妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百三十八話:急急如律令――夫婦再会
 
 
 
 
 
 早朝になった電話にも表情を変える事無く、若菜は受話器を取り上げた。
「真宮寺でございます」
「黒瓜堂です」
「黒瓜堂さん?お久しぶりです。随分とご無沙汰しておりました」
「お変わりありませんか」
「はい、母も元気にしております。今日は何かありましたの」
「若菜さんとこのさくらさんですが」
 少しも変わっていない相手に、若菜はうっすらと笑った。
「さくらは今女神館でお世話になってますの。色々とご迷惑をお掛けしているみたいですけれど」
「大丈夫です。あと十五倍くらい濃縮された迷惑は大丈夫な管理人です」
「御前様のお孫さんをご存じでしたの?」
「微妙に知ってます。で、今日そっちに行く筈です。正確には、行くように私がし向けますから。娘さんから話は?」
「最近はよくメールが来るようになりました。あの子も最近、妙に大人びてきたみたいで…」
「いつまでもお子様でも困りますし、大丈夫でしょう。で、迎えなんですが空港まで軽トラックで行って下さい。それ以外は駄目です」
「軽トラックですか?」
「軽トラックです。多分、何でこんなのでとは言わず、免許を持ってないのかと聞くはずなので、持ってないと言って下さい。それと、私からファックスで連絡が来たと」
「そう言えば分かるのかしら」
「彼は優秀です」
 こんなろくでもない会話が奥州と房総で交わされている事を知ったら、シンジは絶対に仙台へなど行かなかったろう。
「正義による帝都の防衛になど、興味の欠片もない子ですが、ただ一つ真宮寺さくらを生贄にしての平和は、提唱者全員を惨殺してもさせないと燃えてます」
「さくらを…」
「ええ、娘さんです。ただ、愛情とかではなくてプライドから来てるのが、らしいと言えばらしいのですが。さくらさんも結構気に入ったようでしょう」
「ええ、最近ではもう――」
「あ、いいです。何となく分かりますから」
 言いかけた若菜を制して、
「それはそうと真宮寺さん」
「はい?」
 急に改まった黒瓜堂の主人に、何を言うのかと小首を傾げた若菜に、
「ご主人の体温は覚えておられます?」
「……え?」
 何となく性格は分かっている相手だが、さすがの若菜も言葉の意味を計りかね、美しい顔が十五度ほど傾いた。
 このやり取りがあったから、シンジを前にしても落ち着いていられたのだし、さくらの犠牲の事も言い出さずに済んだのだ。
 これが他のまっとうな――常識の範疇で収まる相手から聞いていたら、少しばかり取り乱したかもしれない。
 変わった知り合いがいると、妙な所で役に立ったりするものだ。
 無論、統計的にはマイナスが多いなどと、無粋なデータは論外である。
 
 
 
 
 
