妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百三十二話:謝って酩酊する五精使い
 
 
 
 
 
 好きとか嫌いとか、愛してるとか憎悪してるとか。
 そんな事ではないのだ。
 ただ、マリアタチバナと言う娘に取って、碇シンジという青年は初対面からとんでもない出会い方であった。
 初めましてこちらこそ、そんな事ではなく、満身創痍で崖から落ちたのをシンジに救われ、一体でも大苦戦していた敵をあっさりと片づけられた。
 自分の生き方を根本から否定した男も初めてなら、ここまで惹きつけられたのも無論初めてであった。
 途方もない強さを持っているくせに、正義にも覇道にも興味が無く、喧噪から離れて世界の遺跡を巡っているというのもマリアには合った。これで、強さのみを頼りに粋がるような性格なら、マリアはさっさと唾棄して離れていたに違いない。
 自分が初めて好きになり、そして初めて絶頂を迎えた相手――ただし、自分は処女のままで。
 過去は消えない。そう、どうやってもだ。
 目撃者と証拠を全部消しても、過去が消えた事にはならない。
 もう一度、あの時のような関係になりたいとも、またなれるとも思っていない。
 だが、シンジが自分を抱き締めて謝った時、命じてもいないのに勝手に上がってきたのだ――大粒の涙が。
 出ていって、ではなく後ろ向きで出て行ってと枕を投げてしまったのは、シンジにだけは涙を見られたくなかったのだ。
 そう、例えそれが寝起きのものかと勘違いされる可能性があったとしても、だ。
 ただし、シンジの身体にそっと回された腕は、本人が意識してのものではなかった。
 
 
 
 
 
