妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百二十三話:Grudge revival of a piranha
 
 
 
 
 
 絶賛されると思っていた訳ではない。とは言え、自分としては物足りぬ反応であった。
 何をどう間違ったのか、海自に入っていずれは海将になるんだと張り切っていたら、いきなり引き抜かれておまけに巴里へ飛ばされた。
 何の天罰だと嘆いたが、待っていたのは一癖どころか四癖位ありそうな――だが可愛い娘達と、思わず目を見張るような肢体の女であった。
 碇ミサトと名乗った女は、一郎の霊力に目をつけたのだと告げた。無論、霊力など初めて聞く単語である。
 はあ、とよく分からないまま、タンクトップを中から嫌と言うほど持ち上げている胸に見とれている一郎に、
「この街にね、降魔のブラザーが出るって神占に出たのよ。君の仕事は、あそこにいる小娘と協力してそれを防ぐ事。勿論素手とは言わないわ。シンちゃんみたいに有能じゃないからね。機体はこっちで用意したから」
 ミサトの胸に、ついつい目が行ってしまう一郎に、
「降魔はね、通常兵器じゃ歯が立たないのよ。何せ、動力が人間の負の感情だから。だから君たちの出番になるの――巴里花組とそして光武のね」
 ミサトはブランデーの瓶をぐいと傾けてから告げたが、ちゃんと聞いてる?と顔を近づけられた時、一郎はミサトからまったく酒の匂いがしないのに気が付いた。
 だがそんな事より、ミサトが言う霊力なる物が高いと集められた乙女達と自分は、すべてが一からであった。しかも、触った事もないような機体に乗せられて、挙げ句の果てには自分が彼女達の隊長だと来た。
 一ヶ月独房暮らしでもいいから、海自に帰してくれないかと願ったが、やはり大和魂を持っているだけあって、段々と自分が何とかしなければという気になってきた。
 もっとも、底抜けに脳天気なドジ娘に、ヒマラヤ並にプライドの高い貴族の娘、さらには年端も行かないのに年齢と反比例してませた娘達を相手にしていれば、男を捨てていない限り自分がなんとかしなきゃと思うものである。
 年頃の娘達と同居する事になったのだが、時折起こるハプニング――疲れ切った身体でバスルームに入ると全裸の娘がいたり、自分がサウナで伸びていると突如ドアが開いて入ってきた娘が逆ギレしたり――が役に立っているのかどうかは知らない。
 ただ、相手が素人娘ばかりだった事で、隊長としての一郎に疑問が向かなかったのは幸いだったろう。一からのスタートだったが、文字通り一緒に成長していったのだ。
 何より彼らを結びつけたのは、初戦の完敗であった。ウサギの着ぐるみを着た変態親父にしか見えない敵に、完膚無きまでに敗北したのだ。
 ミサトの一撃が無ければ、エリカ・フォンティーヌを庇った一郎共々、間違いなく素っ首打ち落とされていた。
「要するに、まだまだ協力が出来てないのよ。あんたがシンちゃんと違って、頼りにならなさ過ぎるんだから尚更ね」
 一郎達が全く歯の立たなかったウサギ親父――シゾーを一撃で退けたミサトは、彼らの欠点を指摘した。
 その結果…。
「隊長、なんか萎えてきたぞ…アタシじゃ満足できないのか?」
 顔ごと前後に揺らしながら、フェラに励んでいたロベリアが顔を上げた。悪事なら、一郎など遙か足下にも及ばないが、身を任せた男は一郎が初めてで、動きは辿々しいがそれでも懸命に頬をすぼめて舌でしごき上げる。
 少し萎えてきた、と見抜いたエリカは、キスマークを首筋に付けまくるの止めて覗き込んだ。
「ロベリアさん、大神さんが射精(だ)す前に萎えたら、エリカの番ですからね」
 先手は奪られたものの、無論一郎の股間を眈々と狙っている。
