妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百四十二話:嫉妬…分かり易く言うとジェラシー
 
 
 
 
 
「お別れはもう、済みましたか」
 木陰から姿を見せた黒瓜堂の主人に、若菜は身体がUの字になるほど、深々と頭を下げた。
「黒瓜堂さん…本当に…本当にありがとうございました」
「いえ、それはいいんですが」
「はい?」
 別件らしい主人に、若菜はわずかに小首を傾げた。元々美貌の持ち主だが、幽冥の境を超えた夫婦の交わりからか、ぞくりとするような色香がうなじ辺りに漂っている。
「少し、物足りなかったでしょう」
 いつもながら、この男の言う事は瞬時に理解するのが難しい。無論、夫一馬との交わりの事を指している筈だが、単に下賤な興味で聞く相手ではない。
 いつも何かもう一枚が絡んでいる。
 ただ、まだ体内に夫を受け入れた感触が残っている状態では、さすがの若菜にも計りかねた。
「ごめんなさい、ちょっとまだぼうっとしていて…」
 うっすらと首筋を染めた若菜に、別段の反応を見せる事もなく、
「さっき、札に一馬殿を移したと言いましたね」
「ええ」
「微妙に嘘なんです」
「嘘?」
「嘘、で括ると少し響きが悪いんですが、実は一馬殿とシンジは血液型が一緒なんですよ。失礼ですが、あなたがさくらさんの立場になった時、未亡人の筈の母親がいきなり妊娠して、その子の血液型が想い人と一緒だった場合、平静でいられます?無論、正確には生まれるまで分からないわけで、あなたが再婚話を全部蹴った事を知っている娘としては、父親の霊魂がと言われても信じられないでしょう」
「そ、それは…あ、あの碇さんがさっき…」
 人任せな話だが、シンジが何とかすると言ったのだ。
 だが、主人は首を振った。
「無理です。こればかりは、どう考えても見ずには信じられない話ですし、言うまでも無い事ですが、シンジに再現は出来ません。大迷惑は承知で、一馬殿の霊魂を少々移封させて頂きました」
 そう言って若菜に示したのは、何やら紋様の書かれた札であった。
「一応本人ですから、話す事は出来ます。ただ、あなた達が抱き合う事を選ぶ公算が大だったので、非常に微量なんです。解いてしまえば、五分とは保ちません。娘さんを含めて、女神館の住人達を管理人は開発中なんですが、さくらさんは別格です。もしも月経等と重なり、悪い意味で力がピークの時に暴発されたら、シンジでも無傷では抑えられないでしょう。そうなるとやはり、お父さんから小一時間、とはいきませんが話してもらうのが一番です」
「お手間を掛けます」
「いいんですよ」
 黒瓜堂の主人は首を振った。
「聖地でとある老魔道士から、腕を一本贈られました。にも関わらず、碇夫婦の発見に遅れ、誰も助けられなかった。分かっています」
 すっと若菜を制するように手を挙げた。
 見つけられなかったのは黒瓜堂には関係ない、そう言うのをおさえて、
「あれは確かに私の範疇外です。とはいえ…やっぱり口惜しいモンです。むしろその部分が大きいんです。気にしてなければ、わざわざ故人をひっぱりだして子を作れるようになどはしませんよ。若菜さんも、そんな事は思いになかったでしょう」
「昨日までは…夢にも思いませんでしたわ」
「その筈です。でも、私もこれで幾分気楽になりました。後は、妊娠を認知させれば終了です。とりあえずなんですな…三つ子位を期待しましょう」
「そうですわね」
 ふふっと笑った若菜だが、こんな表情は夫が帝都に経って以来一度も見せた事が無かった。
「三つ首の…じゃなかった三つ子が生まれたら、顔を見にまたお邪魔します」
「是非おいで下さいな。でも黒瓜堂さん」
「はい?」
「三つ首では、地獄の番犬ケルベロスですわ」
「よくご存じで」
「こことは世界が異なる魔界へ修行に行ったと、さくらが書いてきましたの。何でも、そこではまったく無力だったとか」
「そうでしたか。あそこで歩き回れるようになれば、ほぼ一人前です」
 一瞬空を見上げてから、
「では私はこれで。お体にはお気を付けて」
「黒瓜堂さんも…色々とお世話になりました」
 数歩歩いたところで、
「あ、あのっ」
「はい?」
「主人の体温を直に受け止められただけで…私は幸せでした。とても熱くて…それだけで胸がいっぱいで」
「それは良かった」
「それとあの…碇さんもA型ですの?あまりそうは見えなくて」
「似たようなものです。確か、RH+――ヌルA型だと聞いています」
 勝手にホッと安堵の息を吐いて若菜と別れてから、しりるがハンドルを握る車で仙台名物の牛タンを食べに行き、店を出て車に乗った直後、ハイジャックの情報が飛び込んできたのだ。
「ハイジャックされたか…シンジ君に異変があったな」
 呟いた主人に対し、
「さ、高速飛ばして帰るわよ〜あう」
「空港だ」
「分かったわよもう。まったく、どうしてあんな坊やに肩入れするんだか」
 ぶつぶつ言いながらも、綺麗な足でアクセルを軽く踏み込むと、車体は滑るように飛び出していった。
 
