妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百三十話:王子様じゃなくて変態じゃナーイ?
 
 
 
 
 
「ふふん、馬鹿ね〜い」
 ぶっ倒れたシンジを見下ろして、ボン・クレーは冷たく嗤った。
 黒瓜堂の主人からは、無論ここ女神館の結界の事は聞いているが、
「結界ってナニが?」
「大したモンじゃない。君なら関係ない話だ」
「そ。じゃあ行ってくるわねーい」
 マリアの姿で堂々と入ってくると、何も引っ掛からなかったから、気にもしていなかった。
 棺に放り込んだマリアをコピーした事で記憶は全部入っているから、住人達にも何一つ怪しまれる事はなかった。
 どうやって引っかき回すかとシンジの部屋に赴くと、運良くさくらと織姫が睨み合っている。
「どうしたの、あなた達?」
 訊いた声はマリアそのものだ。
「あ、マ、マリアさんっ、こ、これはその…」
「な、何でもないでーす」
 慌てて離れた二人に、
「シンジの部屋にお泊まりかしら?」
 くすっと笑った。
 意外な反応に一瞬驚いたような表情を見せたが、二人揃って小さくこくんと頷いた。
「じゃ、さっさと入った方がいいわよ」
「『え?』」
「泊まりに来るのはあなた達だけじゃないし、のんびりしている暇はないかも知れないわよ?」
「そっ、それってっ」「どういうことデスかー」
 だがマリアはそれには答えず、
「行くの?行かないの?」
 少し冷たい声で聞き返した。
「『い、行きますっ』」
 慌ててドアに手を掛けた二人に、
「あ、そうそう部屋の真ん中で待ってちゃダメよ!」
「え?」
「シンジにばれたら大変だから!!」
 これでシンジの部屋に泊まりとか、そんな事でなければ妙だと思ったかもしれない。
 が、何せお泊まりに気が行っていてちっとも気づかなかったのだ。
 二人が仲良く布団の中に隠れるのを確認してから、
「さーて、これでお膳立ては出来たわねい」
 シンジが二人を追い出すことはないと読んだ上であり、その後頬への口づけ一つでシンジを失神させる事など、ボン・クレーに取っては容易い事であった。
 無論、対象にしか影響のない黒瓜堂製の妙薬である。
 文字通り、妙ちきりんな薬だ。
 ぶっ倒れたシンジを部屋の中に引きずっていって、乱暴にベッドの上に放り出してから、乙女達を初めて気が付いたように見た。
「折角一緒に寝るんだから、このままじゃ寂しいわよね〜い?」
 がっはっはと笑うと、押し込んだシンジの横に配置しパジャマの前を外して胸を露出させた。
「小さいわねーい。しりると比べたらオレンジとサクランボじゃナーイ」
 スイカとイチゴ、とは言わなかったが、それにしたって結構な差である。この状態なら、誰が見たって痴情の果てにしか見えまい。
 ニヤッと笑ってから、すっとボン・クレーは部屋を出た。
 許の姿には戻らず、すたすたと屋上へ出る。
 手元の時計に口を近づけ、
「黒ちゃん?あちしよあちし、聞こえてる〜?」
「良好だ」
「がーっはっはっは、終わったわよーう。今から戻るから!」
「お疲れ。気を付けて」
 通信を切ってから、
「碇シンジも大した事ないわねーい。たーだのボンクラじゃないのよ〜う!んがーっはっはっは!」
 笑うのは事由だが、マリアの姿で高笑してるわけで、住人が見たら腰を抜かすか失神するに違いない。
「部屋に小娘がいれば従魔は不在と聞いたが、こうも容易く運ぶとは」
「それだけ抜けていると言うことだ。これなら落とすのも簡単だな」
 冷たく危険な声がしたのは、ボン・クレーの報告があった直後の事である。
 
 
 
 
 