「そんな事は分かってるよ。あたしがたっぷり吸い出すから、アンタはそれまで首筋で我慢してな」
「ぷうっ」
 ふくれたが、我に戻った一郎の股間が、快感を認識して再度復活するのを見て、諦めたように耳朶へと舌を這わせ始めた。
 よく言えばハーレム、正確に言えば大神一郎が夜な夜な搾乳ならぬ搾精されるようになったのだ。
 下は11才から上は20才まで、それでも険悪にならないのは、一郎の御し方が上手いからではない。
 ある意味では一致団結していたのかもしれない――その視線が、自分たちに向いていない一郎に対して。
 ある意味では対抗であった――本人にその気がまったく無いくせに、自分たちの想い人の心をさらっていった女への。
 別に誘惑したわけでも、セックスアピールがあったわけでもない。
 何よりも、本人のその気は欠片ほどにすらない。
 だが巴里の娘達にはない熟れた肢体と、彼らが到底及ばぬ能力は、いつの間にか一郎の心を捕らえて放さなくなってしまったのだ。
 ウサギ親父シゾーを猛火の中に追い込んで退治した後、一郎は意気軒昂としてミサトに報告した。一度は負けたが最後は花組だけの力で片づけたのだ、褒められこそすれ怒られる事はないはずだ。
 だが、ミサトの言葉は思いも寄らぬものであった。
「そうね、よくやったわ。イザベルにもボーナス出すように言っとくから。でもね、大神君」
「はい?」
「まだまだ足りないわよ、犠牲が大きすぎるわ。今回の被害総額は数千万に達するって言うじゃない。シンちゃんならこんなの、居眠りしながら片づけるわよ」
(まただ…)
 シンちゃん、その固有名詞を口にする度に、ミサトの口元はふにゃふにゃと緩み、女経験の無かった一郎にもそれが恋人か或いはそれに近い存在だとは見当がついた。
 言うまでもないが…実弟だとは思いもしなかったが。
「今はティオティワカン辺りをウロウロしてるけど、女神館の小娘達任せたら、間違いなく最強に仕上げるわ。最強ね最強」
 “シンちゃんの勇姿”を想像し、一人で酔っていると受話器越しでも伝わってくるミサトに、
「あ、あのミサトさん…」
「何?」
「その、シンちゃんってどなたなのです」
「マイハニー」
 ミサトの答えは短く、そして即座のものであった。
「マ、マイハニー?」
「そっ、あたしの最愛の人。ま、ちょっと冷たいのが欠点だけど、そこがまたいいのよねえ〜」
 弟が、想いを寄せる実姉に温かかったら大問題だが。
 しかしこれは、巴里花組の娘達にとっても、問題であった。そのシンちゃんが何者かは知らないが、一人指揮官が就任しただけで無敵になるなら、自分たちより到底上という事になるではないか。
 そして無論一郎にとっても、自分の前に大きく立ちはだかるシンちゃんの存在は、決して無視できるものではない。
 それが逆に、乙女達を奇妙に結束させたのは妙な話だが、かくして少し変わった管理人と管理されている娘達の一味は、自分達が思いも寄らぬ所で思いも寄らぬ相手から、ライバル意識を持たれる事になったのだ。
 これもまたブラコン――近親恋愛はろくなモンじゃないと言ういい例である。
 
 
 
 
 
「ただ今。で、いい子にしてたかしら」
「お帰りなさい、おにいちゃん」
 シンジが病室に入ると、アイリスはベッドの上に上体を起こして本を読んでいた。
 顔を上げて笑顔で迎えたアイリスに、
「お土産を持ってきました。はいこれ」
「これ…おにいちゃんこれブーケなのっ?」
 式場から持ってきた花に、その正体がピンと来たらしい。満面の笑みでシンジから受け取ったが、ふとシンジの視線がアイリスの読んでいた本に止まった。
(ん…ん!?)
 嬉々としてブーケに頬ずりしているアイリスだが、彼女が読んでいたのはハーレクイン――それもロマンスシリーズより大人向けのテンプテーションシリーズであった。
(あの藪院長がー!!)
