妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百二十九話:凡庸なオーナーと優秀過ぎる店員共
 
 
 
 
 
 夕暮れの街を歩きながら、マリアは小さくため息を吐いた。
 原因はシンジだが、直接は自分を含めた住人達の事だ。
 無論、恋煩いなどではない。
 シンジが何を今考えているか、マリアには大凡の見当がついていた。
 簡単に言えば自分達の強化だが、シンジは組織プレーより個人プレーに重点を置いている。
 理由は簡単で、これが財宝探しならともかく、正義を掲げている以上負ける訳には行かない。従って、八人中七人が討ち死にしても残った一人が敵の親玉を倒せば済むと考えているのだ。
 ただし、どう考えても指揮者としてはろくでもない発想だ。雲南の地に降魔の大群を前にした時から、シンジが前進オンリーではない事をマリアは知っている。旗色悪化と見ればさっさと退くシンジがこんな発想をするのは、戦いの前提が住人達とは全く違うせいだ。
 しかし発想はともかく、今の自分達では降魔の手からこの帝都を守れるかどうか、かなり危ういのも事実だ。守れるとしても、敵が全く進化しないという一方的な展開が前提になってしまうし、それは現実的にあり得ない。
 シンジは頼れる殿ではあっても、前線には出てこない。自分達が最前線にいるのは、降魔に通常兵器が通用しない以上異論はないし、当然だと思っている。その為に自分達は集められたのだから。
 問題は、敵も進化すると言うことであり、当然自分達も進歩しなければならないのだが、具体的な案が掴めていない。正確には、シンジの発想が見えないのだ。別に見えなくても困りはしないが、少し気になる。
 何よりも、自分がもっとしっかりしていれば、シンジなくとも良かったのだ。
 シンジを嫌っているのではない。ただ、シンジが男で住人達が女だ、と言う事を抜きにしても、自分は何も出来なかったという思いはどうしてもつきまとう。
 アイリスから、ずっと手放せなかったぬいぐるみを離させた事、犬猿の仲だったアスカとすみれの仲を戻した事。
 特にアスカとすみれに関しては、シンジは仲良くするようになんて、まったく言ってないのだ。勿論、住人同士が険悪だったり、小学校の高学年になってぬいぐるみが手放せないのはやや問題ありだが、自分は全く修復出来なかったのである。
 いつも実家の資産がバックにあったすみれが反面教師になった、とは言わないが、さくら達がシンジの資産に微塵も興味がない事をマリアは知っている。
 本人からしてその辺りに無頓着なのだが、シンジがお気に入りに追加されている原因は、外見や資産にはない。
 悪いことではないが、現状はシンジに全部頼りすぎているような気がする。
 自分だってそうじゃない、もう一人の自分がすぐに囁いてくる。
 その通りよ、とマリアはあっさりと認めた。
 でもシンジの思考には正義の文字がない。帝都を守るんじゃなくて鬱陶しいから来るな、の方が近い。
(だから嫌だと?)
 違うわ、とマリアは首を振った。
 成都の奥地に降魔を見つけた時、シンジは自分の獲物と認定した。だが今度はそれがない。あっさりとこの街から去る事もあり得るのだ。
(別にいいじゃない)
(え?)
(その気になれば留まるわ。朴念仁じゃないんだから)
(…どういう事)
(気に入られてればいいのよ。素直になってね)
(…それは素直とは言わな――!?)
 不意にマリアの表情が変化する。強烈な殺気を感じたのだ。
 今までに体験した事のない種類の物であり、反射的に懐へ手を入れる。もうすっかり馴染んだ大型拳銃だが、シンジは携行の許可を取っていない。
 さくらとマユミは持ち歩けるのに、だ。
 しかし今はそれどころではなく、鋭い目で周囲を見回したが誰も居ない。気のせいだったかと思った途端、その全身は硬直した。
 何気なく視線が向いた先に、爛々と光る目が自分を睨め付けていたのだ。野良豹ではない、と本能が告げていた。
