妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百十九話:姉と散歩――ただし首輪と鎖付き
 
 
 
 
 
 普通、人の家に入る時はノックする。
 或いはブザーを鳴らすか、少なくとも声は掛けるだろう。
 まして、うら若き乙女の部屋なら尚更である。
 しかしここに、そんなことなど些事だと気にもしない男が一人いる。
 そしてそいつは、今夜もとある娘の部屋のドアへ勝手に手を掛けているのだった。
(……)
 もうベッドに入ってはいたが、室外に気配を感じ取ったマリアの目がすっと開いた。何となく寝付けなかったのが、どうやら正解だったらしい。
 流れるような動作で枕の下から拳銃を取り出し、安全装置に手を掛けたその手が止まった。
「…ちゃんとノックすればいいのに」
 表情が緩んで呟いたところを見ると、相手が分かったらしい。そっと拳銃を枕の下にしまい込み、ベッドに潜り込むとそっと目を閉じた。
 ところでその相手だが、
「鍵くらいすればいいのに」
 ドアノブに手を掛けて呟いた。
 防犯を気にしてかと思われたが、
「ピッキング出来ないじゃないの」
 と来た。
 座右の銘は『常に非合法』に違いない。
 音を気にした様子もなく開けると、そのまますたすたと中へ歩いていく。構造はどの部屋も同じだから、この先の右が寝室だ。
 ベッドの上でほんの少しだけ唇を開けて眠っている娘を見下ろして、
「マリア起きて」
 どう考えても起きないような声で囁いた。起こす気は無いらしい。
 当然のように反応がないのを見てから
「しようがない起こすか」
 起きてくれないから仕方なく、と言う風情で顔を近づけていく。
 耳元で囁く要はないから、王子様もどきの口づけか或いは吐息でも吹きかけるかに見えたが、いずれも違った。
 瞼を一瞬見つめてから、握った手をマリアの耳元に近づけたのだ。
 形状からして中には何かが入っている。
 わずかに指が動くと同時に、ヴーンと低い音が静まりかえった室内に響く。
 がば、とマリアが跳ね起きたのは次の瞬間であった。
「ひ、人の部屋で何してるのよっ」
「あ、おはよう」
 元からマリアは色が白い。色素が脱落したようなそれではなく、新雪を掃いたような美しさだがそれが熱湯に放り込まれたカニみたいな顔色でシンジを睨んでいる。
 が、下手人の方は気にした様子もなく、
「俺の携帯は特殊なんだ。バイブのスイッチを最強にしてみたんだけどこれが何か――」
「な、何しに来たのよっ」
「何を怒ってるのさ。別に着信メロディー掻き鳴らしたわけじゃないし、怒ること無いじゃない。それともマリア携帯じゃなく本も――ひゃぶっ」
 言い終わらぬ内に目の覚めるようなラリアートがシンジを直撃し、そのまま後ろにひっくり返った。
 倒れるのも許さず、のし掛かるように抑え込むとぐっと顔を近づけ、
「それで、何をしに人の寝室へ侵入してくれたのかしら?」
 思わず見とれるような笑顔だが、目は笑っておらず、よく見ると双瞳の蒼には『殺』の文字が浮かんでいる。
「ネグリジェじゃないね」
「え?」
「パジャマなら少し位外に出ても大丈夫だろ、ちょっと出かけない?ほら、ぼやぼやしない」
 訊いておいて、答えを待つ気はないようで不安定な姿勢から、きゅっとマリアの手を引っ張った。
(もう…全然変わってないんだから)
 内心で小さく呟いた途端、何故か湯船の光景が脳裏に浮かび、かーっと血の気が顔に上ってきたのを知った。
 思い出したのだ――シンジと一緒に風呂へ入った事を。
 そしてそれがシンジの誘いではなく、自分からせがんだ事を。
 何よりも、湯船の中で自分が見せた痴態も鮮明に。
 スタンドライトを点けなかった、ただそれだけの事なのだが、この時ほど自分を褒めてあげたいと思った事はない。
 もし点けていれば、真っ白な肌を首筋まで真っ赤に染めた姿が見られてしまったに違いないのだから。
 いくらシンジの目がいいと言っても、肌の色までは分からない筈である。
 がしかし。
(呼吸も変わったし脈拍も上がってる。こんな近くなら分かっちゃうよね)
 にやあ、と内心で笑った事に気付かなかったのは幸いだったろう。
「き、着替えていくから少し待って――え?」
「まーた俺の言った事聞いてなかったでしょ。そのまま行くよそのまま」
「ちょ、ちょっと待ってこんな格好で行けないわ」
「行かなくていい。掴まってれば」
 次の瞬間シンジの片手がマリアをベッドから抜き出し、意図を読んだマリアは慌ててシンジに掴まった。 
 飛翔する気だと知ったのだ。
 そして案の定、マリアを抱いたままシンジは帝都の空に浮かび出た。一度経験済みとは言え、やはり空を飛んでいるのには違和感がある。
 何よりも、今はパジャマ姿で銃も持っていないのだ。
 しかし、
(きれい…)
 目を開けたマリアは内心で呟いた。
