妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百四十六話:大神さん…お恨みいたします
 
 
 
 
 
 マユミの白い肌をマリアの手が這う度に、マユミの肩がぴくっと震える。
 洗っていると分かっているのだが、時々タオルから外れる指が身体に触れると、性感帯でも無いのに反応してしまう。
「マユミの肌は敏感なのね」
 耳元へ吐息と共に囁かれ、その全身がびくっと震えた。
「マ、マリアさんっ」
「冗談よ」
 うっすらと笑ってから、
「シンジでしょう」
「わ、分かってたんですか…」
「さくらなら分かっても、恋敵(ライバル)が増えた程度の認識しかないでしょうね」
「マリアさん…」
 俯いて肩を震わせるマユミに、
「ほら泣かないの。可愛い顔が台無しよ。もう少しで洗い終わるからじっとしていて」
「は、はい…」
 姉のような口調で言われ、マユミはぎゅっと涙を拭った。
 碇シンジが出立してから二週間になろうとしている。
 初日に仲間達の談合を見て以来、少しでも追いつこうと毎日努力してはいるのだが、今のマユミは完全に行き詰まっていた。
 マユミの様子が変だと最初に気付いたのはさくらだが、ここの住人達は他人の事に干渉するのに慣れておらず、さくらも例外ではなかった。マユミの方もあまり言いたい事ではないし、結局大げんかになってしまい、昨日から口も利かず目も合わせていない。
 他の娘達もなんとか宥めようとはするものの、マユミが原因を言わないから手の打ちようがない。
 仕方がないからマリアが腰を上げた。
 マリアの場合、碇シンジならどうするかでいつも住人達を見ている。少々自我は足りない気もするが、シンジのやり方でここが落ち着いたのは事実だし、自分にそれ以上の自信は無い。
 その観点で見ると、実にあっさりしているのだ。体調面や成績面に問題は無さそうだし、実家から召還命令が出たわけでもない。
 ならば結論は一つ、シンジだ。
 それも本体ではなく任された料理の事だろう。
 夜中、台所で一人あれこれと苦戦している姿をマリアは数回見ているのだ。
 肩まで湯に浸かったマユミに、
「シンジに追いつくのは多分難しいと思うの。あまり無理はしない方がいいと思うわ」
「嫌です」
「え?」
「だってみんな…私に気を遣って何も言わないようにしようって…」
「知っていたの…」
「だってレイちゃんがすみれさんにあんな事言うなんて、おかしいって気付かない方が変です。だから…だから少しでも碇さんみたいにしたいって…」
「無理ね」
 マリアの言葉は冷たいものであった。
 自分の努力を否定され、キッと顔を上げたマユミに、
「マユミ、レイがそんなにいい子だと思ってるの?」
「い、いい子?」
「そう。マユミにすれば同情だと思うかもしれないけど、単純にマユミの事だけ考えたわけじゃないわ。私の言ってる事が分かる?」
 マユミは首を振った。
「さくら達がシンジの事を好きなのは知っているでしょう」
「はい」
「自分の代わりに娘共の料理よろしく、本当はそう言われたいじゃない。でもさくら達は言われなかった。そしてその事に何も反応していない」
「あっ…」
 小さく声を上げたマユミに、
「分かったみたいね。レイの言葉は勿論、みんなの反応も自分には無理って分かっていたからよ。それに、マユミにもきっと同じレベルまでは出来ないと思ってた。だからああ言ったのよ。自分なら同じ物が出来る、そんな自信があったらさくら達が黙っていると思う?」
(そうだったんだ…)
 レイの言葉を聞いた時、自分は単に同情されたと思っていた。料理の練習に励んだのは、見返したいという部分が無かったとは言えない。
 だがそんな事ではなく、シンジまで追いつけないと、自分を含めてあっさり諦めていたからだとは。
(ちょっと待って)
「マリアさん、それって私がレベルアップ出来ないと思われてたって事ですか」
「出来るの?」
「そ、それは…あう」
「マユミ、あなたシンジから本か何か渡されたでしょう」
「ええ、この通りに作れってレシピを」
「その通りに作っても微妙にずれて、練習しても変化がない。勿論材料は一緒だから関係ないし道具も一緒、つまりシンジの言うとおりなのよ」
「どういう事ですか?」
「シンジが自分で言った通り、何を考えて作っているかと言う事ね。そしてマユミはあそこまで女王様にはなれない」
「じょ、女王様?」
「俺の作る物が不味い事はあり得ない。美味しいのは当然だ、とそう言う事よ。普通では考えられないんだけど、シンジの場合には作ってる時の思考がそのまま味に出ているみたいなのよ。マユミはそんな事思わないでしょう?」
 マユミはぶるぶると首を振った。とてもじゃないが、自分にはそんな事無理だ。
「じゃあ結局…私には無理なんですね…」
 無理だっつーの、シンジならあっさりそう言っていたろう。
 だがマリアはシンジではない。
「シンジはそれだけ言っていたの?」
「え?」
「シンジのことだかから、生真面目なマユミの性格は考えていたと思うの。もしもの場合にはとか何とか言ってなかった?」
「えーと…あ、そう言えば電話番号を書いた紙をもらってますけど」
「じゃ、電話してごらんなさい。多分何か用意してあるはずよ」
「分かりました電話してみます。でもマリアさんって、やっぱり碇さんの事よく分かるんですね」
「マユミあなたまで」
「あ、ご免なさい変な意味じゃないんです。ただ、マリアさんが言ってくれなかったら私一人で悩んでて…さくらとは仲直りします。さくらが心配してくれたのに私がはねつけちゃったから…」
「そうね、それがいいわ」
「じゃ、私先に上がります。ありがとうございました」
 頭を下げてマユミが出ていった後、
「まったくもう、すぐシンジ、シンジって言うんだから…ん?」
 ふと気付いたように出口の方を見、
「変な意味でどういう事からしら」
 
