妖華−女神館の住人達
第百十三話:最強と小娘の間
藤枝姉妹が魔界に足を踏み入れた次の日、シンジは人外魔境の事などまったく気にした様子もなく、いつもの通り住人達の朝食を作っていた。
が、時折妙な物が飛んでくるのに気付いた。
視線だ。
それも何人かの物ではなく、なぜかアイリス限定で、しかもシンジが眼を向けるとふいっと逸らす。
怒っているのかと――理由はともかくとして――思ったが、
「アイリスそっちのお皿取って」
「はい」
返ってくる返事に異常はない。
(気のせい…じゃないぞ)
内心で首を傾げた途端、またアイリスに見られているのに気が付いた。
(視姦でも覚え――それはナイ)
ろくでもない妄想は却下したが、別段自分の顔に何かが付いている様子もないしと、三秒ほど思考のループにはまりかけたが、すぐ脱出した。
子供のする事だからと、視界から追い払ったのだ。
その後もやはりちらちらと見られており、少なくともシンジの勘違いではなかったらしい。
しかしそれも食事中だけのことで、終わればシンジの側にはいなくなる。
無論アイリスも例外ではなかったが、一体何事があったのかとシンジの思考は洗面所に向いていた。
きっと、自分の顔にペイントでもされていたのに違いないと思ったのだ――超能力を持った少女にしか見えないペイントが。
と、そこへ、
「あの〜」
「分かってる、鏡見てくるからちょっと待ってて」
「いえその、碇さん」
「分かってるよ自分でちゃんと見つけ…え?」
シンジが自分の世界から戻ってくると、目の前にはさくらとマユミがいた。
「いつからそこに?」
後ろに百太郎でも見つけたような顔のシンジになぜか二人ともつられて、
「『す、すみませんさっきからその…』」
「そ。別にいいけど、どうしたの?」
「あの、実は今日私の姉が上京してくるんです」
「姉?ああ、あのおっかないって姉上ね」
「…ええ、まあそうです」
「で、その姉さんがどうしたの?」
「正確には上京じゃなくて、海外から帰ってくるんですけど、成田まで迎えに行かなきゃならないんです」
「彼氏付きだっけ?」
「いえ、結婚してますが」
「じゃ、ほっとけばいいじゃない」
「え?」
「どうせ、二人でどこ行ったここ行ったって自慢兼のろけ話聞かされるし、場合によっては彼氏のベッドの上での武勇伝まで聞かされるぞ」
「あ、姉はそんな人じゃありませんっ!」
顔を赤くして怒ったマユミだが、さくらは不思議そうにシンジを見た。
「碇さん、ミサトさんて恋人いるんですよね」
「いるよ」
「その人と一緒に旅行行ったりするんですか?でもって、帰ってきてから碇さんにそう言う話とかするんですか」
「ううん。それにしないよ。だって、いつも俺を誘拐連行しようって企んでるし」
「…それでなんでそんなに詳しいんですか」
「内緒」
ピクッと二人の眉が上がった――マユミは違う意味でだったが、シンジの性癖を問いつめに来たのではないと咳払いして、
「とにかく、姉夫婦が横浜の中華街に行くので、私が案内するんです」
「あそこは何店か知り合いがいるんだ。たまには妹として驚かせてやれば?」
「驚かすって?」
「普通に頼むと一人X万円の所を、山岸マユミ様のお連れ様なら特別サービスで無料に致しますって。普段は頭上がらないんでしょ」
「いえ、別にそんな事してもらうわけには…ど、どうして知ってるんですか」
「山岸は斬鬼護士の末裔だったね。姉は剣などにまったく興味のない普通の人妻じゃあるまい」
「!?」
一瞬マユミの表情が激しく動いた。無論事実ではあるが、公言などはしておらず、館内でもさくら以外に知る者はいない。
フユノにさえ、正式には告げていないのだ。
それをなぜ?
シンジはすぐに気づき、
「単なる剣道娘をここに入れるとは思えなかったから、少し調べさせてもらったの。まさかとは思うけど、うちの祖母がさくらの噛ませ犬にする気じゃあるまいと思ってね」
「…そ、そうなんですか」
ごくっと自分の喉が鳴ったのにマユミは気付いた。
興味本位ならまだしも、なぜマユミがここへ入れたのかが気になったという。そこまでは多少好奇心が強ければ思うかもしれないが、実際に調べられるかはまったく別の次元であり、シンジは簡単にそれを調べたらしいと気づき、マユミは背中にうっすらと寒い物が走ったのを知った。
「話を戻そう。山岸のシスターサービスはいいとして、さくらは関係ないでしょ。俺に何の用で来たの?」
「それが関係あるんです。今日剣道部の試合があって他の高校へ行くんですけど、最初は私が行くはずだったんです。でも急遽予定が入ったからさくらに頼んだんです」
「はあ」
「そ、それであの碇さん…」
「なに?」
「その…む、無理にとは言わないんですけど…お、お昼を…」
「お昼を?」
「お、お弁当作っていただけませんかっ」
(引き換えたね)
二人の表情を見て、シンジはひそかに行われた談合を知った。
おそらくさくらは、最初マユミの代打など断ったに違いない。それをマユミが、シンジの弁当を餌に釣ったのだろうとシンジは踏み、そしてまったくもってその通りであった。
(それって談合社会?)