 シンジが悪いのか?
 微妙な所だが、多分違う。
 ではさくらか織姫が悪いのか。
 どちらかと言えばそっちかも知れない。
 普通は男と女が一緒に、それも女が二人に男が一人と来れば文面からは淫らな匂いがして来そうだが、この連中に限って言えば違う。
 ボン・クレーの悪戯が無ければ、さくらと織姫が乳を露出する事はなかったのだ。
 ただし、ボン・クレーが動かなければ、部屋の前で睨み合った状態のまま、巣にカエレとぽいっと放り出された可能性が高い。
 そう考えると、やはり自業自得である。
 シンジが出ていった事に気づかず――ちょっと目を開けてみれば分かったのだ――朝っぱらからキスまでしようと布団の中で蠢いた結果、乙女同士でディープキスしてしまい、それに気づいてお互いの頬に紅葉を一つ付け、同時に取っ組み合いを始めた。
 乳房を丸出しにしたまま、上下になったドタバタと掴み合いを演じるも、腕力と気力がほぼ互角な為に勝敗は付かず、お互いに突き飛ばし合うと荒い息を吐きながら睨み合った。
 睨み合った後、口火を切ったのはさくらであった。
「いきなり舌入れてくるなんて変態ですっ」
「ふん、さくらさんだって感じてたくせに。変態はそっちでしょ」
「先に喘いだのは織姫さんでしょ、身体くねらせちゃっていやらしいっ」
「何ですってっ」
「何ですかっ」
 シンジが居れば二人まとめて吊されていた可能性が大だが、今の二人にはそんな余裕はない。
 睨み合っていた二人だが、やがて息も落ち着いてきた。
 と、不意にさくらが笑った。
「?」
 いきなり動いて間合いを詰めたかと思うと、あっという間に織姫の顔を両手で挟んで唇を重ねた。
「んーっ、んんー!」
 勿論処女だが、キスの経験は積んでいる。
 さっと歯列を割るとすぐに織姫の舌を絡め取り、好きなように嬲った。絡め、吸い上げ、なぞる。
 文字通り嬲るという単語が相応しい口づけであり、たっぷりと蹂躙してから離す。
「ふふ、ご馳走様」
 二人の間を繋いだ透明な糸を妖しい手つきでぬぐってから、
「でも、織姫さんも感じやすいんですね。可愛い」
 無論さくらはレズではなく、言外に十二分な優越感を含んでいる。織姫の顔が羞恥と怒りで真っ赤になり、これもすぐにさくらの顔を捉えると唇を重ねる。
(勝負でーすっ)
(望む所ですっ)
 どっちが悪いか、と言う話からどっちがキス上手かという話に移行したようだ。
 お互いに舌を絡め合い、吸い合い、二人の唾液が絡み合って重なった唇同士の間から滴り落ちてくる。
 くちゅくちゅと淫靡な音が響き、時折洩れる二人の喘ぎにも似た声と妖しく重なる。
 さすがに他の箇所を責める余裕はお互いになく、舌の動きだけで相手を責めていく。
 朝っぱらから展開した妖しい勝負は、まもなく決着が付いた。
 責め合っていた女体の一つがゆっくりと弛緩したのだ。
 どうやら達したらしい。
 やっと終わったぞもう、そう言わんばかりにベッドがもう一度軋んだ。
 