 
 
 
 
「あ、あのミサトさん」
「何よう」
「これってその…ほ、本当に弟さんが?」
 訊いた瞬間一郎は後悔した。ミサトが、塵芥を見るような視線を向けたのだ。
 ただ一瞬で和らぎ、
「ま、いーわ。あたし今機嫌良いから許したげる。あんたは花火か誰かがこっそり行って殺ってきたとでも思ってるの?」
「いっ、いえそう言うわけでは」
「アンタみたいな馬鹿には何言っても無駄みたいね。こんな芸当出来るのは、シンちゃん以外にはいないわよ。もし居たとしても、何でそいつがウチ宛にこれを送ってくるのよ。さ、馬鹿話してないで、さっさと訓練に戻りなさい。大神、アンタはレベル三つ上げるからね」
「そ、そんな…」
「何か文句でもあるの」
「い、いえ…」
 強制的な能力開発という点では、魔界へ送ったシンジとさほど変わらないが、魔界の女王に陰ながら完全護衛させたシンジと、身を守る物無く霊力を掘り返させるミサトでは根本的に違う。
 光武の擬似体の中では、設定されたレベルでの起動が強制的に行われるが、能力レベルが達しないと起動しない。
 その場合、普通は霊力を上げてからもう一度臨むのだが、ここは違う。起動レベルまで無理矢理霊力を引き出すのだ。つまり、何もしなくても霊力が上がるのである。
 と言えば聞こえはいいが、内なる霊力を引き出されるのはかなりの苦痛が伴う。さくら達のように本能レベルで開花するのではなく、マシンによって機械的に引き出される為、肉体よりもむしろ精神レベルでダメージが大きい。
 それでも、一郎はどうにか次のレベルに近づいたのだが、ミサトはいきなり三つ上げると告げた。いくら頑丈な肉体と精神を持っていても、これでは保つまい。
 ただこれは一郎が悪い。
 ブラコンの表現が的確なほど、ミサトがシンジを溺愛しているのは既に分かっているのだ。そのシンジから荷物が届き、しかもその中身は自分達が歯の立たなかった怪人と来れば、ミサトの反応など読めている。
 プライドの高いグリシーヌでさえ、力量の差を見せつけられながら何も言わなかったというのに。
「ミサトさん…」
 せめて一つか二つ、花火が言いかけたところへ、不意にミサトの携帯が鳴った。
「はい…シンちゃんっ!?シンちゃん今どこっ…あ、ごめん」
「うるさいよう」
 予想はしていたが、ゴロゴロしてる身体には結構響く。
「荷物送ったんだけど、もう着いたでしょ」
「うん、来たわよありがと。でもシンちゃん…どうして来てくれないの?」
「自分達のスポンサーも知らないボンクラに用はない。姉貴話したの」
「それはまだ…話してないけど」
「なら用はない。今ね、身体が疼いてゴロゴロしてる所」
「…なんですって」
 エリカ達が思わず振り向いたほど、低い声は殺気を伴っていた。
「一人で来たんじゃなかったの」
「一人だよ」
「……」
 フェンリル?と言いかけて止めた。
 可能性は低いし、もし違ったら滞在中、一度も電話してくれない可能性がある。
