妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百十二話:鬱血――唇のつくりし物
 
 
 
 
 
 シンジの身体が宙に舞った数時間前、シンジの左右にはアイリスとレニがいた。
 そしてその三十分ほど前――。
 
「碇さん」
 妙に籠もった声に呼び止められたシンジの足が止まった。
「なに、すみれ?」
「どうしてわたくしに意地悪されましたの」
「意地悪?」
「わたくしが分からないと分かっていて、皆さんの前で恥をかかせるなんてひどいですわよ。わたくしに恨みでもおありですの」
「…あー」
 ワンテンポ置いてから、シンジはぽんと手を打った。
「百科事典の話ね」
「そうですわよ。他に何か心当たりがおありですの」
「ううん、別にない。でも、別にいじめたわけじゃないよ。別にニュートンやライプニッツの呪文なんか出てこなかったでしょ」
 前者は言わずと知れた林檎が代名詞になっている天才物理学者であり、微積分の事だがすみれの機嫌は治らない。
 元々ニュートンとライプニッツは、お宝発見の順番を巡ってさんざん揉めた間柄であり、宥和に使うにはあまり向かなかったかもしれない。
「碇さん…意地悪ですわ」
 高飛車に来れば、火攻めや水攻めで返り討ちも容易いのだが、こんなすねるような眼差しを向けられるとやりづらい。
 この碇シンジ、剛柔双方向対応ではないのだ。
 あっさり降伏して、
「恨みは多分無いんだけど、ごめんね」
「…それだけですの」
「え?」
 まさか裸踊りしろとか言い出すのかと、
「えーと、あの他に何か――」
「女に恥をかかせておいて、一言謝って終わりですの」
 何か要求する気かなと気付いたが、何なのか見当が付かない。
 自分の顔と身体を、『男ホイホイ』と勘違いしている売春婦もどきの風俗嬢じゃあるまいし、すみれが物など要求はするまい。
「何を?」
 シンジはストレートに訊いた。
 自分から赴いたのならともかく、向こうがやって来たのなら直に訊いた方が早い。
 答えはすぐに返ってきた。
「…キスして下さいな」
「どの種の?」
「お、おやすみの、ですわ」
 なんで、とシンジは言わず、すみれもお詫びにとは言わなかった。
「いいよ」
 あっさり頷くと、肩に手をかけて引き寄せる。
 すみれが軽く目を閉じシンジの顔が近づく――と、ここまでは普通の男女のキスシーンである。
 だがここからが違った。
 シンジの唇は、すみれの唇とは重ならなかったのである。
「んうっ」
 一瞬すみれがびくっと身体を強張らせる。
 その首筋にはシンジの唇が貼り付いていた。
 シンジに抱きすくめられたまま、ぴくぴくと手足が震えるすみれのそれは、キスシーンと言うより吸血鬼に捕まった乙女を思わせる。
「あ、あん…んっ」
 徐々に吐息が切なげなものに変わり、やがてシンジが解放した時には、足から座り込みかけたのをシンジに支えられた。
「ど、どうしてこんな…」
「舌を絡め合うと粘膜が刺激される。そうなると身体が疼いて眠れなくなる」
「ね、粘膜が刺激…」
 余韻とは別の要因で顔を赤らめたすみれに、
「だからおやすみのキスは首筋――正式なものはそうだと昔から決まってるんだ」
「そ、そうなんですの」
「そうなの」
 インチキ教師の風情で頷き、
「血を吸ったわけじゃないから、別に痛くもかゆくもないでしょ?」
「え、ええ」
「じゃあね、おやすみ」
「お、おやすみなさい…」
 頷きはしたものの、どうもしっくりしないまま自室に帰ったすみれだが、姿見の前に立った途端その理由を知った。
「そっ、そんなっ…」
 そう、そこにあったのは思い切り吸い上げられた当然の結果の鬱血――濃いキスマークであり、猪首ではないすみれに取っては隠蔽工作必須の箇所であった。
「こ、こんなのを誰かに見られたら…」
 すみれとて、キスマーク隠しの単語ぐらいは知っており、鬱血したそこをおさえたまま真っ赤になったが、
「き、きっといつか仕返しして差し上げますわよっ」
 キッとシンジの部屋の方角を睨んだが、視線には普段の十分の一も迫力はなく、その上口調すら妙に嬉しそうなものであった。
 一方シンジはと言うと、
「うげ」
 すみれが戻った後、唇を拭っていた。
 男の風上にも置けない、と断じるか日本男児的と見るかは別として、一応理由はあった。
「…香水なめちゃった」
 湯上がりではあったろうが、わざわざ香水を振ってきたすみれが分量を間違えでもしたのだろうか。
「香水って口にするもんじゃないんだよねえ」
 奇妙な事を呟いて部屋に入ったシンジだが、
「……」
 その姿を――二人の妖しい姿を一部始終じっと見られていた事には、無論気が付いていなかった。
 