 藪医者、ではなくなぜ藪院長なのかは不明だが、あの肢体に荒縄の跡でも残してくれようかと考えた時、そっと手がおさえられた。
「アイリス?」
「汝碇シンジは、病める時も健やかなる時も死が二人を分かつ後でも、永遠にイリス・シャトーブリアンを愛する事を誓いますか?」
「は!?」
「愛する二人が、そうやって誓い合うと永遠に結ばれるって本に書いてあったの」
「…どの?」
 アイリスの指が、まっすぐにハーレクインを指す。しかも、普通は死が二人を分かつまで位で終わるが、死にも打ち勝つとはなかなか強力である。その脳内ではもう、シンジと並んだ自分のウェディングドレス姿が鮮明にイメージされているのかもしれない。
「ほら、おにいちゃん」
 脳裏で復讐の神が大鎌を研ぎ始めたシンジが、アイリスの声で現実に引き戻された。
「え、何?」
「もー、女に恥をかかせちゃ駄目でしょ」
 ませレベルが二つほど上がったらしいアイリスが、んーと唇を突き出す。
「まったく、元気になったと思ったらすぐこれなんだから」
 ぶつくさぼやいているシンジに、
「じゃ、ほっぺたでもいいから。いいでしょ、おにいちゃん」
「なんでそうなるのさ」
「ならないの?」
 逆に聞き返された。
「え?」
「ブーケは結婚式のお花でしょ」
「うん」
「じゃ、おにいちゃんは私に、持ってきたブーケをぼんやり眺めてるようにって、持ってきたの?」
「別に…そう言う訳じゃないけど」
 そうではないが、かと言って唇を突き出して迫られる為でも無論ない。
 しかし、アイリスはもうすっかりその気になっており、確かにこれならブーケではなく普通の花の方にすれば良かったと、シンジはすっと上体を屈めた。他の皆は、着飾って式に出たのにアイリス一人は留守番だと、その姿がどこか童話の姫に重なったのかもしれない。
「してあげてもいいけど、誓わないからね」
 してあげる、とかシンジが口にするのは珍しい。
「むう…いいよ、そっちは諦める」
 現実を優先する事にしたようだ。
 ちゅ、とアイリスの頬で小さな音がした。
「ありがと、おにいちゃん」
 ほんのりと赤くなった頬に触れた所を見ると、最初からそっちの予定だったらしい。
「それでね」
「うん?」
「私ね、もう治ったの。披露宴はこれからでしょ、連れていってくれるよね」
「…なんですと?」
 にぱっと笑ったアイリスの顔を見た時、シンジは自分で丁寧に掘られた墓穴に自ら落ち込んだ事を知った。
(アンビリーバボウ)
 更にそこへ、
「アイリス悪くないもーん」
 降ってきた笑い声に、シンジはくしゃくしゃと髪を引っかき回した。
 
 
 
 
 
「あ、あのこれは…」
「さっさと着替えろ。若のご命令だ」
 結婚式が終わり、ブーケ争奪戦の後披露宴に移る。
 ブーケの争奪戦は、文字通りの取り合いで顔や腕に傷の出来た者が数名いたが、結局勝ったのは“元本職”であった。
 奪い合いでブーケが浮いた瞬間、すっと持っていったのは愛だったのだ。取り合いに参加はせず、あくまで争奪の一瞬の隙を狙ったのが勝因だったらしい。
 無論姉に怒られていたが、本人は取った事がよほど嬉しかったようで、微妙に顔が緩んでいる。
 この光景もシンジは想像しており、だから住人達に不参加と言ったのだ。戦線へ直に参加した中で、仲良く三筋ずつひっかき傷と思しき物を負っているのはさくらとすみれの二人だ。式中の事もあり、張り合うように参加した結果である。
 言うまでもない事だが、ブーケを取ろうが取るまいが、結婚できない娘はできないのだが、原価からして違う。ゲットしただけでも、十分レアアイテムとしての価値は持っており、近頃は珍しい直の取り合いに娘達が殺到したのも、その辺に一因があったのかもしれない。