 そこで気が付いた。
 一人で来たという事は、誰か知り合いではない。だとしたら、フェンリルでない方が危険性は高いではないか。
「こ、こっちで誰かいい人見つけたのかしら?」
 努めて冷静な声を出してみたが、やっぱり少し上擦っていると自分でも気が付いた。
「姉さん妬くから教えない。今絶好調なので、オークって野郎を始末して来るの。じゃあね」
「く…くーっ!シンジの馬鹿ーっ!何処の女連れ込んだのよっ!!」
 危険だ。
 素手で蒸気獣相手にするより危険だ。
 隊員達とて、無論一般人よりは危険察知能力に長けている。全員の本能が赤信号へ変わり、一瞬視線を見交わすとすぐに走り出した。
 がしかし。
「姉ちゃん、アンタらどこ行くんや?」
 一体どういう手を使ったのか、一瞬にして六人全員が引っ立てられていた。
「ミ、ミサトさんあの…」
「内容次第では寿命半分縮むわよ?で、何よ」
「い、いえあの…お、弟さんの写真お持ちですか」
「持ってるわよ。それがどうかしたの」
「そ、それを焼き増しして渡して頂ければ、お捜しします。グ、グリシーヌの屋敷の人を全部使えば…ね、ねえグリシーヌ」
「そ、そうだな。ミサト殿、よ、良ければ私の屋敷の者達総出で…」
 全員まとめて団子状態で、その上にミサトがふんぞり返っており、娘達の乳や尻や唇が微妙な所に触れている一郎は、普段なら十分美味しいのだが、緊急事態の今はそれどころではない。
「良かろう」
 数秒経ってからミサトは頷いた。
「ただし、アンタの屋敷の人間なんかボンクラだから使わない」
「と言うと?」
「アンタ達で探すに決まってるじゃない」
「お、俺たちだけでですか?」
「聞こえなかったんかい」
「『い、いいえっ』」
「だったら」
 ミサトがすっと立ち上がり、
「さっさと行かんかい!」
「『は、はいっ!』」
 這々の体で全員飛びだし、門を出てから気が付いた。
「グリシーヌ写真は?」
「私は持ってないぞ。花火が受け取ったのではないのか」
「いいえ、わたくしは持ってないわ」
「じゃ、コクリコ」
「ううん」
「エリカ君かい?」
「いいえ」
「あたしは持ってないぞ」
「と言う事は…もらいに戻るのか…」
「こ、ここはやはり隊長に行ってもらうのが筋だろう」
「そ、そんな、言いだしたのは花火君じゃないか」
「わたくしに…女に行けとおっしゃるのですね。分かりました参ります。大神さん…お恨みいたします」
 こんな事を言われて、
「恨みスキル持ってるならね。さっさと行けー!」
 と尻を叩くのは一人しかおらず、一郎はそう言うタイプではない。
「じゃ、じゃあロベリア…」
「アン?花火は駄目であたしはいいってのかい。ふーん、あんたがあたしをどう見ているかよっく分か…!?」
 がしっ。
 にゅうと伸びてきた手に捕縛され、
「アンタら、写真も無しにどこ行く気や。逃げ出すとはええ度胸やのう」
「『キャーッ!?』」
 