「あ、あ、あのっ」
「はい?」
 取り乱したシンジを見たせいか、若菜はすっかり落ち着いており、くすっと笑ってからかすかに首を傾げてみせた。
「む、娘って普通はその…は、母親にそこまでは言わないんじゃないかってその…」
「あの子が上京した時には、もう初潮はありましたけれど、自慰とかは知らなかったのですわ。年頃の娘が性にまったく興味を持たず、ひたすら剣に打ち込んでいたりしたらそれこそ問題でしょう?」
「え、ええ…」
(どっかで言ったような台詞ー!)
 まだ立ち直れない。
「だから、どんな事があっても決して怒らないから、私にメールでお話ししてって言ったんですの。でも、最初はやっぱり恥ずかしかったのか私にも言わなくて、少し心配していたんです」
「ふうん」
 シンジが真顔になった。確かに変わった関係ではあるが、この仙台と東京では風俗事情も違うし、何も知らぬ娘をいきなり送り込んだ母親が心配なのも尤もだ。娘を逐一監視するとか束縛するとかではなく、本当に心配していたのを若菜の台詞から感じ取ったのである。
 がしかし。
「だから、さくらから最近身体が疼く事が多くなっちゃって、と聞いた時少し安心しました。取りあえずさくらも普通の女の子になれたんだって。でもね、その原因がいつも同じ方で…もごっ」
 顔を赤くしたシンジが思わず手を伸ばして若菜の口を抑えた。
「すみません。でも…ちょっと許して」
 怒っているか、と言えばそんな事はない。
 大体シンジというのは個人の個性を重視する方で、そこには性癖も含まれている。だから、自分がさくらの“おかず”になっていると聞いても、別段怒りは覚えなかったのだ。とは言え、シンジだって朴念仁ではないし、ちゃんと羞恥だって持っている。
 ただ、羞恥プレイをさせられた経験がないため、自分が娘の自慰対象にされている事を赤裸々に聞かされ、少々ダメージが蓄積していたのである。
「いくら碇さんでもショックが強すぎましたわね、ご免なさい」
 ピクッ。
 ガラガラと音を立てて崩壊しかけたシンジの自我に、プライドという名の接着剤が流し込まれ、みるみるうちに修復されていく。
「大丈夫です」
 咳払いしてから首を振った。
「これでも女神館(ウチ)の娘達の性癖は、管理人として結構把握してます。さくらのおかずにされても予想範疇内です」
「そ、そうでしたの」
 何故か急に立ち直ったシンジに、若菜も一瞬度肝を抜かれたが、
「無論です」
 シンジは力強く頷いた。
 プライドというのは結構万能薬として使えるようだ。
「それに、よく考えたらさくらの親兄弟じゃないし、倫理上は問題ありません。女の子でもAVは見るものです」
 立ち直ったはいいが、とんでもない事を言い出した。
「…え?」
「それに、年頃の娘が性に朴念仁では精神科の医者が要るとも、この間誰ぞに話したばかりです。教師たる者口にした事は実践しないといけません。帰ったらさくらちゃんには怒る代わりに、どうやってるのか見せて貰うとしましょう。さてと」
 不意に居住まいを正したシンジに、思わず若菜は身構えてしまった。
 別に危機感を感じた訳ではない。
 ただ、一瞬シンジが底知れぬ存在に見えたのだ。シンジに見せていないメールには、娘の恋心が連綿と綴られているが、性的な関係には殆ど進歩がないと書いてある。しかしシンジの台詞は、どう聞いても恋人か乃至はご主人様のそれであり、少なくとも単なる管理人のそれではあり得ない。
 にもかかわらず、母親の前でとんでもない事をさらっと言ってのけたシンジに、もしかしたら自分の娘を含め、皆調教済みではないかと思ったのだ。
 それも言葉責めで。
 そんな体験も記憶もないが、ふっと過ぎったそれは女の予感であった。
 ある意味で真実を突いた予感を抱いた未亡人の様子に、気づいたのか気づかなかったのか、
「ご主人の遺骨はあります?」
 またも奇怪な事を言い出した。
「い、遺骨?」
「ええ、遺骨です」
「主人は遺体で戻ったので、埋葬は火葬でしたから…」
「あ、いいんです。別に全部が無くても」
「え?」
「埋葬所の場所を教えてもらえますか」
「!?」
 若菜の表情が一瞬激しく揺れた。何を言っても驚いちゃいけません、黒瓜堂の主人からそう言われてはいるが、まさかこう来るとは思っていなかったのだ。
「で、でもあの場所――」