 明らかに自分を狙っている。銃を引き抜かなかったのは、自分の方が遅いと知ったからだ。自分の手が銃を抜く前に、黄金の巨体は自分に一撃を加えているだろう。
 飼われているなら自分以外を巻き添えにはするまいと、マリアの選んだ方針は退却であった。
 七十六計逃げるに如かず、シンジなら倍以上にしてそう言うに違いない。決して目を逸らすな、これは野生の獣と対した時の鉄則であり、一歩下がった時、ブラジャーの紐が妙な違和感を伝えてきた。
 数秒と経たずびっしょりと汗をかいたとは気づかぬまま、ゆっくりとマリアは後退った。豹は追ってこない。
 これならと、もう一歩下がった時不意に豹が動いた。一歩踏み出しただけで、マリアが下がった数歩分があっさりと無駄になった。
 いや、違う。
 自分でも気づいていなかったが、足が殆ど動いていなかったのだ。
 それでも一定の距離は空いており、震える足をなんとか動かしていく。
 と、何かにぶつかった。
「青い顔しちゃってドゥーしたのう!?」
 先に声が降ってきた。
「あ、ごめんなさい、ちょっと気が付かなくて」
「豹にでも追われていたのカシラねーい?」
「!?」
 瞬時に身体が反応する。
 振り向きざま拳銃を引き抜こうとした途端、凄まじい拳が腹部にめり込んだ。
「か…はっ…」
 血を吐き出して身体を二つに折ったマリアを、冷ややかに見下ろしたのは無論ボン・クレーであり、
「殺しちゃ駄目よ、ボン・クレー」
 そこへ妖艶な美女が姿を見せた。
「黒ちゃんに殺すなって言われてるから、殺しゃしないわよーう。それよりアンタこそその物騒な生き物抑えておきなサイよ。今にもこのガキ喰い殺しそうじゃナイ」
「私とは一心同体だから、私の心が分かるのよ。さて、後は豹太に渡して棺を作ってもらうだけね。ボン・クレー、もう覚えた?」
「がーはっはっは、一回見たら忘れないわよーう!」
 ピシッとマリアの頬を弾いた指は女の物であり、奇妙な事にその持ち主はマリアと瓜二つの顔であった。
「それでしりる、緋鞘はまだ戻ってないのねい?」
「まだよ。でもいなくて良かったわ――緋の大天使だけは」
 しりると呼ばれた女は、心から安堵した口調で言った。
「緋鞘がいたらこの娘、跡形もなく消されてたわよ」
「まったくよね…い」
「え?」
 ボン・クレーの表情が硬直したのに気づき、ゆっくりとしりるが振り向いた。
 すぐに後を追った。
「俺がいなくて何だって?」
「ひ、緋鞘…い、いつこの街へ…」
「何時?虫の知らせがあってな。ふらっと戻ってみたらこの様だ。まったく、貴様ら頭数だけあっても、全く役に立たねえな。さて、この子供は俺に任せてもらおうか」
 ボン・クレー、そしてしりる。いずれも常人なら百人でも歯が立たないが、その二人がお洒落な男を前にして顔色を喪っている。
「駄目っ!」
 しりるが叫んだのは、緋鞘に対してではなく、自分の愛豹に向かってであった。主の危機を察知した豹が緋鞘に牙を剥いたのだ。
「殺さねえよ」
 緋鞘の声は妙に楽しそうであった。豹の巨体はその身体に触れる寸前、まるで滑りでもしたかのように向きを変え、壁に頭から突っ込んだ。ぐったりと弛緩したそっちには目もくれず、
「お前も寝てな」
 腹部への一撃で、しりるもまた失神した。
「で、こいつに化けるのはお前だろ」
「そ、そうよう、あちしよう」
「ま、しっかりやんな。俺はこれから棺を作らなきゃならねえんだ」
「!?」
「妹に尻からぶち込んでたんだが、ホットラインが繋がっちまった。これじゃ、殺すわけにはいかねえ。こいつが例え、うちのオーナーに銃口向けたバカガキであってもな。じゃあな」
 一瞬だけ凄絶な視線をマリアに向けたが、髪を掴んで引き起こすと、そのまま肩に載せて歩き去っていった。
 黒瓜堂の場合、店員の力が店主の十乗近いが、オーナーに何かあったらその下に居る自分達のプライドは丸潰れになる。
 シンジとメイド達との関係とはだいぶ違うが、実力を考慮すれば本邸のメイド達など足下にも及ばないのが事実である。
 緋鞘の姿が消えてから、やっと呪縛の解けたボン・クレーは、慌ててしりるに走り寄った。
 