 
「なーんかやる気出ないな」
 スイートルームのベッドを一人占有したまま、シンジはゴロゴロ転がっていた。
 やる気が出ないのだ。
 本来ならもう、フェンリルに騙されて手加減した分、五倍返しにして殲滅だとオーク巨樹に乗り込んでいる時間なのだが、いかんせんその前の二週間が長すぎた。
 シンジの場合、シビウやモリガンは無論恋人ではないが、だからと言って自分の性欲だけ満たす事はない。愛撫も細やかだし、終わった後だって自分は終わったからとさっさと帰ったりはしない。
 だいたい、シンジが自分勝手に楽しむだけなら、どうして魔界の女王や魔女医がその身を任せたりするものか。
 シビウもモリガンも、いずれも人一倍プライドの高い女であり、その辺の男など寄せ付ける事すらしない存在だ。シンジを知る前から相容れない二人だが、目下シンジを巡って恋敵になり、二重の意味で敵になっている。
 それでいて、シンジを強引に自分の方へ振り向かせる事は出来ずにいるのだ。
 シンジにその気が無いというのが大きいが、目下シンジの頭の中はサリュの柔らかい肢体で一杯になっている。シンジにしては珍しいのだが、サリュは存在自体が思念の塊みたいなものだから、合うと言えばこれ以上シンジと合う存在もない。
 相性から言えば、シビウやモリガンとて足元にも及ばない。
「帰しちゃったの…失敗だったかなあ」
 初めて恋を知った小娘みたいな台詞を呟いたシンジの横に、ふわりと女体が横たわった。
「私程度で良ければ好きにして構わないわ、マスター」
「ふんだ、お前なんかに用はない。凱旋門から逆さまにぶら下がってろ」
「もう冷たい事を…騙したのは謝るわ。ちょっと困らせたくなったのよ。マスター許して」
 無論シンジとて、フェンリルが自分に致命傷を与えるような悪戯をしないのは分かっている。いざとなれば、自分の毛皮が朱に染まろうともシンジを助けに来よう。
 ただ、今はそう言う気分ではない。身体の奥深い部分が空洞になっており、フェンリルの相手をするほど余裕がないのだ。
「フェンリル悪いけどまたこん――」
「本来ならば喜ぶべき状況だ。どんな相手であっても反応しなかったマスターが、思念体とは言え女を想ったのだからな。だが私の感情はそれを否定する。渡したくない…マスターを我が物にしたい、とな」
「フェンリル…」
 シンジの頭はフェンリルの膝に移行していた。フェンリルが動かしたのだ。
「しばらく動いてはならぬ。そう…せめて私が落ち着くまでじっとしていてくれ」
 今のフェンリルはシンジを何と呼ぶだろうか。
 マスターか?それとも――。
 その数時間後、不意に電話が鳴った。
「はい…マリア!?」
 
 
 
 
 