 一気にシンジは高度を上げ、その眼下には眠らぬ街が広がっている。
 ただし、姿勢の為マリアが目を開けるとそっちは天上であり、月が冷然と輝きを放っているところであった。
「マリア」
「え?」
「ウサギが笑来美餅作ってるのが見えるでしょ」
「ええウサギがお餅を…って、あれはつくお餅じゃないでしょ」
「よく知ってるね。今度作ってあげよう」
「シンジは物作ると何でも上手に作るのよね。私には到底無理だわ」
 かすかにため息をついたが、他の住人達の前では決して見せる表情ではない。
「でもポルシチなら上手に――いだだ!」
「ボルシチでしょ」
「そ、そうでした」
 ただし、悲鳴を上げた割には姿勢はまったく崩れず、
「あそこにしようか」
 指した先には大聖堂がある。
 ふわふわと飛んでいって、二人は屋根の上に腰を下ろした。
 ここへも掃除や工事で来る者はいる筈だが、許可無く、それも道具なしに飛翔して来たカップルはこの二人が初めてに違いない。
 二人とも、しばらく月を眺めていたが、ふとマリアはシンジの様子が普段とは違うのに気付いた。
 幸せそう。
 一言で言えばそんな感じである。
(やはりシンジは…)
 無論、自分といるからではあるまい。そんな事ではなく、ただぼんやりと月を見上げているシンジの顔は、明らかに好きな事に熱中している時の顔であった。
「シンジ…」
 時間を妨げるような気がして――例え連れ出されたのは自分であってもだ――遠慮がちに呼ぶと、
「何?」
 返答は返ってきたが、視線は月から離れない。
「どうしてここにいるの」
「ここじゃ嫌?」
 やっと戻ってきた。
「そう言う意味じゃなくてシンジの事よ。本当なら、草原に寝ころんで月を眺めるのが楽し――んっ」
 不意にシンジの指が伸びた。
 女のそれとは勿論異質だが、長くすっと伸びた指であった。
 それがマリアの唇にそっと当てると、
「マリアはそう言うと思った。でも、これは俺が選んだんだからいいの。誰に押しつけられた訳でも強制されたわけでもないんだから」
「……」
「それよりマリア、俺は明日いないから子守しておいてね」
「子守…え?いない?どういうこと」
「魔界行って来る。あやめ付きで」
「あやめさんと…かえでさんは行かないの」
「要らない。二人も面倒見切れない」
 これが本音らしい。
「これが俺のカード。碇シンジって丸文字でサインしても通るから、好きに使っておいて。それからこれを」
 プラチナのカードを眺めているマリアに、ごそごそと何やら取り出して手渡した。
「これは?」
「ハリセン。ツッコミ用のやつね。アスカとすみれが喧嘩したら、通行人の目を引いたり住人を全部巻き込む前にツッコミ入れといて。それから、下に付いてるボタンを押すと金属の針が出てくる。それはお仕置き用ね」
「シ、シンジこれ殺傷能力付きじゃ…」
「だから山岸には十年早いんだ」
 その言葉に、マリアは何故シンジがマユミではなく自分を呼びだしたのかを知った。
 無論、住人達を怪我などさせるための物ではなく、護衛用であろう。町中で銃をぶっ放すよりは、こっちの方がいい。
 近接戦闘限定という事を抜きにすれば、結構使える筈だ。
「性格は危ないけど、こう言うのを作らせたら随一の知り合いに作ってもらったから」
「これを私が?」
「面倒な事押しつけて悪い――けう゛ぉ…」
 シンジの作った新単語ではない。マリアがその頬を引っ張ったのだ。
「悪いと思うなら押しつけないで。わ、私しかいないと思ったから私を引っ張り出したんでしょう」
「うん」
「だったら普通に言えばいいじゃない。もう…」
 成都ではあんなに強引だったのに、と言う言葉は出て来なかった。
「ん…それもそうだ」
 ふむと頷き、
「じゃ、マリアやっとけ。わか…ひたい」
「調子乗りすぎ」
「はい」
 むに、とも一回シンジの頬を引っ張ったマリアだが、
「あの子達の世話は大変なのよ」
「はあ」
「押しつけて終わり?」
「んー」
 シンジの知識がいかれてなければ、マリアは金品で良しとする娘ではない。
 かといって、今の自分に何かを期待しもしまい。
 ここは成都ではないのだ。
 ただ、その認識が既に間違っている事に、まだこの青年は気づいていない。人の事ならこの上なく冷静に眺めるシンジも、自分の事になると目が曇ると見える。
 少し考えてから、
「夜の帝都でも…飛んでみる?」
 と訊いた。
「そうね、付き合ってあげるわ。ほら、ぼやぼやしない」
 今度はマリアがシンジの手を引っ張った。
 さっきのお返しらしい。
 がしかし。
(やはり後悔してるのね…)
 ほんのわずかだが、ぎこちなくなったシンジの動きを見逃すマリアではなかった。
 女性の観察眼は、ただでさえ男性の数倍に達すると言われているのに、ましてや見知らぬ他人同士ではないのだ。
 マリアの心をシンジが知らなかったのは、シンジに取って不幸だったのか。
 それとも幸いだったのだろうか。
 