 
「よう、オーナー」
 マリアを担いで入ってきた緋鞘は、軽く手を挙げた。
「やはり君に捕まりましたか。顔は教えていなかった筈ですが」
「オカマと豹使いが拉致ってたんで、浚ってきた。で、こいつを棺に放り込めばいいんだな」
「そうです。今、シビウ病院には院長と人形娘がいません。あの二人がいなければ、夏柳緋鞘の封じた棺を開けるには十時間掛かります。ボン・クレーが女神館をかき回すには十分な時間でしょう」
「オーナー、どうして殺さない?」
 不意に緋鞘の目が危険な色を帯びた。
 そしてそれは、狂気という名であった。
「必要ないから。殺したりするあまり好きじゃないの」
 ふう、と緋鞘は息を吐き出し、
「ったく、なんでこんなボンクラなオーナーに雇われちまったんだか」
「決まっている。私より強いからだ」
「…まあ、そりゃそうだが。まあいい、棺造ってくるわ」
 緋鞘を見送ってから、
「ボン・クレーの変身は体つきも変える。さて、碇シンジがどこまで引っかかるか」
 あまり興味がなさそうな口調で言うと、手元の湯飲みを傾けて空にした。
 
 
 
 
 
「…朝の練習をほっぽり出して何をやってるのかしら」
 素振りを終えたマユミだが、さくらは一向に現れる気配がない。ドジでおっちょこちょいだが、寝坊だけはほとんどしない。
「風邪でも引いたのかしら?でもそれにしては気が空っぽだったけど…」
 マユミクラスになると、部屋の持ち主の状態が通っただけである程度は分かる。風邪を引いていたりすれば、それ位は読めるのだ。
「後で部屋に寄って…あら?」
 その耳が電話の音を捉えた。今いる場所は裏庭だから、少しでも風があったりすると届かない。
 まだ起き出してくる時間ではなく、当然電話してくる時間でもない。早足で館内に戻ったマユミが受話器を取った。
「はい女神館です…はい、ええ…え!?」
 急にマユミの表情が変わった。
 顔から血の気が引いていき、彼女には珍しく、相手が切るのを待たずに受話器を置くとそのまま駆けだした。
 その向かった先はさくらの部屋でもシンジの部屋でもなく、マリアの部屋であった。
「マリアさん、マリアさんっ!」
 普段の彼女なら、決してしない叩き方であり、数度叩いて反応がないといきなり扉に手を掛けた。
「そ、そんな…」
 夕食を一緒にし、おやすみなさいと挨拶した筈のマリアの部屋は、人の気配すらない空き部屋であった。
 
