妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百九話:大辞典の一ページ目と千ページ目の差
 
 
 
 
 
「い、今なんて言ったんだ?」
 リョウジは自分の耳が信じられず、思わず聞き返したが、
「結婚してもいい――プロポーズ受けるって言ったのよ」
 これが昨日自分を吊し、助けに来たシンジを容易く返り討ちにしてのけた娘と、同一人物の口から出た言葉だとは到底信じられない。
「それともあんた、結婚しようって言ったのは嘘だったの」
「そっ、そんな事はないさっ、あれは俺の本心だ」
「じゃ、もう少し喜びなさいよ。このあたしって言う、最高級の宝石を手に入れたんだからね」
「あ、ああそうだな。ミサト…ありがとう」
 どこかぎこちなくミサトの身体に腕を回しながら、リョウジはすっかり落ち着いたミサトに何かが引っかかっていた。
 無論それが、ミサトの変貌から来ているのは分かっている。
 ただ問題は――あれほど実弟本命だった娘が、なぜそれをあっさりと翻したか、だ。
 そう、元は自分と両想いの筈だったのに、姉のちょっかいをかわし続けるシンジに邪悪な欲望が鎌首をもたげ、ついには実弟が本命という家中の恥みたいな性癖を持つに至ったミサトが豹変するとは、普通ならば考えられない。
(まあいいさ。別に俺は利用価値なんてないんだから、ここは素直に喜んでおくさ)
 これでもし、立場が逆であったらこうは行かなかったかもしれない。
 つまり、大富豪のリョウジと結婚する事でミサトに莫大な利益が転がりこむが、本命の恋人のいるミサトがかたくなに拒んでいた、とか。もっとも、リョウジはフユノが全部をシンジに譲ると告げた事は知っているし、自分が途中であの世に発った後、ミサトが苦労しなければいいか程度でしかない。
 やや自虐的な呟きは、自分に言い聞かせるようなものであった。
 
 
 
 
 