 
 
 
 
「楽しそうね」
 明日の結婚式に着ていく服を、あれでもないこれでもないと山積みして選んでいる娘達をマリアは眺めていた。
 自分は別に着飾る気はない。
 何を着ようが人間の本質は変わらないのだという事は、既に分かり切っているマリアだからだ。
「何を着ようと…か、変わらないわっ」
 少し早口で呟いたのは、何かを思い出したせいかもしれない。
 そして、おそらくはシンジに関連した事を。
「マリアさん」
「何?」
 呼ばれたのが、顔の赤らみが消えた後だったのは幸運だったろう。
「マリアさんは服とか選ばないんですか?」
「シンジはああ言ったけれど、本質からはずれているわ」
「え?」
「結婚式は本来、花嫁の晴れ舞台でしょう。普通にお洒落するならいくらでも場はあるけど、花嫁衣装に身を包むなんて一生に一度だけじゃない。もっとも、ミサトさんが花嫁衣装では、出席者がどんなに着飾っても及ばないわね」
 単に興味が無いのかと思ったが、そこまで考えているとは思わなかった。
 が、最後の一言にまさかそれを考えて、と口にしかかったのを慌てて止めた。
 ちらっと視線の隅でマリアを見る。
 どうやらばれずに済んだらしい。
 マユミが早足で戻っていった後、
「あんなに綺麗な花嫁さんはそんなにいない。でも弟が貞操を守るために姉の結婚を急ぐケースも…あまりないかもしれないわね」
 あまり、ではなくまずあるまい。
 自分に関係なければ、シンジとてそんなに急ぎもしなかった筈だ。
 軽く伸びをしてから店内に目を向けると、どっちが似合うかと張り合っているアスカ達の姿があった。
 アスカにすみれ、それに織姫とさくらまで参戦している。
 シンジが居たら何というかは知らないが、おそらくは無関心だろう。
 興味が無いとか言うよりも、シンジには目下安堵しかないだろうとマリアは思っていた――それがとりあえずであっても、だ。
 ただし、実姉の過剰な愛情を正しい方向に向ける為、その結婚を仕切る弟と言うのは滅多に居るまい。
 つまり、少し変わっている。
 変わっていると言えば、管理人としても変わっているかも知れない。
 今回、女神館の娘達が式に着ていく衣装代は、すべて自分が出すと言った。
 服を買ってもらう――それも決して安くはない服を――場合、普通は単なる友人とかいう関係は超えている。
 しかしシンジはこう言ったのだ。
「つまりブーケを取りにくる俺の管理物が大した服を着てなくて、管理人さんだけがスーツに身を包んでこいと?冗談じゃないぞ」
「あ、あのシンジ?」
「これが他人の式なら放っておくさ。褌で出ようと貫頭衣で出席しようと関知はしないよ。でもこれは、俺が今やれすぐやれって急かした式だ。管理人が住人を適当な格好で出すわけには行かん。ぜーったいに駄目」
 管理人のポリシーらしい。
 しかし、この変わった管理人の影響を受けたのか、住人達もまた変わった。
 店内で何を張り合っているのか子細は不明だが、つい最近までならあんな表情はしていなかった。
 ほとんどはアスカとすみれだが、二人が衝突する度に館内の空気全体が険悪になっており、お互いを認め合うような事は決してなかったのだ。
 今思うと、近親憎悪に似たものがあったのかも知れないが、もう一つの現実からはそっぽを向くことにした。
 すなわち、制止役はいたのだ、と言うことに。
 自分にカンナ、それにマユミだっていたのだが、二人の関係が改善される事はなかったのだ。
 ふと店員を見ると、騒いでいる娘達を見ても表情は決して変わらず、営業用ではあろうが笑顔は崩れていない。
 店員の鏡ね、と内心で口にしてから、
「でもここはシンジが指定したお店――じゃあ、この事も予想して?」
 マリアは僅かに首を傾げた。
 
