妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百三十九話:碇さんに開発された娘
 
 
 
 
 
 控えめにドアをノックする前から、フユノは目覚めていた。火急の用件であっても仕事関係なら、メイド達は絶対に取り次がない。
 それを持ってくるのは余程の一大事か…或いは何となく掛かってきたシンジからの電話だ。
 だがいずれも違った。
「御前様、お休みの所申し訳ありません」
 すっと一礼して入ってきた千鶴に、
「シンジから電話かい」
「いえ、仙台より真宮寺と名乗る方からです。何となくお繋ぎした方がよろしいかと思ったのですが…」
「大丈夫さ、多分若菜じゃないだろう。繋いでおくれ」
「はい」
 受話器を受け取り、
「桂さんかい」
「私です。御前もお元気そうで」
「なかなか休めそうになくてね。独占欲の強い院長だよ。桂さんから電話をくれるなんて珍しいね。何かあったのかい」
 シンジの手に掛かって逝くなど許さぬ、そう言って治癒させられた事を言っているらしいが、まさか永眠希望だなどとは桂とて思うまい。
「何かって、一粒種は今うちに来てるよ。ご存じじゃなかったの」
「あの子が儂に予定を告げて出ていくなど、もう永遠にあるまいよ。三行半が来ないのをただ願うだけさね」
「御前?」
 冗談でこんな事など言うタイプではない。
 一体何があったのかと気にはなったが、
「さっき若菜を連れて墓地へ行かれました。目的は一馬殿の寝所でしょう」
「……」
 フユノの目が一瞬細くなって宙を見上げた。
 結論はすぐに出た。
「だが、あの子の範疇なら呼び出すまでが限度だよ。若菜には少し厳しくはないかい」
「夫に会える、それだけで連れ出したとは思えません。おそらく、誰かの意図も入っているでしょう」
「誰かの意図…」
 呟いてからすぐに思い当たった。
 シンジがどこへ行ったのかは知らないが、住人達を置いていく先など限られている。
 おそらく、最初から仙台へ行く気はなかったのだろう。
 そのシンジを仙台へ出向かせ、なおかつ若菜を真宮寺一族の墓所へ連れ出させるクラスとなると、一人しかいない。
「多分シンジの先生だよ。桂さん、済まなかったね」
 この時点でフユノには、桂がシンジの言葉で事態を見抜いた事も、そして若菜が墓所への案内に難色を示した事も分かっていた。
 桂の出る幕が無ければ、そもそも電話などしてくるまい。
「いいえ。ただ、あの子にはまだシンジ殿を理解するのは無理です。それより、もし一馬殿を呼び出したら夫婦再会で終わりはしない――おそらく全てを話す筈です。自分のこと、碇夫妻の事、何よりも…あなたの事も。何があったかは知りませんが、何時までも嫌われていたくはないでしょう」
「そんな事は…分かっているよ。ただ…あの子が儂を許すこととはまったく無関係さ。糠喜びすると、却ってショックで発作でも起こしかねないよ」
 自嘲気味に笑ったフユノだが、
「儂のことはいいさ。それよりあんたの話も少しは聞かせておくれ。シンジのことはあれに任せておくさ。一人でも上手くやるだろうよ」
 部屋の外で、直立不動のまま待機していた千鶴は、間もなく室内から聞こえてきた笑い声にほっとした。
 シンジとの一件で、或いは本人よりも心を痛めているかも知れないのは、この千鶴なのだ。
 薫子や比奈達とは違い、千鶴の忠誠心は完全にフユノへ比重が置かれている。フユノに万一の事があれば、すぐに殉死すると固く決意しているのだ。
 本人に聞かれたら叱られるのは間違いないが、こればかりは変えようがない。
「千鶴」
 呼ばれた声にすぐ室内に入ると、フユノが受話器を抑えたまま、
「もう遅いからおまえはお休み。儂はもう少し話しているから」
「かしこまりました」
 すっと一礼して部屋を出ると、また元の体勢に戻った。
 もとより、フユノの言葉は分かっている。
 千鶴はフユノの電話が終わるまで、ずっと待っているつもりであった――例えそれが朝まで続いたとしても。
 
 
 
 
 