「碇さん」
「何?」
「今、魔界とか言いました?」
「言った」
「魔界ってあの、人間じゃないくらいにきれいなお医者さんがいたり、三つ首の犬がうろうろしてる所ですかー?」
 少し首を傾げた訊いた織姫に、
「二割方は合ってる。しかし、地獄の番犬ケルベロスを模した犬なら、矢来町の裏路地でも時々ウロウロしてる。どんな悪ガキどもでも、あそこでだけは絶対に屯しないのはそのせいだ。でも、羊皮紙へのサインと引き替えに願いを叶えるメフィスト・フェレスにはまだお目に掛かった事はないよ」
「あ、あの碇さん」
「どしたのさくら」
「あの…ま、魔界って何なんですか?」
 怪訝な表情で訊ねたのはさくらだが、得心している娘は誰一人おらず、レニでさえシンジの顔を見つめている。
「百科事典の第千ページ目、と言えば分かりやすいかもしれない」
「『え?』」
「すみれ」
「は、はい?」
「はいじゃないよ、どういう意味さ」
「え…」
 すみれの顔に困惑の色が浮かび、一瞬怒りの色へと変わり掛けた。
 さっぱり意味不明な難問を解く事を強いられていると気付いたのだ。
 だがすぐに諦めた。
「わ、分かりませんわそんな事…」
 うむ、と頷いたシンジが頷き、これが他の者なら絶対に許さないが、今度少し大胆に迫って差し上げますわよと内心で呟く事で自分を納得させた。
「まず最初に言っておくと魔界ってのは本来、この人間界とは関係のない世界だ。そして、今回は君らの訓練とは意味合いが少し違う。もっと言えば、今の君らをそのまま送り込めば――」
 数秒考えてから、
「無事に帰ってこられるのはレニただ一人。それと満身創痍でソレッタ・織姫と真宮寺さくら。他は全員死亡する」
 傷だらけ――満身創痍というのは、シンジの場合は脅しでもシャレでもない。おまけに他は全員死亡と来た。
 シンジの言葉を聞いた途端蒼白になった娘達に、
「もっとも、二人とも帰ってきた途端に死亡する事になるが」
 追い討ちのような台詞を告げた。
「……」
 完全に室内は静まりかえり、もはや咳払い一つ無い。
 唯一あるのは乙女達の息づかいのみだが、それとて決して平常のものではない。
「シ、シンジ…」
 辛うじて声を絞り出したのは、ただ一人無事に帰ってこられると言われたレニであった。
「ん?」
「マ、マリアは…マリアは無理なの」
「無理」
 シンジは一言で切り捨てた。
「決して悪くはないんだけど、現時点では強さとか言うより単純に素材の勝負になる。その意味で言えばレニ、シビウの手によるおまえが一番確率は高いの」
「そ、そう…」
 そう返すのが精一杯であり、それ以上は言葉も出なかった。
 しかしシンジがここまで言う以上、シンジ自身はよほど魔界に詳しく、また行き来した事もあるはずなのだが、それに気付いた者は誰一人としていなかった。
 重い、あまりに重苦しい沈黙がその場を支配したところで、
「とは言っても、もちろん君らを殺す気なんてないし、死なれたりしたら俺のプランがご破算になる」
「『……』」
 プランって何と突っ込める娘が一人もいないのを確認してから、
「その話はもう少し後にするとして、さっき千頁目と言ったのはそう言う事。つまり、この人間界を一頁とすると、次の二頁ってのはこことほとんど変わらない異世界だ。そして、二頁目の世界と三頁目の世界もまたあまり差はない。でもそうやってどんどんページが進んでいくと、こことはかけ離れた世界になっていくんだ。辞書だって、数十頁あるいは数百頁くらいまでは『あ行』でしょ。だからある程度ページが進んでも語頭だよね。最初は愛とか愛情とかが庵とか餡になったりする位で。でも『ら行』とかになったら全然別物になった印象がある。この世界では帝国歌劇団が対降魔の前線にいるけど、違う世界ではアスカやレイ達が主役でエヴァに乗って、変な物体と戦っているかもしれない」
「じゃ、じゃあ元はこの人間界と変わらなかったんですか?」
「それは知らない、俺は神様じゃないんだから。ただ、元これ同じとするには、あの世界の住人は――と呼べるかは不明だけど、強すぎる。この人間界と重ならないのは幸いだね」
「『……』」
 再度沈黙が訪れたが、今度破ったのはアスカであった。
「そ、それでシンジ、なんであたし達をそんな所に行かせようとするの」
「君らが弱いから」          