 
「愛、あなたが居ながら何やってるの」
「ごめん姉貴。こんな筈じゃなかったんだけど…」
 以前とは違い、日々是危険な日々ではないが、来生三姉妹は時計に緊急時用の連絡ボタンを仕込んである。
 瞳は式前日でじたばたしており、緊急連絡を受けて急行した泪が見たのは、少女達の三すくみ状態であった。
 おまけに最初の当事者と思しき藤宮紅葉と綾波レイの頬には、くっきりと二つずつ平手の痕がついている。
 愛に変化はないが、わざわざ呼び出したのは仲裁に失敗した所為だろう。
 取りあえず睨み合っている二人は永石に任せ、泪は愛を連れ出した。
「一体何があったの。よりによってあの二人が喧嘩するなんて」
「喧嘩自体はぼくの所為じゃないよ。ただ…あの綾波レイって言う子が、シンちゃんって呼ぶなってきつく言われてたみたいで…」
「……仕方ないわね」
 取りあえず事情は読めた。
 原因はともかく、紅葉とレイが喧嘩になったのを愛が止めに入ったのだろう。
 ただそこで、碇君に怒られるよと言わなかったのが気に入らなかったのだ。
 多分、いつも通りシンジ君と言ったか、あるいはシンちゃんとか言ったのかも知れない。それで、今度はレイが噛み付いたのだ。
(腕一本くらいで済むかしら…)
 妹の結婚式は明日に控えている。出来れば腕一本位で済まないかと、変わらぬ表情のまま泪はとんでもない事を考えていた。
 確かにここへレイを見学に来させたのはシンジだが、止められなかったのは愛のミスだ。
 無論、妹に代わって責めを負う覚悟はしていたのだが、何せ相手が悪い。
 片方はシンジの管理物で、もう片方はエヴァの管理人である。いきなり烈火を叩き付けられて、髪がすべてアフロにされるよりは肘から下が反対を向く方がましだ。
 片手を吊っている姉の方が、アフロの姉よりはよほど良いだろう。
 だがそんな事よりも、式を控えた瞳の耳にだけは決して入れてはならないと、泪の脳はフル回転を始めていた。
 