 
 
 
 
「若、どこかお加減でも悪いのですか」
 薫子の顔色が変わっているのは、胸を揉まれた事には関係ない。相手がシンジであれば、薫子に取ってはどうでもいいのだ。
「ううん、そんな事無いよ」
「本当に?」
「うん」
 薫子の頭に膝を乗せたまま、シンジは頷いた。
 彼女に取って一大事なのは、シンジが自分に投げられたと言う事であり、乳など千切られでもしなければ関係ない。
 そう、
「薫子に投げられたのって初めてだよね」
「……」
 この事なのだ。この邸に仕えるようになる前――シンジと初めて会った時以来、シンジが薫子に不覚を取った事はない。
 言い換えれば、薫子がシンジに勝った事は一度もなかったのだ。
 それが、自分の乳を掌に収めていたとは言え、こうもあっさりと投げられるとは余程具合が悪いと思うのも無理はあるまい。
 がしかし。
(すみれの味思い出しちゃった)
 十人中十人が破廉恥漢の烙印を押しそうな台詞だが、どうやら薫子のつけていた香水がすみれのそれと同じものだったらしい。
 そんな事でもなければ、シンジの身体を宙に舞わせるなどまず無理である。
 とはいえ、さすがにそんな事は口に出来ないから、
「獅子も木から落ちるでしょ。たまにはそんな事もあるんだよ」
「…ならいいですが…」
 言う気がなければ、小一時間問いつめても白状するようなシンジではなく、薫子もそれ以上は言わなかった。
 シンジの髪を撫でていた薫子が、ふと気付いたように訊いた。
「どうして今日はこちらに?」
「お前の顔見に」
「わ、私の?」
 思わぬ直球に一瞬手の動きが止まった薫子に、
「薫子は俺の同類だから」
「?」
「こんな狭苦しい国で、こんなちっぽけな邸でちまちまメイドしてるのは似合わないんだよ。俺に取って地位だの名誉だのが、身体を縛る鉄鎖に等しいのと一緒でね。だからたまには見張りに来ないと脱走するかもしれない」
 ふ、と薫子は笑ったが何も言わなかった。
 若がこの家と縁を切らない限り私はここに居ます、とのそれは十分シンジに伝わっているはずだ。
 本来主従とは、そう言う不気味なものなのである。
「ところで薫子」
「はい?」
「戦場に向き不向きってあるの?」
「勿論あります。ただ、勇敢に見える者が逆にもっとも不向きな事もありますが」
「つまり?」
「復讐心に駆られた者です。えてして猪突猛進しやすく、目的を為した後は脱力する事が多いので、死神に憑かれた者と呼ばれる事もあります」
「ふうん」
 ちょっと考えてから、
「復讐はないだろうな」
 勝手に頷いた。
「冬の夜の墓地に行くんだけどね」
「墓地?」
「そ、墓地。ただそこは、生き霊や人魂がウヨウヨしていて、普通の人間が行く所じゃないんだ。成分はもちろんこの世界と一緒なんだけどね」
「若が付き添いで?」
「ううん。死体で帰ってこられちゃ困るけど、一応監視人いるし」
「娘達の誰かですか」
「違う」
 太股の上でもぞもぞと首を振ると起きあがった。
「弱小軍団最強化計画の第一歩。育成ってのは最初は面倒なんだ」
 住人達に聞かれたら吊し上げ――かは不明だが、もしかしたら彼女たちもなんとなく気付いているのかも知れない。
 シンジ自体が、似たような事は幾度か口にしているのだから。
 とはいえ、おそろしく頼りになるプレイヤーであり、シンジが後ろにいる事の意味は住人達が身を以て体験している。
「正義は正義でも、正義感のある子達がした方がいいんだ。碇シンジにかかると、正義も正義じゃなくなる」
「何になるんですの?」
「そうだね――」
 少し首を傾げ、
「大暴れするチーマー」
「チーマーってあの?」
「そう、あのチーマー。じゃ、少し寝るから適当に起こしてね」
「分かりました」
 すっと目を閉じたシンジは、十秒も経たないうちに寝息を立て始めた。
 まったく無防備に寝息を立てる主人の頬に、薫子はそっと手を当てた。さっきまで髪をいじっていた薫子だが、本来シンジはそこに触られるのを好まないのだ。
 シンジの寝相は悪くなく、最初の姿勢から微動だにせず寝息を立てており、その頬に指で触れたまま薫子も動かない。
 室内に出来た彫像は、そのまま数時間の間動かなかった。
 
