妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百十四話:タコ型ウインナーくれぐれも粗末にするべからず
 
 
 
 
 
 夜香の所を辞したシンジは、藤枝姉妹を肩に担いだまま懐中から携帯を取り出した。
 見ようによっては、白昼堂々娘を拉致する悪党にも見える。
 三回鳴って出た。
「私よ」
「さっき聞き忘れたんだけど、あの二人ってどこで倒れたの」
「静夜の沼よ。そんなことよりシンジ――いつか絶対に私の身体の上で喘がせてやるんだから、覚えてなさい」
「……」
 一瞬携帯を耳から離し、
「モリガン、一つ忘れてるようだけど」
「…何よ」
「さっきも言ったけど、別にモリガンの肢体に不満があるわけじゃないよ。それに、感じて喘いでるのを見る方が楽しいし」
「――っ!?」
 相手が電話の向こうで首筋まで染めた事は、無論手に取るように分かっている。
 だが止せばいいのに、
「それに、元々強さでしか興味なかったでしょ。ならちゃんといい男見つけた方が――」
 言い終わらぬ内に、
「シンジの馬鹿っ!」
 叩きつけるような声と共に通話は切られ、一定音を伝えてきた携帯を数秒眺めてからポケットに入れた。
「強いのがいい、としか俺は聞いてないぞ。一回サポセンに文句言ってやる」
 無論魔界の女王のクレーム処理係などいるはずもなく、従兄達の事であろう。
 だが魔界にその身を置くモリガンが、どうして携帯など所持しているのか。
 
 
 
 
 
 シンジの手が姉妹の身体の一点に吸い込まれてから、きっちり五分経って二人は目を覚ました。
「やっと起きた。よく眠っていたよ」
 横から聞こえた声に辺りを見回し、次の瞬間がばっと跳ね起きた。
「こ、ここはっ」
「帝劇。見慣れた所も忘れた?」
 別に冷やかすでもないシンジの口調だったが、二人の顔色は蒼白になった。
「大丈夫だよ。かすみ達にはお使いに行ってもらってるから。それに、米田のおっさんはまたダウンしてるみたいだし」
 別に義理も必要もないが、シンジはぶっ倒れた二人を劇場の娘達に見せる事はせず、それを聞いた二人の顔色が元に戻っていく。どうやら図星だったらしい。
「さて、と。お財布係にならずには済んだし目出度し目出度しと。でも二人とも、倒れる時はちゃんと刀くらい持ってるもんだよ。霊刀はどうした?」
 あっと叫んだあやめに、
「届いてるよ。頼んでおいて正解だった」
 二振りの霊刀を手にした途端、一瞬それが光った事に二人とも気付いた。
 すなわち――シンジの精に反応したことに。
 事態が飲み込めていない二人に、
「あやめとかえでが倒れたのは、魔界に足を踏み入れてから九分と四十五秒だった。俺は十分ちょうどと読んでたんだけど、読みが外れた。もう一度修行のし直しだな」
 修行のし直しは、二人ではなく自分だと来た。
 おまけに今夜の献立を告げるような口調であり、
「二人が揃って倒れたのは静夜の沼――その音を聞いた者が皆寝入る竪琴が沈んでいるとされる沼の畔だった。確かに普通よりはましだが、もう少し持ってもらいたかったな」
「……あ、あの」
「何?」
「た、頼んだって…誰に頼んだの」
 かえでの方は、そっちが気になるらしい。
「自称愛人志願――知らない方がいい。こっちの事はともかく、魔界の事など知らない方がいいと思うけど――知りたい?」
「『……い、いいわ』」
「今回は初めてだから仕方ないけど、本来はあそこで内の力が作動して保たなきゃならないんだ。普通の人間ならはいそれまでよ、で終わりだけどあやめとかえでの場合は違う。回数を重ねればその内少しはましになるはずだ。もっとも、もういいって言うならやらないでいいけどね。 今のまま指揮を執る事になるけど、どうする?」
 
 
 
 
 