 黒瓜堂との電話を終えたシンジが戻ってくると、ぴたりと寄り添った夫婦の姿が目に入った。
「お邪魔だったかな」
 そっと身を翻そうとしたところへ、
「碇さん、お話があります」
 呼び止められた。
「え?」
「十年前の降魔大戦の事を、あなたは何も知らない。私は対降魔部隊の一人として、あなたにお話ししておかなくてはなりません。私のことを、そして碇さん、あなたのご両親の事を」
「……」
 数秒経ってからシンジは、はあと頷いた。
 横の墓石によっこいしょと腰を下ろしたシンジに、
「碇さん、さくらを犠牲にして帝都を守ることは許さない、そう言われたそうですね」
「誰かを犠牲にすればいいってもんじゃない。大体、親子二代だなんて論外だ」
「そうですね。確かに私も、娘まで犠牲にするためにこの身を呈した訳ではありませんから。それに、碇さんの言われた事は正しいのですよ」
 シンジの表情が一瞬動いたのは、一馬の言葉が自分の知らぬ意味を帯びているような気がしたからだ。
「碇さんに開発された娘では分かりませんが…少なくとも私では、降魔を倒すことは出来なかったのです」
 さくらを開発する――なんかえっちな台詞だとか思う前に、言葉は勝手に出ていた。
「真宮寺一馬の命では足りなかったと言うこと?」
「いいえ」
 一馬は首を振った。
「まったく役に立たなかったのです」
「!」
「もう一つ、降魔大戦を実質的に集結させたのは私でも対降魔部隊でも、自衛隊にあった数少ない霊的能力を持った部隊でもなく…碇さん、あなたのご両親だったのです」
「あっつー!」
 不意にシンジが頭をおさえた。
 衝撃で上体が揺れ、墓石の角に頭部をぶつけたのだ。霊魂が眠る場所で尻など降ろした罰に違いない。
 軽く頭を振ってから、
「碇ゲンドウとユイはどこぞの山中に消えたと聞いている。あれはどういう事」
「御前様が流された噂です」
 横から口を挟んだのは若菜であった。
「どういう事か、ちゃんと話してちょうだい」
「分かっています」
 寸分狂わぬタイミングで夫婦は頷いた。
 幽冥境を異にしているだけにちょっと不気味だったが、
「結論だけ言えば、私とさくらの為だったのです。夫一馬の死は、それが公表されれば私達が世間から抹殺されかねないようなものでした」
「禁を破って、降魔を封印する魔神器を持ち出したまでは良かったのですが、なにせ封印されていた為、使い方は本能的に分かりましたが、練習などした事はありません。また肥大化した降魔を前にして動転してもいたのでしょう、最後の動作を間違えてしまったのです。結果、降魔に傷を負わせはしましたが、却って凶暴へと駆り立て、被害は大きくなってしまったのです」
「それってボンクラ?」
「そうとも言います」
 一馬は苦笑したが怒った様子もなく、
「降魔は封じられましたが、私の死が単なる犬死に…どころか事態を悪化させたものであったとなれば、当然家族への誹りは免れません。御前様が放っておかれたら、或いは群衆から投石さえ受けたかもしれないのです。御前様のおかげで、家族はずっと生活に困る事無く来られました」
「ふーん」
「凶暴化した降魔は、私や部隊の仲間達、そして自衛隊にもまったく手に負えませんでした。文字通り、物理的な攻撃が一切通用しなかったのです」
 ミサイルだろうが何だろうがまったく受け付けず、それどころか物理的な攻撃はすり抜けてしまったのだという。
 防衛庁長官が、顔を蒼白にして攻撃停止命令を出すまでに数分と掛からなかった。
「私が上京した時から、そして降魔戦争の時まで、魔神器を使ってはならぬと何度も何度も念を押されたのは御前様でした。碇さん、あなたのお祖母様は決してあなたが思うような人ではありません。勝手に持ち出したのは私なのです」
「続けて」
 シンジの表情は変わらない。
 二人は一瞬顔を見合わせたが、
「御前様は、おそらく最初から人命を以ての終結を考えておられたのでしょう。私が吹っ飛ばされた直後、現場に到着したのは黒瓜堂さんの車でした」
「旦那の?」
「ええ。そしてその車に乗っていたのは、あなたのご両親だったのです」
 