「でも、あのブーケどうするのかしら」
 呟いて戻ろうとしたマリアの手が掴まれ、振り向くと薫子が立っていた。マリアは薫子を知らないが、シンジの横に座っていて何やら密談していたのは知っている。
「私に何か」
「若様からお預かりしたものがある。ついてこい」
 たとえ一時の感情とは言え、マリアがシンジに発砲した事は知っている。
 ただ、感情を押し殺す術も知っているだけだ。
 薫子に連れてこられたマリアが渡されたのは、梅をあしらった柄の濃い水色をしたチャイナドレスとローヒールであった。
 渡されはしたが、自分はもうドレスを着ているし灰をかぶっているわけでもない。どうしてと訊いたマリアに、薫子は冒頭の台詞を返したのだ。
 そう言えばお色直しに三回分とか言っていたと、マリアは思い出した。だとしたら、これも間違いなく身体にぴたりと合うはずだ。
(だったらきっと…)
 ある思い出がマリアの脳裏をよぎったが、何も言わずに着替え始めたのは薫子の気に触れたからだ。限界点でかすかに放出している殺気は、針の先ほどだったが、それがマリアの神経に触れたのである。
 自分とカンナが、本邸のメイドさん達から好意を持たれていない事は、今着ているドレスを取りに行った時から分かっている。シンジとの関係が完全に途絶えていれば、今頃はあの世で愛銃の手当をする事になっていたろう。
 言われるまま着替えたマリアだったが、やっぱりと内心で呟いた。サイズは文句のつけようがない程合っていたが、脇のスリットは太股の辺りまでぱっくりと開いており、大股で歩いた途端下着が見えそうな気さえする。
 それにしても、最近の自分のサイズをどうして知っているのかと、マリアが表情は変わらぬまま首を傾げた時、
「マリアタチバナ」
 呼ばれた声は、ぞっとするような冷たい物を帯びていた。
「?」
「今回は私が遥佳達を抑えておいた。今お前を殺せば、若のお怒りを買うからだ。だが次は止めぬ。例え、私が若様の逆鱗に触れる事になって――」
 不意に室内の空気が固まった。
 薫子の身体が凝結したのである。
「はふーう」
 つかつかと入ってきたシンジが、薫子の首筋にふっと息を吹きかけた。それでも薫子は動かない。いや、動けなかったのだ。
「俺の留守にマリアいじめるとは、継母の分際で偉くなったもんよのう、薫子」
 声は笑っているし、雰囲気も尖ってはいない。
 だがその指先には、既に必殺の気がこもっていると薫子だけは気付いた。
「シンジ待ってっ」
 無論分かってはいない。
 見抜いたわけでもない。
 叫んだ声は本能的な物だったが、それがなければ風の刃が薫子の身体を直撃していたのは間違いない。
「もう、バカマリアなんだから」
 何を思ったのか、くすっと笑ったシンジだが表情は変えぬまま、
「目障りだ」
 そう言った声は、あまりにも表情とはかけ離れたものであった。
「失礼します」
 一礼して出ていった薫子には目もくれず、
「後で吊るしとくから。それより、なかなかお似合い」
「あ、あのシンジ…」
「え?」
「あの人が言った事は当然だと思うの。もし私が反対の立場だったら同じ事を、いえきっとそれ以上の事をしていた筈。だから…んっ」
「子供は余計な事考えなくていいの」
 胸に手を伸ばしたシンジが、下から乳房を二本指で挟んだのだ。そのまま揉むかに見えたがすぐに離し、
「確かにマリアは俺を撃った。でもこれはこれ」
「え?」
「俺は自己防衛が出来ないわけでも、思考能力を売り飛ばして持ってないわけでもないでしょ。お礼するなら、五体ばらして好事家に売り飛ばせば済む話だ。或いは生きたまま封印してもいい」
