妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百三十一話:調教される仲には非ず
 
 
 
 
 
 とっ捕まえに来たはずのシンジが、さっさと放り出して向かった先には知り合いの姿があった。
 係員達が何とか目を合わせないように苦戦する中、シンジはつかつかと近づいた。
 少しでも視線を合わせようものなら、忽ち吸い込まれてしまうのだ。
 無論、手の荷物などそのまま地面に落下である。
「お帰り、姫」
「はい、碇さま」
 人形娘がドレスの端を持ってそっと一礼してから、
「シビウお疲れ」
「大丈夫よ。これで疲れるほど柔じゃないわ」
(お姉さま…)
 至極近い者にしか分からないが、微妙に語尾が上がっている。
 気に入らないのだ――妹より後にされた事が。
「そう。疲れてるなら指圧位しなきゃと思ったんだけど」
 シビウの表情は変わらない。
「今は疲れてないわ。ただ、戻るまでが少々大変なのよ」
「戻ったら揉む?」
「そうね」
 人形娘はほっと安堵した。
 この二人の関係だけは、彼女を以てしてもよく分からない。微妙な所でチクチクする時があるが、普通の男女なら喧嘩してると思うような時でも、数秒と経たず戻っていたりする。
 おそらく、他の誰であっても完全に理解する事は出来まい。
 並んで歩きながら、
「私の留守中に、面白い事があったようね」
「あった。で?」
「私の留守中ということは、私のプライドは傷付かないわね」
「俺と同じ事ゆーなってのまったく」
 似ているかも知れない。さくら達が正義の為と決心している中、シンジは一人自分が居ればそうそう降魔は来ないと割り切っているのだ。
 確かに来ない。
 そう、今のままでは。
「想い人なら思考が似るのは当然でしょう」
「……」
「分かったわよ。相変わらず冷たいんだから。病院に着いたら話すわ」
「分かった」
 病院に戻り、棺を見たシビウはマリアを診る前に口を開いた。
「簡単な事よ。この子、誰かに恨み買わなかった?」
「恨み?」
「そう。言ってみれば、あなたに銃を向けたこの子がメイドさん達から命を狙われたようにね」
「ウチにそんな事出来るのは居ないよ」
「当然でしょう。あなたの所にそんな有能な子はいないわ。例で言っただけよ」
「はあ…で、恨みねえ」
 小首を傾げた瞬間、その顔色が変わった。
「シビウまさかっ」
「まさかじゃないわ。あそこしかないでしょう。それで、何をしたの」
「旦那に拉致られかけた時、この馬鹿(マリア)が銃を向けたんだ。それも式場で」
 ふふふ、とシビウは笑った。
 危険な物を含んだ妖艶な笑みであった。
 一頻り笑ってから、
「跡形もなく滅ぼされずに済んだ事、天に感謝するのね。全部足したら、あなたでも勝ち目はないわ」
「うぞっ!?」
「本当よ。あの店はオーナーは凡庸よ。たまに人外の所もあるけど」
「ジンガイ…」
 シンジは鸚鵡返しに呟いた。確かにそうかも知れない。
「でも店員は比較にならない位優秀だわ。特にこの棺は、私と妹が居ても数時間は掛かる代物よ」
 そう言われた時、初めてシンジの背に冷たい物が流れた。
 本邸のメイドさん達は自分を慕ってくれているが、だからと言ってマリアやカンナの行動をあっさりと看過しようとはしなかったではないか。
 もしもマリアの骨片だけが入っていたとしても決して不思議ではなく、そうなっていれば自分の責任なのだ。
 きゅっと唇を噛んだシンジに、
「あの子の記憶を調べたけれど、完全に消去されているわね。拉致して棺に押し込め、しかも記憶を弄って女神館に侵入してのける――これが出来るのは今いない者達ばかりよ」
「知ってるの」
「知ってるわ。魔人と言っても過言ではない連中ばかりよ。それで、仕返しに行く?」
「つまらない冗談だ」
 シンジは首を振った。
「俺がマリアと同じ事をしていたら、俺が狙われていた。でも俺はそんな事は絶対にしない。あっそ許す――これで済む相手じゃないと知っておくべきだった。それに、普段いない相手なら全くの未知数だ。これでも、こんな所で討ち死にしたら泣く子もいるしね。なにより、俺の姿で侵攻されたら死人の山が出る」
「この子の仇討ちはいいの?」
「思ってない事言うのって、シビウの悪い癖だよ」
「あら、どうしてそう思うの?」
 ケープからぐいと中に手を差し入れ、
「乳首硬くなってる。腰揉むからそっちに寝て」
「お尻も追加よ」
「はいはい」
 