 真宮寺さくらは困っていた。
 殺気立って絡んでくる頭のワルそうな小娘共に囲まれているのだが、対処マニュアルがないのだ。
 叩きのめすのは簡単だが、そんな事をしたら素人相手にやり過ぎだと、シンジに怒られるかも知れない。
 無論その思考は――シンジの事を分かっていないから出てくるのだが。
 お金持ってるわけじゃないし、そんなのが目当てにも見えないから対処に困る。
「それであの、何が目的なんですか?」
 この期に及んでのんびりと訊いたさくらに、女達の顔から表情が消えた。
「出られなくなりゃそれでいいと思ったけど、気が変わったよ」
 一番頭のワルそうな女が宣言した。
 一瞬どす黒くとさえ見えるアイシャドウは、おそらく古代中東の文化を模倣した蠅除けに違いない。
「き、気が変わった?」
「海老ってのは跳ねるんだよ。あんたの弁当に入ってる海老さんも、フライパンの油に放り込まれた時は跳ねたんだ――こうやってな!」
 次の瞬間、背後から何かを押しつけられ、同時に凄まじいショックが体中を走り抜けた。
「!?」
 声を上げる事も出来ず、背中を逆に反らして思わず足が地から離れたさくらを見て、
「そうそう、そんな感じさ。海老の気分をたっぷりと味わってもらうからな、せいぜい楽しんでよ」
 野卑な声を上げた小娘達だが、さくらの表情は違う意味で変わっていた。
(い、碇さんのお弁当が…)
 蹌踉めいた拍子に、自分の足で箱を蹴ってしまい、中身が少しこぼれてしまったのだが、女達の一人がそれに気付いた。
「あたしらよりも、そっちの方が大切ってかい。妙子、こいつあたし等より、男に作らせたこっちの方が気になってるみたいだよ」
「ふーん、なら折角だから気になって仕方がないようにしてやりな。そっちで痛さが紛れるようにね」
「や、止めなさ――あうっ」
 スタンガンの一撃で、身体が上手く動かない。どうやら当たり所が悪かったらしい。
 それでも何とか伸ばした手を蹴られ、ついでに箱が蹴り飛ばされ、シンジと二人して買い物に行き、作ってもらった弁当はすべて砂まみれと化した。
「お、お弁当が…」
 見る見るさくらの目に涙が湧き上がり、漸く憤怒の色と化したが既に時遅く、
「ここだと人目に付きすぎる。愛、眠らせちまいな」
「りょーかい」
 頷くと同時に今度は桁違いのショックが流れ、さくらはそのまま昏倒した。
「確かこいつ、何とか歌劇団とか言ってたな。舞台女優のAVってな、高く売れるもんさ。さ、行くよ」
 くるりと背を向けた途端、その足が止まった。
 三十センチ物差し。
 そんな単語が一瞬浮かんだのは、自分の頭にそれを載せればちょうどいい位だと感じたのだ。
 ただ、その大女の方は殺気を孕んでおり、獲物を見つけた虎みたいな視線でこっちを見据えている。
「あっちゃー、間に合わなかったか。まったくレイのやつ言うのが遅すぎるぜ」
 一人ぼやいてから、
「おいそこの屑共、その薄汚い手を放しな。お前らが攫っていい相手じゃねえよ」
 見た事もない長身に一瞬ひるんだが、数はこっちの方が圧倒的に多く、
「…なんだてめえは」
「女の分際で白馬の騎士でも気取るつもりか?」
「違うだろ、女ってより男女だ。ちゃんと性転換手術くらいしとけよ」
 すう、とカンナの眉が上がった。
 目に見えていた殺気が消え失せ、表情が武闘家のそれへと変わる。
 本気になったのだ。
「さくらを袋にして拉致しようとした上にあたしを男と言ったな。おもしれえ、集中治療室で男と女の区別をゆっくりと勉強してくるんだな」
 巨体が地を蹴り、一気に距離を詰めた。
 悲鳴を上げる間もあらばこそ、さくらの手を持っていた女が一撃で吹っ飛び、綺麗に身体が回転するのと足を持っていた女が崩れ落ちるのとが同時であった。
 目の覚めるような踵落としが決まったのだ。
「次はおま――ッ!?」
 鋭い痛みに一瞬顔が歪む。
 ナイフが服を切り裂き、大腿部が二十センチばかり口を開けていた。
 鮮血が太い筋となって流れ落ちてくるのを手でおさえたカンナに、
「ま、男女とか言ったのは謝るわ」
 リーダーの女は意外な事を言った。
「別にあんたに恨みはないからね。でも、邪魔されるわけには行かないし、邪魔しに来た以上あんたもその娘に付き合ってもらうよ。AVでレズプレイでも演じてもらうか」
「AV、だと?」
 痛みで僅かに表情の歪んだカンナだが、AVは知らなかったらしい。