「……」
「つまり、いつの間にか俺の知らない所で事態が動き、知り合いが俺の顔色を窺いながら行動するようになるって寸法だ。お断りだね」
「シンジ…」
 シンジの場合、自分を庇ったとか言うのとは少し事情が異なる。あくまでも、自分のポリシーが優先されるらしい。
「さ、この話はもう終わり。そんな事よりマリア、きつくない?」
「大丈夫よ、ちょうどいいわ。でもこれ…」
「何?」
「チャイナドレスでもこのタイプは、スリットが膝から下しかないタイプでしょ。この服少しスリットが深いみたいで…」
「暴れたりするとパンツ見えちゃうし。そしたら暴れないでしょ」
「わ、私は暴れたりなんてしな…ちょ、ちょっとどこ見てるの」
「マリアの脚。相変わらず色白いよねえ。ちょっとジェラシー」
 シンジの言葉に慌てて脚を隠したが、後半が気になった。
「…今なんて?」
「胸を大きくするとか、溜まりに溜まった脂肪を吸引したりするのは別に難しくない。でも素材の差ってのは、どうしようもないんだよね。背は高いし胸は大きいし色は白いし、今度呪ってやる」
「あ、あのシンジ?」
 マリアから見れば、シンジの方がよほど恵まれている。大体、住人達の過半数から想いを一身に受けている最中ではないか。
 しかし、シンジにはそんな事より微妙な所で不満がある事をマリアは知らない。
「まあいいや。もう自慢パーティ始まるし行くよ」
「自慢パーティ?」
「披露=自慢じゃない。大抵、聞きたくもない花嫁の足跡とか過去とか、ご丁寧に映像で出てくるし。せいぜい屈んだ時に、やっぱり胸が偽物だったって見抜くぐらいしかつまらないし」
 そう言うのはあまり見抜かない方がいいと思うの、そう思ったが口にはしなかった。
「さ、行こ」
 手を取られたから慌てて、
「ちょ、ちょっと待ってっ」
「お手洗いなら出て右側」
「だ、誰もそんな事言ってないでしょっ。そんな事じゃないのよ、ただ私だけこんなのは…」
「だけ?何でそうなるの」
 三回分買っておいで、シンジはそう言ってあるし、他の住人達はさっさと着替えてあると思っていたのだ。
「普通の結婚式ならともかく、花嫁がミサトさんと瞳さんでしょう。着ても、花嫁さんには及ばないから一着がいいって言ったのよ」
「そうなの?」
「そうな…な、何」
 シンジがマリアの両頬をむにっと引っ張ったのだ。
「確かに事実だけどね。まったくもう、余計な仕事増やすんだから」
 片手はマリアの頬を引っ張ったまま、もう片方の手で携帯を取りだした。
「その辺に由美いる?いたらジュース持ってくるように言っておいて。場所は――」
 電話を切ってから、やっとマリアの手を放した。
「ジュースって…話が見えないんだけど」
「来たら見える」
 素っ気ないシンジに、マリアもそれ以上続けられず束の間沈黙が漂ったが、
「あ、あの…」
「何?」
「その、この間の事…謝っておこうと思って…」
「この間?俺の寝顔に“へのへのもへ”でも書こうと企んだの?」
「そ、そんな事企んでないわ」
「じゃ、女装させようとか?お仕置きだな」
「違うって言ってるでしょ」
 がしかし、これが後に事実となる事を、ネタと知りつつ振ったシンジも律儀に返したマリアも、無論知らない。
「じゃ、何なんだ一体」
「なんで逆ギレするのよ」
「マリアと一緒にしないで」
「……」
 すう、と息を吸い込んで自分を落ち着かせる。シンジの術中にはまったら堂々巡りになるだけだ。
「そんな事じゃなくてその…シンジを撃った事よ」
(…はふー)