 
 
 
 
 想い人の心変わりを恐れるのは、太古の昔から変わらない。
 原始時代に一夫多妻が普通だった頃、留守を待つ女達は夜の約束が他の女に奪われるのを恐れ、子を産む道具だった武士の妻達は、夫が愛人の元を徘徊するのもじっと我慢してきた。
 尤も、最近は男女の約束など紙切れと変わらない傾向もあるし、別居婚や男女別姓が普通に成れば、もう結婚など紙切れ一枚だけの代物に過ぎなくなるかも知れない。
 とまれ、すみれの顔が青ざめている事には変わりなく、他の誰かを呼ぶのかとそんな事まで考えている。
 すみれだって年頃の娘だし、今日は幾分大胆に攻めてはみたものの、こんな格好が恥ずかしくないわけはない。
 何よりも、こんなコート姿でウロウロしていたら、怪しさ大爆発である。
「ほ、他の誰かが来られるんですの…」
「他の?」
 一瞬シンジが少し驚いたように聞き返し、
「そんな事はしませんよ。そんなんじゃないの」
「じゃ、じゃあどうしてですの?わ、わたくしがこんな格好で来たから…」
 惹かれた弱みか仄かな後ろめたさからか、普段の面影は微塵もなく、全身が心細げに見える。
「あ、それはない。そう言う事じゃないの。ちょっと耳貸して」
「え、ええ…」
 ボン!
 青から赤、そして深紅へ。
 あっという間に変化したすみれの表情が火を噴いた。
「や?」
 ぶるぶるぶる。
 すみれは思い切り首を振った。
「で、でもどうしてわたくしに?」
「言っておかないとね」
「おかないと?」
「気力で何とか起きてないと、完全にぶっ倒れる」
 シンジの言葉に、すみれの表情が元に戻った。
「そんなに甘い所じゃないんだ――魔界はね。ある意味では、まったく能力のない普通の人間の方が楽かも知れない。免疫機構がなければ、病気にも平気でしょ」
「で、でも免疫機構が停止したら人間は死亡しますわよ」
「例えだってば」
「そ、そうでしたわね。それで何時なんですの」
 少し早口で訊いた。
「来週からはもう学校が始まる。公休には出来るけど、やっぱり行った方がいいからその前だね。ただ、明日もう一回病院に行ってからだ」
「どこか具合が?」
「マリアの迎えに――連れてこられればいいけどね」
「そうですわね…」
 頷いたすみれだが、マリアの名を口にした時、シンジの表情が僅かながら曇ったのに気づいていた。
 内心で首を振り、
「わたくしはもう帰りますわ。夜更かしするとお肌に響きますもの」
 むにゅっとシンジがその頬を突いた。
「水も弾くような肌のくせに嘘ばっかり」
「も、もう口がお上手なんだから――本当にそうお思い?」
 じっとシンジの目を見つめて訊いた。
「うん」
 シンジでなくともそう言うだろう。この年頃なら、よほど不摂生してない限り大丈夫だ。
 汚の種族に属する唾棄すべき小娘にでも落ちぶれなければ、まず問題あるまい。
「じゃ、じゃあ、あの…お、おやすみのキスして下さいな」
「?」
「え?」
「どういう関係が?」
「だ、だってそれなら唾液が付いても弾くで…はっ」
 言いかけてから気づいた。
 自分で大いなる墓穴を掘った事に。
「あっそ。すみれってそーゆー風に思ってたわけね。頬なんか舐めた事無いのに、もういい、金輪際すみれにはキスなんかしない」
「ちょ、ちょっと碇さんこれはそのっ」
「巣にカエレ!」
 言いかけたが、もう水が還る事はなく、最初にすみれが下着姿のまま放り出され、ついで忘れ物だとコートが放り投げられた。
「……」
 余計な事を言ったばかりに台無しになってしまい、コートを羽織る事もなくしょんぼりと俯いてすみれは歩き出した。
 部屋に戻るまで誰にも会わなかったのは唯一の幸運だったが、ぺたんと力無く座り込んだすみれは、定まらない視線で宙の一点を見上げたまま彫像と化したように動かなくなった。
 普通に見れば、すみれが自ら余計な事を言って墓穴を掘った訳なのだが、少し違う。
 いや確かにそうなのだが、もしもこれが綾小路葉子ならシンジは絶対に帰さないし、まして追い返すなどという事はあり得ない。
 即座に夜の散歩に連れ出している所だ。
 無論、アナルとヴァギナにはそれぞれバイブをねじ込んだ上であり、それは一歩一歩の挙動が即振動に繋がるタイプなのは言うまでもない。
 言うまでもないが、アヌスは本来排泄用である。ただし、シンジが葉子の肛腔から液体を注ぎ込んだ事は一度や二度ではなく、それは精液ではない。
 しかしすみれが放り出されたと言う事は、要するにまだ関係が薄いのだ。
 選択肢の一つにアナル調教がある関係もどうかと思うが、いずれにしても現在のすみれはそこまでの位置には居ない。
 シンジとの関係はむしろ、シンジが上段に来た時にはっきりと現れる。一発かまして終わる位では、単に知人に毛が生えた程度だ。
 すみれがどうしたかなど確認しようともせず振り返ったシンジの横に、ふっとフェンリルが姿を見せた。珍しく、美女の姿ではなく白狼のままだ。
「もう寝る?」
「寝る」
 ぶっきらぼうに言ったシンジが、横になったフェンリルの腹にこれまた乱暴に頭を乗せたが、フェンリルは黙って受け止め、
「小娘共の手筈が付いたら、少しゆっくりしてくるといい。この場所ではマスターも息が詰まろう」
「黙れ狼、毛皮剥ぐぞ」
 フェンリルは怒った風情も見せず、
「そうか、余計だったな。おやすみ、マスター」
 すっと目を閉じた。
 
