妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百四十話:イク瞬間のワースト三位以内
 
 
 
 
 
 人の形を取った時、自分は女であり、主は男である。
 だが、ここまで強い感情を抱いた事は一度もない。
 自分の膝に頭を乗せ、腕で目を覆っているシンジを見ながら、フェンリルは凄まじい欲求に駆られていた。
 すなわち、欲情という名のそれに。
 声を押し殺して泣くシンジに、不謹慎極まると分かってはいながらも、この腕をどかして思い切り唇を貪り、その身体を激しく愛撫してみたいというとんでもない欲求に襲われていたのだ。
 これがシンジでなかったら、いやシンジであっても出会ったばかりの頃なら、フェンリルはまったく躊躇わなかったに違いない。
 だが、今自分に頭を預けたまま、声を押し殺して泣いているのは両親の完全な死を知らされたばかりのマスターなのだ。
 或いは、シンジの涙など一度も見た事がなかったのも、急激な欲求には関係していたかもしれない。と言うより弱々しい姿自体が、フェンリルに取っては初体験であり、青天の霹靂にも似ている。
 まさかこんな辺境の地で、シンジのそんな姿を見ようとは夢にも思っていなかった。
 精神はどうにか踏みとどまったが、まだ身体が追いつかない。美しい手がシンジの肢体に伸びかけた寸前、フェンリルの口から小さな呻きが漏れた。
 唇を思い切り噛み締めたのだ。
 白くなるほど唇を噛み締めると言うが、フェンリルの場合は違った。
 白いを通り越して深紅に変わったのだ。
 無論、流れ出した鮮血のせいである。
 太い筋となって流れ出した鮮血の筋を拭おうともせず、フェンリルはシンジを見下ろした。
 それが真昼なら、シンジは仰天したかも知れない。
 欲情で濡れた、初めて見るフェンリルの双眸に。
 
 
 久しぶりに再会した夫婦を置いて、黒瓜堂の主人は林を抜けた。
 そこには漆黒のBMWが止まっており、主人を見つけるとすっと寄ってきた。後部座席のドアを開けてそのまま乗り込む。
「わざわざ済まなかった。ありがとう」
「いいのよ。ぼーっと待たせるわけにもいかないでしょ」
 ハンドルを握っていたのはしりるであった。
「で、黒ちゃんやっぱりあの二人?」
「抱き合って倒れ込んでいったのまでは気配で感じたが、後は知らんよ。若菜さんの方は危険日とか言っていたが、最初から避妊の気などあるまい。もっとも、シンジに連れ出された時点で避妊具など持っていれば、逆の意味で危険だが」
「このままとんぼ返りして戻る?」
「いや、事態を分かっていない管理人に危機管理を植え付けないとならない。泣きやんだら行ってくるから、一時間したら起こしてくれ」
「いいわよ」
 シンジと同じ位髪の長い主人だが、下向きではなく上向きである。
 当然普通の車では収まらない。だからこの車も後部が改造してあり、よっこいしょと入った時にすっと収まる寸法になっている。
 車からしたら大迷惑だろうが、そのシートを倒すとすぐに目を閉じた。
 が…寝息がない。
 呼吸してるのかしてないのか、それさえも不明な主人だが、しりるは驚いた様子もない。
 こんな事で驚いていたら、黒瓜堂の店員など勤まりはしないのだ。
「いくら親に頼まれたからって…少し肩入れしすぎじゃないの」
 前を見たまま呟いたが、確かに黒瓜堂の店員を結集せずとも、降魔を倒すのは難くない。勇将の下に弱卒なし、と言うのがこの店の場合には、逆の意味で当てはまらない。
 そう、下が優秀でも上がそれに準じてはいないのだ。それにしたって、絶対条件でない以上、シンジをバックアップする理由はない。
 シンジが店員達を殆ど知らないのは、こっちの方で会っていないからだ。ぼうやだと思っていないのは一人も居ないし、シンジと会ってくれるのはそれを表面に出さないで居られる者のみである。
 裏返して言えば、それだけ出来た人間が少ないとも言えるのだが、どちらにしても金で動く者など皆無なだけに、気に入られるのはそう簡単ではない。
 マリアなど主人が止めなかったら、今頃は身体のパーツが世界中を旅行している可能性が高い。
 ただ、寝息を立てずに眠っているであろう自分達の雇用主が、一旦決めた方針はまず変えない事は分かっているだけに、表だっては言わないのだ。
 却下、の一言で終わってしまう議題など、最初から持ち出すだけ時間の無駄である。
 一時間経ったら起こせと主人は言った。
 体内時計はほぼ正確である、しりるはシートを倒すと静かに目を閉じた。
 こっちは“まともに”寝息が聞こえてきたのは、それからまもなくの事であった。
 