 シンジは内心でため息を吐いた。マリアが何を言うか位、見当はついていたし、それはシンジに取って蒸し返されたくない話であった。
 例えそれが、マリアの一方的な銃撃である事は明白だったにしても、だ。
「で?」
「でって…だからその…私が悪かったわ」
 まさか忘れている筈はなく、なぜこんな反応をするのか訝しみながらも、とにかくマリアは頭を下げた。
「いいよ。気にしてないし」
「…それだ――」
 確かに銃を撃ったのは自分だし、その行為自体に弁解の余地はない。これがマリアでなければ、間違いなく凄まじい責め苦の中で死を迎えていた筈だ。
 だからと言って、あまりと言えばあまりの反応であり、マリアも思わずそれだけなのかと言いかけたが、その言葉は途中で止まった。
 観察眼ではない。
 場の空気でもない。
 女だからだ。
 一瞬、ほんの一瞬だけだが、シンジの表情が僅かに歪んだのにマリアは気づいた。
 僅か、と呼べる程にも微々たるものであり、マリアでなければ気づかなかった筈だ。
(シンジ…)
 言葉を飲み込んだマリアは、それ以上続ける事は出来なかった。
 シンジは殺し屋ではないし、いつも命を狙われている訳ではないから、常人とは比較にならぬほどの反射神経や勘は必要ない。とは言え、自分が銃を抜いた瞬間に吹き飛ばす事も、或いは身を捻って避ける事も出来た筈だ。
 無論当たる気ではないがわざと撃たせたのではないか――そんな事を思った時、マリアの口から言葉は出てこなくなった。
 控え室の一つだから、そんなに広くはない。
 室内にどこか重い空気が立ちこめたその時、
「若様、こちらにおられます?」
 明るい声がして、武田由美が入ってきた。
 今年で27才になるが、控え目で家事に優れた娘だ。本邸のメイドさんの中では、他と比べてかなり血の気が少ない。
 その声に気づいたマリアが、由美を見た。
「あら、あなた今朝の子ね」
「今朝?迷子にでもなったの?」
「違うわ、このドレスを取りに行った時に」
「身の危険があったので、途中までお送りしたんです。若様、駄目ですよダミー位は護衛につけないと」
「…なんでウチに行くのに護衛がいるんだ」
「遥佳さんとか、この間の一件でまだ殺気立ってますから。桐島って言う子の名前も出せないんですよ」
 笑顔から一転して真顔になると、
「本邸に仕えている人達が、単に富豪の家にお手伝いに来ている訳ではない――それは、若様が一番ご存じでしょう」
「富豪って言ったって俺には関係な――わ、分かってますよう」
 ずいっと顔を寄せてきた由美が、殆どくっつきそうな距離で、シンジの目を覗き込んだのだ。
 シンジの思考位読め、そして理解できなければ奉仕など出来ない。さっきは追放されたが、薫子を始め皆それくらいは分かっている。
 家の財になど興味はなく、浮雲みたいなライフスタイルが大好きな若主人の事は。そして仕えられる方もまた、仕える方の事は理解していなければなるまい。
 その観点で言えば、シンジに銃口を向け、あまつさえ発砲さえしたマリアをフユノが不問にしたとは言え、やはり一人で向かわせたのは選択ミスだったろう。
 由美はその事を言っているのだ。
「バイブの代わりにパイナップル突っ込んで、夜の街を歩かせてやる気だったけど今回は見逃しとく」
「それがよろしいでしょう」
「その代わり、今度余計なことした日には全身に火薬でペイントして、ぷかぷか煙草吸ってもらうからね」
「薫子さんには、そうお伝えしておきます。でも若様」
「何?」
「バイブなんて持っておられたんですか?葉子さんが実家に帰られてから、もう使ってないと思ってましたが」
「電動パール突っ込んで、アヌスストッパーで栓でもして欲しいの?」