 
「碇さん、碇さんっ」
「もげご…?」
 さして大きな声ではなかったが、シンジの意識はぼんやりと覚醒した。
 が。
「ぶっ!?」
 寝ぼけ眼で枕元のコップに手を伸ばし、一口含みかけた途端吹き出した。上半身裸の娘が二人、左右から身を寄せていたのだ。
 うっすらと色付いた乳首を隠しもせずに、すやすやと眠っているのは無論さくらと織姫だが、シンジの表情がすっと変わった。
 神経の先に何かが触れたのだ。
「俺はどうしてここに…」
 呟いた途端跳ね起きかけたが、途中で阻止された。
「『や、あん…』」
 半裸の二人が、もにゃもにゃ言いながら左右から抱きついたのだ。起きてるのかと思ったが、無意識らしい。
「んも〜」
 見られたら冗談ではないぞと、そっと引きはがすとお互いに抱き合わせた。これで抱き枕も安心だ。
「今開ける」
 上着を羽織って出ていくと、すみれが立っていた。
「おはよう、何が…もしもし?」
 返しかけたすみれの言葉が途中で止まった。すっと伸びた鼻梁がぴくっと動く。
「…碇さん」
「え?」
「女の匂いがしますわ――それもわたくしのよく知っている」
「い、いやそれ気のせい…あ、ちょっと待ってー!」
 するりとシンジの横をすり抜けて、すみれは部屋に入り込んだ。布団は掛けてあるが顔は出ている。
「これは…どういう事ですの」
「いや、そのちょっとお泊まりがあってその…」
「お泊まり?二人まとめてなんて淫らですわっ。節操のないっ」
 ぽかっ。
「いたっ、何ですのっ」
「二人まとめてって何よ。何を想像している?」
「だ、だって碇さん…」
「だってじゃありません。泊まっただけで何にもしてないよ」
「…本当に?」
「うん」
「じゃ、どうして泊めたりされたんですの」
「部屋に帰ってきたら、もう二人して中で待ってた」
「…し、信じられませんわまったくもう」
「ほら、すみれ程にはお堅くないから」
 ぎにゅっ。
「痛っ!?」
「べ、別に非難はしてませんわよ」
 急にトーンダウンした。
「え?」
「ほ、他の方には内緒にしてさしあげてもよろしいですわよ」
「本当に?」
「え、ええ…」
 ラッキーと思ったものの、妙にすみれの歯切れが悪い。
(何かしら)
 シンジの眉が寄ったところへ、
「ひ、一晩開けておいて下さいなっ」
「あそこ?」
 シンジがベッドを指差して訊くとこくんと小さく頷いた。
「別に構わないけど…」
「や、約束ですわよ」
「いいよ。一晩どっかに泊まってくるから」
「…い、今なんて?」
「開けておくんでしょ?俺が居ちゃまずいじゃな…いったーい!」
「あ、あの二人は良くて…そんなに…そんなにわたくしの事がお嫌いですの…」
「あの、どういう事?」
「あの二人は泊められてもわたくしはおい…もごっ」
「二人が起きちゃうでしょ」
「むうー!」
 じたばたと暴れるすみれを連れだし、部屋の外に出てから手を離した。
「あのね、すみれ」
「…なんですの」
 もうすっかりむくれているすみれだが、
「事態を今ひとつ把握してないんだけど…あの、もしかして一緒?」
 この台詞は予期していなかったのか、目をぱちくりさせて、
「な、何だと思ったんですの」
「いやほら、何かで使うから開けとくのかなって」
「つ、使うって何に使うんですのっ」
 顔を赤くしてシンジを睨んだ。
「さあ…何に使うの?」
「知りませんっ」
「んーとにかく一緒なのね」
「勿論ですわよっ!」
「すみれがそう言うならそうしよ。でも。あの二人みたいなのは無理ね」
「どういう事ですの」
「こっち」
 先に立って寝室まで歩いていくと、そっと布団をめくって見せた。
「な、なんですのこれっ」
 首筋まで赤くなったが、シンジの妙な表情に気づいた。
「碇さん?」
「昨日、マリアにキスされた」
「!?」
「正確に言えば、この二人はワイン一口で潰れて、それ以降意識は戻ってない。ついでに就寝時には、ちゃんと服を着ていた。で、俺はと言うとマリアが頬にキスした瞬間に意識が飛んだ。すみれ、マリアに何か無かった?」
「そうですわ、わたくしはその事で…」
 言いかけたそこへ、
「碇さんまだ起きないんですか」
 マユミが入ってきた。
「ちょ、ちょっと殿方のお部屋に入るなんて失礼ですわよっ」
 慌ててすみれが押し出した。無論、マユミにばれると条件として出した口封じが効力を無くし、シンジとの約束も無効になると思ったのに違いない。
 かすかに笑ったシンジが、
「山岸、何があったの?」
「それが…シビウ病院から電話があったんです。マリアさんが担ぎ込まれたって」
「え!?」
「すみれ、聞いてなかったの?」
「わたくしはただ、早く碇さんを起こすようにとマユミさんに言われて…」
「で、時間掛かったわけね?」
(あつっ)
 覗き込むように訊いた途端、お尻をきゅっとつねられた。
 黙れという事らしい。
「それより碇さん、なんか変なんです」
「変?」
「マリアさんはその…十数時間病院に居たって」
「十数時間ですって?わたくし達、昨日の夜からマリアさんに会ってるじゃありませんの」
「多分、それ偽者だ」
「なんですって!?」
「山岸」
「え?」
「すみれには言ったけど、昨日マリアにキスされた。マリアにしては積極的…あ、いやじゃなくて!」
「『……』」
 二人からみょ〜な、特に片方からはトゲの入った視線が飛んできて、慌ててシンジは訂正した。
「だ、だからマリアは絶対あんな事しない。多分、あの時妙な薬かなんかつけられたんだ」
「じゃ、じゃあわたくし達はマリアさんの偽者と…」
 震える声で訊いたすみれに頷き、
「うん。他の連中は起こさないでいい。すぐ病院へ」
「いいんですか?」
「構わない。そんな事より…マリアが心配だ」
「どういう事ですの」
「山岸、マリアの容態は何と?」
「いえ、それは何も…」
「ピンピンしてるならそう言うはずでしょ。急ごう」
「『はい』」
 