 
「碇さん、紙に何が書いてありましたの?」
「え、えーとその…」
 表情は穏やかなすみれだが、顔は笑っていない。
 だいたいマリアは押し込まれた筈であり、シンジが隠すこと自体怪しすぎる。
(…こりゃ無理かな)
 さくら達と一緒に寝ていた時点からフェンリルは戻っておらず、今もまだ居ない。それに居たとしても、シンジの記憶しか残っていないわけだから、誰がマリアに化けていたのは分からない。
「分かったよもう。これが入ってたの」
 紙を受け取って眺めたすみれだが、その表情は変わらない。十秒ほど経ってから、シンジに冷ややかな視線を向けたがいつもとは違う。
「すみれ?」
「こんな物を隠していたんですのね。馬鹿みたい」
「ば、馬鹿?」
「事情は分かりませんけれど、そんな物が入っていたと言うことは、口づけがないとマリアさんは起きないと言うことでしょう。そして犯人がそうし向けた」
「うん」
「それなら挙動不審な動きをしていないで、さっさと口づけして差し上げなさいな」
(すみれさん!?)
 思わず目を見張ったのはマユミである。キスで起こすと書いてあるとは思わなかったが、それ以上にすみれがあっさりと受け入れ、しかも促しさえするような言葉を口にしたのには驚いた。
 妨害行動とまでは行かないにせよ、こんな反応をするとは思わなかったのだ。
 それにしても、すみれも学習機能には少々問題がある。言ってる事はまともだが、シンジと手を繋いで来院した時、凍り付くような殺気を向けられているのだ。それも、つい最近である。
 スタッフが出ているとは言え、全部の病室は完全チェックされている事を考えれば、褒められた行動ではない。
「口づけねえ…」
「お嫌ですの?」
 シンジはちらりとすみれを見た。
「別に」
「じゃあ…」
 早くと言いかけて止めた。さすがにそれ以上は躊躇われたのだ。
「今は平筬の世の中であって童話の世界じゃない。木々や石ころに魂が宿っていても、キスが目覚めに必要になる道理はないんだ」
「じゃ、どうして隠したんですか?」
(山岸ー!)
 呪ってやろうかと思ったが、マユミにすれば他意はないだろう――多分。
 キスという単語に反応したならまだしも、シンジの様子を見てると違うらしい。だとしたら、別に隠す必要もない筈なのだ。
 シンジにしてみても、実際の所キスというのはどうでもいい。と言うより、すみれ辺りにやらせて写真でも撮るかと、コンマ一秒ながら流れた程である。
 だが問題は文面だ。
「キスしてくれなきゃ起きないもん」
 この台詞は、成都で自分とベタベタしていた頃のマリアの台詞であり、シンジも覚えている。
 そして、今のマリアには到底似つかわしくないと言うことだ。
 つまり、この内容を指示したか或いは書いたかした人間は、マリアの記憶を完全に持っているという事になる。
 がしかし、半裸で寝てたマリアが甘えた声で口にした台詞だと、それだけは口が裂けても言うわけにはいかない。
「すみれ」
「何ですの?」
「お前やって」
「何を?」
「キス。俺が指名打者じゃないでしょ」
「碇さんがそう言われるなら――何ですって!?」
「聞いたとおりだが、嫌か?」
「い、嫌って碇さん…どうしてわたくしが」
「紙を隠したのは、書いてある事由自体に問題があったじゃない。ちと違う理由でね。いずれにしても、碇シンジの口づけとは書いてあるまい?」
「お断りですわ」
 すみれの答えは早かった。
「何で?」
「眠れる姫が起きるのは王子の口づけと決まってるでしょう。お姫様が口づけしてどうするんですの」
「だから姫に…お姫様?」
 お姫様がマリアではないのかと向いた指がマリアからすみれに移動した途端、ぎにゅっと曲げられた。
「いだだだ!!」
「碇さん、さっさとなさいな」
 すみれの目に危険な色が浮かんだ。結構ぷりぷりしてるらしい。
「ホイホイっス」
「ホイホイって…まあいいですわ、マユミさん出ますわよ」
「あ、はいっ」
 大股で出ていったすみれに慌ててマユミが続く。
 二人の姿が消えた後、横たわるマリアを見下ろす表情は一変して厳しいものになっていた。
 勿論、マリアに怒っているわけではない。
 ただ、結界を張っている筈の女神館に侵入され、あまつさえ好きなように引っかき回されたのはシンジに取ってもそれなりのショックであった。
 しかも分からない。
 下手人も不明なら、結界に忍び込んだ方法も分からないのだ。
 ダミーを作れる所はある。
 このシビウ病院だ。
 ここの院長なら、文字通り瓜二つの物を作ってのけるだろう。ただ、マリアのそれを作っておまけに棺桶に放り込むとは考えられない。
 要するに、最初の時点からさっぱり分からないのだ。
「はあーう」
 ため息をついてから、マリアの寝顔に顔を近づけていく。
 二人の顔が触れ合わんばかりになった瞬間、ぱちりと目が開いた。
「ん?」
 細く開いたマリアの目が、瞬時に事態を認識した。
 すなわち、酷い目に遭って居る自分が無意識中をいいことに、キスしようとしている奴がいる、と。
「いやあっ!」
 絹を裂くような悲鳴が洩れた次の瞬間、シンジの身体はくるりと一回転していた。
 