 
 機内で人質にされ、精を抑えてすやすや眠っているシンジだが、本人にはさほど危機感がない。
 ファーストクラスが二階席だった事もあり、この階に他の人質がいないのと、ガムテープで縛られてから目が覚めたのだが、自分を呪縛している道具が、たまたま身近にあったから使っただけらしいと、気が付いていたのだ。
 碇シンジがいると知って来たなら、自分はこんなに安穏としては居られまい。
 それでも、妻に逃げられた中年男共が集まって出来たグループなのか、はたまた自分が操縦士になって東京タワーの周りをアクロバット飛行するゲームに毒されたオタク連中か、或いはもっとましな連中なのかさっぱり分からない。
 風の動きで何とか知ったのが、黒瓜堂の主人に送った内容なのだが、あんな程度の情報を手に入れるだけでも全身に激痛が走ったのだ。苦痛に歪んだ顔を目撃されなかったのは、勿怪の幸いだったろう。
 それでも、もしこれが自分一人を狙った状況なら激痛を堪えて立ち上がっていたのだが、標的は自分ではないようだし、何よりも黒瓜堂の主人とは数時間前に別れたばかりだ。おそらくはまだ奥州の地にいるだろうと、受けたダメージの回復に眠る事にしたのだ。階下まで引っ張って行かれなかったのは、おそらく下が満員なのか、乃至は自分に気を回すほどの余裕がない事態が生じたからに違いない。
 そして、原因は後者であった。
 