 一言で片づけられてアスカの表情が強張ったが、
「そ、それは分かってるけど…」
「多分、分かってない」
「え?」
「弱い、と言うのは実力がないって意味じゃないよ」
「ち、違うんですか」
「違うよ。持っている能力がほとんど眠ってるって意味。分かりやすく言えばスパルタ教育。素質を開花させても駄目星人なのとは別なんだ」
 ニマッと笑ったシンジに、娘達は揃って背筋が寒くなったのだが、本人は気にした様子もなく、
「さっきも言ったけどね。仕上がった機体は今のみんなじゃ乗りこなせない。それどころかピクリとも動かないかあるいは乗っ取られるかどっちか。それでいいって言うなら無理にとは言わないけどね」
「お、おにいちゃん…」
「なに?」
 シンジの台詞はショックが強すぎたか、目にうっすらと涙の浮かんでいるアイリスだが、なんとか我慢して、
「アイリス達、みんな向こうで死んじゃうの?」
「ないない。それはないってさっきも言ったでしょ。話の続きだけど、君らには全員装身具をつけてもらう。それからさくら」
「は、はい」
「俺が渡したロケット外せ。あれじゃ役に立たん」
「…!」
 まだ青ざめてはいるが、さくらの表情に緊張が走った。
 ブースター、と言うよりそれ自体が霊力をまとめて注ぎ込んでくるようなシンジの代物だったが、効力を幾分薄めた物が訳に立たないと言われたのだ。
 具体的には分からないが、単純に言ってもロケットが与える物より相当増量された力を要求される事は間違いなく、やっとシンジの言葉に実感が伴ってきたのだ。
 つい今までは、恐怖はあっても文字通りの実感はあまりなかったのだ――思考能力にそこまでの余裕が無かったのである。
「わかりました」
 すっと襟元を開いたさくらに、
「いや、今でなくて今でなくて!」
「え…あ」
 植え付けられた服従システム――では無論ないのだが、反射神経で行動してしまってから、周囲の目に気付いた。
「ふーん、さくらってシンジに胸とか見せても平気なんだ」
「そそ、そ、そんなわけないでしょうっ!何言い出すんですかっ」
「じゃ、何で胸開けてるのよ。シンジには見慣れた光景よねえ」
 嫌味たっぷりの台詞に、
「いや、俺としてはアスカの裸の方が」
 シンジはとんでもない台詞で応じた。
 ボン!
「な、ななな、なんて事言うのよあんたはー!このバカバカー!!」
 真っ赤になって顔から火を噴いたアスカだが、
「誰かさんと誰かさんが、誰ぞの煽りで取っ組み合いの大喧嘩して、体中に傷出来てたから治したんだがそれがなにか」
 シンジの視線はアスカでもさくらでもなく、マユミに向いていた。
 山岸そうだよねえ、とその視線は嫌味を四割ほど含めて言っており、
「え、ええ…べ、別に碇さんがスケベで女好きで変態って事じゃないですよね」
 ピキッ。
 シンジの眉が、それもなぜか右眉の端だけが吊ったのを見て、
「べ、べつにもういいじゃないですか碇さん。だ、誰もそんな事思ってないですから」
「そうでーす碇さん。碇さんが誰にも興味ないのはもう分かっ…え?」
 自分達の間で目移り、あるいはおどおどして決められぬシンジなど吐き気を催させる存在でしかないが、だからと言って自分達が到底敵わぬ美女が愛人の位置にいるらしいとは言え、まったく気付いてくれない状況も大いに問題なのだ。
 ドクトルシビウ――医者としても、そして女としても至高の位置にいると言える女を愛人にしている、そう聞かされればシンジが自分達に対して、普通の男が見せるような反応を皆目見せないとしても納得は行く。
 そう、それが心地よいものではないにしても。
 だいたい、キスしたとは聞いたがそれ以上どうかは知らないし、本当に愛人ならもっと病院へ入り浸っても良いはずだと、少しばかり都合のいい方に解釈している乙女達なのだ。
 だからそこへ持ってきて、当事者の織姫による大墓穴であり、関係者から殺気すら含んだような視線が向けられたが、
「まあいいや、話を戻そう。いずれにせよ、向こうに行ってもらうのはここ一ヶ月以内になるかどうかだから、その間に心の準備だけはしといてね」
「なんか用意でもあるの?」
「ううん」
 曖昧に首を振って、
「あやめとかえでにまず行ってもらう。碇ミサトが加持ミサトになると、やはり妊婦になる可能性もあるし、妊婦を戦場に出すわけには行かないからあの二人に指揮執ってもらわないと」