 
 翌朝、シンジの姿はシビウ病院にあった。
 無論マリアに会いに来たのだ。
「起きてる?」
「いえ、まだおやすみですわ」
「ありがとう、起こしてくる」
 一礼して見送った人形娘だが、他の者なら強制排除だ。ただし、シンジが通されたのは単に院長の想い人だからとか、そんな理由ではなかった。
 マリアは特別個室に収容されていたが、シンジはノックもせずに押し入った。枕元に立つと、昨晩よりはだいぶ顔色の良くなったマリアがすやすやと寝息を立てている。
 その耳元に顔を近づけると、ふうっと息を吐きかけた。
「んんっ…」
 眠っている女体が一瞬びくんっと揺れ、すぐ元に戻った。
「感覚は残っているみたいだな。良かった」
 奇妙な台詞を口にすると、何故か身を翻した。よく寝ているから、起こす気が消えたのかも知れない。
 と、不意にその手に何かが触れた。
「おはよ、マリア」
 こちらは驚いた様子もないが、
「そう言う起こし方…もう止めて」
 気怠げに起きあがったマリアは、まだ声が半分眠っている。
「普通はあんなんじゃ起きないよ。で、気分はどう?」
「完調には後三時間の睡眠が必要だわ。無粋な誰かさんが邪魔し…シ、シンジ!?」
 不意にマリアの顔が首筋まで真っ赤に染まった。シンジがいきなり引き寄せて抱き締めたのだ。
「な、何を…」
 真っ赤になったまま、抵抗は無論身動きすら出来なかったが、わずかに固さは残っていた。
 それが消えたのは、シンジの台詞を聞いた時であった。
「俺のミスで…マリアを失う所だった。ごめん」
 シンジはそう囁いたのだ。
 ゆっくりとマリアの身体から力が抜けていき、その手がそっとシンジに回される。
「いいのよシンジ…シンジじゃなかったから」
「俺じゃない?」
「ええ、シンジへの八つ当たりで私が襲われたんじゃないんでしょう」
「訊いたの」
「あの子に教えてもらったわ。狙われたのは直接私で、殺されていてもおかしくはなかったと」
「相手は?」
「ううん、それは聞いてないわ」
 マリアは首を振った。
「知らない方がいいって言われたの。世の中には知らない方がいい事もある、シンジもあの時そう言ったわよね」
「マリア…」
 シンジの身体に回された手の力が、不意に強くなった。ぎゅっとシンジを抱き締めてから、すっとマリアは離れた。
「ありがとう、私の事心配してくれて。でももう大丈夫よ、一緒に帰るから少し待っていて」
「分かった」
「き、着替えるから、そのまま後ろ向いて出てっ」
「え?」
 着替えるから出て、なら分かる。
 だがそのまま後ろを向いて出ろとは。
 ?マークを顔に貼り付けたシンジに、
「こっち見ないでっ」
 いきなり枕が飛んだ。
「アーウチ!!」
 