 
「ほう、それで熱いキスに成功した?」
「もっちろんよう。ついでに記憶も弄っといたわ!でも黒ちゃん」
「ん?」
「小娘一人拉致った位で簡単に引っかき回せるなんて、随分とユルい所じゃナーイ?」
「そうでもないな」
「ドゥー言うこと?」
「完全な化身が可能なボン・クレーでなければ、女神館の結界に引っかかってる。葵叉丹の配下が真似をしても無駄な事だ」
「じゃ、あちしじゃないと駄目って事?あちし?あちしなのぅ!?」
「あちしだ」
「がーはっはっは!回る!回る!あちしは回るっ!」
 嬉々として回り始めたのはいいが、何せ長身なもので目立つ。シンジよりも身長は高いのだ。
「しりるはどうした?」
「ああ、寝てるわよう。緋鞘の八つ当たりでダウンしてるわ。あれ?そう言えば緋鞘は何処に行ったのう?」
「帰った。妹のアナル調教が済んでないらしい。ボン・クレー、ボディガードはどうなってる?」
「だいじょーぶよう。今日はオモチャと一日3Pだから。学校を休むって言ってたわよう」
「休む?」
「なーんかねえ、ワインで悪酔いして、ぐっちょぐちょが止まらなくなったらしいわよう。困ったものよねい?」
「まったくだ」
「さてと、あの馬鹿な小娘は棺桶に放り込んだし、あちしも気が済んだからもう帰るわねい。イーイ?あんなガキに舐められてるんじゃないわよーう!?それとあちしのオカマコート、もう出来てるのう?」
「この間作らせた、もう出来てる。外出着に使う予定だ」
「がーはっはっは、ちゃんと大事にするのよう。じゃあねい」
 長身のオカマがくるくると回りながら出ていって間もなく、祐子が入ってきた。
「おかえり」
「ただ今。ところで、来栖川重工の件ですが」
「どうかした?」
「ええ、孫娘は二人とも学校に行っています。ただし、護衛が四十人付いていますが」
「……」
 十秒近く立ってから、主人は軽く頷いた。
「長身のオカマは義理堅いと昔から決まってる」
「ええ。何か飲みます?」
「何か適当に」
 立っていった後ろ姿を見ながら、
「あの娘はまだシンジに未練がある。想い人のピンチなら、式場で銃を抜きたくもなるでしょう。そんな事でキレる程、暇ではありませんよ」
 シンジとマリア、双方から命を狙われそうな台詞を小さく呟いた。
 
 
 
 
 