 
「ありがと、もういいや」
 にゅうと起きあがったシンジの顔には、涙の痕など微塵もない。
「もういいの、マスター?」
「ん。いつまでもぐしぐし言ってるとお前に襲われそうだ」
「…気づいていたの」
「無論だ。アブナイ従魔の動向程度把握しないでどうする」
「……」
 わずかに眉の動いたフェンリルに、
「さっき襲われていたら――」
「おそらく抵抗はなかったろう」
 別の声が引き取った。
「旦那…」
「もう発作は治まったようだな。千載一遇の機会を逃すとは惜しい事だ」
「マスター…それは本当なのか」
「うん」
 シンジはあっさりと頷いた。
「いくら何でも、覆い被さってくる従魔に泣きながら抵抗する主人じゃ、レイプされ掛かった女子大生になる。でしょ?」
「その通りだ」
 主人は頷き、
「いくら個人的な強さを誇る五精使いとは言え、女々しく泣いている最中なら犯すのもごく容易い事だ。私も隙あらば手込めにしようかと…」
 言葉が途中で止まったのは、フェンリルが一瞥したからだ。
 凄まじい気を帯びた視線が主人を射抜き、
「貴様いい加減に…痛?」
「いい加減にするのはお前だフェンリル。俺の目の前で旦那に何する気よ」
「しかしマスターこやつは…分かった。手込めでも何でもされるがいい」
 後一秒遅かったら、間違いなくフェンリルの身体を劫火が襲っていたに違いない。
 消え入った従魔に冷たい視線を向けてから、
「ウチのって教育が悪いから」
「まったく。いいご主人様の証拠だな」
「もう、そこまで突っ込まないでよ。それであの二人は?」
「今頃は子作りの最中だ…ってなぜ赤くなる?そこまで初でもあるまい」
「ヤルのと作るのは訳が違うんだよ。ま、滅亡に瀕して子孫を残すのは人間の本能だしね」
「そう言う事です。で、何から?」
 何から聞きたいのかと、主人はそう言ったのだ。
「最初に、どうして俺と初めに会った時に言ってくれなかったのさ」
「君のご両親に頼まれたと?」
「うん」
「別に言う必要もない。それとも、器の判別も出来ぬのにすべてを明かせと?」
「それって、今でも不足ってこと?」
「いや、今となっては言い辛くなっただけ」
「うぬー!」
 確かに黒瓜堂の主人は、シンジの両親から任されはした。
 とはいえ、それは悪の道に引き込んで欲しいという尋常ならぬものであり、教育を任されたのとは訳が違う。
 初対面の相手にそんな事を言われたら、即座に回れ右するのが普通の反応だし、両親から任されたというのはあまりにも重すぎる。
 しかし、結局今日に至るまでそれを聞かされる事はなかったのだ。
「ま、いいや。でも、何で今日になって俺をこっちに来させたの?旦那が札持ってきたって良かったじゃない」
「別にいいんですけどね。そろそろ君に、一回り成長して貰おうと思ったのですよ」
「成長…お婆の事?」
「違う」
「も、もしかして…」
「もしかして?」
「こ、子供の作り方を実践で覗いてべんきょ…いったーい!」
「しまいにゃいてまうぞコラ」
「コブになってる…もうなんなのさ一体」
「女の口説き方」