「オーナー…」
 振り返った祐子の顔色は変わっている。
 黒瓜堂は動かない。
「多分そうだと思っていた」
「オーナー!?」
「サリュ」
「はい」
「確かに君の想い人は優秀です。でも、封印とか封印解除にかけては私に及びません。君の封印を解いた時、私は君の正体を知りました。巴里に仇為す物の思念だとかそう言う事ではなく――」
 一度言葉を切ってから、
「オーク巨樹が滅びれば、好むと好まざるとに関わらず滅びる存在だという事を」
「はい」
 サリュは頷き、
「シンジに言われました。黒瓜堂の旦那は優秀だから傷一つ付けず、元に戻してくれるし、あそこに保管されれば絶対大丈夫だから、と。その言葉に、私は頷きました。シンジは間違いなくオーク巨樹を滅ぼすでしょう。いえ、それでいいのです。パリシィの蓄積した怨念は、私というブースターが無くてもオーク巨樹を最大化させ、あの街を滅ぼします。一国の首都が妖樹によって占拠されれば、文字通り世界中がパニックに陥ります。人間というのは、自分達の理解外で起こった事に対しては、とても脆いものですから。だからオーク巨樹は滅ぼさなくてはいけません。ただ…シンジに嘘を言った事だけが心残りで…」
「黒瓜堂で待っている、とシンジにはそう言ったね」
 主人の優しい声に、サリュの目から涙が落ちた。
「オーナー、この子を切り離す事は出来ないんですか?そうすれば消滅する事もないのでは…」
「無理だ」
 主人は首を振った。
「彼女は妖樹の一部であって一部ではない。つまり車の部品のように、取り替えが効く存在ではないのだ。オーク巨樹と命運を共にする存在――裏を返せば最後まで本体を守る存在なのだ」
「そんな…」
「祐子、私の言った事を聞いていたか」
「え?」
「本来ならば、最後まで妖樹を守る存在だとそう言ったのだ」
「それが何…まさか!?」
「そのまさかだ」
 サリュがベッドで横になっているのは、身体が変調を来したからだ。
 正確には――シンジがオーク巨樹へ乗り込んで、数十体のカラミテを倒した直後からである。
 シンジからは何も聞いていないが、本体の異変はそのまま身体に表れた。妖樹が手を下したのかと訊いたら、サリュは違うと首を振った。
 だいたい、この店は近距離から対戦車砲をぶち込まれたって傷一つ付かない、ほぼ完璧な強度の外壁を誇っており、それは霊的攻撃にしたって一緒である。
 サリュには悪いが、オーク巨樹如きに精神攻撃でその命を縮められたとあっては、黒瓜堂のプライドに傷が付く。
 万一直接攻撃を受けたなら、黒瓜堂の総力を挙げてオーク巨樹を殲滅してくれると、ひそかに動員令を出していたのだ。
 主人一人なら、通常状態の場合巴里花組にも及ばないが、店員総合ならば、両花組と碇シンジを足したより上だ。
 遠隔操作ではないにしろ、オーク巨樹殲滅と同時にサリュの生命も消える事には変わりがない。
「それで…どうされるおつもりですかオーナー」
「手がない事はない。ただ、それは本人が嫌がってる――吸血鬼化だ」
「あ…」
 吸血鬼化、と主人はそう言った。
 そう、サリュを吸血鬼に吸わせる事で夜の一族に変えてしまうのだ。それなら本体が滅びようが関係ないし、何より実体を持った存在になれる。
 ただ、本人が首を振ったのだ。
「私が最初シンジを誘ったのは、正直に言えば魅入らせて下僕にするか、或いは殺すつもりでした」
 サリュは素直に打ち明けた。
「でもシンジの次の行き先を聞いた時…私は心から惹かれている事に気付いてしまったのです。身体だけの関係なのにと、笑う人もいるでしょう」
「そんな事はありませんわ」
 祐子は首を振り、
「性質が一緒だから、普通よりも数倍感度は良かった筈だし、出会い方が違っていれば最高の恋人になったかもしれないもの」
「ありがとう…」
 微笑ったサリュが、
「私はシンジを愛してしまいました。でも本来なら、私はオーク巨樹を守る者としてその前に立ちはだかる存在でした。オーク巨樹が滅ぼされる運命なら、私はそれに従います。私は今の…シンジの事が大好きな私のままで消えていきたい。折角の厚意を無にしてごめんなさい」
「サリュさん…」
 同じ女だけに、祐子にはサリュの気持ちがよく分かる。店員の中では唯一主人を元に戻せる希少価値の高い娘だが、普段はオーナー比で四倍ほど優秀なだけの優しい娘だ。
「オーナー、それならオーク巨樹を封じてしまえば?そうすれば滅ぼさなくても」
「無理だ」
 今度も首を振った。
「オーク巨樹復活の原因は、太古から蓄積してきた怨念にある。とは言え征服側もボンクラじゃないから、それを封印する物は一応作った。だが近年、急速に進んだ開発のせいで封印があちこちで解けてしまったのだ。降魔、或いはそれに似たものが発生するのは大抵、古の怨念とかそう言う物が原因だ。帝都だって降魔大戦により、負の感情の制御が効かなくなったから降魔が発生したのだ」
「他に策は?」
「唯一の策は存在を変えることだけです」