「で、でも碇さん…」
 さくらの言いかけた言葉は途中で止まった。シンジがちらりと見たのである。
「記憶から抜けてるのかもしれないが、かえではともかくあやめは対降魔部隊の生き残りだ。碇ミサトでさえ、その中にはいなかった。そして碇ゲンドウと碇ユイもまた。その辺のOLを捕まえて指揮をさせるのとは訳が違う。分かったね」
「『はい…』」
 頷きはした娘達だが、なぜシンジが具体的に両親の名を出したのか、それに気付いている者は一人もいなかった。
 とまれ、かつてシンジが帝都を去り掛けたのはこの二人が原因であり、勿論そのことを忘れてはいないが、シンジがはっきりと告げた以上それは絶対であった。
 シンジが先陣に立つ、それは絶対の勝利を意味しているが、シンジがそれを嫌うのは全員にも分かっている。
 しかもそれが、そんなモンで目だつのは嫌だという、いかにもシンジらしい理由から来ていることもまた。
 これがその辺の浪人生ならたんなる強がりか粋がりで終わりなのだが、それが実力に裏打ちされたものであることは、住人達全員が知っている。だからこそ、確かに最初は痴漢だと追い出そうともしたが、今では惹かれる一因になっているのだが。
「ね、碇さん」
 この中では唯一、あやめ達の事を知らない織姫が呑気な声でシンジを呼んだ。
「何?」
「その装身具、誰が着けてくれるですか」
「誰?」
「まさか、自分達で着けろなんて言わないですね?」
「あのー、もしもし?」
 話がさっぱり見えないシンジだったが、次の瞬間否応なく知らされる事になった。
「私はもちろん碇さんに着けてもらうです。ほら、こことか」
 ふにゅっ。
(あら?)
 触った途端柔らかい感触が掌に満ちた――それとその先端で息づくわずかだが明らかに別のふくらみもまた。
 織姫がシンジの手を取って自分の胸に押しつけ、それだけで空気が一瞬にして尖ったのだから止せばいいのに、
「織姫…またブラジャーしてないでしょ」
「なんで分かるですか?」
 悪戯っぽい笑みを浮かべて訊いた織姫に、
「なんでってんなモン乳首を指で挟ん…あ、あれ?」
 着火終了。
「おにいちゃーん」
「碇さん、良かったですねえたっぷり堪能できて」
「そうですわね、もう思い残す事もない筈ですし」
「いますぐ送ってあげるわ」
 見事な連携台詞と共に、
「ウギャーッ!!」
 べしゃっと天井に貼り付いたシンジに、加わらなかったレニまで射るような視線を向けている。
 それを見ながら、ふうと息を一つ吐きだし、
「ねえ織姫さん」
「なんですか?」
「私が言うのもなんだけど、その…あまり露骨に挑発とかはしないほうが…」
「マユミさん、あなた分かってないですね」
「え?」
「挑発というのは自分に自信がない人がするでーす。私の場合は、碇さんの愛情を確認してるだけです」
「だ、だけってまたそんな――」
 言い終わらぬうちに、
「何が確認よっ。そんな事でしかシンジの注意引けないくせに」
「言いましたね。じゃ、私のおっぱいとあなたのおっぱいとどっちがいいか、碇さんに決めてもらうです」
「な、なんであたしがそんなこと…」
「ふふん、自信ないですね?じゃ、やっぱり私のが一番です」
「自信ない?じょっ、冗談じゃないわよやってや――」
「『ふぎゃ』」
 次の瞬間、アスカと織姫は揃って地に突っ伏していた。スパイダーマンみたいに天井へ貼り付いていたシンジが、剥がれて落ちてきたのだ。
「い、いったいじゃないのよもう」
「碇さんの愛情表現は過激です」
 スパン!
「『あうっ』」
「そう言う事は彼氏とやってちょうだい。ったく俺の品行方正なイメージに傷が…ふぎゅー!」
「シンジの上って暖かいよね、座るにはちょうどいいわ。織姫あんたも座る?」
「アスカにしてはいい事言うです。じゃ、私も座るです」
「品行方正、ね。碇さんの体温から感じる事にしますわ」
 さらりと大胆な事を言ってのけたすみれが加わり、
「アイリスもやるー」
「じゃ、じゃあ、あ、あたしもっ」
「まったく野蛮なんだから」
 ぼそっと呟いたレニと、
「……見てるだけで胸焼けしそうなのは何故かしら」
「きっとマルキ・ドなんとか侯爵の仲間なんだよみんな」
 冷ややかに見ているマユミに加えて、冷静に突っ込んでいるレイ以外は、全員がその上に乗っており、程なくして潰れたような声が聞こえてきた。
 