「はあ?」
「考える迄も無い事ですが、この札を使った封現法を最初は信じられなかったでしょ」
「信じられなかったって言うか、ちょっとびっくりしたって言うか」
「そう。でも君の場合、自分には直接関係ないからそれで済むんです。例えばここにお父さんを亡くした娘がいて、未亡人の筈のお母さんがいきなり妊娠したって言ったらどう思うでしょうねえ」
「!?」
 不意にシンジの顔色が変わった。
 主人の言う事がピンと来たのだ。
「ま、まさかっ」
「まさか、かどうかは知らないが、君と一馬殿の血液型は同じでな。つまり、どこぞの剣道娘にしてみれば、碇さんがお母さんの所を訪問した結果子供が出来た。しかも血液型も一致してる、とこうなるわけだ」
「な、なんでそんな事を…」
「君だって賛成したでしょうが」
「そ、そこまでは言ってなかったじゃない」
「楽しみは後に取っておくモンだ。それに、可能性的には君が若菜さんに手を出したのであっても事実は違う。それ位説得出来んでどうする。まあ」
 一旦言葉を切ってから、主人はにこりと笑った――とてつもなく邪悪を含んだ笑みで。
「若菜さんは危険日だと言っていましたが、だからと言って絶対に妊娠する訳じゃありませんから、君から言うのは避けた方が良いでしょう。つまり母親からの連絡待ちなんですが、間違いなく他の住人達にも知れ渡るでしょうねえ。ま、数名は半狂乱になるかもしれませんし」
「…なんかすっごく嬉しそうに見えるんだけど」
「気のせいですな。とはいえ、事実は事実です。これを女のヒスに負けてしまうようでは、所詮その程度って事です」
 ムカッ。
 確かに言う事は合ってるが、普通に考えて一馬と若菜の子だとは思うまい。それを聞いた時のさくらの反応や、連鎖的に起きる住人達の反応を考えると今から頭痛がしてくる。
「なんかムカついてる?」
「別にっ」
「ならいいんですが」
 知りつつぬけぬけと言ってから、
「じゃ、君が降魔戦争の真実だけ聞いて帰って、その後私がひっそりと作業した方が良かったですか?」
 知っていた場合と知らなかった場合、その両方を天秤に掛けた場合、後者の方は怪しすぎる。
 シンジは慌ててぶるぶると首を振った。
「でもさ…なんて言えば良いわけ?」
「さあ」
「さあってそんな無責任な」
「君の日常を知らないから無理だ。普段どうやって言いくるめてるのか知らないし」
「言いくるめてるって…」
「それしかないですよ」
「え?」
「いいですか?今回のは、いわば人の魂を操る事なんです。じゃ、やってみて下さいって言われて、じゃあちょっと待ってろと実験するわけにはいかないんです」
「実験も不可ってかい」
 切り札を封じられて、シンジは思わず天を仰いだ。どうしても納得しなかった場合、最後の手段として実験すればいいと思っていたのだ。
「まあ、どうしてもの時は切り札があるでしょ」
「切り札?」
「ええ、切り札です」
 主人はゆっくりと頷き、
「女相手にはいつの時代も一つでしょ」
「一つ?」
 はてと首を傾げたシンジが合点した直後、巨大な火柱が上がった。
 