 
 無論、碇家本邸にも情報は入っており、薫子以下数名がすぐにでも出立しようとしたのだが、これもフユノが止めた。言うまでもなく、マリアとレニを足したより十数倍は役に立つが、碇財閥総帥は、孫息子の救出を危険な店の一味に任せたのだ。
 ずっと仕えてきた精鋭ではなく――自分の息子夫婦を文字通り世界中から、一昼夜と経たずに見つけ出した連中に。
「シンジが出てきておらぬ以上、お前達が行っても無駄じゃ。大体、機体の中に侵入する事すら出来ぬわ。おかしな動きをすれば、却って奴らに感づかれる」
 そう言って止めはしたものの、一番焦っているのはフユノ本人であった。従魔のフェンリルがいながら、シンジが機内にいる状況自体が理解しがたいのだ。
 ただ、自分の本能が最悪の状況を否定しているのは、幾分楽であった。本能が何かを囁いた時、それが外れた事は一度もない。
「余計な手出しはさせぬ。後は頼んだよ」
 内心で呟いた時、
「御前様、官邸からお電話です」
「総理かい」
「はい」
「繋いでおくれ」
 シンジが目を付けた黒木豹介は、当時日本の誇る裏の切り札であった。それを引き抜くという、どうやっても不可能そうな取引を成立させたのは、黒木自身に霊的教育を施す事と、フユノ以上に碇財閥の財政を把握しているある老婆の働きが大きい。
 金庫番のような役目をしているその女性は、当時黒木と狭霧が命を賭して追っていた組織を、たった一人で潰してしまったのだ。
 広大な土地に秘密基地を作っていた連中が、一晩の内に上層部をすべて失って壊滅したのだが、二度と再興出来なかったのは、人間の物理的な攻撃によって滅んだのではなく、揃いも揃って壮絶な苦悶の表情を浮かべ、完全防備の施された室内で死んでいたからとされる。
 無論、完全な監視カメラは一切の侵入者も、室内での異常も感知していない。
「御前、倉脇です」
「どうされたね。対策本部の応対でそれどころではなかろうに」
「たった今、内密で対応が決まりました。賊共の要求通り、機体を北朝鮮へ向ける事と現金も全額渡します」
「日本国内はそこまで甘くなったのかい」
「いいえ」
 受話器の向こうからは、力強い否定が返ってきた。
「乗客名簿の中に碇シンジの名があり、にもかかわらず事件が解決していない事を重視したのです。失礼ですが、花組では帝都は守れません」
「そう言う事かい」
 シンジが何をしているのか、と言う事ではない。
 むしろ、シンジに任せておけば機内で解決してくれるだろうと踏んでいるのだ。
 ただ、それにしては対応が早すぎる。
「実は、魔道省から強力な要請がありました。下手に刺激して万一の事があれば、二度と魔道省は帝都の防衛には関知しない、と」
「さつきちゃんかい」
「魔道省長官南郷さつき以下、百名の連名です。それと言いにくいのですが」
「パイロットだね」
「ご存じでしたか」
「いや、聞いてないよ。だが、あの飛行機が関空行きの筈なのに、あんな所で降りるのは妙だ。間抜けな犯人がパイロットを射殺したか、或いはパイロットに異変があったかのどちらかさね。心臓発作かい」
「お察しの通りです。機長が心臓発作を起こして意識不明になり、福島空港へ不時着しました。賊共の要求をかなえるにはもう一人操縦士が必要ですが、揉めてるのはむしろ連中の方です」
「同志の集まりじゃなかったのかい」
「微妙に違うようです。今更赤軍気取りかは分かりませんが、誰を要求するかで紛糾しているようです」
「乗客の中に病人は」
「それが…持病もちの機長だけのようで」
「乗客が健康で機長が爆弾持ちかい。とはいえ、残った者にも生活はある、機長の家族に累を及ぼすでないよ」
「分かっております、御前」
 心臓に爆弾を持った機長など、常識から言えば論外なのだが、その家族に類を及ぼすなとフユノは告げた。
 つまり、三流の政治と経済に対し、五流以下でしかないマスコミの餌にするなと言ったのだ。
「条件をのむなら、後は連中のパイロット指定まで待つんだね。それで、シンジはどうして動けないんだい」
「これは推測ですが…おそらく、機内にあった対能力者用の妖縛の道具で縛られているか、或いはガムテープで手と口を塞がれているのかと」
 落ちてきた経済と並び、三流と揶揄された政治を二流近くまで引き上げたとされる倉脇総理だが、帝都防衛は碇シンジに任せた方が確実である事もまた、的確に見抜いていた。だからこそ、自衛隊に於ける霊能力を持った部隊の増強も却下したのだし、入れ物となる乙女達、つまり帝国華撃団花組の存在もそのままにしてあるのだ。
 また、本邸のメイド達がその辺のやくざ組織など、歯牙にも掛けぬ戦闘能力を持つ事も知っており、万一出立していてはと電話を掛けて来たのだ。
「妖縛の道具なら仕方あるまい。安心おし、うちのメイド達も女神館の娘も止めたよ」
「恐れ入ります」
「シンジの救出はもう任せたよ」
「任せた、と?」
「そうさ。儂の知る限り、最も頼りになる相手さね。だから、もう少しだけ引き延ばしておおき」
「分かりました――どうした」
 不意に受話器の向こうが騒がしくなり、
「御前、またご連絡します」
「分かったよ」
 受話器を切る前に、既にフユノは原因を知っていた。
 全チャンネルが一斉にハイジャック事件を報道しているのだが、どれもみなカメラの前は阿鼻叫喚図となっていた。
 何の前触れもなく、突然報道陣の車両が転倒し、爆発する。あり得ぬ角度へひっくり返り、炎を吹き上げた車同士が次々と接触し、あっという間に周囲は火の海と化していた。
 それだけではない、あろう事か止まっている機体さえも転倒し、炎上していくではないか。
 ジェットではなくセスナ機の類ではあるが、それにしてもまるでこの世の終わりのリハーサルでも起きたかのような状況である。
 一応訓練されたリポーター達も、或いは全身火だるまとなって絶叫し、転がり回る。
「御前様、これは一体…」
「目隠しだろうよ」
 さすがにメイドさん達も驚愕の表情を隠せぬ中、フユノの表情は変わらない。
 人肉の焼けただれる臭いすら漂ってきそうな映像が流れる中、視聴者の半数近くはテレビのスイッチを切り、そして映像供給側からすべてのニュースがストップする迄に、実に十分と要さなかったのである。
 