 
 
 
 
 シンジが薫子と一緒に彫像と化してから少し経った頃、ミサトの姿はキャッツアイにあった。
 呼び出されたのである。
 ドアを開けると軽やかな鈴の音が出迎えた。
「あ、ミサトさんいらっしゃい」
「久しぶりね、愛。瞳はいないの」
「泪姉と一緒に出てるよ。独身最後の大暴れするんだって。ミサトさんはいいの?」
「あたしは永遠の乙女だからいいのよ。それに今日はお呼び出しでね」
「お呼び出しってミサトさんを?」
 何だかんだ言いながらも、シンジが結構姉思いなのは知っている。シンジが高嶺の花過ぎて諦めた者達が、拐かしの魔手をミサトに向けた事は幾度かあり、それをシンジが殲滅した事も数度はあるのだ。
 これでもし、ミサトがもう少し淡泊に迫っていたらもしかしてシンジも――と思わないでもない。
 そんな事をシンジに知られたらキケンだが、ミサトに知られたらほぼ安全である。
 何せ、悪の当事者なのだから。
「シンジのとこの住人にね。あ、いたいた」
 店内に客は一人しかおらず、
「あの、さっきからずっと待ってた子?」
「そ、帝劇のアイ――何ですって?」
「だから、もう三十分くらい待ってたんだよ。てっきり嫌がらせかと思ったんだけど、ミサトさんの知り合いだった――いたっ」
 ぽかっ。
「そう言う事はさっさと言いなさいよっ。アイリス泣かせたら、シンちゃんにどんな目に遭わされるか分からないじゃないの」
「……」
 理不尽な怒りに何も言わず、その代わりシンジに言いつけてやると愛は決心した。
「あー、ごめんねアイリス。随分待ったでしょ」
「ううん、アイリスが待ってただけだから」
 ちょこんと、やや俯き加減に座っているアイリスを見て、慌てて早足で近寄ったのだが、ふとその表情に気付いた。
(あれ?)
 妙に硬いのだ。と言うよりも、どこか思い詰めているような表情にも見える。
 しかし、それならとりあえず自分の事じゃないなと、あっさり楽観モードに入ったミサトだが、
「…」
「え?」
「……」
「ア、アイリスあんた――」
 アイリスの台詞を聞いた途端、その表情は硬直した。
 
 
 
 
 