 
 ベッドの上で二つの女体が絡み合っている。
 既に行為開始からだいぶ時間が経っていると見えて、月明かりが映える白い肢体はいずれもしっとりと汗ばんでいる。
 ただし、何故か女同士の愛撫に伴う筈の甘い空気はない。
 さくらとすみれだ。
 シンジが見たら、行為自体をどう思うかは別として、その場所を知ったら多分まとめて磔だろう。
 二人が相手の股間に顔を埋め、音を立てて愛液を舐め合っているのはシンジの部屋のベッドなのだ。
 自分の部屋で自慰を始めたさくらだが、普段指を蠢かせて感じられるのは、シンジと一つ屋根の下だからと言う部分が大きい。遠く離れて、手も足も届かぬ相手をネタに妄想するより、ずっと現実的である。
 だがシンジはいない。
 いじっても全然反応しないし、気持ちも良くない。そこでさくらが考えついたのがシンジの服を失敬する事…ではなくシンジのベッドに潜り込む事であった。
 ふと気が付くと、心のどこかに穴が開いている事に気づいたのだ。
 アイリスとレニが居なかったのは幸いだが、こっそりと潜り込んでしばらくすると、身体が暖まってきた。心は時として身体の具合すら変えると言う事なのだが、今度はそれが加熱してきた。
 敏感な部分が火照ってきたのだ。シンジを身近に感じたはいいが、感じすぎてシンジに愛撫されている気になってきたらしい。
 真っ暗な中で、そっとしのばせた指で大淫唇を左右に開くと、もう中はびっしょりと濡れていた。
 これならすぐに達しそうだと弄りだすと、さっきとは違ってみるみる快感が駆け上ってくる。シンジの名を呼びながらイク寸前、
「碇さんのお布団で何をしているんですの」
 ビクッと体を震わせたが、もう指と快感は止まらず、すみれの顔を見ながらいってしまった。
 イク瞬間のワーストでは、間違いなく五指に入るに違いない。
 多分第三位くらいだ。
 悔しさと恥ずかしさで目に涙を浮かべてにらみつけるさくらの前で、すみれがはらりとガウンを落とすと、その下は全裸であった。
「わたくしがお借りしようと思ってきたんですの。さ、あなたもわたくしの身体を見たのだからおあいこでしょう。出ていって下さいな」
 差し込む月光が自然の灯りとなってすみれの肢体を映し出している。ふとその下腹部を見ると淫毛が性器に貼り付いており、さくらもすみれが自分と同じ事を考えてここに来たのを知った。
「…どうやら考えてる事は同じみたいですね」
「そうですわね。もうあなたの方は終わったみたいだし、もういいでしょう」
 盛りのついた雌猫みたいに言われ、さくらの眉が上がった。
「嫌です、どきません」
「何ですって」
「あたしはすみれさんみたいに、欲求の処理だけに来たんじゃないんです」
 ちょっと言い過ぎたかなとは思ったが、もう後には引けない。だいたい、先に絡んできたのはすみれの方なのだ。
 やはりすみれの表情に怒気が上り、
「…そう、そこまで言うのならわたくしと勝負しなさい。負けた方が出ていくのよ」
「勝負?」
「お互いを愛撫して、先に達した方が負け。さくらさんにはちょうどいいハンデでしょう」
 イッたばかりだから、余裕があるだろうと言っているのだ。
 見せつけるとまではいかないものの、すみれはさくらの前にすべてを晒して挑んできている。そうでなくとも、勝負の対象がこの場所とあっては逃げたくなかった。
「分かりました…その勝負受けます」
 布団をはね除けたさくらが全裸ですみれの前に立った。
 で、今もって勝負はついていないが、二人が一度も達していないわけではない。一度目は、ぷっくりと膨れたお互いのクリトリスに歯を当てて吸い上げ同時にイっしまい、二度目は松葉崩しで勝負に出るも、愛液にまみれた淫唇同士を擦り合わせながら同時に達してしまった。
 結局原点に戻り、胸と股間を責め合っているのだが、シンジが見たら部屋にカメラを仕掛けておくのだったと、地団駄踏むに違いない。
 観賞用ではない――おそらく、最も手を焼くであろう二人を一発落札出来る代物なのだから。
 