「知らないのかい。AVってのは――」
「オーディオビジュアルの略称だ」
 声は後ろから聞こえた。
 思わずカンナが振り向き、
「た、大将…」
 シンジの姿を認め、安堵の色を見せたが次の瞬間表情が変わった。
「だ、駄目だ来るなっ、こいつ等刃物持ってやがる」
「そうなの?」
 駅への道を訊くような口調で訊いたシンジを、女が憎々しげに見た。
 まったく恐怖していない、と言うのもあったが、何より自分達はまったく気付かなかったのだ。
 子分だって、まだ三人は残っていると言うのに。
「俺が管理人してる所の住人なんで、借家人賠償に付随して安全保障義務があるんだ。素直に返してくれない?」
 言ってる事はまともだが、口調には刃物など露ほども気にした風情はなく、癪に障るには十分であった。
「別に返してやってもいいよ。その代わり出演料として、そうだねえ、一人五百万も払ってもらおうか」
 知らない、と言うのはある意味大きな武器である。
 いや、無鉄砲を引き起こせると言うべきか。
 カンナはともかく、さくらを失神させた上に拉致しかけ、挙げ句シンジから身代金擬きを強請り取ろうなどとは、普通なら自殺志願の者しかするまい。
 だがシンジは別に激昂することもなく、
「五百万。それって少し高くな――」
 不意に言葉は止まった。
 ある物が見えたのだ。
 ひっくり返され、中身の散乱している弁当箱が。
 そしてそれは――シンジの作ったものであった。
「それは?」
 視線の先にある物に気付き、
「これか?男に作らせたモンに固執してるから、痛み止め代わりに蹴飛ばしてやったのさ。もっとも、すぐおねんねしちまったから意味はなかったけどな」
 けたけたと笑い声が揃って上がり――すぐに止んだ。
「!?」
 カンナでさえも全身を一瞬にして呪縛された程の気が、シンジの周りを漂い始めたのだ。
「それを作ったのは僕ですよ」
 変わらぬ声でシンジは告げた――殺気も鬼気も孕まず、だが間違いなくどこかが違う声で。
 何なのか、と訊かれればカンナでも断定する事は出来なかったろう。
 奇妙な、それでいてどこか全てを断つような何かを含んだ気が、その場にいる者全てを束縛していた。
「つまようじを刺すだけでも良かったのですが、さくらさんに頼まれてタコにしておいたんですよ。喜んでくれるかなと思いましたが――残念です」
 ゆっくりとシンジの顔が動き、カンナを見た。
「桐島さん」
「は、はいっ」
 自分が呼び出した時、シンジはいつもと変わらなかった。
 そのシンジの別の顔を目の当たりにして、人形娘やマリアの反応の意味が漸くわかり掛けていた。
「さくらさんを連れて行って下さい」
「ど、どこへっ」
「校門を出たらここへ電話を。僕に頼まれたと言えばすぐに迎えが来ますから。任せましたよ」
「はいっ」
 応、とかあいよ、とか返答した事はあっても、はいと言った事など数回しかない――ましてや、同じ相手に立て続けになどとは。
 と、ふとシンジがカンナの足に目をやった。
 そこはまだ、完全に出血が止まってはいなかったのだ。
「なかなか良い切れ味のナイフを使ってますね。あなた程度には勿体ない代物です」
 携帯をカンナに渡すと、その足にすっと触れた。
 一撫でしただけで出血が止まるのを、全員が呆然として眺めたが、
「血は止まりました。痛みますか?」
「だ、大丈夫…です」
「結構。ではさくらさんを」
 機械人形のようにギクシャクした動きではあったが、それでもさくらを抱えてカンナは走り出した。
 無論、誰一人として追おうとする者はいない。
 勝手に動くには、あまりにもシンジの気に縛され過ぎていたのだ。
「さて、と」
 思い出したようにシンジは振り返った。
「生ゴミを使い、邪魔なライバルをけ落とすのは常套手段です。別に正義漢ぶって口を出す気もありません。でもあなた達が手を出したのはさくらさんと――僕の作ったお弁当でした。許すわけには行きませんね」
 次の瞬間、女達はぎょっと目を見開いた。
 シンジの横にすらりとした長身の美女が立ったのだ。おまけに、シンジはその体内へ何の躊躇もなく手を差し入れたのである。
「アダルトビデオのモデルになど、女神館の住人の方よりあなた達の方がお似合いですよ。そう、ネクロフィリアのモデルにはちょうどいいでしょう」
 抜き出された手にある長剣を見て、女達は自らの命運を知った。
 
