妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百二十話:紅の遅刻
 
 
 
 
 
 顔は似ていなかったが雰囲気は似ていた――かつての自分に。
 容姿は似ていなかったが――声はよく似ていた。
 冷静に考えれば、それも原因だったのかも知れない。
 勿論、喧嘩を売りに行ったわけではない。見学に行ったのだ。シンジからの命ではなく、フユノから直に告げられて否応はない。
 もっとも式用の衣装を買いに行くと、それも何を買ってもいいと分かっていれば少しは反応も変わったかも知れないが。
 ただし、それが逆効果となった。
 いきなり抜擢され、エヴァの機体改造を任された藤宮紅葉は、碇シンジから任されたのであって、フユノには関係ない。
 そもそも、碇財閥の財産は祖母と姉の物と言ってシンジは憚らない。その上、今シンジがエヴァ全機を造り直すと言っても、融資先は幾らもある。
 無論対費用効果は考えた上でのものだが、シンジが実家の財力を笠に着た低俗な性格なら、慇懃無礼に片っ端からお断りされていたに違いない。
 とまれ、紅葉がここにいる事にフユノに関係はなく、まして紅葉は初対面の誰かと積極的に親交を深めようとするタイプではない。シンジでさえも、どうしたものかと最初は戸惑った位である。
 とはいっても、後ろで見ていて説明皆無では掴みようがないし、あれこと水を向けてはみるのだが、素っ気ないどころかまともに相手にしている気配すらない。
 とうとう理性の糸が切れてしまったレイが、
「ちょっとあんた、話してるんだからこっちくらい見たらどうなの」
 紅葉の手を掴んだのだが、次の瞬間くるりと振り向いた紅葉に振り払われた。それも単に払ったのではなく、音がするほどに叩かれたのだ。
 顔色の変わったレイに、
「あなた邪魔よ」
 紅葉は平然と告げ、さっさと向き直ろうとする肩を掴み、
「教えてもらいに来たって言ったでしょ。その態度は何なのよ」
「誰に聞いたの」
「誰?御前様に言われたのよ。ここへ言って色々見てくるようにって」
「私は聞いてないわ。碇さんから連絡は受けていない」
「碇君は関係ないでしょ。建造中の機体は別だけど、その他はすべて御前様が資金を出されたのよ。あんたこそ、碇君にたまたま頼まれただけじゃない。ここと何の関係があるのよ」
「関係ないわ。でもこれは重要機密よ」
「だから何よ」
「初対面の私を信じて、碇さんはすべて任せてくれた。他の機体がどうだろうと私には関係ない。とにかく、碇さんから連絡を受けていない以上、あなたには何も教えられないわ」
 打ち切るように言うと、肩を掴んだレイの手をふりほどいた。
「…ふーん、そんなに碇君の事信じてる訳ね。じゃ、この機体は暴走してパイロットが死ぬかも知れないけど試運転してって言われたら乗るっての」
「乗るわ」
 紅葉は即座に頷いた。
「もっとも、碇さんはそんな事を決して言わないわ。それに、碇さんにそう言われるならもう用済みという事よ。いつも一緒にいても、そんな事も分からないのね」
「と言う事は、あんたの一存でボクを振り払ったんだ」
「そうよ」
「じゃ、一つ教えておいてあげるよ――教えてもらいに来ただけなのに、いきなり手を叩かれてすごすご引き下がるような性格をボクがしてないってね」
「?」
 次の瞬間レイの手が閃き、紅葉の頬が甲高い音を立てた。
「生憎だけど、ボクは教えてもらいに来ただけなのに、いきなり手を叩かれてすごすご引き下がるような性格はしてないよ。邪魔し――!」
 言い終わらぬ内に、今度はレイの頬が音を立てた。
 平手を受けた紅葉が、頬をおさえようともせずに叩き返したのだ。
「お返しよ」
「…っ!」
 普段のレイなら、事態を冷静に分析していただろう。それより前に、平手とは言え殴るような事は決してなかった筈だ。
 その辺りが、シンジとは根本的に違う所だ。
 シンジなら、情報を聞くよりも前に本人を分析した筈だ。その時点で、何を最優先するかなどさっさと見抜いていたろう。
 とはいえ、感情的になってしまったレイにそんな余裕はなく、レイもすぐに打ち返していた。
 自分がまともな目的で来た事と、手を叩くように振り払ったのは紅葉の方だという思いが頭の中にあったのも一因であった。
 今度はさっきと違い、紅葉の頬は派手な音を立てていた。さすがにぐらりとよろめいて手から書類を落としたが、それでもキッと睨み返すとレイの頬をこれも思い切り叩いた。
 最初の一発は二人とも加減していたが、スイッチが入ったのか平手の応酬の結果は、二人の頬にくっきりと残る手の痕が示している。
 左右の頬に揃ってモミジが出来たところで、同時に相手に飛びかかる。
 物も言わず上下になって取っ組み合い――は長く続かなかった。二度回転した時、二人の体はぴたりと制止したのである。
「あー、遅かったか」
 女同士の掴み合いを見られたと言うより、自分たちの体を完全に制止させている相手が、自分とさして年齢の変わらぬ相手なのに気づき、互いの髪を掴んでいた手は止まった。
 がしかし。
 二人を引き離した少女が愛と名乗り、
「ごめん。ぼくが二人にちゃんと言わなかったから。でもあの、シンちゃんに知られたら二人とも怒られちゃうし喧嘩は止めてお…なに?」
 急に自分の科白に反応したレイに気づいた。
「なんでシンちゃんなんて呼んでるの」
「…は?」
 レイの表情を見た時、愛は更なる事態の悪化を招いた事を知った。
 