 
「あの、碇君…」
「何」
「こ、これだけはその…な、何とかならないかしら」
「どうにもならないな。諦めるんだ」
 修行者から性奴へ転落した――そんな表現が合っているかも知れない。
 あやめの鎖は、腰から首へと移動していた。
 しかも首輪のおまけ付きである。もっとも、素肌に鎖を巻き付けられると洒落にならない事態が起きるから、それよりはましかもしれない。
 突如着いた人生の終着駅を悟った賢者みたいな風情だが、姿は単なる奴隷を調教中の若旦那である。
 おまけに、あやめの服はあちこちが破れており雰囲気も十分だ。
 当然ながら、プレイの結果ではない。無謀にもシンジと賭をしたあやめだったが、結果は最初から知れてあったのだ。
 五分と経たぬ内にふらふらになり、そこへインプの群れが襲来するともう反撃する力は残っていなかった。
 何を思ったのかシンジはすぐに助けず、その結果が今の姿である。
「わ、私を見捨てる気だったの…」
 あちこちに傷を負いながら、恨めしげにシンジを見たあやめに、
「格好が悪いから」
「え…?」
「服のあちこちが破れてると、雰囲気もたっぷり出るでしょ。やっぱり調教してる雰囲気じゃないと」
「わ、わた…痛っ」
 抗議しようとした途端、関節に痛みが走りあやめは顔を歪めた。
「羞恥心と絶対服従、この二点が調教の目的だけど痛みは要らない。そこ座って」
 言われるままあやめが座ると、シンジは傷口に手を当てた。みるみる傷が治っていくのだが、知らない者には気功術にでも見えるかも知れない。
「もう帰ってもいいけど、少し勉強してもらうからね」
「べ、勉強?」
「魔界の歩き方をよく見てるんだ。ぼんやりしてると成長しないぞ」
 そう言ってシンジが取り出したのは首輪であった。
「ま、まさか…」
 さっと顔色の変わったあやめに、
「これが嫌なら前にローター、後ろにアナルバイブで歩いてね。あ、勿論ローションは無しで」
 実に楽しそうに訊くのだ。
 ある。
 目の前の男は、絶対女にそんな格好をさせた経験がある。
 それも一度や二度ではないわ。
 あやめの本能が危機を告げ、
「つ、つけるわ…」
「ローター?それともバイブ?」
「く、首輪の方よっ」
 その結果が今の姿なのだが、当然のように鎖を通してシンジの力が流れ込んでくるから、歩く支障が消える。
 そうなると、今度は羞恥心が甦ってきた。
 折角の霊刀も、今はシンジの手にあって妙に艶々と光っており、自分はあちこち敗れた服を着ておまけに首輪をして引き回されるだけの女になっている。
 誰一人まだ人間には遭っておらず、町中を引き回される異なるが、えらく恥ずかしい事には変わりない。
 人が見ていなくとも、自分が恥ずかしいのだ。
 第一このあやめ、まだ男を知らぬ処女である。シンジが言った通り、山崎真之介を喪った後、誰とも付き合う気になれなかったのだ。
(なんでこんな恥ずかしい格好を…)
 だがあやめは知らなかった。
 流れ込んでいると思っていた力が、供給源から少しずつセーブされている事を。
 鎖で繋がっているから、というのは本人の思いこみで、実際には徐々に自分の力で歩き始めている事を。
 そしてもう一つ。
 誰にも見られていない、と思っていたのが実際はちゃんと観察されていた事など、全く知らないのだった。
 
 
「来てるわよモリガン。あなたの想い人が女連れで」
 冷やかすような声にも、モリガンは表情一つ変えず、顔も向けようとはしない。
「来るのは分かってるわよ。それに小娘を連れてるっていうのもね」
「傷一つ無い体にボロボロの服。首輪に鎖をつけて引っ張ってたけど?」
「鎖くらいつけても…なんですって」
「あの破れ方はインプに襲われたものね。さっき散歩の途中で見かけたのよ。体に傷がないのは連れが治したから。あなたに聞いてはいたけれど初めて見たわ――水治療。でもどうして首に鎖なんかして――っ」
 次の瞬間飛んできた黒い刃から、女は軽く顔を動かして避けた。
「首に鎖ですって?」
 すっと立ち上がった全身からは、普段の肉感的なそれは身を潜め、ある種の感情が全身を彩っていた。
 嫉妬と怒りの炎が。
「それをさせるのは――いいえ、させてもいいのはこの私だけよ。この魔界に来た事を来世まで後悔させてやるわ」
 指を鳴らすと同時に、真っ黒いコウモリが鎧のようにその全身を覆った。
「二人の居場所に案内しなさい――ミス・オールサンデー」
 ミス・オールサンデーと呼ばれた女は、かぶっていた帽子を取ると軽く肩をすくめたが、黙って立ち上がった。
 大きく開いた胸元で、モリガンに勝るとも劣らぬ胸が妖しく揺れたが、それはどこか肢体の方で行くのを拒んでいるようにも見えた。
 