 
 
 
 
「シンジに抱かれに行ったのかい、お前は?」
 フユノの視線に射抜かれて、ミサトはびくっと身を震わせた。
「儂はお前の事だから、結婚にはそうとう揉めると思っていたのさ。それを随分とあっさり受けたものじゃないか。やっと願いが叶ったからかい?」
「そ、それは…」
「瞳は自分が言わなければ分からないと思っていたようだけど、うちのメイド達を甘く見るんじゃないよ。特にシンジ付きで入ってきたような者達は、女の臭いをさせて帰ってきたお前が、ころっと態度を変えて結婚を受ければすぐ事情に気付くわ。シンジはあっさり受けたのかい」
 小さく頷いたミサトに塵芥でも見るような視線を向けてから、
「こんな女など相手にせずとも、好きに出来る女など幾らでもいるであろうになぜわざわざ…」
「こんな女?俺の性癖に何かお小言でも?」
 穏やかだが、トゲを数十グラム含んだ口調と共に姿を見せたのは無論渦中の本人であった。
「シンジ」
「住人達の座布団と化すところだったんで抜け出してきた。屋敷がふと気になっていったらいないと言うから多分こっちだと思ってな。姉貴に話があるなら俺が聞くが」
「シンジ…完全に自分の意志だったのかい」
「もちろん」
 シンジがにこりと笑った瞬間、ミサトの背に電流のようなものが走った。
「どっかの誰かさんが、罪もない娘の一生を木偶人形のそれに変えるのを良しとしたのと同じくね。おかげさまで、レニは今でもイベントには参加してくれない有様だ」
「……」
「それすら記憶の彼方に忘却した者が、さっそく人の性癖におかしな言いがかりを付けようと言いだす。旧知の知り合いが帰ってきたが、その事など一言半句も俺は告げられていなかった事も含め、やはり記憶力に根本から問題があるようだ」
 すうっとシンジの手が下がる。
 ショック療法とか言い出す気だろうが、同じ笑みでも研ぎ澄まされた刃のような物を含んだそれは、女神館で住人達のお尻の下にいた時は決して見せる事のなかったものである。
「シ、シンジちょっと待って」
 慌ててミサトが止めた。
 いやあ、と照れたり誤魔化したりするどころではなく、導火線に点火してしまったらしい。おまけにマリアの名前まで出てきた。いくらミサトが膂力に自信があっても、このビルからフユノの死体を担いで出ていくなど冗談ではない。
「何か?」
「な、何かって別にそこまでしなくてもいいじゃない。弟に迫ったりした…私が悪かったんだから」
「あ、そーですかと受け入れたのは俺だ。ついでに俺は小学生でも中学生でもない。おねーさんがしてあげるからじっとしてればいいわと、身体を開いてる年齢でもない」
「そ、それは分かってるけど」
 処女膜を破られる代わりに、アヌスで大暴れした指を思い出したのか、ミサトの顔がうっすらと赤くなった。
 そのミサトの顔をまじまじと眺めてから、
「思い出したね?」
「だ、だってシンちゃんがあんなっ…」
「ナカだと指がちぎられそうだったし」
 奇妙な台詞を吐いてから、
「まあいい、思い出して身体が疼いてる姉貴見てたら片づける気なくした」
「べ、別にあたし疼いてなんかっ」
 ミサトの台詞は無視して、
「人に倫理を説くのも結構だが、何の罪もない俺の従妹の一生を狂わせた事忘れてやしないか?ついでに言っておくと、幸いにして処女の姉貴を抱いて一発で妊娠させるほど柔な付き合いはしてない」
 祖母に冷たい一瞥をくれると、
「じゃ、姉さん俺はこれで」
「う、うん」
 手を振りかけてから、
「ヤワじゃない…って事は簡単にイったりしない…シンジ!」
「え?」
「あんた一体何人の女で酒池肉林やってるのよっ」
「ち…違、俺はなんにもっ」
「待ちなさいっ」
「やだっ」
 ぴゅうっと逃げ出したシンジの後をミサトが追いかけていく。
「……」
 一人残されたフユノが苦しげに息を吐き出した時、わずかに気配がした。
「泪かい」
「はい」
 音も立てずに泪がひらりと背後に降り立った。ただし、レオタードではなくスーツ姿だが。
「御前様の言われた事、間違ってはいません。理由や状況はどうあれ、近親相姦など決して許される事ではありませんわ。まして、結婚を控えた身でなど言語道断です」
「瞳はどうしたんだい」
「地下牢に放り込んでおきました。同調して隠蔽工作など同罪ですわ」
「別にそこまでせぬでも良かろう、帰ったらすぐに出しておおき」
「御前様…」
「確かにお前の言うとおりじゃ。なれど、法を説くには人を見てせねばならぬ。お前が口にするならまだしも、レニの心さえ微塵も癒えておらぬ内に儂が口走れる事ではなかったわ」
「ですが、だからと言って……」
「良いのじゃ、分かっておる」
 フユノは軽く手を上げた。
「皆が姉弟の交わりを肯定するようでは、もはや倫理など消え失せたも同然――お前のような者が一人でもいてくれれば、儂にはそれでよい。それにミサトもあれで吹っ切れようし、あれの姿はまだ女にはなっておらぬ」
「…と言われますと?」
「シンジの責めは別の所にあったのであろうよ。シンジなら造作もない事じゃ」
 分析するような口調で言うと、
「さ、お前も戻って瞳を出しておやり。あれとて、結婚を控えている身であろう、顔に傷など付けてはならぬ」
「御前様がそう言われるのでしたら…では私はこれで」
「うむ」
 泪の姿が消えてから、フユノは深々と椅子に身を沈めた。
 実のところ、シンジが言うような倫理云々などフユノにとっては、大した事ではなかったのだ。
 碇財閥総帥として、常に人の事を思いやり誰一人として苦しめるような事は無かったなどと、きれい事を言う気は微塵もない。もう基礎は出来ていたものの、敵対してくる企業を根本から潰した事もあるし、それで数多の自殺者が出た事も分かっている。
 むしろミサトの身の安全の方が問題なのだ。
 シンジが連れてきた者達は、泪達を始め元傭兵の薫子だったりその弟子の遥佳だったりと、シンジの影響からか物騒な者が多い。
 無論、それはメイドとして働いている分には全く問題がないが、あれでシンジがミサトを抱いたなどと知れたらミサトの身が危ない。
 連れてきたのはシンジでも、シンジは普段屋敷にいないからあまり知らないが、フユノは彼女たちを見てそれをよく知っているのだ。
 その後、例えシンジから逆さ磔にされるのが分かっていたとしても、黙って見逃す可能性はあまりにも低い。
「淫乱な孫を持つと大変だね」
 冷やかすような声がして、フユノが顔を上げるとナオコが入ってきた。
「まったく、まさか本当に相手にするとは思ってもいなかったよ」
「でも、ミサトちゃんの走り方を見るとあれは、尻でも掘られたみたいだね。ま、シンジちゃんなら処女の姉を見ても飢えて飛びかかったりはしないさ」
 からからと笑ってから、
「で、あの子は一体何人経験があるんだい?」
 顔を寄せてきたと思ったら、真面目な顔で囁いた。ミサト同様、そっちの方が気になるらしい。
「………」
 フユノの頭痛は、そう簡単には収まってくれない運命らしかった。
 