 
「ちっ、逃がしたか…はう!」
「逃がしたか、じゃないっつーの」
 強烈な劫火が黒瓜堂の主人を襲い、一瞬にしてその身体は炭化する予定だったが、紙一重の差で逃げられたのに気づいた。
 が、探してもう一度炙り直しと思った途端、その身体は微動だにしなくなったのである。
「このまま上半身と下半身を強制的にお別れさせてもいいんですが、今回だけは見逃してあげましょう。次はバラしますよ」
 ろくでもない事を口にしたが、次の瞬間すっと身体の呪縛は解けた。
 不可視の糸でも使ったのかと思ったが、そうではないと本能が囁いている。
「今のは一体何」
「さて、ね。物体じゃない事は確かです。そんな事より口説き方は考えつきましたか」
「何とかする。いざとなったら強制洗脳だ」
「まあ、それが関の山だな」
「え?」
「そんな事をされると、私があの娘の両親に合わせる顔がなくなる。どうしても手に負えなかったら私に連絡するがいい。納得する方法を考えておこう」
「ちょっと待った。それなら最初からやってくれればいいのに」
 他力本願の台詞を口にした知り合いに、主人は団子虫でも見るような視線を向けた。
「君の手に負えないという事は、君の信頼が大きく下がったという事です。大事な事を忘れちゃいけません」
「むう」
「どのくらい住人達から愛されているか、試す機会でしょう。ま、頑張って下さい」
「俺は愛された…くなん…」
 ふにゃっとシンジが崩れ落ちる。
 眠りに落ちたシンジを見下ろして、
「熱いキス一つで結構脳は融けたりするものです。起こしに来るまで少し眠っているといいでしょう」
 音を立てずにその場を後にした。
 シンジが揺り起こされたのは、それから二時間ほど経ってからの事であった。
「…ふげご?」
 うっすらと目を開けると、上気した顔で実に幸せそうな若菜と、幸せのオーラはあるが少し疲れて見える一馬が立っていた。
「逢瀬は終わった?」
 シンジが聞くと、若菜が恥ずかしそうにはいと答えた。
「風邪ひくよって、俺を起こしに来た訳じゃないね。どうしたの」
「ええ、若菜と話し合って決めました」
「子供の性別?」
「ええ、出来れば双子が…そう言う事ではなくてさくらの事です」
「さくら?」
「はい。碇さん、あの子の事お任せします」
「お任せ?お願いじゃなくて?」
「お任せです」
 夫婦揃って深々と頷いた。
「あの子の初めてはあなたに決めました」
「はい、初めての相手ね…なんですと?」
「あの子はあなたに会うまで、ずっと自分の血の事を考えて来た筈です。いずれこの身を捧げるのだと、そればかりを思っていました。あの子が少し性的に早熟なのは――」
「分かっている」
 シンジはすっと手を挙げた。
「別にマセガキだからではなく、俺が受け止められる初めての男だったからだ。その位の事は見ていれば分かる。愛でも恋でもなく、憧憬だと俺がいつも言うのはそのせいだ」
 確かに女の心が見えてしまえば、周囲からはぞっこんに見えても、本人には所詮憧憬でしかあるまい。道化にならないだけ、まだましである。
「勿論、さくらももう大人の年頃ですし、子の恋愛に親が口を出す事ではありません。ただ碇さん、あなたならば安心なのです。私も…安心して逝く事ができます」
(それってずるいじゃないか)
 と思ったかどうかは不明だが、
「さくらと結婚しろって事?」
「いいえ」
 あっさりと二人は首を振った。
「愛人で結構です」
「愛人かい」
 戦国大名じゃあるまいし、娘を愛人として差し出すなど尋常ではないが、
「あの子の憧憬が冷めるまで、側に置いてもらいたいのです」
 考え方は微妙に違うらしい。
「あなたに誰とも結婚する気がなければ、あの子もまた他を見るかもしれません。ただ今のあの子には、あなたしか映っていないでしょう。まだ感情の区別も付いていないかもしれません。でも、あの子はきっと自分なりに懸命だと思います」
「……」
 何か言いかけたが止めた。
 両親が、単純に娘の事を思っているのは分かっている。さくらが聞いたら何というかは知らないが、少なくとも長い間会っていない娘であれば、毎日顔を合わせているほどには良い案も浮かぶまい。
 何よりも…一馬には時間がないのだ。
「分かりました」
 シンジは頷いた。
「取りあえず、側に保管しておきます。生物だから、少々傷むかも知れませんが」