 ソファの上で、あるいはベッドに突っ伏して眠り込んだ住人達を、シンジはよっこらしょと担いで寝かせた。
「たまには雑魚寝もいいモンだ」
 冷えすぎぬようにタオルケットを身体に掛けてから、シンジは館を出た。
 帝劇に着くと、椿が接客中で、後の二人はせっせと掃除に励んでいた。
「あ、碇さんお早うございます」
「おはよう。売店に来てるのは客?」
「はい。舞台公演が無くても、売店に来る方はおられるんです。それと、御前様がそろそろ業務用に調整するようにと言われましたから」
「業務用?」
「舞台の公演が近いって言う事です。マリアさんとカンナさんも戻ってこられて、マリアさんもだいぶ元気になられたみたいですから」
「一応な。ま、ほっときゃその内元気になったでしょ」
「碇さん、ちょっと冷たくないですか?」
「そんな事はナイ。それより、舞台って何やるの?」
「いつも配役発表まで伏せられてますから、私達も訊いてないんです。碇さんはご存じなかったんですか?」
「ない。別に、舞台には興味ないからね。花組の方でいい物作るでしょ…何?」
「碇さんて、もっとそう言う事に興味があるかと思ってました。舞台とかお嫌いなんですか?」
「何でそうなるのさ。別に好きじゃない=嫌いでもないでしょ。ただ、文明的な事ってあまり興味がないの」
「『文明的?』」
「例えば草原で寝転がって昼寝したり、すっかり埋もれた遺跡を掘り返して、中にあったお宝を譲り受けたりとか」
「あ、あの碇さん…」
「何、椿?」
 遠慮がちに口を挟んだ椿が、
「そ、それってちょっとまずいのでは…。い、一応そういうのって国の物って決まってますし、やっぱり頂いて来ちゃうのはどうかと…」
「ふーん。ところで、ああ言う所の遺跡って結構宝玉類が多かったりするんだ。で、それをアクセサリーに加工して持ってくると、うちのメイドさん達が大歓喜。俺様ラッキーデイ。でも君らには興味ないよね、そんなモンだから。じゃ、俺はこれで」
 身を翻した途端、きゅっと袖を引っ張られた。
「なあに?」
「あっ、あのそのっ…え、えっと…」
「要るの?」
 シンジが訊くと、そろって頷いた。光り物が乙女に取って結構なジョーカーに成りうると言うのは、相変わらず変わっていないらしい。
 劇場を出たシンジの表情は厳しい物に変わっていたが、その横に音もなくジャガーが滑り込んだ。
「若、お乗り下さい」
 すらりとした長身を見せたのは黒木であった。
 シンジは見ようともせず、
「いい、歩いていくから」
「歩くには少々遠いでしょう。若、どうぞ」
「……」
 シンジが乗り込むと、車はまた滑るように走り出した。
「部下から聞きました。住人の一人が拉致されたと」
「何と言ってた?」
「奇妙な格好をした男が、娘と同じ格好になって拉致していったようです。余り奇妙だったので覚えていたようですが、奇妙過ぎて何かのゲームだと思ったと言っておりました」
「それ自体は大した事じゃない。ただ、俺の間抜けさのせいでマリアを失う所だったかと思うと、うんざりしてくる」
「力押しにせよ外圧にせよいずれにしても――」
 言いかけた黒木に、
「俺が復讐するとか思ってるだろ」
「若?」
「そこまで俺は身の程知らずじゃない。間抜けな住人に、銃の使い方一つ教えられなかった間抜けな管理人が悪いのさ。そう言えば黒木、確かお前も素手の相手には銃を向けなかったな」
「ええ」
「自分が刃物の向けている相手から指鉄砲を向けられても、精神異常者だくらいにしか思われないが銃は違う。このご時世、銃の威力はあまりにもポピュラーだ。そんなモンに頼るしかないってのは、所詮能なしの証拠だ」
「……」
 珍しく荒れておられる、そう思ったが口にはしなかった。
 マリアが拉致されたのは知っているが、無論その原因は知らない。
 嫌がらせと宣戦布告が半々位だろうと読み、だからシンジを一人では行かせないと朝から張っていたのだ。
 だが違うらしい。
「黒瓜堂は、店員資格を持ってる連中が魔人揃いらしい。俺が行ったらあっさり討ち死にだと、ドクトルシビウに太鼓判を押された」
 シンジの言葉に黒木の表情が動いた。