 
「さすが緋鞘ね。でもあんな獲物が転がっている場所に、あえて緋の大天使を呼び寄せるなんて…」
 衛星から、デューイを通してレビアは一部始終の映像を見ていた。立っていられなくなり、突如として転倒し炎を吹き上げる機体や車体が、すべて緋鞘の仕業によるものだと無論レビアは知っている。
「なんか、イッちゃってそうな気がするんだけど…」
 苦笑混じりに呟いてから、
「そう言えば、お留守番してるお嬢さん達は大丈夫かしら」
 一通りの知識は持っているが、面識はなく気に掛ける要もない。
 ただ、ふと浮かんで呟いたのだ。
「やるわね、緋の大天使」
 同時刻、遠く離れた飛行場で、別の美女が同じ台詞を口にした事は、無論レビアも知らない。
 そのお嬢さん達はと言うと、地獄絵の寸前、テレビの映像を切ったばかりであった。
 住人達が食い入るように画面を見つめる中、不意に女神館の電話が鳴った。
 立ち上がったマユミが、
「碇さんっ!?」
 思わずあげた声に皆の視線が集中する。
 発信源は、確かに碇シンジとなっていたのだ。
 数人が慌てて立ち上がるのを制し、
「はい、女神館です…え?黒瓜堂…さんですか?」
 マユミは黒瓜堂の主人を知らない。
 シンジだと思ったら全然別人からであった。
 わたくしが出ますわよと受話器を取り、
「神崎すみれです。この間碇さんを迎えに来られた方、ですわよね」
「私です」
 よく分からない返答で応じたが、
「シンジから携帯を預かってます。今本人が持っているのは、数名しか番号を知りません」
「あなたは…ご存じなんですの」
「さっき、機内からメールが来ました」
「!?」
 嫉妬…分かり易く言うとジェラシー。
 不意に自覚した感情を押し殺し、
「そ、それで碇さんの状況はどうなってるんですの」
「縛られてる」
「し、縛られてっ!?」
 思わず大きな声を出してから、脇腹をマリアにつつかれて気付いた。ボタン一つで通話の声は全部周囲にも聞こえる。
「大抵の飛行機には、対能力者用妖縛の道具が積んである。おそらく、ファーストクラスが空いていたから客はシンジ君一人で、たまたま積んであったそれを使ったのだろう。身動きも取れない状況だ…聞いてますか」
「え、ええ聞いてますわよ…」
 振り向くまでもなく、皆が蒼白になっているのは分かっている。妖縛という事は、シンジがまったく抗えないと言う事ではないか。
「さっき、ウチのモンを救出に向かわせました、きれいなお姉さんです」
 ピクッ。
「き、きれいなお姉さん?」
 こっちの動きを判別したのか、
「その分なら大丈夫ですね。マリアタチバナって娘に替わって下さい」
「え?い、今替わりますわ」
 きゅっと一つ唇を噛んだマリアが、
「マリアタチバナです。先日は…大変失礼しました」
「それは構わない。想いの暴走にツッコむ程、私も暇じゃないんです」
「お、想いってそんな…」
「そんな事はいいのです。そんな事より、今すぐにテレビの映像をお切りなさい。今すぐにです」
「テ、テレビを?」
 怪訝な表情にはなったが、珍しくアスカが反応して切った。
 シンジの情報を絶つという、嫌がらせの電話ではないと咄嗟に判断したのだ。
「切りました」
「結構。ウチのモンが行きましたが、まともじゃ近づけないので目隠しを掛ける。大した事じゃないが、年頃の娘がまともに見たら、一週間は眠れぬ上に食事も喉を通らなくなるはずだ」
 ひんやりした口調が、マリアの中で何かに触れた。
「……」
「あなたを指定したのは、住民の娘さん達を止める為です。多分シンジは帰京せず、そのまま次の目的地に向かうでしょう。シンジはウチがレスキューして来ます。決して、誰もその場を動かないで下さい。あなたが責任者です、いいですね」
「わ、分かりました…」
「ではこれで」
 さくら達が黒瓜堂の主人を知っていた、と言うよりシンジの後ろを簡単に取った現場を見ていたのが大きい。
 小さな事ではあるが、文字通り一分の差で、地獄絵図を目の当たりにしていた事は間違いない。
 
 
「やるわね、緋の大天使」
 レビアと同じ事を呟いてから、しりるは機体を見上げた。
 緋鞘にはこの間、一撃で眠らされたばかりだが、別に恨む気はない。そんな事より、どうやってあの雇用主を陥落させようか、そっちの方が重要度は高い。
 愛でも恋でもなくても、一度は毒牙に掛けておかないと、しりるの名が廃るというものだ。
 美しい唇が何かを呟くと、その手から花びらの形をした黒い物体が放たれた。
 あり得ぬ現象だが、それは重力の法則に反し、無風の中を上昇して機体の隙間から入り込んでいく。
 それはすぐに、中の状況を委細漏らさず伝えてきた。
 人智を越える方法で離れた場所の事を知るのは、五精使いだけの特権ではないのだ。
「なるほど、これじゃあの坊やも動けないわね」
 どこか冷たい口調で呟くと、すっと手を挙げた。
 