 
 
 
 
 院長室のソファに腰を下ろしたまま、シビウはすらりとした脚を組み替えた。
 本来なら白衣の奥が見えそうだとか見えないとかあるのだが、ケープに覆われた肢体からは想像すら出来ない。
 ただし、ケープの中でもぞもぞと動いた脚の方が、よほど余計な想像力をかき立てるに違いない。
 無論、余人の前では決して見せぬ姿勢であり、ついでに目の前の知り合いは決して反応しないと来ている。
 そんな事は分かり切っているし、
「今更子供の出血に驚く事もないでしょう。それとも、血を見忘れたかしら?」
「女の子じゃないし〜」
「うちの精鋭部隊を小娘に引っ張り出されたのは初めてよ。しかも振られるなんて」
「ご機嫌斜め?」
「とても、と言ったらどうするの?身体で贖ってくれるのかしら」
 にょほほ、と誤魔化すシンジを見ながら、ドクトルシビウは内心で微笑った。
 表情は変わらぬまま、
「将来はいい保父になれるわよ」
 ふふん、とシンジは笑った。
「遠慮する。足下も見えずに粋がるいかれた保父にはなりたくない」
「それはそれは」
 軽く頷いた時、その顔が動いた。
 後ろを向いてモニターの一つに指を向けると、指輪が煌めいて病室を映しだした。
 ベッドに眠っている少女を見ながら、
「もう起きるわ。そうね、ざっと二分といったところかしら」
「うん、もう行くわ」
 立ち上がって出口まで歩いてから振り返り、
「お礼は今度するわ。ありがと」
「おやすいご用よ」
 軽くウインクしてみせたが、ここの看護婦達が見たら卒倒しかねない。
 シンジの姿が消えた後、シビウはカップを手にすると一口飲んだ。
「腕は落ちてないようね」
 淹れなさい、アイリスの病室から戻ってきたシビウが一言シンジに命じ、淹れさせたものだ。
「子供の初潮ごときに使われるとは、ね」
 低い声で呟いたが、そこに殺気がないのは相手がシンジだからだ。
 