「承知して下さるか。碇さん、感謝します」
 一馬の表情が緩み、夫婦揃ってそっと頭を下げた。
「うん。まあそれはそれとして」
「え?」
「旦那から、おたくらの娘を説得しろって難問突きつけられてるんだが」
「難問とは?」
「ったくこれだもの。子供が出来たら何て説明するつもりさ」
「それは勿論私達の子供が…あ」
 達、と言う資格は間もなく失われる事を、やっと思い出したらしい。
「他人事なんだが、親子の間に亀裂でも入った日には、旦那に役立たずの烙印を押されて東南アジアに売り飛ばされかねない。ま、何とかやってみる」
「重ね重ねお手間を掛けます…」
「礼なら旦那に言っといて。今回の件だって、こんな札は俺なんぞには絶対作れやしないんだから」
「そうですね。碇さんからよろしくお伝え下さい」
「そんなの自分で…」
 言いかけてから気づいた。
「もうここに居ないの?でもってそれが分かるの?」
「ええ」
 一馬は軽く頷き、
「この身を復元されて分かったことですが、この札によって再生した肉体は術者の言う事に完全服従になるようです」
 完全服従…と呟いたシンジを制するように、
「私のように、完全に自我を持ったものばかりとは限りません。亡き夫や妻を呼び出す時、既に邪悪な存在と化している場合もあるでしょう。或いは、身体を重ねている最中に首を絞めようとするかもしれません」
「首を絞められたらこう言うんだ――キモチワルイってね」
「え?」
「ううん、何でもない。しかし旦那の気配まで分かるとはねえ」
 思考も一部伝わってきました、と言いかけたが止めた。今の一馬には、自分と若菜をもう一度結び付けたこの札が、何の為に作られたのかも分かっていたのだ。
(成長したと思ったら話す――そう言う事ですね)
 そんなところです、そう言ってうっすらと笑う黒瓜堂の主人の顔が見えたような気がした。
「さ、碇さん。私はもうすぐお別れです」
「……」
 短く頷いたシンジだが、若菜の表情が変わっていないのに気づいた。
「いいんです。私はもう…お別れは済ませましたから」
 若菜はひっそりと微笑んだ。
「それに…さくらと会えなくても私はもう一人じゃありませんから」
 そう言うと、若菜はそっと下腹部に触れた。
(一発的中かい!…あれ?そう言うのって分かるんだっけ)
 確か懐胎は天使か――通常は地天使URIELだ――、乃至は産婦人科医に告げられるとばかり思っていたから、シンジは首を傾げたのだが、
「分かりますわ。私と一馬の子供ですもの」
「え!?」
 見抜かれていたらしい。
「碇さん、さくらの事はお任せしましたよ」
「分かっています。早いところ、イイ引取先が見つかる事を期待しましょう」
 あくまでも、自分が引き取り主になる気はないようだ。
 とはいえ、本命がいるわけでもさくらだけが除外リストに載っているわけでもないのだしと、二人とも何も言わなかった。
「若菜さん」
「はい?」
「降魔が片づく前に、一度帝都にいらして下さい。妙なモンが帰ってきたので、また舞台も再開するようです」
「三ヶ月になったらお伺いしますわ」
「うげ…あ、いえそうですね。弟か妹が出来ればさくらも喜ぶ事でしょう。一馬さん、あなたの願った死は決して無駄にはしません。さくらには、必ず畳の上で大往生してもらう事にします」
 娘の父親を前にしては、やや妙な台詞だったが、
「ありがとう、碇さん」
 一馬は深々と頭を下げた。
 あの碇フユノがすべてを託すと告げた孫、その青年がさくらを決して人柱にはさせぬと誓ったのだ。
 何を不安がる事があろうか。
(すべてはこれでいい…)
 いや、帝都で黒瓜堂の主人に頭を預けたまま意識が遠のいた時は、若菜を生きて抱ける等とは露ほどにも思わなかったのだ。
 万感の思いを込めて一馬は頷いた。
 不意にシンジの時計が鳴った。
 すなわち、八時を告げるアラームが。
 別れはいつでも唐突にやって来る。
 すうっと爪先から透明になっていく一馬と、逝かせまいとするかのようにかき抱く若菜から、シンジはくるりと背を向けた。
 
 
 その二時間後、シンジは空港にいた。
 女神館の娘達がシンジの動向を――正確にはその居場所を知るのはそれから一時間ほど経ってからである。
 
 
 
 
 
(つづく)

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