 
「もー、黒ちゃん迎えに来るのが遅いじゃないの。あーあ、この子もう瀕死じゃない」
 確かに瀕死は瀕死だったのだが、一馬を見たユイの第一声はそれであった。
「無茶言いなさんな。居場所不明の二人をモンゴル平原から探して、テイクアウトしてくるのに一昼夜も無かったのだぞ。おかげでうちの店員から雇用契約違反だと大ブーイングだ」
「しかしあんな戦闘ヘリで、よく国境警備隊に撃たれなかったものだ」
「ウチのはシースルーでね。あんな物には引っかからない」
「それってステルスじゃないの」
「似たようなモンです」
「全然似てないわよ。ちょっと君大丈夫」
 数十メートル先に荒れ狂う降魔を見ながら、この夫婦には緊張感の欠片もない。
「私の事はいいから…早くあれを…」
 一馬を一瞥したゲンドウが、
「魔神器は母が封印して置いた筈だ。何故そんな物を手にした」
「こ、これが無ければ降魔は倒せ…かはっ…」
「結局役に立たなかったではないか。まったく使えないヤシだ」
「まったくよねえ」
 ハッハッハ。
「……」
 夫婦揃って笑われてしまい、一馬が自分のレゾンデートルを疑った時、ユイが真顔になった。
「黒ちゃん、シンジのこと頼んだわよ」
「俺とユイをあの世に送る以上、君に責任を取って貰わねばならん」
 ゲンドウの方は濃いサングラスで、その下はよく見えない。
「私に何をしろと?」
「悪の道に引っ張って欲しいのよ」
(……)
 全身を襲う激痛の中で、一体どういう両親なのかと激しく不安になった。
「つまり私が悪だ、とそういうわけですな。でもって今すぐ呪ってほしいと」
「いや、必要悪だ」
 ピクッと黒瓜堂の主人の眉が動いたが何も言わない。
「私達が逝った後、シンジはまっすぐにしか育てられない筈なのよ。悪いけど…お義母さんに任せたら、シンジは自分の力を持て余しちゃうわ。少なくとも、自分の力についてあれこれ悩んで、ウジウジ引き籠もったり…下手したら暴走するかもしれない。それだけは避けたいのよ。でも、両親があの世から導けないでしょ」
 自分も降魔もほったらかしにして育児の話をしていた夫婦が、不意にあの世などと言い出した。
「あ、あのお二人とも一体…」
「人柱だ」
 ゲンドウの答えは短かった。
「ひ、人柱?」
「母は最初から、我らに身を挺してアレを始末させる気だったようだ。もっとも、君の暴走は予定外だったがな」
「あなた達を…」
「そう言うこと。ただ、あそこまで手負いになってなければ、多分私達で始末出来たわね。まったく使えないヤシなんだから」
「そう言うことだ」
 二人の台詞に、一馬の顔からみるみる血の気が引いていった。
 ではまさか…まさか自分は事態を悪化させただけだというのか!?
 そんな一馬の内心を読んだかのように、
「いいのよ、気にしないで」
 ユイはくすっと笑った。
「蛙の子はオタマジャクシ…じゃなかった獅子の子は獅子よ。私達がいなくてもシンジは十分すぎる力を持ってるわ。後は、この黒ちゃんがちゃんと悪の道に引っ張り込んでくれるから。頼んだわよ」
 一馬のせいで命を捨てる事になったというのに、二人には責める口調などまったくない。
「微力ながら足を引っ張らせてもらうとしよう」
「頼んだぞオーナー」
 ゲンドウの言葉に、黒瓜堂の主人は軽く頷いた。
「ユイ、行くぞ時間がない」
「分かってるわ、あなた」
 あくまで飄々と歩き出した二人が、数歩行ってから立ち止まった。
「シンジとミサトにはね、私達がどっかの山中で行方不明になったって言っておいて。特にミサトは私達の事を知ったら半狂乱になるかも知れないから」
 まるで悪の枢軸みたいに言われていた黒瓜堂の主人が、初めて顔色を変えたのはこの時であった。
「まさかお二人とも…!」
「いいの。若菜ちゃんとさくらちゃんの為にもね」
 また悠然と歩き出した二人を、黒瓜堂の主人が最敬礼で見送っているのに気付いた。
「く、黒瓜堂さん…」
「もし真実が知られれば、残った遺族は非難しか浴びません。降魔戦争を終結させたのは真宮寺一馬、それでいいとお二人は言われたのです」
「そ、そんな…」
「お二人の意志を無駄にしてはいけません。さ、立てますか」
「ちょっと無理な感じです。多分、保ってあと数分でしょう」
「あ、やっぱり。致命傷かなとは思ってたんです」
「ありがとうございます」
 白蝋のような顔で、一馬はうっすらと微笑んだ。
「遺留品はさっき吸血鬼の方に渡してきました。もう心残りはありません。ただ…」
「命の無駄遣い、ですな」
「ええ…せめて、せめて…あの方達を死に追い込む死だけは…したくなかった…」
「大丈夫ですよ。降魔と引き替えに我が身を捨てるのも、大雪山に雪男を探して二人でクレヴァスに消えるのも、あのお二人に取っては同じです。自分たちが良ければそれでいいんです」
 その数分後、巨大な火柱が一瞬立ち上り、それが消えた時にはもう降魔もその姿を消しており、真宮寺一馬もまた、黒瓜堂の主人に看取られて息を引き取っていた。
 