 
 魔界からあやめを担いで戻ってきたシンジは、マリアに吹っ飛ばされてから、早々に床に就いたのだが、十分ほどで目が覚めた。
 フェンリルはどこへ行ったのか、戻ってきていない。
 それに今日は、アイリスもレニも来る日ではない。
(はて?)
 脳内は、どうしてレイと紅葉が喧嘩したのかと考えていたのだが、ドアを開けて客を見たその表情が動いた。
 そこに強ばった顔で立っていたのはアイリスであった。
「お、おにいちゃん…」
 そう言えば、夕食の後でお腹が痛いとか言っていたが、正露丸ちょうだいと来るようなアイリスでもあるまい。
 しかも妙に顔が青ざめており、
「今薬出すから中に入っ――」
 言いかけた途端、ゆっくりとシンジの方に倒れ込んできた。
「あら…アイリスッ!?」
 何事かと支えた瞬間、シンジの目に奇妙な物が飛び込んできた――パジャマの裾から伝っている鮮血が。
 ネグリジェとパジャマを気分で着分けているアイリスのパジャマは、足首まで覆っているタイプではなく、膝下五センチくらいの長さになっている。その先へつうっと流れている鮮血を見たシンジの表情が変わった。
 既に失神していると気づき、指一本でパジャマを切り裂くと、出血源は下着の中であった。
 すぐにアイリスを抱きかかえると、机の上にあった携帯を取った。片手でボタンを押すと相手はすぐに出た。
「救急部隊を。今どこにいる」
 四分以内に到着すると告げられ、急いでと電話を切ったのだが、さすがに下着まで裂くのは躊躇われた。
 何らかの理由で膣口か尿道口に傷が出来たのなら、シンジでも治せる。これが綾小路葉子なら、躊躇いもせずに下着に手を掛けていたろう。
 ただ相手はアイリスであり、自分にそこまでされたくはあるまいと下着へ手は行かなかった。
 わずかに眉根の寄ったシンジが時計を見て、遅いと呟いた。
 三十秒しか経っていない。
 が、したたり落ちる程ではなかったにせよ、腕の中で出血されている状況に救命車を待っていられなかったのか、アイリスを抱きかかえたまま一気に窓から飛び出してしまった。
 無論そのまま落下などしなかったが、宙を行くスピードは普段に数倍しており、まもなく救命車が急行した時にはもう、患者も運搬人もいなかったのだ。
 宙を急行したシンジだったが、シビウの診断は簡単なものであった。
「初潮」
 いつもの表情でそれだけ告げたのだ。
「所長がどうしたって」
 何の病か負傷かと、まだ表情の戻っていないシンジに、
「生理。月経の始まり。こう言えば分かるかしら」
「…あ、分かった」
 と頷くには五秒ほどかかった。
「出血の量は普通だけど、多分本人に心構えがなかったのよ。外科に来る患者にはよくある事よ」
「はあ」
 生理と聞いて安心したのか、間の抜けた顔をしている知り合いに、
「頭部の外傷は出血が多いから、却って本人より周りが仰天する事も多いのよ。それとシンジ」
「え?」
「ここでぼんやりしているよりも、連れてきた患者の側に付いてなさいな。私の部屋で間抜けな顔をさらしていられるのは迷惑よ」
「あ、そうする」
 明らかに気が抜けたと言う風情で歩き出したシンジの後ろから、
「殺人の容疑者がいると通報されたくなければ、地下のシャワーを使うといいわ。三分五万円よ」
 シンジが出て行った後、
「主が小娘の生理に血相変えて宙を飛ぶなんて、従魔が聞いたら何というかしらね」
 冷たく口にした。
 マユミが電話を受けたのは、その数時間後の事である。
 
 
 何を考えたのか、マユミはアイリスのロリ破瓜でも想像したらしいが、勿論シンジはそんな事など知る由もない。
 電話を切った直後に、アイリスがわずかに身動ぎするのを見て、その口元が緩んだ。
「ん…んう」
 ゆっくりとアイリスの目が開き、数回目をぱちくりさせてから、
「こ、ここどこ…」
 起きあがった視線の先にシンジを見つけた。
「おはようアイリス」
「お、おはよう…お、おにいちゃん?」
「うん、俺」
「ア、アイリスどうしてここにいるの」
「俺の部屋に夕べ来て倒れたから運んできたの」
 その言葉にさっと表情が変わり、
「アイリス…病気なんでしょ…お腹も痛かったし、お、お股から血も出てきたし…」
「病気じゃなくて」
「嘘。おにいちゃん気休め言ってるもん。おにいちゃん、本当の事言って」
 よく分からないが、自分は病気だと既に脳内で補完されているらしい。あるいは自分を慰めるシンジの姿まで、既に浮かんでいるのかもしれない。
「だから病気じゃなくて――」
 一瞬言いよどんだが、止まったら絶対に余計な疑いを持つと、
「病気じゃなくてえーと、生理らしい」
「整理?何を片づけるの?」
 初潮と言われて所長がどうしたと言った時、シンジはふざけてはいなかった。
 整理と言われて何を片づけるのと訊いた時、アイリスも真面目であった。
 管理人と住人は――妙な繋がりがあった場合、どこかで似てくるのだろうか。
「その整理じゃなくて月経の方。第二次性徴のあれね…あのー、もしもし?」
 にやあ。
 さっきまで自分が病気だと思いこんでいた娘が、百八十度転換した表情になったのを見てシンジは一瞬引いたが、
「アイリス?あの、どうしたの?」
「私生理になったんでしょ?」
「う、うん」
(戻ってる…)
 今し方まで呼称はアイリスだったのに、『私』に戻っている。精神状態も平常に戻ったらしい。
「じゃ、子供出来るんだよね――おにいちゃんのでも」
 シンジが吹き出すでもなく怒るでもなく、一瞬表情が動いただけだったのは、少し前にシビウから不妊症に悩む夫婦の症例を聞いたばかりだったからだ。
 二次性徴のそれは、大人への道ではあっても、イコールで妊娠可能にはならない事くらい当然分かっている。
 とは言え、それを告げるのも無粋だと、
「そうだね。アイリスもその内母親に…ちょっと待った」
「なあに?」
 妙に嬉しそうに見つめてくるアイリスに、
「俺の、とか言わなかった?」
「おにいちゃんも、うんって言ったじゃない」
「肯定したのはそっちのうんじゃない。だいたい、俺にそう言う趣味はないの」
「趣味?おにいちゃん計算も出来ないの」
「……は?」
「私とおにいちゃんは六才しか変わらないよ。結婚できる十六才になったらおにいちゃんは二十二才。全然問題ないよね?」
 ね、と言う語尾が妙な強迫観念を帯びているような気がして、
「そう言えばそうだった。それより、ちょっと行ってアイリスの着替え取ってくるか…ら?」
 開かない。
 施錠されておらず開かないのは、シンジの知る限り院長の仕業を於いて他にない。
 一体何をさせる気だと眉が上がった時、
「ドアは開かないよ。開いたらおにいちゃん逃げちゃうでしょ。そうは行かないんだからね」
 なぜか嬉しそうな声が後ろから追いかけてきた。
 