とは無論口にはせず、
「俺で良ければ作ってあげます」
「本当ですかっ?」
「うん」
「あ、ありがとうございますっ」
喜色満面で頭を下げたさくらに、
「あ、でも」
「…え?」
ふと宙を見上げたシンジに、みるみるさくらの表情が曇る。
「おかずがないから買いに行かないと。一緒に行く?」
「…も、もーっ碇さん意地悪してっ」
ぷうっと頬をふくらませたさくらだったが、それは怒りと言うよりすねたような表情であり、決して本心から怒っているものではなかった。
「で、行くの?行かないの?」
「行きますっ。行くに決まってるじゃないですかっ!」
頬はふくらんだままシンジの手を取ったさくらに、
(無理しちゃって)
本当は嬉しいくせにと言ってやろうかと思ったのだが、何となくシンジとのツートップ攻撃を受けそうな気がして止めた。
本能が危険回避モードに入ったらしい。
「それで、正確なタイムは?」
「九分と四十五秒よ。人間にしてはまあまあ保った方ね――どうかしたの?」
むう、と首を捻ったシンジにモリガンが訊いた。
さくらにお弁当を持たせて送り出してから、シンジはぶらりと戸山町を訪れた。シンジが来てから十五分後、モリガンが姿を見せたのだ。
「十分ちょうどって読んだんだけどな…十五秒もタイムミスが出た」
「人間のダウンを正確に読めたら不気味よ。もっとも魔界の住人になれば出来るわ。シンジもなってみる?」
「結構。やだ。遠慮する」
三連コンボで否定したシンジに、
「そこまで連続して強調しなくてもいいじゃない」
ちょっと口元を尖らせたかに見えたモリガンに、
「モリガン、用はそれだけなの」
麗香が口を挟んだ。
既に夜香と麗香も起きているが、夜香はまだ姿を見せていない。
「シンジから、二人を発掘して届けるように頼まれていたのよ。それとも――」
妖艶な眼差しを従妹に向け、
「私に身体を預ける気になったかしら?」
妖しく微笑したモリガンに、
「…私にそんな気は無いと遙か昔から言っているでしょう。未来永劫あり得ないわ」
「でも、私を余裕で退ける力はまだないのよね」
「……」
麗香が反論しないのは、残念ながら目下はそれが事実だからだ。
自分より弱い男になど興味はない、そう言って憚らないモリガンだが、禁欲生活の理由付けというわけではなく、欲望の矛先は従妹でもある麗香に向けられてきた。
だがここまで、その柔肌に魔手が伸びずに来れたのは、兄夜香の存在が大きかったのと、本当に力尽くで押し倒して物にしようとはモリガンも考えていなかったからだ。
無論、麗香が一度でも頷けば、たちまち全裸で絡み合う絶世の美女二人の姿が出来たに違いないが、麗香は当然ながら決して承諾しない。
またモリガンの方も、むしろ迫る事自体を愉しんでいる風情もあるのだ。
「ところでモリガン」
「何?」
「麗香の肌って綺麗だけど、モリガンほど感じやすくないと思うぞ。それと、相手を置いて勝手にいったりも。ね、麗香」
「なっ、なにをっ…!?」
「い、碇様…」
揃って顔を赤らめた二人だが、意味合いはだいぶ異なる。シンジは麗香に手を出してないが、モリガンの方は既にたっぷりと嬲られている。
もちろん、無理矢理押し倒したのではないから強姦ではないが、まだ一度も自分の身体がシンジを頂点まで持っていった事がないのはモリガンも分かっている。
ちくっとそれを突かれて怒りと――大半は羞恥から真っ赤になったのだ。
麗香の方が先に立ち直り、
「あの、碇様」
「なに?」
「モリガンはその…そんなに乱れますの?」
夜香がいない事も手伝ってか、大胆な事を訊いた。
「ちょ、ちょっと麗香何言ってるのよっ」
その途端明らかに狼狽えたモリガンだが、
「それはもう。魔界の女王じゃなくて魔界の永遠の処女って感じ」
口元に手を当ててくすっと笑った麗香に、
「な、何笑ってるのよ麗香っ、も、もう知らないっ」
これだけ見れば、その辺の小娘となんら変わるところはない。
だが、一度魔界に戻れば比類無き最強の女王であり、実力が伯仲している者は一人もいないのだ。
正確に言えば二人居た。そう、居たのであって今はいないのだ。
シンジが抹殺してしまったのである。