 
「それじゃ、キスで負けたの?」
「…うん」
 小さく頷いてから、
「絶対に恨みは晴らすでーす!」
「どっちでもいいけどね」
 織姫の父の出立は午後だから、まだ時間はある。
 織姫と並んで歩くシンジだが、機嫌もテンションも決していいとは言えなかった。
 キスしかけた寸前、突然目が覚めたマリアに投げられ、辛うじて叩き付けられるのは防いだものの、只ならぬ雰囲気を察してすみれ達が飛び込んで来なかったら、どうなっていたか分からない。
「そ、そうだったの…ごめんなさい」
 マリアは謝ったものの、もう少しで無意識の乙女の唇を狙う変態野郎のレッテルを貼られる所だった。
 しかもマリアは、襲われた時のことを全く覚えていなかったのだ。
 一撃を喰ってダウンした、とそれだけは何故か覚えていたものの、どうしてそうなったかはまったく記憶にないと言う。
 取りあえず今日一日は病院に置いてきたが、まったく収穫のないまま帰ってくると潤んだ瞳の娘が二人出迎えた。
 ただし、微妙な所でそれぞれ瞳に“勝者”と“敗者”と字が写されており、喧嘩している様子はなかったものの、さくらの方は明らかに胸を張っている風情であった。
 聞いて聞いてとオーラを出していたが無視して、
「織姫、今日出発でしょ」
「ええ…」
「じゃ、さっさと行くよ」
 と、見もしないで出てきたのである。
 しばらく歩いてから思い出したようにシンジが聞いたら、さくらと淫闘があったと打ち明けたのだ。
「でも織姫」
「なに?」
「リベンジはしない方がいいと思うよ」
「どうして?」
「鍛えてどうにかなるかは分からないけど、勝っても絶対自慢にはならないから。ウチって女の子しかいないでしょ」
「うん」
「その中で、さくらとキスで勝負して勝ったって話したら、間違いなく半径三メートルの距離を置かれると思うんだけど」
「言わないでーす。でも口惜しいの。碇さんだってキス上手な方がいいでしょ?」
「全然」
「ど、どうして?」
「さくらがキス上手だったって言ったでしょ」
「ええ…」
「別に上手くないよ」
「上手くない?」
「すぐふにゃってなるし、相変わらず舌使い覚えないし。負けたんじゃなくて、織姫が初だから感じ過ぎちゃったの」
 ピキッ。
 織姫のきれいな眉が上がったが、シンジは気づかない。
「そ、それって…私が純粋っていう事?」
「そう言う事」
「それで、さくらさんのキスは碇さんにされた事の真似って言うことデスか?」
「そ。織姫もその内慣れてくるから」
 しゅうしゅう。
 頂点に達しようとしていた怒りが、シンジの台詞に水蒸気のように蒸散していく。一つ台詞を間違えれば、思い切りつねられていた事は間違いないのだが。
「そ、それって、碇さんと?」
「彼氏が出来たらねって言ったら怒るでしょ」
「も、勿論でーす。じゃ、帰ったら口直しするでーす」
 ぽかっ。
「あうっ」
「口直しする位なら、最初からキス勝負なんてするんじゃないの」
「だ、だってぇ…」
「だっても切手もないっても。ほら、さっさと行くぞ」
 手を取ってきゅっと引っ張られ、織姫は嬉しそうに頷いた。
 