 
 瞳はともかく、ミサトの方は碇財閥総帥の孫娘であり、式場になった帝国グラントホテルは朝から創業以来の繁忙状態であった。
 出席は友人を含めて百五十人前後だが、三十人近くは政財界の有名人が占めており、警視総監冬月コウゾウの名も入っている。
 勿論、客のランク付けをして応対を決めるようなホテルではないが、万が一にもミスの許されない客というのはいる。
 だからこそ、入念にすべての点検とリハーサルを終えて臨んだ今日も、修羅場になっているのだ――言うまでもなく、式の日まで数日しかなかった事が一番大きな要因だが。
 がしかし。
「何よそれー!!」
 瞳もミサトも、まだドレスはシンジに見せていない。
 瞳はともかく、ミサトの方は絶対式前にシンジに見せて、ついでに褒めてもらって独身最後のキスを――キスは内緒だが――と企んでいたため、激怒してしまい、とうとう式を取り止めるとまで言いだした。
 それを必死になって宥めているのは、本邸のメイドさん達だ。
 いくら訓練されていようと、荒事に関しては素人である式場の係の者達が止めたりなどすれば、それこそ命に関わる。
 シンジ達は知らないが、“もう一つの花組”を視線だけであっさりと一つにまとめ上げたのはミサトであり――何よりも碇シンジの実姉なのだ。
「もういいっ、シンちゃん来ないなら式なんかやらないからっ!」
 帰るのは引き留められても、挙式など強制できないし、第一出来る相手でもない。
 シンジがシビウ病院にいるのは、既に聞いている。
 ただ本人が院内での通話を嫌うため、連絡しなかったのだが、事ここに至ってはそうもいっておれなくなり、
「私が連絡します」
 地雷の点火役を引き受けたのは薫子であった。
 無論シンジに怒られるのは覚悟しての上だ。
 だが、
「もしもし?」
「あの、薫子です」
「薫子?」
 なぜかほっとしたような声が聞こえ、
「ほら、電話掛かってきたからちょっと待って」
 明らかに何かから逃げたような声がしたのには、首を傾げたのだが、
「若様に繋がりました」
 ミサトに携帯を差し出すと、ひったくるように取った。
 すぐ来いと言うのかと思われたが、
「シンちゃん…今どこなの」
 ころっと一転して弱気な台詞と口調であった。
「シビウ病院」
「シビウ病院?なんでそんなところに」
「アイリスが微熱出してね。シビウに診てもらったの。もう少ししたらそっちに行く――もごっ」
「?」
 顔に?マークが浮かんだミサトだが、次の瞬間それは青筋に変わった。
「行っちゃ駄目ぇ、おにいちゃんは私と一緒に添い寝するんだから。しないと熱下がらないもん」
 ミサトの手がぶるぶると震え、
「ちょっと待ちなさいよー!!」
「な、何」
「何じゃないわよっ!そーゆう態度って良くないんじゃナーイ!?姉に対してっ!!」
 プイッとそっぽを向いたミサトを見て、これはもう完全にぐれてしまったとメイド達はそっと顔を見合わせた。
 
 
 
 
 
(つづく)

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