 あの魔女医が、戯言や脅しでそんな言葉を口にするとは思えない。現代医術の粋を尽くしてもなお消えなかった自分の傷跡を、いとも簡単に消して見せた事を黒木は鮮明に覚えている。
 自分の目が曇ったかガラスと化したかでもなければ、あり得ない話だ。
 しかし、そうなると何の為に?
「お詫び行脚」
「は?」
 シンジに心中を読まれることは珍しくないが、急な不意打ちに一瞬黒木の表情が揺れる。
「若、今なんと?」
「だから、ウチの馬鹿マリアが大変ご迷惑をって謝りに行くの。イーイ?あそこの罠は俺も何回か嵌ったけど、まだ解明出来てないの。マリアの姿で、なおかつ結界すら通り抜ける程瓜二つに変身出来るやつが女神館(ウチ)に入り込んだらどうなると思う?」
「は、入られたのですか?」
 黒木の声が刹那上擦ったのは、決して鍛錬不足からではない。登録されていない者が結界を超えようとしたらどうなるか、既に黒木は自分の目で見ているのだ。
 つまり登録された者以外は決して通れず、それはすなわち本人限定という事になる。
 それを破られもせず、あっさりと通り抜けたというのは尋常な話ではない。
「入られた。でもってチューされた――失神効果付きのやつを」
「それで他には」
「いや、後はない。ウチの娘達を二人、半裸にして俺の床に押し込んだだけで。完全に伸びてる娘が、それも二人も自分で半裸になれるはずはないからな。いずれにしても、力まではコピー出来ないかも知れないけど、碇シンジが住人達を殺していったらあっという間に壊滅しちゃう」
 確かに、ご飯だよと全員を呼び集め、食事に毒を盛っておけばあっさりとコロリである。何の力も必要ない。
 シンジに僅かながら焦燥があるのはそのせいだ。
 単に結界を破られたとか、そんな事ならまだしも、完璧なコピーと言うのはこれ以上にない脅威になる。
「それと黒木」
「はっ」
「マリアが事情を知ってれば銃など向けなかった。要するに、奴が悪くて俺のせいなのさ。着いたら起こして、少し寝るから」
 真宮寺さくらと山岸マユミ、この両名の帯刀をシンジが合法化させたのは黒木も知っている。彼女達が事件でも起こしたりさえしなければ、帯刀が問題になる事はない。
 だが今回問題になった娘が銃を所持しているのは、シンジから手が回っていない。つまり、銃刀法にしっかり違反しているのだ。
 無論、黒木もそんな事に口出しする気はないが、シンジが手を回さないのは、単に好みの問題とかそんな事ではあるまい。
 シンジが言った通り、銃を持たぬ者には銃を向けぬ事を、黒木は自らに厳しく課してきた。
 相手の数、武器を問わず貫いてきたのがこの男だ。
 しかも、横で寝ているヤツとは違い、銃が無ければ文字通りの素手なのだ。
 黒木からそれを聞いた時、無茶をするやつだと、シンジは大笑いした位だ。シンジの場合には、騎士道みたいなものではなく、代替を十二分に持っているからであって、黒木とは根本的に違う。
 とは言え、素手の者が銃を向けられた場合、どう感じるかについて二人の意見は一致していた。
 生き方は正反対に近い二人だが、最強の名を背にしていた男は、五精を操る青年の後見役のような立場になっている。
 シンジと会っていなければ、想像も付かぬ場所で予想も出来ぬ相手に横死していたのは間違いないが、それ以上に銃はおろか肉体や武器さえ不要と言ってのけるシンジの生き方は、強烈なショックであった。
 シンジの方も、黒木が気に入って引き抜いた。
 現在妊娠している黒木の妻狭霧は、夫が前線から引いてくれる事を願ってはいたが、黒木がシンジに惹きつけられたのを知り、当初は心穏やかでなかったのだ。余計な口出しをして、棺桶に片足突っ込んだのも半分近くは妬心である。
 夫に叱られたのだが、妻を大切にしている黒木なら当然であったろう。シンジが怒ったのなど見た事はないが、万が一怒らせたなら、西部劇よろしく銃の撃ち合いでもなければ遙かに及ばない。
 何とか事なきを得た時、黒木は心から安堵したのだ。
 横で眠っているシンジに視線を向けてから、黒木が軽くアクセルを踏み込む。素直に反応した漆黒の巨体が、滑るように飛び出していった。
 