 
「って事はウチの両親はヒマラヤかアルプスに消えたんじゃなくて、降魔戦争で生け贄になったと。でもってあなたが余計な事をしなかったら死なずに済んだ、と?」
 火を噴くような言葉ではあったが、シンジの顔は空を見上げたままだ。
 だが溜まりすぎたのか、二筋の涙がその横顔を伝い落ちた。
 想像だにしなかった降魔戦争の真実と両親の死であり、それだけにショックも大きかったのだ。
 シンジ自身、正直に言えば両親が死んだとは思っていなかった。血は争えない物で自分同様世界を放浪しており、いつかはどこか会えると思っていたのである。
 それが根底から否定された。
 放浪中に死ぬような両親ではない。山脈を一つ吹っ飛ばしたって生き延びるような二人の筈だ。
 だが。
 一馬の話は死亡宣告であり、もう二度と会えないことをシンジに思い知らせた。
 ゆっくりとシンジの肩が震えだし、その周囲に危険な気が漂っていく。
 エクスカリバーに断てぬ物なし――シンジがその気になれば霊とて、人間ごと切り捨てる事ができよう。
 しかしそれが暴発することは、遂に無かった。
「この時期は蚊が出るから嫌なんですよもう」
 逆立ったウニを揺らしながらやってきたのは、黒瓜堂の主人であった。
「旦那…どうしてここに」
「君が暴発しそうな気がしてな。急遽やってきた」
「…さっき店に電話したら出たじゃない」
「車内に転送したんですよ」
 事もなげに言ってから、
「お二人ともお久しぶりです」
 すっと一礼した。
「何を怒ってるのか知りませんが、ユイさんを怒らせる気ですか」
「…どういう事よ」
「君に訊こう。ここでこの二人を斬るのは凡人か、単なる粗大ゴミの仕業だ。君がご両親の立場で、残された住人の娘達が因となった者を誅すると言い出したなら、君は諸手をあげて喝采するか?」
「天誅下すに決まって…」
 その通りだ。
 碇シンジの死は誰の影響も受けるものではない。自ら選んだ道に、他の者が異論を唱えるなどとんでもない話である。
「俺は…」
 何をしていたのかと、シンジの全身からすうっと危険な気が消えていく。
「シンジさん…」
「旦那の言うとおりだ」
 シンジは肩をすくめて、
「ここで二人を斬った日には、あの世でうちの両親から永遠に縁切りされるのは目に見えてる。取り乱して済まなかった」
「本当に…よろしいのですか…」
「あ?」
「私は黒瓜堂さんからお話をお聞きして、いつかはあなたに斬られる気でいました。私が反対の立場なら、きっと許せなかったはずです」
「だって俺は凡人じゃないもん。ねー?」
「凡人に産毛が生えた程度だ」
「あっ、何それ、今度絶対呪ってやるから覚えてろ」
「三日だけ記憶しておく」
「ぬう!まあいい、とにかくウチの両親が自分で選んだことなら、ガキがどうこう言う筋合いじゃないよ。それに、祖母がそんな事をしておいたなんてね。なかなかやるじゃないの」
 ふっと笑って、ポケットから何かを取り出した。
「ちょっと頭冷やしてくる。旦那、これ取り扱い説明しておいて」
「分かった」
「今日はゆっくりお休みなさい」
 くるりと背を向けたシンジの肩に軽く触れると、手は震えている肩の動きを伝えてきた。
(従魔が受け止めてくれよう)
 内心で呟いてから、
「残念ながら、うちはまだ技術があまり進歩してないんです。なので一晩、しかも完全消滅です」
「『え?』」
 シンジに渡された札を見せ、
「どーゆー事かと言うと、これに一馬殿の霊魂を乗り移らせると、数時間だけ実体化出来るんです。つまり、奥さんともう一度抱き合えると言う事です」
「!?」
 抱き合える――さっきは空を切った手がしっかりと抱きしめられるのだ。
 若菜の目からみるみる涙が溢れてきたのだが、
「つかぬ事お尋ねしますが、若菜さんまだ女性でしょ?」
「え?あ…はい」