 
 
 
 
「マユミ、本当に良かったの?」
「え、ええ大丈夫ですよ。あそこのオーナーとはお知り合いですから」
 言いながら、マユミは背に冷や汗をかいているのを感じていた。
 ここがいい、シンジにそう言われて訪れたのは『森喜楼』と言ういまいち不明なネーミングの店だったが、メニューはいずれも度肝を抜かれるような代物ばかりであり、最初に出てきたスープのせいで食欲が大高進したのだが、どう考えて三人で数十万は食べたような気がする。
 シンジが言ったとおり、
「山岸様のお知り合いですから、初回はサービスさせて頂きます」
 と言われたものの、精算表も渡されなかった為、却って不安になっていたのだ。
 しかしそんな事よりも、マユミにはもっと不安な事があった。
「あの、姉上…」
「なに?」
「い、言いにくいのですが…あ、あまり町中で帯刀はされない方が…」
 そう、一体どうやってチェックを切り抜けたのかは不明だが、この姉は白昼堂々帯刀しているのだ。
「これのこと?」
「え、ええ」
「わけはあるのよ」
 にっこりと笑って、
「例えば――そこ!」
 マユミでさえ目に留まらなかった程の速さで小刀を引き抜くと、ショーウィンドーの前で若い娘を口説いていた男に向かって投擲した。
 それは狙い違わず男の袖を貫いて壁に縫い付け、あっという間に五本の小刀が男を壁に貼り付けた。
「ムサシ、帰国早々何をしているのかしら」
 顔は笑っているが、目は笑っていない。
 無論、相手の娘は血の気を喪ってすっ飛んでいったが、男の方は壁に縫い付けられたまま、
「ち、違うんだマナ、これは道を聞いていただけ――おうっ!」
「道が、なあんですって?」
 ムサシ・リー・ストラスバーグ。
 何でこんな軟派な男があの厳格なマナと、とマユミも首を傾げる程の男だが、現実には相思相愛で結婚したのだから仕方がない。
 だいたい、この男と恋仲になってから、マナも随分と丸くなったのだ。
 事実を言えば、処女を喪ってから丸くなった――のだが、シンジと違ってマユミにはそこまで分からない。
 以前なら、浮気など間違いなく一刀両断沙汰にまで及んでいた所なのだ。
「夜は三倍にして返してもらうからね」
「ちょ、ちょっと待ってくれよマナ、そんな事したら俺、干涸らびちゃうよ」
 何の三倍なのか、と言う事よりもムサシはまだ、小刀で縫い付けられたままであり、既に通行人の視線が集まってきている。
 放っておけば、このまま小一時間位続けそうなので、やむなく止めに入る事にした。
 だが、マユミはこの時点で、人より自分の事を心配した方がよほどいい状況になっていたのだが、そんな事は分からない。
 分かっていれば、血相を変えて駆け戻っていたに違いない。
 
 
 
 
 
「これで全部か。あんまり面白くなかったぞ」
「お遊びで剣を振るうなど、まして人間如きではこの程度よ」
 エクスカリバーを軽く一閃させたシンジの周囲には、関係者のみならず参加者全員が転がっている。
 元々シンジが急を聞いたのは、レイからであった。
 正確に言えば、強すぎるマユミに対して妨害工作があると、レイはどこからか聞きつけて知っていた。
 しかし、一緒に行くのがマユミのファンの娘だから、いざとなれば自分が人柱になってでも守るだろうと、留め立てしなかったのだと言った。
「じゃ、なんで俺に言うの?」
「マユちゃんならそうだけど、今日行ったのはさくらちゃんだから。それにもうカンナちゃんがさっき向かったんだ」
「ナヌ?」
「ボクも帰ってきてそれ聞いたから…知ってれば止めたんだけど」
「ったく女子校ってのはこれだから――そういう事は早く言ってよ」
「いや、あの別に女子校じゃ…」
「ちょっと行って来る」
 フェンリルの背に乗って駆けつけたのだが、やはりレイの危惧したとおり、最初は一緒に来た部員達を人質にして、と思っていたのが簡単に寝返ってしまい、さくらの襲撃となったのだ。
 しかも付き合っている男はチンピラで、その背後には暴力団との繋がりもあり、ポルノビデオに云々というのは、あながちはったりでもなかったらしい。
 さくらを襲撃した小娘達は業者に卸し、そのまま試合会場に乗り込んだ。
 こんな時、顔の売れてない大富豪の孫というのは訳に立つ。
 面が割れてなければ遠慮などされないし、嫌味たっぷりに挑発してまとめて掛かってこさせるなど、シンジにとっては朝飯前であり、その結果が目下の山なのだ。
「山岸にはきつく言っておかなきゃならんな。フェンリル行くぞ」
 ずぶりとフェンリルを刺し通し――シンジはさっさと歩き出した。
 