モリガンがシンジに迫る事になった原因なのだが、無論モリガンの為ではなく――とまれこんな表情など余人の前では決して見せない。
シンジの前限定なのだ。
とはいえ、これも本気で怒っているわけではなく、昏々と眠り続ける藤枝姉妹を余所に、室内がどこか甘いような空気が漂ったところへ、
「碇さん、失礼しました」
長身を翻して夜香が入ってきた。
「邪魔してるよ。お祖父様はお目覚め?」
「いえ、祖父は眠っております。ただ、昨夜この町内へ侵入者がありまして」
「侵入者?どこの物好きさ一体」
戸山町、それも吸血鬼の住宅街へ侵入する事が、普通の生物に取って何を意味するのか、この街の人間なら誰でも知っているし、それを承知で侵入するなど明らかに自殺行為である。
だが夜香から返ってきた答えは意外なものであった。
「以前、碇さんが放置された物がありましたね」
「ああ、あの巨乳をぶら下げたヤツね。覚えてるよ」
「どうやらあの類のもののようです。もっとも、大きさはだいぶ異なっていたようですが」
「…魔装騎兵を全員分配備する気だな。そうか、やっとその気になったか」
なぜか、妙に嬉しそうなシンジに、
「ちょっとシンジ、どこの女の事かしら」
モリガンが尖った視線を向けた。
「は?」
「誰が巨乳なのよ」
「ロボット」
「…え?」
「夜香と見たんだけど、人型の機体なんだが、どういうわけか乳があってしかもそこから砲身が出てたんだ。多分悪趣味な乳首だな、まったく」
「…女じゃないの」
「誰もそんな事は言ってないが。ホルスタインの定義をもう少し勉強する事だ。まったくなんでこんな所でジェラ――いだだだ!」
良からぬ事を呟いた途端、コウモリ型の弾がこれ以上にない至近距離からシンジを襲い、シンジは悲鳴を上げた。
「なんなら、五人の私で空になるまで吸い出してあげましょうか?」
霊体――アストラルボディによる分身は、本体よりだいぶ能力は落ちるが、四人いればシンジを押さえ込むこと位は出来るだろう。
その間に本体がたっぷりとシンジをいたぶるのだ。
「無理な話だな」
割って入ったのは夜香であった。
「どういう意味よ」
「分身を使うのは悪くない。だが自分同士とは言え、他のおまえがシンジさんに触れる事を我慢できるのか?」
モリガンの答えは早かった。
「出来るわけ無いじゃない」
「モリガンの独占欲が強くて良かった」
「くっ!」
ぐるぐると肩を回しながらヌクヌクと言ったシンジに、地獄の羅刹も呪詛出来そうな視線を向けたがそれも一瞬の事で、
「い、いつかきっと、私の身体で虜にしてやるから覚えていなさい」
他の者なら、それだけで股間を押さえそうな視線に変わった。
事実、これで何人の少女が玩具と化したのかは分からないが、この部屋にいるのはいずれも例外ばかりであり、目の前にいるのはその最先端である。
「俺とは合わないだけで、別にモリガンの身体が多感症ってわけじゃない。普通だよ」
「多感症?」
「不感症の反対。シンジ苑に載ってる単語だ」
「ふうん。でもねシンジ」
魔界とを繋ぐ扉に手を掛けながら、
「シンジと合わなければ意味がないのよ――あの女に渡さない為にもね。女の子達は私が監視しておくから、いつでも寄越すといいわ。じゃあね」
顔だけこっちに向けて言うと、そのまま姿を消した。
なお、シンジの場合と違って扉はまったく開閉されていない。
モリガンを吸い込んだ扉をしばらく眺めていたシンジだが、
「夜香」
「何でしょう」
「モリガンとシビウがすっごく仲悪いのは、全然俺に関係ない」
「ええ」
「で、どうして俺が当てつけに使われるの」
「あの、碇様」
麗香が遠慮がちに口を挟んだ。
「モリガンは元々、常に支配する側にいたせいで、想いとは無縁の存在でした。あれでもきっと、照れているのだと思います」
「あまりそうは見えなかったけど、さすがに従妹はよく分かるね。ところで麗香」
「はい」
「いつかきっと、って言ってたけどあれ何時の事?」
「は、はい?」
「だって今のところは勝手にいくし、と言うより到底保たないし。鍛えるとか言って全然駄目なんだもの」
「い、碇様…」
遊ばれてる、そう気付いたのと言葉の内容とで、頬をうっすらと赤く染めた麗香から棺に視線を移し、