 
 ミサトを振りきったシンジは、女神館の裏庭へ木刀を持って赴いた。住人達はいると面倒だから、全員遊びに行かせているし、カンナもマリアに言って連れ出させてある。
「夜香の家使えば早いんだけど、麗香の貞操が危ないから」
 妙な事を口にしたシンジは、木刀で地にがりがりとなにやら図面を描き始めた。それはかつてウェールズの地に描かれた物と何処か似ている――魔法陣らしい。
 十分ほどで完成したそれは、ウェールズでの物よりだいぶ規模は小さく、その上シンジの手には何もない。
 だがそんな物は必要ないのか、
「これで良し、と」
 頷いたシンジが円の中心に立った。
 木刀を手にしてぼんやり立つ事五分、円の中はそこだけ色を変え始めた。
 漆黒の闇が下から上がってきたのである。
「うん…げ!?」
 何に気が付いたのか、不意にシンジが慌てたように円の外へ出ようとした次の瞬間、巌のような手が伸びてその肩を掴んだ。
 手首が肘が、そして腕の付け根まで露わになり、それはゆっくりと人の形を取っていった。
「久しぶりだな、碇シンジよ」
「誰も呼んでないんだけどな…とりあえず元気そうで何よりだ――カズィクル=ベイ将軍」
 将軍と呼ばれた男はニヤリと笑った。
 
 
 
 
  
(つづく)

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