 
 その晩カンナとシンジの姿は寿司屋にあった。
「いいね」
「え?」
「よく食べる。俺も用意した甲斐があったよね」
 渡された携帯には着信履歴が表示されており、そこに掛けてシンジに言われたとおりに告げたカンナ達を迎えに来たのは、フユノの乗用以外では見た事もないようなリムジンであり、無論運ばれたのは黒木が経営するホテルであった。
 一目見て、シビウ病院へ運ぶ必要はないと判断したシンジが、ホテルでの安静を選んだのであり、その位は指示されずとも黒木は分かる。
 最上級の部屋に通された二人だが、さくらは起きる気配がない。
「あ、あのさくらはあのままで…」
「若が言われたのなら間違いありません。わずかでも必要があれば、シビウ病院を指示されています。数時間で目を覚ますでしょう」
 黒木の身長はシンジと変わらないが、極限まで鍛え上げられた肉体と圧倒的な雰囲気は、到底シンジの及ぶ所ではない。
 ましてカンナは、自分も武道の心得があるだけにそれが分かる。黒木はシンジと会ってからだいぶ変わったものの、根本的な所は変わっていないのだ。
 無論ホテルだから接客業だし、嫌な顔というのは営業に於いては決して見せまい。
 だが黒木の対応は、単なる客へのそれではないとカンナは感じとっていた。
(大将の事よっぽど気に入ってるんだな)
 カンナではその位しか思わなかったのだが、柔らかい布団に身を落とすとそのまま寝入ってしまい、三時間ほど経って起きたカンナを待っていたのは、迎えのリムジンであった。
 黒木が自ら運転した車の行った先は、築地にある一件の寿司屋であり、待っていたシンジが一晩借り切ったと告げたのだ。
 ネタは山と積まれており、しかも店内にメニューが無い事に気付いた。
「こ、ここメニューは?」
「ないよ。適当にって言えば適当に作ってくれるから」
 適当な店なのかと思ったが、さすがにそれは口に出来なかった。
 だがカンナは知らなかった。
 メニューは確かになく、店主任せなのだが、それはすなわち値段も分からないと言うことであり、請求が来て初めて分かるのだ。
 なお二人で頼んだ場合、大抵は十万前後だが、シンジはカンナに告げた通り、一晩借り切ったのである。
 脂の乗りきった大トロを嚥下してから、
「あ、あのよ大将」
「何?」
「こ、これだけ食っといてなんだけど…なんでこんなに?」
「そう言う事は最初に訊いとこうよ」
 別に呆れた風情も見せず、
「俺からのお礼。さくらを襲った及び協力した子達にはお礼はした。なら、助けてくれた子にもお礼しないとね」
「そ、そうかい…」
 その途端、カンナの脳裏にシンジの姿が甦ってきた――呼称が変わり、どこか別人にも見えたシンジの事が。
 多重人格だとか、そう言う事ではない…むしろカンナには、シンジ本来の姿が見えたような気がしたのだ。
 自分が突っかかった時、シンジはあの表情を見せなかった。
 自分がぶっ倒れた時、それは一撃だけであり、おまけにそのまま最高位の病院へ最高級の輸送で担ぎ込まれている。
 あの時シンジは、自分を殺そうとは微塵もしていなかったのだ――そう、それがあまりに容易い事であるにもかかわらず、だ。
「桐島」
 一瞬思考のループにはまりかけたカンナを、不意にシンジが呼んだ。
「えっ?」
「住人には何度も言ってるけど、俺は白馬の騎士でも王子様でもない。俺はそんな事でさくらを助けに行ったわけじゃないぞ」
「じゃ、じゃあどうして…」
「俺の管理物だからだ。世の中には借家人法ってのがあって、例えばアパートの住人が自分の部屋から火を出した場合、その分の修理費用を弁償するって法律なんだが、これは虫が良すぎる」
「なんで?」
「本当に燃やされたくなかったら、鋭敏な火災探知機を付けて、ついでに電子コンロで煙も最低限にしておけばいい。もっとも家賃は口座振替で、顔など更新の時しか会わさない管理人じゃ無理もないけどね。でも俺は違う。少なくとも同じ屋根の下に住んでるし、あまり上手じゃないから自分で全員の料理も作ってる。日常の無難な事はしてくれるけど安保は駄目、と言うんじゃ同居人兼管理人としては失格だあね」
「だ、だあねって…そ、それだけの為に?」
「それ以外に何か理由が必要?」
「い、いや別にそれは…」
 さくらだから、でもなく。
 女の子だから守る、でもなく。
 管理人の業務として当たり前である、みたいな事を言う。おまけに、みんなが交代制で作ってた料理はまずいから、自分で作ってると言う。
 確かにシンジの料理は上手い。格別なものでなくとも、基本が完全におさえられているからだが、これと同じ事を他の住人にも言ってる事は間違いなく、また住人達もそれを受け入れているのだろう。
 カンナには、それが不思議であった。
 確かに正論ではあっても、他の者が言えば間違いなく修羅場になる。
 だいたい、あのプライドの高いアスカやすみれが、どうしてそんな事を唯々諾々として受け入れたのか不思議でならなかった。
 そこへ、
「はい、お任せ握りあがり」
 たっぷり寿司の乗った竹皿が出てきた。
「ほっとくと固くなるから食べた方がいいよ」
「あ、ああ」
 言われて手を伸ばしたカンナに、
「さっきも言ったけど、別にさくらだから助けた訳じゃない。囲まれてるのが桐島でも取りに行ったよ。もっとも、抱えるのが大変だから、底引き網で根こそぎ持ってったかもしれないけど」
 一瞬カンナの手が止まり、
「お、おいおい底引き網は無いだろひでえなあ」
「だって大きいのは無理だし。俺ってほら、力仕事向いてないから」
「なーにが向いてないからだよまったく」
 つられてカンナも笑ってから――今日見た事は忘れようと決心した。
 多分あれも…自分の知らないところで回っている歯車なのだろうと、自分に言い聞かせて。
 やっと手が活発に動き出したカンナを見て、
「泡盛あったっけ?」
「ありますよ。たっぷり熟成したやつが」
「じゃ、それにしよう。飲む?」
「泡盛かい、いいねえもらうよ」
「じゃ、それ一つ」
「一つ?」
「俺は飲まないから。今日は桐島の酔態を観察する日なんだ」
「ふふん、それはどうかな」
「え?」
「あたいが酔いつぶれるなんて、樽でも持ってこない限り無理だぜ大将。ま、酔った姿ならあたいよりすみれやアスカの方がよっぽど色っぽいだろうしよ」
「……」
 