「あ、それは遠慮します。ストッパーも電動でしょう。中で動くのって好きじゃないんです。それに、一度使うと癖になるって聞きましたし」
「誰に?」
「勿論葉――もぐっ」
 なぜか、シンジがにゅっと手を伸ばして口を塞いだが、二人の会話にマリアの顔からすうっと血の気が退いていた。バイブは分かるが、代用品は果物の呼称ではあるまい。
 なんちゃって的な会話ではないと、マリアの本能が告げていたのだ。
(一体どういう主従関係なの…)
 葉子がどうこうの件に神経が向く余裕は無かった。
「ん?」
 先にシンジが気づいた。
「あ、マリアが青くなっちゃってる。由美ジュースくれる」
「忘れてました。これです」
「ありがと。もういいよ」
「失礼します」
 由美が出て行った後、缶ジュースとコップを受け取ったシンジは何を思ったのか、コップにジュースを入れてマリアが脱いだドレスにかけたのだ。
「シ、シンジっ!?」
「これでマリアの匂いは消えるでしょ。甘いか酸っぱいかは知らないけど」
「わ、私の匂いっ?」
 ぼっと真っ赤になったマリアだが、
「冗談だよ。匂いなんかどうでもいいさ」
「どうしてジュースを?」
 分からないのかと言う表情を一瞬向けたが、すぐに打ち消し、
「さあ、どうしてかしらね。もう披露宴始まってるし、そろそろ行かないと間に合わないよ」
「え、ええ」
 よく分からないまま会場に向かったマリアが、シンジの真意を知ったのは着いてからであった。
「あらマリアさん、着替えられたんですの?」
「マリア、あたし達には着替えるなって言ったのに。いーわよねえ、そう言うのが似合うひ――いたっ」
 ぽかっ。
「勝手に話を進めるなっつーの」
「シンジ?」
「俺がさっきマリアにジュース掛けたんだよ。それとも、しっとり濡れて下着とか乳のラインが見えてる姿で出席させて、下手人の俺に大恥をかかせよう、と?」
 アスカは慌てて首を振った。誰の仕業かはともかく、マリアのこのスタイルでそんな扇情的な格好をされた日には、花嫁よりよほど目が行く。
 ただでさえ、背中の大きく空いたドレスでセクシーだったのに、ウェットのオプションまで付いてシンジの視線が集中したらどうするのだ。
 防衛心の方が強かったアスカだが、他の娘達も考えている事は同じだったらしい。
(嘘上手…)
 ジュースはこの為かとやっと気づいたが、こうもあっさり皆を騙すとは思っていなかった。しかも、疑っている者は誰もいないではないか。
(じゃ、シンジの言う事ってストレートに受け取れないじゃない…)
 胸の中で呟いてから、
(べ、別に私は彼女でも何でもないし関係ないわっ)
 うっすら赤い顔で首を振ったが、薄暗いせいで誰にも気づかれなかったのは幸運だったろう。
 そこへ、
「若様」
 小声で誰かが呼んだ。
「麗?どうかしたの」
「どうかしたのじゃなくて、次は若のご挨拶です。三分しか時間ありませんから、早くお戻り下さい」
「あ、そうでした」
 実は、とっくにシンジの番になっていたのだが、一向にやって来る様子がない。
 仕方がないから、読む予定のない祝電を読み上げて、時間を稼いでいたのだ。
「しようがない、ちょっと行ってく…あれ?」
 テーブルを見ると、お一人様足りない。
 さっき連れてきたアイリスがいないのだ。
 トイレならいいが、このメンバーに合流する前にぶっ倒れて医務室へ運ばれたりしては困る。
 確認しておくかと携帯に手を伸ばした途端、電波を受信した。
(毒電波…あらレニだ)
 親族席からレニが、さっさと来いと電波を出している。どうやらタイムリミットらしい。
(まったくもうしっかりしちゃって…ん?)