 
 
 
 
「姉さん、どうしよう…」
「………」
 ピンチで気弱で負傷状態なのは来栖川姉妹であった。
 最凶で最強のオカマ、ボン・クレーが黒瓜堂にすっ飛んで行ったのはやむを得まい。
「友達(ダチ)の危機なのよーう!」
 と言われては止める術もないからだ。
 がしかし。
 ここ最近、メイド型ロボットの開発に絡み、結構恨みを買っているとの情報が入っていた。
 ボン・クレーなら一人で十分と、父母も祖父も任せきっていたのだが、居ない時を見計らったかのようにいきなり襲われたのだ。
 それも学園内で、しかもスーツ姿と溢れる殺気に身を包んだ女達に襲われたのだ。これが柄の悪い男ならまだしも、女だという事で警備も隙を突かれたのだろう。
 何とか四人は倒したものの、姉を庇っているのが大きく綾香も手傷を負い、用務員室に二人して逃げ込んだところである。
 携帯は繋がらないし緊急用の無線機は置いてきた。
 ボン・クレーの圧倒的な強さに用済みになっており、そのまま置いてきてしまったのだ。自分達を拉致して埋めて殺して犯す――用件が自分達で終わるならまだしも、拉致して祖父に何かを要求する事など決してさせられない。
 姉に妙な霊を呼び出してもらうのが手っ取り早いが、いかんせん追われたせいで道具が全くない。
「それにしてもボン・クレーが居ないとこんなに脆いなんて…」
 傷む左足をおさえながら呟いた綾香だが、ボン・クレーが強すぎるのだ。店員ではないが、ボン・クレーもまた黒瓜堂の一味なのだ。
 しかし、自分はともかく芹香が気になる。こんな所にいつまでも居られないし、自分が犠牲になっても血路を開いて、と決意を固めた途端、悲鳴が聞こえて二人はびくっと身を震わせた。
 てっきり関係ない生徒が巻き込まれたかと思ったのだ。
 こうなってはもう一刻の猶予もないと綾香が飛び出そうとした途端、ドアは勝手に開いた。
「痛っ」
 前につんのめった姿がにゅうと伸びた腕に抱き留められ、
「トイレ我慢出来なくなったわけぇ?」
「ボ、ボン・クレー!?」
 二人の待ち侘びた姿がそこにあり、いつもの表情で見下ろしている。
「そ、それよりさっき悲鳴が聞こえたのよっ。きっと誰か生徒が…」
「生徒ってアレかしらねーい。生徒って言うにはちょっと年食い過ぎじゃナーイ?」
「え?…あっ!」
 綾香の視界に飛び込んできたのは、山と積まれた女達であり、どれもこれも半殺し以上の目に遭っている。
「がーっはっは、こんなんでアンタ達を拉致しようなんて350年早いのよーう!」
 大口を開けて笑ってから、
「黒ちゃんの方は取りあえず終わったから飛んできたのよう。怖かった?」
 何も言わずボン・クレーの服に顔を埋めた綾香の頭をよしよしと撫でてから、
「芹香、アンタも帰るわよう。それから芹香」
「?」
「死体が出たからね、ちゃんと隠蔽工作頼んでおくのよう。黒ちゃんの所とは違うんだからね!」
「……はい」
「峰打ちじゃなかったの?」
 上がった顔にはもう、涙の痕など微塵も見られない。
「表にいた連中は拳銃持ってたのよう。それにあちしも、黒ちゃんが甘いからストレス溜まってたし、ちょうど良かったわよう」
 がーっはっはっはと大笑いしてからギヌロと周囲を一瞥し、ゆっくりと歩き出した。
 なお、表で待機していたガード達が壊滅したと二人が知るのは、屋敷に戻ってからであった。
 