「吸血鬼になれば、記憶は無くなるんですか」
「さっき夜香殿に訊きました。双主変とは誰かに吸われた者を吸い、自らの下僕とする事。造主とは主を造る、すなわち吸血の経験が無い者を吸う事です。普通の人間なら、加減して吸う事で、生命力が少々強くなる位で済むそうです。現にそう言う治療法もあると聞きました。ただ、相手が思念体で脳波に負の部分が強い場合、確約は出来ないとの事です。万が一記憶を失った場合、シンジ君を想う心のみならず、本能が復活する場合もあるんです」
「そ、それって…」
「私がシンジの敵になるという事です。少しでもその可能性があるなら、私は喜んで死を選びます」
「彼女の意志は固い。もう我々がどうこう言える事ではないのだ。それよりお茶を。彼女の分も」
「はい」
 祐子が出ていった後、
「優しい方ですのね。一度も会った事のない化け物娘だというのに。恋人ですか?」
「下僕です」
「どっちがどっちの?」
「内緒」
 黒瓜堂は曖昧に笑ったが、すぐ真顔になった。
「人の命ってのは、その人の物なんですよ。例えば略奪婚で浚われた娘が、全部が全部不幸せとは限らない。それを略奪されたんだからと強引に連れ戻したりするのは、単なる傲慢な馬鹿って事です」
「人の命は人のもの…」
 鸚鵡返しに呟いたサリュに、
「そう、私の命は私の物です。そして――サリュの生命はサリュのものです」
 くるりと背を向けて出て行きかけてから、
「ところで、フルネームは何て?」
「分からないの」
 サリュは首を振った。
「私が自我を持った時、自分の名前をサリュとだけ知っていたわ。それだけなの」
「そうでしたか」
 主人の姿が消えてから、サリュは小さく目元を拭った。
「シンジ…あなたの目は正解よ。送られたのがここで…本当に良かった」
 ドアを後ろ手に閉めた黒瓜堂は、一変して厳しい表情になっていた。
「すぐ巴里へ連絡を。それとオーク巨樹を一旦封じてくるように伝えなさい。絶対に討ってはならないが、生かしたままでもならないと…え?」
「自分でしないさいよう。あちし達はあの坊やと関わりたくないしィ〜」
「私がしても構いませんが、オーナーがされた方がいいかと…」
「薄情な店員共め。まあいい、私から連絡しておく。それとレビア」
「はい?」
「明日と明後日、フランスから日本への直行便で、全便一席は“空席があるように”手配しておいて。シンジを呼び返す以上、事は一刻を争います」
「了解」
「でも黒ちゃんあの坊やを呼び戻しても…」
「分かっている、ボン・クレー。シンジに術はない。フェンリルに彼女の存在を変える術が無ければ、二人にはつらい結果になるかもしれない」
「黒ちゃん…」
「ま、それはそれで他人の恋愛ですし」
「こらオーナー」
「結果はどうあれ、ウチの店で消滅されたら夢見が悪い。それに、あの娘を女神館に送ったらどうなるか、考えるだけで楽しくなってきます」
「がーっはっはっは、やっぱり黒ちゃんよねーい。黒ちゃんはそうでないと。いーわ、今回だけあの坊やにはあちしが電話したげる。番号はこれねい」
「任せた」
 で、ダイヤルしたのだが、見ていた祐子はなんとなく嫌な予感がした。
「あの、オーナー」
 言い掛けた途端予感は大的中し、
「シンジ?あの、マリアです」
(げ!?)
「シンジに会えないと淋しくて…いったーい!黒ちゃん何すんのよーう」
 後頭部に一撃を与えてから受話器を没収し、
「私だ。緊急事態です。すぐ戻って下さい」
「今すぐ?」
「そうです。ただし、その前に一仕事してから。オーク巨樹の動きを一時的に止めて下さい。仮眠状態が最適です。事態は一刻を争っている。眠らせ次第すぐに戻って。ただし女神館ではなくうちへ直行して」
 声の調子で事態を感じ取ったのか、
「了解、すぐ行きます」
 何も訊くことなく電話を切った。
 主人は受話器を置いてから、
「今度尻から電極突っ込んで、一万ボルト流してやる」
「あーら楽しみねーい。黒ちゃんに殺されるならあちし本望よーう」
「戻ってきたシンジにやってもらう」
「えー!それはいや、あちしやーよ。ぜーったいに嫌だからね!」
「じゃ、大人しくしてなさい。まったくもう」
 宙を睨んでから、
「そう言えば、オーク巨樹が内部に侵入を許してからあの娘の体調は変わりましたね」
「ええ。それがなにか?」
「と言う事は繋がってる。つまり精神的な線が切れてないって事です。豹太」
「はい?」
「今ウチの結界レベルはどうなってる」
「通常ランクです」
「第一級戦闘態勢に上げなさい。外部との繋がりを完全遮断します。それと、生命維持装置の用意を」
「どうされるおつもりですか」
「打てるだけの手は打っておく。あの娘には仮死状態になってもらおう」
 主人の号令一下、店員達がすぐに動き出す。
 シンジがすっ飛んで帰ってきたのは、翌日の夜の事であった。
 
 
 
  
 
(つづく)

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