 句読点まで、一字一句書き記した原案のメモがない。かくなる上は即席、即席ならレニだとかさかさ歩いていくと既にアイリスが座っている。
「…なんでアイリスが?」
「あのテーブルで一緒にすれば、飲まされて伸びてしまうわ。折角お前が連れてきたのに、病院へ逆戻りさせる事もあるまい」
「はあ…あ、それよりレニ」
「何?」
「原稿なくしちゃったの。下僕共よう来たのうって言うとクレアに怒られるから、悪いけど代わりに行――うぷ」
「やっぱり、そんな事じゃないかと思ってた。持ってると無くしそうだからレニ預かっといて、そう言ったの忘れてたでしょ」
「い、いつの間に…」
 渡した本人が、ころっと忘れていたようだ。
 レニに押しつけられた原稿を手にしてマイクの前に立ったシンジだが、原稿は見ぬまま読み上げていく。別に見ずとも、原稿さえ持っていればいいらしい。
 三分ぐらいの中身だったが、終盤になってふとシンジの表情が動いた。
 ぴくっと、これは脳内のアンテナが僅かな電波を受信したのだ。
 気に障る記憶、と言う名の電波を。
(やはり気づいたか。記憶が忘れなかったようじゃの)
 イザベル・ライラックに招待状が行ってしまい、出席の連絡があってからフユノは知った。無論ピラニアの一件は分かっているし、シンジが覚えている、或いは思い出す可能性は高い。
 招いた者を取り消す、これほど失礼な事はそう滅多にあるものではなく、そうなれば代わりのトラップは仕掛けなくてはなるまい。
 一応カードは切ってあるが、正確さには少々不安がある。かと言って、他の者ではっまったく使えない。
「止めてくれればよいがの」
 小さく呟いた声は、左右の娘達には聞こえなかったらしい。
 戻ってきたシンジは、指定された席ではなく住人達の居るテーブルに座った。
「あ、おにいちゃんっ」
 てっきり、自分の所に来ると思っていたアイリスが小さな声を上げたが、シンジの眉は寄ったままでそれどころではない。
「…シンジ?」
 帰ってきて表情が変わったシンジを見て、住人達も顔を見合わせたが、何があったのかと訊く者はいなかった。
 シンジが考え込んでいる内にケーキ入刀タイムになり、ケーキが運ばれてきた。入刀になってから出てきたのは、シンジがミサト用に二つ用意していたからだ。出てきたのは安泰用であった。
 娘達も息をのんで共同作業を見ているが、シンジの方はまだ思い出せない。
(あの顔どこかで…)
 会場にあった一つの顔が、シンジの記憶のどこかで引っかかったまま、それ以上鮮明にならないのだ。
 だいたい、薫子が余計な事をするから悪い。この式だって、シンジにとっては家でピラニアを見てる方が面白いのである。
(そうそうピラニア…ピラニア?)
 次の瞬間記憶の扉に微量の電流が流れ、一瞬にして開いた。
「思い出した!!」
「!?」
 何事かとマリア達がシンジを見たが、幸いにも入刀への拍手の最中で周囲には聞こえなかったらしい。
 すっと立ち上がったシンジに、
「シンジ何処へ」
 思わず訊いたのは、トイレに行くようには見えなかったからだ。むしろ、なぜか突然殺気を帯びたような気がしたのである。
「何でもない」
 マリアには一瞥もくれず、シンジはドアから抜け出した。薫子の名前でイザベルが浮かび、それがピラニアの単語で一つの線となって繋がったのだ。
「ピラニアの池に放り込んでフランスには骨だけ返して――ぶっ!?」
 すたすた歩き出そうとした途端、何かに躓いてすっ転ぶ。
 いったーい、と腰をさすりながら起きあがったシンジの視界に、間違えようもないウニ――天に対抗する長髪が飛び込んできた。
 黒瓜堂の主人が、傍迷惑だと言う表情で見下ろしている。
「あ、あのなんでここにいるの」
「呼ばれたから。で、物騒な事を口走りながらどちらへ?」
「ちょっとピラニアの怨みを晴らしに」
「ピラニア?すると、生死問わず?」
「そゆ事。あのアマ絶対殺す!じゃ、俺はこれ――うぐ!?」
 走り出そうとした途端、首の縄が締まりシンジは潰れた声を上げた。転んだ瞬間に、さっと縄を掛けられていたらしい。
「別に止めはしないが…姉上の結婚式を血で飾る気で?」
 反射的に縄を風で断とうとしていたシンジだが、その手が寸前で止まった。
 
 
 
 
 
(つづく)

TOP><NEXT