 真宮寺一族以外は入れない、そう言いかけたところへ、
「構わぬ、お通ししなさない」
「お、お母様!?」
 ひょっこり姿を見せたのは、若菜の母桂であった。普段は若菜以外、殆ど聞き取れない言葉なのだが、若菜に命じたのは至極普通の言葉である。
「御前に言われた事、忘れたのかい?」
「い、いえそれは…」
「祖母から何か連絡が?」
 シンジの表情は変わらないが、言葉の中にかすかな針に似た物が含まれた事に、黙って眺めていた従魔だけは気づいている。
「ご挨拶が遅れました。真宮寺桂と申します。シンジ殿、さくらがいつもご迷惑を掛けておりますようで」
「いえ、そんな事はありません。内に秘めた能力は真宮寺の名に少しも恥じない物でしょう。後はそうですね、暴走しない事です」
 くっくと桂が笑ったが、若菜は信じられないような表情であった。いつも厳格だった母であり、まして初対面の相手にこんな表情など間違っても見せる女性ではない筈だ。
「さくらの事、よろしく頼みましたよ」
「はい」
「それと、御前からは連絡はありません。ただ、娘達はいずれすべて孫息子に任せると入寮時から告げられています」
「孫息子〜?」
「他に居ないのでしょう?」
「ええ、居ませんけど…」
 シンジと指名すると自分が嫌がるに違いないが、孫息子と言っておけばもう一人生まれた時そっちにする気だと言い逃れ出来る。
(考えおったな)
 ちゃんと予測しておったわ、と思った途端、製造元はもう行方不明になっていた事に気が付いた。
「あの老――」
 謀ったな!と言いかけて止めた。
 行方不明であって死んだのではないし、それに人の家で騒いだりするものではない。
 咳払いして、
「失礼しました。えーとそれで?」
「若菜、シンジ殿を墓所へご案内して。シンジ殿…よろしくお願いします」
 深々と頭を下げた桂に、驚愕の表情を見せたのはシンジであった。
「分かった…のですか」
 実のところ、自分が自慰の対象になっていると聞かされた時よりも、驚きは数段上であった。
 若菜は何も分かっていないのが明白だし、まして途中でやって来た老婆にいきなり見抜かれるとは思っていなかったのだ。
「五精使いが墓巡りに仙台へなど来られないでしょう。また、墓見物で行かせる黒瓜堂のオーナーでもないでしょう」
(!?)
 桂の口から黒瓜堂の名が出た時、シンジの中で何かが繋がった。
(まさかあの中身は…そうか、そう言う事か)
 点と線が繋がったシンジは頷いた。
「引き合わせは私の仕事でも、その後は範疇外です。でも仕掛けたのが黒瓜堂のオーナーなら、おそらく問題は無いはずです」
「はい…」
 ゆっくりと頷いてから、
「若菜、あまりお待たせするものではない。急ぎなさい」
「は、はい」
 一人蚊帳の外に置かれていた若菜が、慌てて立ち上がろうとするのを、シンジは手を挙げて制した。
「え?」
「あなたに言っておく事がある」
「な、何でしょう」
「俺はあなたを抱く気はない」
「!?」
 いくらシンジでも悪ふざけが過ぎる。思わずきつい視線になってから、何となく母に視線を向けた。
 表情が変わっていないような気がしたのだ。
 ちらっと視線を向けると、やはり平然としている。
 それどころかシンジに向けている視線は、あまりにも穏やかではないか。
(どういう事なの…)
 シンジは続けて、
「ついでに、身体貸すのもお断り」
「……」
「でも黒瓜堂の旦那が失敗したのを見た事は、今までに一度もありません。では、案内して下さい」
 すっくと立ち上がって玄関に向かったシンジの後を追って、若菜は慌てて立ち上がったのだが、
「若菜」
「は、はい」
 呼び止める声に振り向き、またしても愕然とする羽目になった。
 一馬が死を賭して帝都に赴き、そして物言わぬ遺体で戻った時にも、涙一つ見せなかった母の目には、確かに涙があったのだ。
 流れる涙を拭おうともせず、
「私は行かぬ故、よく見ておおき。おそらくこれが最初で最後だよ」
「お、お母様?」
 若菜が首を傾げるのも当然だが、
「お前には言っても分かるまい。自分の目で見ておいで。さ、行ってきなさい」
「はい…」
 若菜が外に出ると、シンジは携帯で電話中であった。
「分かった、やってみる」
 通話を切ってから、
「ここから距離は?」
「十五分ほどですわ。さ、こちらです」
 先に立って歩き出した若菜の後にシンジも続いた。
 
