つづく)

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