 
 どうやって切り出そうかとやって来たのはいいが、珍しい物が手に入ったからまずはどうぞ、そう言って琥珀色をした芳醇な香りのする酒を勧められたが、三杯重ねてもマリアの事にはまったく触れようとしない。
 それどころか、
「そう言えば、魔界の訪問はどうなっていますか?」
「魔界?」
「ええ、住人の皆さんを連れて行くのでしょう。素材の持ち味を引き出すのに、あそこ程相応しい所はありません。私も少し長居出来るようになりました」
「あ、なったの?どれ位?」
「行って草木を採取して帰る位なら大丈夫です。私は魔力なぞ持っていませんから、適応用に内服薬を作ったんです」
「いいな、そう言うのを作れる人は」
「持って帰ります?」
「ううん、それはいい。ウチの連中が伸びないから。あ、あのそれで…」
「何です?」
「この間マリアが…」
「マリア?ああ、君の彼女か」
「お、俺の彼女じゃっ…」
 不意に主人の口調が変わった。
「ただの住人なら棺への封印程度で終わらせる要はない。うちの店員に引き渡しても構わないな」
「ちょ、ちょっと待ったそれは困る」
「冗談ですよ。別に殺す必要など無いし、それに次回までには調教も済んでいるでしょう?」
 緩んだ口調にシンジはほっとした。
「も、勿論ちゃんと調教を…調教?」
「調教。無理ですか?」
「やっときます」
「結構です。さ、堅い話はここまでにして、飲んで下さい」
「あ、頂きます…あれ?」
「何か」
「なんかこれ随分回って…まわる…ふきゅ…」
 ぽてっと倒れ込んだシンジを一瞥し、
「さっきまでのは普通のコニャック。で、今のは特別製のワイン。二杯持ったら人外ですよ」
 ろくでもない事を口にしたところへ電話が鳴った。
「私だ」
「がーはっはっは!あちしよーぅ!もしもし〜もっしぃ〜!」
「お二人は無事か?」
「何とかねーい。変な女達に追っかけられてたから助けといたわ!まったく綾香のやつあちしに泣きつい…いたた、何すんのよーう!」
 電話の向こうでつねられたか何かしたらしく、
「い、言っとくけどあんた、あたしは泣いてなんかいないからねっ」
「綾香嬢、お久しぶりです」
「あ、あれっ黒瓜堂さんっ?」
「私ですわ・た・し」
「や、やだあたし他の誰かと思っちゃってその…」
「いいですよ、構いません。それより、傷は大丈夫ですか」
「な、何で知ってるの?」
「来栖川重工総帥の孫娘を誘拐するプランがあると噂で聞いていました。お二人とも無傷ならボン・クレーが助ける事もないでしょう。そんなにひどくはありませんね」
「ええ、大丈夫。本当はその…ボン・クレーが来てくれなかったらちょっと危なかったのよ」
「それは良かった。変態のオカマだが、あれでも腕はその辺のボディガードに数十倍します。当分は貼り付けておきますから」
 言った途端、
「ちょっと黒ちゃん!変なオカマってナニよーう!今度帰ったらオカマケンポーよオカマケン…あっ!」
 途中で切れたのはおそらく綾香が回線を切ったのだろう。
 うっすらと笑って受話器を置いたところへ、祐子が入ってきた。
「潰れました?」
「寝てます。従魔は結界で封じてありますから、出てきて暴れられもしないでしょう。ところでどうやってここへ?」
「黒木豹介氏が送ってきたようです。さっきジャガーが戻っていきました。どうして待たなかったのかしら」
「シンジ君が帰したのでしょう。それにしても、入ってきた時の気からして妙な覚悟をしてきたようです」
「覚悟?」
「うちの罠に落とされる位は考えていたのかもしれません。あの娘が捕まった事で、私が怒ってると思ったのでしょう。住人の不始末まで気を回さなきゃいけないし、管理人というのも大変です」
「オーナーそれはいいんですけど…この子いつ起きるんですか?」
「八時間後。五精使いには休息が必要だ」
 