 
 
 
 
 シンジが仙台で度肝を抜かれたり疲労したりしている頃、女神館は夕食の時間を迎えていた。
 食事はマユミ一人に負わせると、シンジから言われていたからもう気持ちの準備は出来ていたが、何と言ってもシンジの代役だけに気が気じゃない。
 自分がシンジに遠く及ばない事は、最初から分かり切っているのだ。食材だとかそんな物には関係ないらしいから尚更である。
 住人達がぞろぞろと降りてきたが、ふとレイが妙な事を言い出した。
「すみれちゃん、ナプキンは?」
「え?持ってませんわよ。最近は使ってないでしょう」
 シンジが来るまで、別に取る事も多かったすみれは食事の時、いつもナプキンを使用していたのをレイは知っている。
 がしかし、
「つまりすみれは食べ物をポロポロこぼすのね。もうちょっと器用になった方がいいんでナーイ?」
 無論皆の前ではないが、二人きりの時面と向かって言われ、真っ赤になって以来一度も使っていない。
「たまには使った方がいいと思うよ。部屋にはあるの?」
 レイがこんな事を言うのは珍しい。余計なお世話とかは好まないレイなのだ。
「部屋にはあるけれど…」
「じゃ、マユちゃんに持ってきてもらってよ。ほら早く」
(?)
 少し前までのすみれなら、間違いなく怒り出していたに違いない。
 だが今のすみれは違う。一方通行ながら、想い人に価値観を根底から否定され、一から作り直している最中なのだ。
 すう、と息を吸い込んで、
「いいわ、そこまで言うのならマユミさんお願いしていいかしら」
「あ、はい分かりました。お部屋のどこに?」
「机の横のキャビネに乗っているから、持ってきて下さいな」
「はい」
 マユミが出ていった後、
「おいレイどうしたんだよ。普段なら、こんな事言わないじゃねえか」
 声を掛けたのはカンナだが、カンナの言葉は皆の思いと等しい物であった。
「分かってるよそんなこと。すみれちゃんごめんね」
「え?どういう事ですの」
「本当はね、ナプキンなんてどうでも良かったの。ただ、マユちゃんを外したかったんだ」
(そう言う事ね)
 レイの台詞でマリアだけが気づいた。
「論より証拠、アスカ少し食べてみて」
「あたしが?」
「そ。そしたら分かるから」
 レイが指したオニオンのグラタンスープはほんのりと湯気を立てており、丹念に炒められたタマネギを見るまでもなくいい匂いが漂ってくる。
「どうしたのよ一体」
 奇妙な行動にぶつぶつ言いながらも、スプーンですくって口に入れた。
「何よ美味しいじゃ…ん?」
「どうしたんですのアスカ」
「おいしくなかったの?」
 マリア以外の娘達は怪訝な顔をしているが、
「アスカ、分かったでしょ」
 レイは当然と言った表情である。
「あんた、これ分かってたの?」
「知らないよ」
 首を振ったレイに、
「ちょっとどういう事ですの。ちゃんと説明して下さいな」
「すみれちゃんにはつまみ食い、なんて出来ないだろうからアスカにしてもらったんだけどね。アスカどうだった」
「何て言うか…微妙に違うのよね」
「微妙に違う?」
「シンジの事だから、多分これこれの材料をこうやって作れって、レシピ集は渡していったと思うのよ。で、マユミもその通りに作った」