 
「も、持ってなかったですって!?」
「当たり前だ」
 シンジは当然のように頷き、
「なんで魔界に、バイブやローターなんかもって行かなきゃならないのさ」
「で、でもあなたさっき…」
「あやめは別に無能じゃないし、Mの気もないでしょ」
 魔界から戻ってきたシンジは、道具など持っていなかったと告げたのだ。当然のようにあやめの表情は変わったが、シンジは別にからかった様子もない。
「あやめに必要なのは緊迫感だ。首輪をされて鎖で繋がれた上、バイブとローターを前と後ろの穴に入れると言われれば、普通の女なら顔色を変える。その上で、俺と繋がっていると言う安堵感を与えて、後は力の流れをセーブすればいい。実力があれば、自分の力で歩けるようになる」
 だとすると、歩いていたのは自分の力だと言う事になる。
「も、もし無かったら…」
 思わず訊ねたあやめに、
「その時はその時、また考える」
「……」
「いずれにしても、少しはましになってきた。でも次は、無意識じゃなくて考えて歩けるようにならないと――最低二十分くらいは」
「に、二十分…」
 もう大丈夫、と言われるかと思ったら、まだまだのレベルらしい。
 そこを平然と、しかも自分に力を送りながら歩くシンジは何者なのかと、感嘆を通り越して背筋に刹那寒い物が走り抜けた時、
「ところであやめ」
 不意にシンジが呼んだ。
「な、なに?」
「女がいたでしょ」
「お、女?」
「俺は魔界に愛人が一人と、その妹で俺がとっても気にくわないシスコンがいる」
 秀蘭に聞かれたら、毎晩寝床を襲撃されて、夜もおちおち寝られなくなる事は間違いない。
(あ、愛人…)
 住人達は知っているのかしらと、ふとけしからん事を考えたあやめだったが、
「女で知ってるのはそれ以外にいない。あれは間違いなく人間の女だった」
 と言うシンジの言葉に、顔が真っ赤になった。
 誰も見ていないと思ったのに、首輪に鎖をつけて引かれる姿が見られていた事になるではないか。
「……」
 シンジは何も言わず眺めていたが、
「その様子じゃ気づいてないな…モリガンあたりの知り合いかな?」
 わずかに首をかしげた。
 