 
「さて、食事の終わった所でお話があります」
 シンジの声に、くつろいでいた面々が身体をこっちに向けた。揃って食事、これはもうシンジが強いる必要もなく当たり前のようになっており、今はウサギさんの形になったリンゴに手を伸ばしていた所だ。
 ただ、すみれだけはシンジの顔を正面から見られないでいた。
「あ、あの碇さん…昨晩はご免なさい…」
 謝ったものの、
「気にしてない」
 と、文字通り――自分の存在すら気に掛けられていないような返事が返ってきた為、輪を掛けて落ち込んでいるのだ。
「おにいちゃん、お話って?」
「うん。夕べはどうかと思ったんだけど、馬鹿マリアも戻ってきた事だし」
(い、碇さんっ)
 いきなりそんな事を言わないでもと思ったのは、決してさくら一人ではなかったが、
「そうね、管理人の横暴に耐えているから、並の体力ではつとまらないの。皆もそうでしょう?」
 いきなり振られ、逆の意味で慌てた。
「え!?べ、別にそれはそのっ」
「そ、そうですよ。別に碇さん横暴じゃないですし」
「そう。良かったわね」
(わ、笑ってる…)
 そう、マリアは確かにくすっと笑ったのだ。
 マリアのこんな表情など、出会ってから一度も見た事がない。
「話を続けるぞ。さっさと帰ってこい」
「そうね」
 笑みは崩れぬまま、
「それで?」
 マリアが促した時、初めて心の中で何かが動いた。
 乙女回路が反応した、とでも言うのが正解かも知れない。これは喧嘩でも啀み合いでもなく――じゃれ合いに近いものだと。
 先に動いたのはアスカであった。
「そっ、それでシンジ訓練の話なの?」
「そ」
 シンジは頷いて、
「素材を打ち直さなきゃならないから、君らには前に言った通り魔界へ行ってもらう。アスカ、リンゴは食べた?」
「え?ええ、食べたけど…まずかったの?」
「違う、逆。食べて貰わなきゃ困るんだ。他に食べてない子はいる?」
 一人一人の顔を見回していき、
「すみれもちゃんと食べた?」
「い、頂きましたわ」
 碇さん変わらない声で…。
 そう気づいた途端、急に熱い物が込み上げてきた。涙だとは思いたくなかった。自分は帝劇の、それも誰もが認めるトップの女優なのだ。
 だが不意にその視界がぼやけた。
(え!?)
 泣いてなどいない筈だと目を擦ろうとした途端、その身体が前のめりに倒れ込んでいく。
 すれみの様子がおかしいと視線を向けたさくらが織姫が、そしてアスカ達も次々に後を追うようにして倒れていく。
 一分と経たずして全員が倒れ込んだのを見てから、
「全員リンゴを囓ってくれたみたいだね。もし食べてなかったら、特製のジュースを飲んでもらう気だったけど、あっさり済んで良かった。やっぱり、リンゴには注意しないとね」
 一人ごちてから、何かを思い出したのかくすくすと笑った。
 
 
 
 
 
(つづく)

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