「どうしてそれで失敗するの」
「失敗じゃないわ。女が彼氏を家に呼ぶ時は、十分陥落可能な味の筈よ。ただ…あたし達が慣れすぎたのよ」
「!」
 その一言で他の住人達も事態を知った。
「それって、おにいちゃんの作るご飯って言う事?」
「…そう。シンジと同じ手順とやり方だから、逆に分かっちゃうのよ」
「そう言う事。でもさ、仕方ないじゃない。マユちゃんは一生懸命やってくれてるんだし、シンちゃんと同じ物は多分誰にも出来ないよ。材料とか手順とかは関係ないみたいだし」
「レイ、わたくし達だってそんな事は分かってますわよ。マユミさんにおいしくないなんて、言うわけが無いでしょう」
「誰もそんな事は言ってないよ。さっきのアスカ見れば分かるでしょ」
「アスカ?」
 言われて気づいた。
 一口食べた時の、数秒経ってからの微妙な表情を。
「別に余計な事言うなんて思ってないよ。でもさ、シンちゃんの代わりでどこまで出来るかって、不安になってるマユちゃんの前で微妙に表情が変わったら、すぐに気づくでしょ」
「そ、そうね」
「別に不味い訳じゃないんだからさ。ただ、シンちゃんが尋常じゃない物を作れるだけだよ。みんなもその事は忘れないでね」
「分かってるわレイちゃん。マユミが一生懸命やってくれてる事は、このスープ一つ見たって分かるもの。あたしだったらこんなの面倒だから、碇さんに頼まれても断っちゃうし。すみれさんに嫌味とか言われるの嫌だもの」
「わ、わたくしがそんな事言うわけないでしょう。あなたこそ、こんな上手に出来る自信がないだけでしょう」
「でも、すみれさんより上手に出来ますけどね」
「何ですってそこまで言うなら――もご」
「そこでまよ、二人とも」
 すみれの口をすっと抑えたのはマリアであった。
「皆でする食事なんだから、さくらも絡んだりしちゃ駄目よ」
「すみません」
「シンジに聞かれたら、“ほほーう。じゃ、俺より上手く作れるってかい。出来なかったら二人とも全身を縛ってくすぐってやるぞ”って言われるに決まってるんだから…どうしたの?」
「マリア…シンジに口調がそっくりだった」
「まるで碇さんがいらっしゃるみたいですわ」
「そ、そんな事無いわ。気のせいよ」
 慌てて取り繕ったが、
「マリア、顔赤くなってるぜ」
 部外者が一番タチが悪い。
「カ、カンナっ!」
 今度こそ赤くなってしまい、やはりヤツがいないと収集付かないのかと思われたところへ、
「あの、持ってきたんですけど…」
 姿を見せたマユミに、住人達は蜘蛛の子を散らすようにささっと席に着いた。
 マユミの話をしていた為、少しきまりが悪かったのだ。
 皆揃って食べ始めたのだが、他の住人達は知らなかった。
 マユミがそんなに鈍くない事を。
 レイにいきなりおかしな事を振られ、そのままホイホイと出ていくような娘ではない事を。
 そして部屋を出たマユミが、会話をすべて聞いていた事も知らないのだった。
 ただ、皆が感謝してくれている事を知り、きゅっと熱くなった目頭の処理に追われ、戻ってくるのに少々時間が掛かったのだ。
 