「この二人、幸せなの」
誰にともなく呟いた。
「それは分かりません」
夜香の答えは明快であった。
「ですが、この中に居なければ娘の方は本体に――モリガンに取り込まれ、少年の方は邪魔だと抹殺されていた存在です。完全に消滅して後、漂う心だけのつながりを求めるのかは私にも分かりませんが」
「そうだね」
シンジは頷いた。
「心なんて曖昧な物より身体が繋がってる方がいい」
かなり語弊が生じそうな事を口にしてから、
「リリスとジョーンだったね――二人とも幸せそうな表情をしている」
珍しく、穏やかな視線を向けた。
「その通りです」
夜香が賛同し、
「どこか麗香に似ていますな」
「麗香に?」「兄上?」
「誰とは言いませんが、特定のとある方を思って月夜を見上げている時、こんな表情をしています。本人が気付いているかは別として」
「あ、兄上っ」
今度こそ麗香は首筋まで真っ赤に染め、
「ふ、ふーん、そうなんだ」
シンジも、これはかなり珍しい事だが語頭がわずかに揺れた。
よく見ると頬が妙に赤らんで見えたのは――おそらく気のせいではなかったろう。
シンジが藤枝姉妹を担ぎ、邸を後にしたのはそれから十五分ほど後の事であった。
さて、シンジに住人達の中では初めてシンジにお弁当を作ってもらい、喜々としていたさくらだが、試合の方はさんざんであった。
団体戦なのだが、先手以下が全然役に立たないのだ。
大将が一人で勝てばいいから、さくら一人に回ってくるわけで、それは別に構わないのだが、初戦でいきなり足の甲に竹刀を打ち込まれ、それが狙ったものだと気付くのには、さくらは少々純情過ぎた。
試合など幾度も経験しているマユミとは違い、そんな事など知りもしないのだ。
だがここまでの二回戦、十人を倒したがいずれも鍔迫り合いに持ち込んできて、おまけにぎゅっと足を踏みつけるものだから、足の痛みは相当なものになっていた。
しかも、
「マユミ先輩来ないんですか」
「マユミ先輩来るの楽しみにしてたのに…」
「あーあ、つまんないの」
一緒に来た部員達は、どうやらコアなマユミファンだったようで、最初から力を合わせてと言う気が全然見えない。身内にすら敵が出来ている状態であり、これでシンジに作ってもらったお昼がなかったら、しょんぼりと落ち込んでいたに違いない。
「せっかく碇さんに作って頂いたんだから…元気出さなきゃ」
マユミ先輩が作ったんですか、と部員達は疑惑の視線を向けたが、作ったのは男だと知るといかにも何か言いたげな視線を向けて離れていった。
もう試合の事は忘れようと、箱の蓋を開けた途端、まだ中が暖かいのに気が付いた。
「そんなに保温なんてしなかったのに…でも美味しそう」
シンジがいたら、温かいお弁当は当たり前と言われるところだが、さくらはそこまで気付かない。
「碇さん、いただきます」
器用に足が出来たタコさんウインナーを口に入れようとした途端、
「男に弁当作らせるなんていい身分じゃない」
「おまけに見せびらかしながら食べるなんて、あたし達への当てつけってわけ」
いかにも頭のワルそうな声がして、さくらが顔を上げると、言葉通り頭のワルそうに厚化粧をした小娘達が立っていた。
色とりどりに分厚く塗りたくった顔は、夜に一人歩きしているのを見たら、情欲よりも正義感が湧くかも知れない――町中に山姥をのさばらせてはいけない、と。
もしも幼児が見たら、一生トラウマになりかねないような不気味な顔である。
「何の用ですか」
「何の用?アンタに一つ、教えてもらいたくてねえ」
「どうやったら男を誑し込んで飯なんか作らせられるのか、さ」
「恩返しにはあたしを食べて、てか?」
ゲラゲラと笑い合う娘達に、邪魔されたさくらの眉が少し上がった。
どうやら、こんな笑い方をするのはバカの証拠だというのは事実らしい。
「不良の方たちですか」
嫌味でもなく単にそう思ったから訊いたのだが、それを聞いて娘達の表情が変わる。
「自分の立場が分かってないみてーだな」
「だったら身体で教えてやるよ」
後ろ手に持っていたのは木刀であり、うららかな陽が差し込む場所に、そこだけ剣呑な殺気が立ち込めた。