「あの、どこへ向かってるの」
「夜香の邸」
「夜香…ってまさか戸山町の!?」
「それ以外にそんな名前は知らないぞ。あやめ知ってるの」
「し、知らないけどでも…」
 薫子の膝でたっぷり三時間寝たシンジは、そのまま藤枝姉妹を連れだした。
 シンジは本来体育会系ではなく、弟子入りをと頼んだ遥佳をスパルタで鍛え上げるような薫子と合うとは思えない。
 にもかかわらず、恋仲でも愛人でもないのにもっとも気が合うのは、二人の性分が似ているからだ。
 非合法を好む、と言う意味ではないがアウトローなのだ。
 社会の中で決められた枠に収まっている、などというのは似合わないのである。
 事実、シンジが相手でなければ薫子が誰かの家で仕えるなどと言う事は、決してあり得なかったろう。
 だからシンジの扱い方も、他の娘とは少し違うのだ。
「あそこの地下室以外から行くと、色々と面倒になる。俺は行かないし」
「『は、はあ』」
 実のところ、二人ともシンジが何をする気なのかよく分かっていない。シンジが住人達ほど、あれこれ告げていないのに加えて、正義感の強い二人にはシンジの思想は難解なのだ。
 よく言えば真っ直ぐだが、悪く言えば愚直である。
 元々シンジが、彼女たちを魔界へ放り込む事を選んだのは、現状では指揮官として住人達が――特にさくら辺りが納得しないと言うのもあるが、今の力量では余裕がないと見たからだ。
 無論、シンジのごとく愉しむのも少し変わってはいるが、余裕が無いというのは全体を見る視野も狭くなると言う事を指している。
 何よりも、シンジ自身に戦闘の指揮を執る気がないのだ。シンジの役目はあくまでも前線に出るまでであって、そこでの指揮は然るべき者が執ればいい。指揮者となってしまえばもう、あくまで裏を好むシンジの構想からは外れるのだから。
「ところで米田のおっさんは?」
「米田支配人ならまだ寝込んでるわ…心当たりあるの?」
「内緒。でも俺は関係ないもの」
 事実だが事実ではない。もっとも米田とて、人形娘の一撃で昏倒したなどと口外されたくはあるまい。
 シンジもその事にはそれ以上触れず、
「刀は借りてきたね」
「ええ」
「それでいい。それがないと生きて帰れないから」
「『……』」
 ふんふん、とシンジは内心で頷いた――すなわち、まったく意味を分かっていないと。
 多分二人には、シンジが大仰に告げて煽ろうとしている程度にしか、思っていないのだろう。魔界の存在も、そしてその意味すらも、今の彼女たちには単語でしかないのに違いない。
 十五分ほどで、戸山町の長老邸に着いた。
「夜香か麗香いる?」
 この邸で、その名を呼び捨てにする事の意味を知らぬ者はいない。そして、唯一の例外もまた。
「お二人ともお休みになっておられます」
 との答えに、
「寝てるか…棺桶開けて起こすかな」
 物騒な事を言いだしたシンジに慌てて、
「あの、それはいくらなんでも――」
 顔色の変わった屈強なガードマンに軽く手をあげて、
「冗談だよ、自分で行くからいい。それとも案内してくれる?」
「ど、どこへ…」
「地下室」
 次の瞬間、あやめとかえでは信じられないものを目にする事になった。
 屈強な体つきであり、鍛え上げたと服の上からでも分かるような男四名が、シンジの一言に揃って蒼白になり、激しく首を振ったのである。
 この時になって漸く、自分達はとんでもない所に行こうとしているのではないかと、朧気ながら二人の本能に黄色信号が灯った。
 だが、
「起きたら言っといて。碇シンジが地下室借りたからって」
「は、はあ」
「じゃあね」
 シンジがあまりにも軽く言うせいで、一瞬点灯しかけた危険信号もすぐに消えてしまった。
 行くよ、と声を掛けてシンジが向かった先は、男女が棺に収まっている例の部屋であり、着くまでに藤枝姉妹はやや息が上がっていたが、シンジの方は何ともない。
 普段から海外を、それも都市部以外を歩き回っているシンジと、この街の一定区域内しか動かぬ二人との差だが、シンジが慣れていると言う事もある。
 二人は、収められている男女には気付かなかったらしい。来るまでの道のりは長かったが、この部屋自体は特に変わったところもなく、むしろ普通のカップルが暮らしていると部屋として十分通じる造りなのだ。
 入ってきたのとは反対側にもう一枚のドアがあった。
「この先は、こことはもう別の世界になる」
 その前に立ったシンジは、静かに二人を振り返った。
「空気の質もこことは微妙に違うけど、呼吸できない程じゃない。でもここと根本的に違うのは、生身の女二人が歩いて安全な所じゃないって事。切り札はあるけど、五分くらいは自分で歩けるようにしてね」
「ご、五分?」
 立ったばかりの赤子じゃあるまいし、五分というのはいくらなんでも子供扱いし過ぎる、と思ったかどうかは不明だが、
「そう、五分。そうだね、もし三十分以上うろうろして無事に帰ってこられたら、明日一日俺がお買い物に付き合うから」
「…デートって言う事?」
 確かに普通に考えればそうなる。
「俺はそこまで厚顔じゃない、たんなる会計係だ。二人がそこまで持ったら、眼球の入れ替え手術が必要な俺の目を祝して、何をどれだけ買っても俺が全部持つから」
 がしかし、シンジの思想は普通とやや異なっていたらしい。
 ふう、とあやめが息を一つ吐きだし、
「そこまで子供扱いされたんじゃ、女の名折れね。碇君、扉を開けて」
 何故女なのかは分からないが、その表情が引き締まり、わずかに刀の鯉口を切った姉にかえでも続いた。
「どこを歩いても、この扉の位置だけは絶対に分かるから。じゃ、ご武運を」
 扉の向こうに二人が吸い込まれてから、シンジはゆっくりと扉を閉めた。
 余りと言えば余りの扱いであり、やや肩を怒らせて二人が出かけたのも無理はなかったが、扉が閉まってからすっとフェンリルが姿を見せた。
「マスター」
「断る」
「まだ何も言ってないじゃない」
「賭にならないから断る」
「…見抜かれてたのね。それで?」
「十分」
「私と答えは同じ。やはりマスターとは気が合うようね」
 きゅっと絡ませてきた腕から抜け出し、
「後はモリガンが送ってくる。さっさと帰るぞ」
 フェンリルに抱き付かれたまま、シンジはすたすたと歩き出した。
 扉の向こうの情景など、もう既に分かり切っているらしかった。
 
 
 
 
 
(つづく)

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