 
 食事してから空港に着くと、既に星也は待っており、シンジに腕を絡めて歩いてくる娘を見て安堵の表情を浮かべた。
 本当にシンジと上手く行っているか、不安が残っていたらしい。他の住人達とは違って、普通に会った訳ではないからやはり親としては心配だったのだろう。
「碇さん、娘がお世話になっております」
「うん。素直なんで助かってる」
「……」
 織姫の顔がぽうっと赤くなり、組んでいる腕の力が強くなった。
「それはそうと緒方」
「はっ」
「黒木からちゃんと退職金ふんだくって来たか?あいつ結構ケチだから」
「と、とんでもありません。あ、あの碇さん…」
「何?」
「中途退職なのに、通常の三倍も出たのですが――」
「俺は口出ししてないよ」
 星也が言いかけた途中でシンジは遮った。
「ただ、馘首じゃないんだから普通に扱うようにと言っただけ。具体的な処遇については一切触れてない」
「そ、そうでしたか。それで碇さんこれを」
 星也が取り出したのは、小型のスーツケースであった。
「織姫の生活費を口座から引き出すのは難しくなりますので、これをお渡ししておこうと思って」
「これ…退職金全額?」
「はい、三千万あります。これなら織姫の分は足りるかと」
「要らん」
「え?」
「海外で修行し直しって言ったら、一からやり直しだろ。初めてすぐに食えると思ってるほど自惚れてる?」
「い、いえそんな事は決してっ」
「なら尚更だ」
「し、しかし…」
「ふむ」
 織姫を置いて星也だけを離れた場所に連れ出し、
「今、ウチの住人達の生活費は落ちてる通帳からは引いてないんだ」
「ど、どうしてです」
「足りないから。織姫だけまともに貰ったら釣り合いが取れなくなる。どうやって折り合い付けるか、目下考えてる所だ」
「は、はあ」
「そう言うことだから、あれはお前が持ってけって」
「でも、碇さんが落とされる時に口座の方から…」
「それもそうだ。じゃ、織姫に渡しておくといい。三分の一で良かろう。金ぐらい管理出来る娘だ」
「分かりました。碇さんがそう言われるなら」
 戻ってきたシンジに、
「パパと何話してたですか?」
「え?えーとその、あれだ、ほら娘をよろしく頼むってさ」
「ふーん。パパ本当に?」
「本当だ。私では、お前の体質を変える事も遂に出来なかったからね。さ、織姫これを持っておいき」
 無造作に布袋へ入っているが、一千万だから結構量感はある。
「パパこのお金は…」
「お前の生活費だ。口座へ一旦入れて、必要な分だけ落としなさい。通帳と印鑑はお前宛に郵送してあるから」
「はい、パパ」
「それと――」
 シンジは飛行機を眺めたまま、
「緒方、少し外す。元気でな」
「は、はい」
 すたすたと歩き出した。
 その後ろ姿に小さく一礼してから、
「織姫、碇さんとは上手く行っているのかい?」
「うん、大丈夫よパパ。碇さんも優しいし」
「そうか…」
 星也が案じていたのは無論娘の身だが、安全とか危険に関してはまったく気にしていなかった。
 エヴァに乗せる、その事はシンジから聞かされていたが、素人を乗せて出すような男がどうかなど考える必要もない。
 魔道省では、同行した時に最もリスクの少ないトップにシンジの名は上がっている。これでもしもの事があれば、娘がそこまでの代物だったと言うことだ。
「織姫、くれぐれも碇さんにご迷惑は掛けないように。分かったね」
「はい、碇さんとはよろしくやってるでーす」
「よろしくやってる?そうか」
 頷いた父親の表情がかすかな動きに気づき、
「わ、私何か変な事言ったの?」
「いや、いいんだ。それでいい」
 やはり、“よろしく頼む”と“よろしくやってる”が直結したらしいのを知った。
「そ、それで織姫…」
「はい?」
「こ、子供が出来たらそれはそれで構わない。お前の好きにしなさ…どうした?」
 父親の台詞としては奇妙だが、すうっと織姫の表情が曇り、
「碇さんは…私達なんて相手にしてないでーす」
「私達?」
「すみれさん達も碇さんの事が好きなの。でも碇さんは…」
「嫌いと言われたのか?」
 つられてこっちまで表情が曇ったが、
「好きって言ったらありがとうって。住人に嫌われると管理人は面倒だからねって言うの…」
「そうか」
 星也の表情は戻った。嫌われてないのであれば、後はいくらでもやりようはあろう。
 自分はシンジのことを熟知しては居ないが、魔道省内ではキャリアが浅いながら圧倒的に評価の高い黒木豹介を以てして、全幅の信頼を置かれているのだ。シンジが居なかったら、自分はこの場所にいる事は決してなかったと本人の口から聞かされている。
 むしろ、そのシンジが娘達の想いであっさり動く方が考え難い。
(それにしても嫌われてるとやりづらいからとは…碇さんらしいお考えだ)
 分かっていて軽くいなしたのか、それとも本心か。
 おそらく、いや間違いなく本心だろう。
 頑張るんだと内心でエールを送った時、搭乗を促すアナウンスが流れた。
「じゃあ織姫、私はもう行くからくれぐれも身体には気を付けるんだよ」
「はい。でもあの碇さんが…」
「いいんだ。おそらく最後だからと二人きりにして下さったのだろう。あの方はそういう方だ」
 織姫からわずかな霊力を関知し、父親が禁断の術に手を出した事を知っても、夢に戻れと言っただけで選択は本人に任せた。
 あまつさえ、馘首になっても当然の所を通常以上の待遇で送り出させたのだ。
 普通なら、さっさとクビだと言いだしてもおかしくはなく、シンジが一言言っていれば今頃は職探しに右往左往していた筈だ。
 代わりに娘を差し出せ――侍が丁髷と刀でうろついていた頃ならそうなるし、今でも似たような事は多々あるが、シンジに限って言えばまったく違う。
 織姫の処遇には一言も触れなかったし、織姫を女神館に連れて行ったのは星也の判断からだ。
「パパも元気で…」
「うん」
 うっすらと涙ぐんだ織姫をぎゅっと抱きしめる。
 出立前に抱き合う親子の姿は感動的なのだ…が!
「こんなモンでいいかなあ〜」
 ニマッと邪悪な笑みを浮かべているシンジの姿は、ほぼロビーを半周した位置で発見出来た。
 しかも、その手に持っているのはカウボーイが使うような投げ縄ではないか。
「てりゃ」
 不意にその手から縄が飛び、見事標的を捉えた。
 それも二匹いる。
「『あううっ!?』」
 若い女性を突如投げ縄で絡め取る怪しすぎる男――忽ち警備員達が駆け寄ってきた。
 その手は既に懐中の拳銃へ触れている。警棒と威嚇だけで何とかなる時代は終わったのだ。
「ねーちゃん達、何処へ行こうってんだい?」
 ブランドに溺れた挙げ句、逃げ出した多重債務女を見つけたような口調である。
「シ、シンちゃん」「シンジ様、ど、どうしてここに…」
 瞳とミサトがぎくっと振り向いたそこへ、警備員達が駆けつけてきた。
「貴様そこで何をやって――」
 最後まで言うことは出来なかった。
 いきなり身体が吹っ飛んだのだ。おまけに、犯人は助けられたはずの女達であり、思わず仲間が立ち竦んだところへ、
「あんたら、あたしの恋人に何しようってのよ。それとも、ここで屍を晒したい?」
 スパン!
「痛っ!」
「なんでアンタが俺の恋人なんだコラ」
「だからミサト、それは止めなさいって言ったのに…」
 呆気に取られている警備員達に、
「すみません、あの大丈夫ですから。ご迷惑掛けました」
「お、お知り合いですか?」
「ええ、私のご主人様ですから」
「『ご、ご主人様…』」
 確かに瞳の主人はシンジだが、世間一般的にご主人様というのは、人前で口にする単語ではない。
 しかも縄からして、どう見ても年下の青年とM奴隷の女の図である。
 まとめて飛行機の翼から吊してやろうかと思ったが、取りあえず我慢して。
「で、旦那連れ戻しに行こうってかい?」
「どっ、どうしてそれをっ…」
「情報提供者から聞いた。いーい?俺の目の黒い間は、逃げられた嫁の分際で旦那を捜しになんて行かせな…もごっ」
「何時代錯誤の発言」「してるんですかっ」
「『……』」
 かさかさと頷き合い、警備員達が離れていく。関わってはイカンと本能が危険を告げたらしい。
「だから、そうじゃなくて好きに行かせてやれって言ってるんだ」
「だから好きに行くって言ってるんじゃない」
「ダメっつーて…」
「『?』」
 がしっと捕まっていた手が不意に緩んだ。
「いいよ、行っといで」
「い、いいの?」
「さっさと行く。じゃあね」
「ちょ、ちょっとシンちゃんっ!?」
 捕まえに来た筈のシンジはあっさりと身を翻した。
 ただし、二人の女の首には縄が掛かったままである。
 