 
 主人の言葉通り、きっちり八時間後にシンジは目覚めた。
 酒の副作用なのか過去が次々と夢の中に、それも鮮明に映し出されたシンジは、微妙な表情で起きてきた。
「イイ夢を見ましたか?」
「何となく」
「痴情の夢?」
「…夢を透視したの?」
「顔が赤くなってます」
「嘘っ」
 きゃっと慌てて顔をおさえたシンジに、
「それは嘘です」
「え?」
「あれは、眠りについた人がもっとも気になっている事を夢に出す作用があります。夢に見たのは、シンジ君が今一番気にしている事ですよ」
「ふーん…」
「或いは、残存思念が最も強く残っている事かのどちらかです。元々は恋人達の試験薬に使うものです」
「試験薬?」
「別れようか迷っている二人にこれを飲ませ、双方が相手の事を一番強く夢に見れば、そのままくっつかせます。薄まっていればさっさと別れさせます。無論、夢の内容はスキャン出来ますから」
「出来るのっ!?」
「出来なければ判断出来ないでしょう」
「ご、ごもっともで」
「さ、そろそろ帰らないと住人の皆さんが起きてきますよ」
「起きてるって…俺言ったかしら」
「ここへ来た時、妙な気が漂ってました。無事に帰れない事も想定してやって来た、そうじゃありませんか?」
「実は」
 シンジはあっさりと認めたが、
「愚かな住人の咎を管理人に求めたりはしませんよ。それに、あの娘が私に銃を向けたのは今でも誰かさんの事が気になってるからです。そんな事で死体を作るほど、うちは暇じゃないんです」
「あの…」
「何ですか?」
「今度マリアを俺の使いでここに来させ…な、何でもないの。うん」
「よく聞こえなかったが、気のせいかね?」
「き、気のせいです」
「結構だ」
 主人は頷いた。
 シンジが口にし掛けた途端、明らかに殺気と同種の物が背筋を撫でたのである。
「帰ります。俺はこれで」
「出口はあちらだ。時折たどり着けないヒトが出るが、君なら問題あるまい。お気を付けて」
 強いか、と言えば強くはあるまい。
 霊力はおろか、魔力さえ持っていない相手だし、格闘技などやっていそうにもない。
 だが、どこか不気味なのだ。
 そもそもただの一般人が、ドクトルシビウをして魔人と言わしめる者達を、それも店員にして使っているなど尋常ではない。
 しかも店主に銃を向けたと、もう少しでマリアはあの世行きになる所だったのだ。
 結構杯を重ねたにもかかわらず酔っていないのは、酔いの方で勝手に抜けてくれたからだとシンジは気づいている。
 背中を這った何かが酔いを覚ましてくれたのだ。
 店の外へ出ると歩き出すと、音もなく車が寄ってきた。
「来たか」
 黒木の姿を認めても、シンジは驚いた表情も見せなかった。
 本革のシートに身を沈めると車は走り出した。
 しばらく走ってから、
「ご無事で何よりです」
「ん。怒ってなかったみたい…多分」
「多分?」
「イイ夢を見れた…らしい。あそこの旦那は、俺が電話出来る希少な人だから、取りあえず怒らせたくないの」
「どういう意味です?」
「こんな目に遭ったとかあんな目に遭ったとか。普通なら愚痴とかぼやきで済むんだけど、俺の場合はえらい事になる場合があるし。他の人にはまず話せない。あそこに縁切られたら俺のストレスどうしてくれるんだ。それより黒木、帰りも寝てく。今度は…夢無しがいい。じゃ、おやすみ」
「分かりました」
 黒木の調査では、黒瓜堂というのはあまりシンジを深入りさせたい場所ではない。店員と主人はともかく、扱っているのもかなり暗黒な物だと調べ上げていた。
 とは言え、シンジがここまで言う以上、近づくな等と言った日には自分が遠ざけられかねない。
 それに、シンジとてもう子供ではないのだ。
 交友関係位自分で選ぶだろうと、喉元まで上がってきた言葉をぐっと飲み込んだ。
 
 
「ん、んん…」
 メンバー達の中で、最初に目覚めたのはさくらであった。
 うっすらと目を開けたが、その先にいるシンジに気づき、瞬時に意識は覚醒した。
「い、いか…」
 自分達に何か盛ったのはシンジに間違いなく、一体何をしたのかと起きあがろうとした途端、いきなり唇を重ねられた。
「んんっ!?んんんーっ!!」
 起き抜けだから勿論顔も洗ってない。
 おまけに夢を見て涎だって出ていたかもしれない。普段はして欲しいとおねだりするさくらもさすがに抵抗したが、まったく隙はなくあっという間に柔らかな舌を絡め取られてしまった。
 こうなるともうシンジのペースであり、好きなようにねぶられていると、ふにゃふにゃと身体から力が抜けてきた。
 間もなく、くてっとさくらが倒れ込んでくるのを確認してシンジは唇を離し、
「ごちそうさま」
 あまり思ってないような口調で言うと口許を指先でぬぐった。
「さくらちゃんて感じやすいんだよね。可愛い」
 くすっと笑ったシンジだが、これはもうどう聞いても、褒めたり、少しだけからかっているそれではなく、さくらの顔が羞恥と怒りで真っ赤になるまで数秒と掛からなかった。
 手をぷるぷると震わせ、
「い、い…碇さんの馬鹿ーっ!!」
 いきなり抜刀したさくらを見たシンジは、にっと笑った。
 
 
 
 
 
(つづく)

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