 
「ところがぎっちょん、樽があったりするんだなこれが」
 湯船の中で手を伸ばし、シンジは邪悪に笑った。
 さすがのカンナも、まさか樽で用意されているとは思わなかったろう。
 蒼白になってダウンしたカンナを肩に乗せて担いできたのは、力仕事など無理だと言った張本人である。
 なおカンナだが、寿司の方は十五人前、酒の方は六人前を平らげた。もう少しいくかなと思ったのだが、やはり泡盛が強烈だったらしい。
 さくらの方は、明朝には目覚めるはずと黒木から連絡が来ている。黒木もしょっちゅう怪我する任務だったし、狭霧ならそれくらいの見立は出来るはずだ。
 何よりも、シンジが安静でいいと読んだのだ。
 マユミには、シンジからは何も言わなかった。既に処置はしてあるし、明日の朝一番で理事長から呼び出しが入る事になっている。
「さて、もう寝ないとお肌に悪いよね」
 一つ伸びをした途端、その手が空中で固まった。
 何かが後ろから抱き付いたのだ。
「アイリス、『俺様混浴中』の札が掛かっていた筈だけど」
「…知ってるよ」
 アイリスはどこか固い声で言った。
「で?」
「ア、アイリス…」
 一瞬息を吸ってから、
「アイリスおにいちゃんとえっちな事しに来たのっ」
「なんだ、それならそうと早く……何ですって?」
 カンナと違ってシンジは酔ってない。
 ただ、アイリスの台詞が予想可能範囲から外れていただけである。
 シンジの指が妙な形で曲がったまま、時が停止した。
 
 
 
 
 
(つづく)

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