 
 真っ白な月が空から見下ろす中、提灯一つですたすた歩く若菜を見てシンジは感心していた。
 さくらと違って武道はやっておらず、身体もそんなに鍛えてはいない筈なのに、シンジを先導して歩く足取りはシンジに遜色ないどころかそれ以上だったのだ。月が出ているからと言って、足下まで照らされているわけではない。
 大したもんだ、と内心で呟いた時若菜の足が止まった。
「ここですわ」
「ん」
 案内された先は林の中であり、いかにも人目を避けた場所であった。
 何よりも、周囲を囲むように張られた結界の存在をシンジの感覚は掴んでいたのである。
「主人の墓はここですの」
 墓石は特に大きくもなく、卒塔婆も一本立っているだけで代々の者が眠っている場所とは異なるらしい。
 それでも墓石が新品同様に綺麗なのは、若菜や桂が丹念に清掃しているからだろう。
 線香の上には雨除けが置かれ、決して絶やす事のないようにされている。
 墓石自体ならまだしも、線香に雨除けなど珍しい。
「眠ってるのはご主人だけで?」
「そうです」
「分かりました。ちょっと失礼」
 ポケットからチョークのような物を取り出すと、シンジは墓石の周辺に何やらごそごそと描き始めた。
 結界に似ているが少し違う。
 墓石の周囲に書いていくのだが、これで雨だったり墓石が苔だらけだった日には、遺族は何をしていたのかと小一時間問いつめるところだ。
 何をしているのか、とも言わず若菜は黙ってみていた。
 母の態度で何かあると感じていたのだ。
 数分で書き終わったシンジは墓石に手をかざした。
「急急如律令。我が名に於いて命ず。この地に縛されし霊よ速やかにその形を表せ」
 若菜は、その時起こった事を一生忘れる事はあるまい。
 晴天俄にかき曇り、凄まじい音が鳴り響いたかと思うと三条の雷が墓に落ちたのである。光と音が若菜の感覚を狂わせ、思わず耳をおさえ目をぎゅっと閉じてしゃがみ込んだ。
 しかし続かない。
 凄まじい出来事は一瞬で終わり、また元の静寂が訪れた。
「本当はもっと面倒なんだけど、多分意志があると思ったんだ。ほら起きて起きて」
 まるでさくらに言うような口調だが、無論そんな事は知らない。
 ぽんと肩を叩かれた若菜が怖々目を開ける。
「!?」
 次の瞬間、その双眸はかっと見開かれた。
 あり得ない。いやあってはならない筈だ。
 幽冥境を異にした者との再会は、あの世でのみと決まっているのだ。
 だが――。
 輪郭は完全ではないが、若菜の前にいたのは間違いなく夫真宮寺一馬であった。
「成仏しないで地縛霊になってると踏んだんだ。俺じゃなくて旦那だけど。ただ、霊魂だから実体はないんで抱きつけないけどね」
 俺はあなたを抱かないし身体を貸すのもやだ。
 シンジの奇妙な言葉と目の前の現象が符合する。
 しかしそれも一瞬の事で、
「あ、あなたっ!!」
 若菜の叫びが聞こえたのか、一馬の姿をした者はゆっくりと目を開いた。
「若菜…か?」
 溢れる涙は言葉にならず、ただ首を縦に振るだけの妻に一馬はゆっくりと頷いた。
「成功したようだな」
 ふむと頷いてから、
「言葉に不自由はないか?」
 呼び出した霊に対しては少々奇妙とも思える言葉を掛けると、
「大丈夫です」
 数秒経ってから言葉が返ってきた。
「ありがとうございます。碇さん」
「私の名前を?」
 シンジが操っているわけではないから、現世の知識はないはずだ。
 だが一馬は固有名詞を口にした。
「一部が地縛霊ですから」
「あ、そうだった。じゃ、俺はちょっと電話してくるから」
 シンジがくるりと背を向けてから、一馬は若菜を見た。
「地縛霊とは言え、全部を知ってはいないのだ。若菜、さくらは元気にしているか?」
「はい…」
 やっと涙を拭った若菜が大きく頷く。
「あなた黒瓜堂さんから…」
「分かっている」
 一馬は頷いた。
「碇さんには知っておいてもらわねばならぬ。ご両親の事、そして御前様の事も。このままでは、あの方は道を踏み外しかねない」
 瞑目したまま厳しい表情で口にした一馬に、若菜も頷いた。
「それより若菜、随分と迷惑を掛けてしまったね」
 一馬の言葉に若菜は激しく首を振った。
 最愛の夫であり、自分にとっては最初で最後の異性であった。一馬亡き後、再婚話は随分とあったが、すべて一蹴してきた。
 文字通りたった一人の男(ひと)だったのだ。
「若菜、ここへおいで」
 すっと移動した一馬の元へ歩み寄った若菜が、抱きつこうとしてその手が空を切る。
「残念だが肉体はないんだ。でも、このままでもお前の温もりは十分伝わってくる。もう一度…もう一度会えるとは思っていなかった…」
 喩えそれが、生者と霊魂という関係であったとしても。
 一馬の言葉に、若菜の目にまたしても大粒の涙がわき上がり、また一馬の目にも光る物があった。
 これが完全な成仏霊なら、いくらシンジでも呼び出すのは無理だ。
 だとしたら、黒瓜堂の主人は真宮寺一馬が未成仏霊だと知ってシンジを行かせたのだろうか。
 いや、それよりも降魔大戦以降会っていない筈だ。
 それなのに、どうして一馬の状態を知り得たのだろうか。
 だが今の夫婦に取って、そんな事はどうでも良かった。
 失われた時間を少しでも取り戻し、そしてこの短い逢瀬を少しでも無駄にするまいとぴたりと寄り添っている姿を、月が優しく照らし出していた。
 呼び出した張本人は、一向に帰ってくる気配がない。
 
 
 
 
 
(つづく)

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