 
 その晩、シンジの部屋のドアがそっとノックされた。
「すみれ?」
 余人なら危険な台詞だが、
「わ、わたくしですわ」
「今開ける」
 立っていって開けるとすみれが立っていた。しかもコート姿である。
 シンジは笑わなかった。さすがに、さくら達のように最初からパジャマ姿で来る度胸は無いのだろう。
「ん」
 中へ招じ入れると、シンジの後に続いて入ってきた。
 シンジの表情が動いたのは、すみれがコートをはらりと落とした時であった。
 中は漆黒のネグリジェだったのである。
 しかも半分以上透けている。
「いつから持ってたの?」
「さ、最近買いましたのよ…わ、わたくしだって負けてはいられませんわっ」
 それは結構だが、とシンジは内心で呟いた。
 負けていられないと言うことは、一緒に寝るシンジもこれに負けず劣らずの下着を持っていると言う事だが、自分はそんなモンは持ってない。
(誰かと勘違いしてないかな)
 認識してないとあらぬ方向へ考えが脱線するようだ。
「で、折角来て貰って悪いんだけど」
「え…?」
「今日はお部屋にお帰り」
「ど、どうして…ですの…」
 シンジの言葉にみるみるすみれの表情が曇っていった。
 
 
 
 
 
(つづく)

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