 さてその晩の事。
 ぽかっ。
 ぽかっ。
 事の顛末を聞いたシンジが、
「マリア、ハリセン」
 伸ばした手に、
「はいこれ」
 受け取ったハリセンをひょいと振り上げた。唸りを上げて落下するハリセンに、紅葉までも思わず目を閉じたが、二つの打撃音は至極軽い物であった。
「レイも藤宮も、つまらない事で喧嘩するんじゃないの」
「だ、だって…」「私は悪くないわ」
 また睨み合う二人だが、シンジは怒りもせず、
「じゃ、二人の頬が赤くなる事もないでしょ。顔に傷ついたらどうすんのさ。それとレイ、さっさと水治療覚えようね」
 まだ幾分赤みの残る二人の頬に手を当てた。
 ひんやりとした感触が手から伝わったかと思うと、わずかに残っていた熱が引いていく。
「俺はレイに見学を、と行かせた筈だ。普通なら藤宮がレイを叩く事はあり得ない、そうだよね?」
「はい…」
「ついでに、レイには見てこいと言ったが、口を出せなんて言ってない。藤宮を叩く理由は無いはずだよ」
「ごめん…」
 怒鳴ったり、威嚇したりする代わりに静かな声の方が堪える場合もある。
 そしてシンジは大声を出すのを好まない性格であった。
 二人が出て行ってから、
「マリア、明日朝一番で本邸行ってこい」
「御前様のところへ?」
「今日、服買わなかったでしょ」
「ええ、別に私には…何で知ってるの」
「それくらい分かる」
「そ、そう」
 なぜか自分でも分からず赤くなった顔を逸らし、
「そ、それで」
「レイの分と一緒に服は用意してあるから、取りに行ってきて」
 マリアの顔に?マークが浮かんでから、
「あの、どういう事?」
「マリアは多分買わないと思ったの。それにレイはいないでしょ。だから式に着ていく服を用意させておいたの」
「サ、サイズはっ」
 思わず急き込んで訊いたマリアに、
「学校に行ってる連中のは全部サイズが上がってきてるし」
「私のは無いでしょう」
「抱いた感じで大体分か――は!?」
 ぼっ、とマリアが首筋まで火を噴いたように赤くなり、つられたのかシンジまで少し赤くなった。
「……」
「……」
 先に立ち直ったのはシンジであり、
「ち、違うのマリア、それは言葉のあやで…ね、ねえ聞いてる?」
「問答無用」
 一瞬遅れて立ち直ったマリアが、目にも止まらぬ早さでハリセンを奪取し、
「シンジの変態っ!」
「ち、違っ、話せば分か――ふぎゃ!!」
 べしゃっと天井に貼り付いた。
 そっちを見ようともせずさっさと歩き出しかけたが、出口の前でその足が止まった。
「…シンジ…」
「はい?」
 声は天井から聞こえた。
「その…あ、ありがとう…」
「い、いえいえどう傷まして」
 が、今度は突っ込んでくれずに早足で歩き去ってしまった。
「つい本当の事口走っちゃった。それにしても、今度はちゃんとツッコミのスキルを覚えさせな――おぶっ」
 背中から落下したシンジだが、マリアの照れ隠しかもしれない、と言う発想はまったく浮かばなかったらしい。
 人の事なら機敏に気づくが自分の事には疎い――こう言うのも医者の不養生の親戚なのだろうか。
 その翌朝早く、マリアはレイを起こして言われた通り碇邸へ向かった。
 着くと言葉通り衣装が待っており、背中がV字型に開いたシックなドレスは着た本人が驚いた位に、ぴたりと体に合っていた。
 自分にもちゃんと用意されていたレイが嬉々としていたのは、マリアにとっては幸運であった。
 抱いた感じで大体分かる――気にするまいとしても、その言葉が脳裏でリフレインしてしまうのだ。
 レイが冷静だったら、妙に赤い表情に気づかれてしまったに違いない。
 式場へ向かう時間になった頃、住人達は人数が足りないのに気づいた。
「シンジと…アイリスもいないじゃない」
 レイが見に行ったが部屋にもいない。
「『?』」
 住人達が首を傾げたところへ電話が鳴った。
「私が出ます」
 皆を制して立ち上がったマユミが受話器を取ると、
「山岸かマリア――多分山岸だな」
 これが第一声であった。
「マユミです」
「あ、やっぱりぃ。ちょっと間に合いそうにないから、先に全員行かせてくれる」
「あの、碇さん」
「はい?」
「皆さん、心配してますけど。それにアイリスも一緒ですか」
「そうそう、アイリスも――じゃなくてアイリスと一緒なの。あ、起きた起きた」
 思わずマユミが受話器をおさえたのは、
「おにいちゃん…」
 向こうで小さく聞こえた声が、明らかに寝起きのそれだったからだ。
 
 気怠げに身を起こしてから全裸の自分に気づき、慌ててシーツをまとう少女――そこに見つけた小さな一点のシミに気づき恥ずかしげに顔を赤らめる。
 
 なぜかそんな光景が脳裏に浮かび、しかもその少女がアイリスの姿にぴたりとはまったものだから、
「わ、分かりました。式場で待ってますから、会社が終わり次第来て下さいっ」
 早口で告げると一方的に電話を切ってしまった。
「碇さんは今用事があるから、先に式場へ行くようにとの事です。さ、行きましょう」
「行きましょうって、なんでアイリスが一緒なのよ」
「そうですわよ。マユミさん、あなた何かわたくし達に隠してません?」
「べ、別に私は…」
 事情を聞かされてはいないから、自白剤を射たれても白状はしないが、もしも小一時間問いつめられたらどうしようと不安になった時、手を叩く音がした。
 マリアだ。
「あなた達、そんな時間は無いと思うけどいいの?」
「マリアさん?」
「理由はどうあれ、シンジとアイリスはここにいなくて結婚式に遅れる。あなた達はここにいながら式に遅れる――ミサトさんに怒られても知らないわよ」
 その途端、がたっと皆が慌てて立ち上がった。
 荷物を取りに皆が出て行った後、
「あの、マリアさんありがとうございました」
 頭を下げたマユミだが、
「シンジはアイリスと一緒なんでしょう」
「ええ、そうみたいです」
「じゃ、多分病院ね。理由は分からないけど」
「病院?」
「そう。ラブホテルでなければ、ね」
「ラ、ラブホテル…」
「冗談よ。アイリスの寝起きの声が聞こえた訳じゃないんでしょ?」
 いつもタイムリーに心配させるんだから、と口にしてマリアが出て行った後、マユミは呆然としてその場に立ち尽くした。
 
 
 
 
 
(つづく)

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