 
 ある意味間抜けなハイジャック事件は、史上類を見ない被害をもたらしはしたが、結局その原因は分からずじまいであった。
 とは言え、被害者の感情などまったくお構いなしにマイクやカメラを向け、下賤だろうがワイドショー好きの主婦が好みそうな質問をぶつけるマスコミの連中には、少しは良い薬になったかもしれない。
 大破・炎上した車両四十五台。横転・炎上した機体は二機。
 それでも奇妙な事に人的被害はすべてマスコミ関係者に限られており、死亡・重軽傷者は八十名に上った。
 後はグロテスクな映像を流し、おぞましい醜態を茶の間に見せつけたことで一斉に批判は浴びるだろうが、そんな事はどうでもいい事だ。
 なお、ハイジャックされた機体の方は、犠牲者は心臓に持病を持ちながら操縦桿を握った機長一人であった。
 犯人達の投降方もまた、歴史上類を見なかったろう。
 よろめく足取りで出てくると、皆、次々と地面に何かを投げつけた。
 深紅のそれが自分の目玉である事は、周囲の炎が鎮火した後にようやく判明した。自分への憎悪はそれでも飽き足りないのかナイフで、或いは銃で次々に自分を殺害していき、警官隊が近づいた時にはもう、誰一人として生存している犯人はいなかったのだ。
 凄惨な状況ではあったが、それに数倍する光景を目の当たりにしており、さして驚く者もいなかった。
 魔都とも呼ばれる帝都出身の者はいなかったが、慣れというのは時折人間を無感覚にもするらしい。
 自分の目玉をえぐり出した犯人達が、網膜というより脳内に焼き付いた黒薔薇に耐えかねた事も、そしてそれを仕掛けたのが魔界の女王に勝るとも劣らぬ美女である事は、誰一人として知らないのだった。
 
 
「一度帰る?」
 さすがに自分達の後始末に追われ、人質となった乗客達に不躾な質問を浴びせる余裕もないマスコミを振り切り、シンジは黒瓜堂の主人に出迎えられた。
「ううん、このまま巴里行く。飛行機はまだ間に合いそうだし。うちの子達にはあの映像阻んでくれたんでしょ?」
「高くつくぞ」
「白紙の小切手いつでも使っていいってば。渡してあるじゃないの」
 シンジに渡された白紙の小切手一冊だが、まだ一枚も切られた事はない。
「精を抑えて寝たからだいぶ回復した。成田から発つから、悪いけどいい?」
「最初からそのつもりですよ」
「ありがと。じゃ、着いたら起こしてね」
 もう一度すやすやと眠り掛けてから、気付いたように前を見た。
「あの、ありがとう」
「私のこと?黒ちゃんを乗せてるから運転手やってるだけよ」
「そうじゃなくて。飛行機まで来てくれたのあなたでしょう。おかげで助かりました」
 一瞬驚いたような表情を見せたが、ちらりとバックミラー越しに黒瓜堂を見た。
 教えたのかと目で訊いたのだが、返答は否定であった。
「少しはできるじゃない――少年」
「ありがとう」
 怒った様子も気にした風情もなく、シンジはすぐに寝息を立て始めた。
「少しは出来るようになったのかしらね」
「シンジ君はまだまだ発展途上だ。いくつも知らない事がある。自分の事も――そして祖母の事も。育成ってのは、なかなか奥が深いんですよ」
「その情熱、もう少し違うところに向かないの」
「例えば?」
「だからその…もういいわ。飛ばすから捕まっててよ」
「了解」
 その後、東北道にて覆面パトカー十数台を振り切ったBMWが成田空港の出発ロビーに滑り込んだのは、通常掛かる時間の半分以下が経過した時であった。
 なお、シンジを乗せた飛行機が離陸した直後、目的地の市は厳戒態勢が敷かれたのだが、無論シンジはそんな事など知らない。
 そしてそれが、獅子の顔をした怪人の出現によってもたらされたことも。
 何よりも、それを倒すべき巴里の花組が、実弟とのあまりの能力差に指揮者から嘆かれていたこともまた、まったく知らないのだった。
 ついでに、涙を流して安堵した娘達が、寄らぬ事を知って今度は一転激怒した事は、半分だけ予想がついていた。
 すなわち、後半部分だけが。
 五精使いなんて、そんなモンである。
 
 
 
 
 
(つづく)

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