 月経の事を言っていると気づき、若菜が赤くなりながらも頷く。
 夫の眼前だが、一馬が怒った様子も見せないのは性格もあるが、黒瓜堂の性格を分かっているからだ。
 興味本位で訊いたりしないと分かっているのである。
 ただし、その後の答えがろくでもない場合はあるが。
「ですよねえ。そうなると…子供出来ちゃうんですが」
 ろくでもない方だったようだ。
「『…はい?』」
 二人の口がそろってぽかんと開いた。
「抱き合ってお互いの体温を感じると、やっぱり生で感じたいと言う事になって、まあそれは普通なんですが、女性が妊娠出来る身体の場合普通に妊娠するんです。不妊治療とは違いますが、無くなった夫の子がどうしても欲しいと言うケースがあって、最近やっと第一号が出来たんです」
「じゃ、じゃあ私の子供が…?」
「ええ。まあ、安全日とか言うのもありますから、絶対ではありませんが」
「で、でもどうしてそれを私達に?」
「降魔戦争の時、あなたを一目見て助からないと分かった。あなたも分かっていたように、あなたが動かなければ碇夫妻が身を挺す必要までは無かったのだ。ただ逆に…私がもう少し早く現場に着いていれば、話は根本から変わったのです」
 とは言えまったく情報も手がかりもない中で、それこそ世界中から一昼夜以内に二人の人間を連れてくるなどそれこそ不可能に近く、主人一人では逆立ちしても出来なかったのは間違いない。
「で、でもそれは黒瓜堂さんのせいではないし、むしろあなたが見つけられていなかったら…」
 帝都がどうなったかと思うとぞっとする。
「いいんです。私のプライドですから」
 薄く笑った黒瓜堂のオーナーに、
「あ、あのっ」
「はい」
「わ、私…今日危険日なんです…」
 消え入りそうな声で言うと、若菜は恥ずかしそうに俯いた。
「やります?」
 主人が一馬を見ると、これも恥ずかしそうな顔ではあったが頷いた。
「分かりました。でも一つ問題があります」
「『問題?』」
「さっきも言いましたが、これを使えるのは一度だけで、使った後乗り移った霊魂は完全に消滅します。消滅してしまえば、いくら五精使いと雖も呼び出すのは不可能です」
「構いません」
 一馬の答えは早かった。
「本来ならばもう会うことの出来ない私達です。それをもう一度会えて、その上若菜をこの手に抱きしめられるのならば…二度と会えなくなっても本望です」
「一馬さんはあんな事言ってますけど若菜さんは」
「私も…もう一度夫の身体を感じられるならば…きっとそれを思い出にして生きていけますから」
 なんか情念が籠もった台詞だな、とは思ったが無論言わない。
「分かりました。お二人がそう言われるなら反対する理由はありません。一馬殿、この札の上に」
 人の形に切り取られた札の上に一馬が移動すると、それはあっという間にその中に吸い込まれ、十秒も経たぬ内にもうもうと煙が上がった。
 それが止んだ時、そこに立っていたのは紛れもなく真宮寺一馬その人であり、
「あ、あなたっ!」
「若菜…!」
 駆け寄った二人が、涙ながらにひしと抱き合う。
「午前八時を以て、ご主人は消滅します」
 氷水を浴びせるような台詞にも、二人は涙ながらに何度も頷いた。
「では、私はこれで」
「『本当に…本当にありがとうございます』」
 振り向かず、片手を上げて答えた主人の頭の中は、どうしてこの夫婦はここまでぴたりとシンクロするのかという、尤も且つこの場には一番相応しくない内容であった。
(問題はもう一つ…でもってそっちの方が大きいんですが後回しにしましょ)
 国会にゴロゴロ転がっている無能な政治家みたいな事を内心で呟いてから、主人はその場を後にした。
 
 
 
 
 
(つづく)

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