「『むにゅ…』」
 シンジが消えたベッド内で、同時に二つの気配が動いた。
 繋ぎ合わされた手は、無論女同士とはつゆ知らず、夢うつつのまま手をまさぐる。
(碇さん…)
 身を寄せ合っている上に手まで繋いでいれば寝心地は悪くない、どころか上々なのだが、人間は完全に満足する生き物ではない。
 まして、ライバルが同じ床にいるとなれば尚更である。
 顔がもぞもぞと動き、そっと突き出された唇が目的を探す。目を閉じたままなのは、無論失敗に終わった時、寝ぼけていたと逃げる為だ。
 幸いにもすぐに見つかった。
 柔らかな唇は既に経験済みであり、さくらは既に舌を絡める術も知っている。いつもは受けだからと自分から舌を絡ませていくと、一瞬驚いた気配が伝わってきたがすぐに受け入れた。
 にゅぷにゅぷと舌が絡み合い、もう一人の娘に聞こえないよう懸命に吐息を抑える。
 絡み合った舌は、それ自体が別個の生き物のように蠢き、お互いを刺激し合う。
「『んんっ』」
 あまりの快感にとうとうわずかな喘ぎが洩れた途端、二人の動きは止まった。
 自分のではない女の物だと気づいたのだ。
 蹴り飛ばすように布団を跳ね上げ、そのまま乙女達は硬直した。目の前にいるのは昨夜シンジとの添い寝を取り合った相手であり、何よりも口許の唾液は自分が熱いキスをかわした相手を明確に物語っている。
「『……』」
 十秒ほど呆然と見つめ合った後、二人の手が同時に上がった。
 乾いた音が二つ響き、ほとんど間を置かずしてドタバタと聞き慣れた物音が室内に木霊し始めた。
 
 
「棺桶?」
 看護婦長から話を聞いたシンジの表情が険しくなった。
 病院の前に棺が放り出されており、その中に生体反応があったという。だが、棺は実に十時間以上開かなかったのだ。
「院長と姫は居なかったね?」
「申し訳ありません…」
 シンジの言葉に、中年の婦長は申し訳なさそうに頭を下げた。
「いいんだ、居ないのは仕方なかったから。それにしても記憶まで操るとは…」
 視線の先には、静かに寝息を立てているマリアの姿がある。
 衰弱が激しい為に点滴を打たれたが、まだ一度も意識は戻っていない。
(マリアごめん…)
 シンジが内心でマリアに謝った時、
「碇さん…」
 マユミが小声で呼んだ。
「何?」
「ちょっといいですか」
 シンジを廊下に連れ出したマユミが、
「碇さん、やはりこれは降魔の仕業でしょうか」
「違う」
 シンジは即座に首を振った。
「え!?」
「降魔の仕業なら…マリアは間違いなく殺されている」
 溜まった物を吐き出すような口調でシンジは言った。
「生きていれば、目を覚ました時点で偽者がばれる。どう考えても始末した方が得策だよ。それに…」
「それに?」
「シビウと姫がいれば、棺はもっと早く開いていた。つまり、居ないのを見通してその上であの棺に封をしたんだ。それも…時限式で開くようにして」
 棺を封じるのに使われていたのは脂であり、どういう代物なのか一切の道具を受け付けなかった。
 摩擦係数をゼロにする物であり、中に生きた人間が入っている以上手荒な攻撃も出来なかったのだ。
 外部からの一切の力を受け付けなかった棺は、シンジの言った通り時限式で開いた。
 文字通り弄ばれたわけで、婦長以下スタッフの顔が青白いのは、むしろ屈辱から来る部分が大きい。
「で、でも一体誰がそんな事を…」
「誰か…俺かマリアに恨み…マリアの線は薄い。内部からかき回して俺に二泡吹かせようって奴だ」
「二泡?」
「二泡」
 頷いた時、
「碇さん…ちょっとよろしいですか」
 婦長が声を掛けた。
「起きた?」
「いえ、それがその…棺の中にこんな物が」
 ただの紙切れを渡すにしては、どうも表情がおかしい。
 理由はすぐ明らかになった。
 二つに折られた紙片の中には、
「キスしてくれなきゃ起きないもん」
 達筆でそう記されていたのである。
「な!?」
「何て書いてあったんですか?」
「碇さん、どうかしまして?」
 こんな反応を見れば興味を示すのが普通である。
「ななっ、なんでもないのっ」
 シンジは慌てて紙切れを後ろに隠した。
 
 
 
 
 
(つづく)

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