妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百二話:アスカの構成は幸せが九割と後悔が一割也
 
 
 
 
 
 女神館の中庭にあるプールは温水だから、年中長時間入っていられる。夏と言えども長い間泳いでいれば身体は冷えてくるから、長い時間の為には温水が欠かせない。
 長さは50メートルで、ついでに幅は25メートルもある。どこかのスイミングスクールみたいな施設だが、シャワーから眼球洗浄の装備からサウナから、その管理に一切人の手は要らないのだ。
 女だらけで、しかも普通の社会人がいないこの女神館には、ちょうどいい施設と言えるだろう。深夜になると自動的に水が抜かれて洗浄され、また綺麗な水が満たされるのだが、未だかつて一度たりとも水が溢れたりした事はない。
 持ち主と同様に、今日に至るまで完璧を誇ってきているのだ。
 そのプールに、マリアは仰向けに浮かんでいた。スイムキャップはかぶっていないから、ショートのブロンドがはらりと温水にばらけている。
 水面を漂うクラゲみたいに、ふわふわ浮かんでいたマリアが、ふと人の気配を感じて視線をわずかに動かすと、すみれが入ってくるのが見えた。
「すみれも泳ぎに?」
「ええ、マリアさんが来られるのが見えたから」
「そう…私?」
「え、ええ」
 軽く屈伸運動をしてから、プールの縁に腰を降ろすと、膝まで水につけた。
 言おうか言うまいか迷っているらしいすみれに、マリアの方も別段促そうとはしないから、広い空間にしばらく沈黙が漂った。
 しかしやがて思い切ったように、
「あ、あの…今朝はその、少し言い過ぎましたわ」
「今朝?別に気にしてないわ。それにしてもあなたがそんな事を言い出すなんて…シンジの影響かしら?」
 マリアの名前に、過剰反応した事であろう。
 しかしマリアは言葉通り、すみれが言ったことなど気にしてはいなかった。むしろ、あの場では放っておけば良かったかと思っている程だ。
 今の自分は別にシンジとどうこうは無いが、さくら達にしてみればどうしても気になるだろうと、マリアは冷静に判断していたのである。
「べっ、別にわたくしは…ま、まあそうですわ。い、碇さんはその…そ、尊敬出来る殿方ですから」
「それと好きだから、でしょう?」
 ぼっ、とすみれの顔が火を噴いたように赤くなり、マリアは内心で驚愕を隠せなかった。まさか、まさかすみれがここまでなるとは思っていなかったのである。
 ただし、
(私も、人の事は言えないわね)
 内心で僅かに苦笑した時、
「で、でもマリアさんだって随分と変わられたじゃありませんの。い、一体どうしたのかと思いましたわよ」
「すみれとは違うのよ」
「…え?」
「すみれの性格が丸くなったり可愛くなったりしたのは、片思いとは言え恋愛の影響から。私が変わったのは、どこかの馬鹿の悪影響、全然違うのよ」
「かっ、可愛いってわたくしがっ?」
「シンジが私の言葉で同意したのは、私だからではなくそれが外野だったからよ。でもすみれが過剰反応したのは焼き餅、要するに嫉妬からでしょう。以前のあなたからは間違っても出てこない言葉だったわ。でもね」
「で、でも?」
「私があんな変なのと関係ないとはもう言ったはずよ。それをあまりくどく疑っていると――私の気も変わるかもしれないわよ」
「どっ、どど、どういう事ですのそれっ」
 とんでもない言葉に、すみれの顔からは血の気が急速に退いた。
 もしこれで万一マリアがその気になったりしたら――。
 だがマリアはそれには答えようとはせず、ひょいと起きあがった。
「すみれ、賭をしてみない」
「賭ですって?」
「そう、このプールは片道50メートル、往復で百メートルあるわ。ここを二往復するのよ。もしもすれみが先に泳ぎ着いたら、私が何を考えてるか話すわ。どう、やってみる?」
「い、いいですわ。受けて立ちますわよ。でもその代わり、約束を違えたりはなさらないでしょうね」
「しないわよ。私はシンジとは違うもの」
「…え?」
「何でもないわ。用意はいいかしら?」
 でもって。
「はあっ、はあっ、はあっ…ど、どうして…」
 一斉に飛び込んだ筈だが、実はマリアが合図したのは自分だと言う事で、2テンポほど遅らせて飛び込んだのだ。
 にもかかわらず、マリアが抜き手を切って泳ぎ着いた時、すみれはまだ10メートルも後方であった。
 無論すみれの知るマリアは泳ぐ事など出来ず、だからこそストレートでは言いにくいのかとすみれは受けたのだ。
 大体、ぷかぷか浮いてるだけでも妙なのに、ましてこんな速さで泳げるなんて。
 驚愕を隠せず、唖然とした表情のすみれに、
「人間は進歩する生き物なのよ。もっとも、先祖は魚だったみたいだし、先祖帰りとでも言うのかしらね」
 うっすら笑うと、薄い布で包まれた見事な肢体から水滴を滴らせて歩いていく。水が自分から弾かれていくような肢体を呆然と見送りながら、マリアは以前水着すら持っていなかった事を、漸くすみれは思い出した。
「ま、まさかあれも…?」
 まだ息が戻らぬ口調で呟いた時、すでにマリアの姿は消えていた。
 
 
 
 
 
「あのさあシンジ」
「何?」
「つかぬ事訊くんだけど…」
「出来ればつく事訊いてほし――はうっ」
「訊いていいかしら?」
「は、はいどうぞ」
 いたたた、と腰をおさえたシンジに、
「シンジって、女に興味ってあるの?」
「は?」
「あ…じゃなくってその、普通の付き合いとかに興味あるのかなって」
「人並みにはあると思うよ」
「人並みねえ。でもあんたの人並みって、普通とは違うからな〜」
「勝手に断定しないでよ。それよりアスカって雪女だったか?」
「んな訳ないじゃないよ」
「あるんだな、これが」
 さくさく…さくさく。
 二人の足が雪を踏み分けていく――辺りは一面銀世界。
「昨日の晩天気予報を聞いた時、確かに今日は快晴って言ってたんだ。なんで俺とアスカで、雪慣らしをしながら歩かなきゃならないんだ」
「それはあんたが変だから」
「俺?変?」
「そーよ。だいたいあんたねえ、女の子からデートって言われた時、第一声に離せとか言う?あんたにはムードってモンがないんじゃないの」
「ヌードでしたら」
 スパン!
「誰がそんな事訊いてるかー!」
「し、しかしアスカ、ムードは誰でも持ってるってもんじゃないよ。それにアスカだって、最初はやだねって断ったじゃない」
「そ、それはその…さ、最初っからうんって言ったら軽いみたいじゃない」
「次は一度断ったらそれきりだよ」
 アスカの言葉など聞いてない台詞だったが、
「…分かったわよ」
 ここへ来て、アスカも何となくシンジの性格がわかりかけて来ている。
 すなわち、遠回しやカーブなど通じないその性格のことを。
 だから、
「ところでシンジ、あたしの事好き?」
「うん」
 と言われても、顔が赤くならないで済むのだ――ただし、幾分は変色しているが。
「嫌いなら管理物としては引き受けないし。だから別に気にすることないよ」
 ほらね、やっぱりこうなるんだから。
 分かり切ったパズルみたいではあるが、カシミヤのロングコートに身を包んだシンジと歩いていると、さっきからちらちらと視線が来るのにアスカは気づいていた。
 無論、道行く通行人達からのそれは、自分宛ではない。
 素材は悪くないし、やっぱり身長はあるものね。でもこれ、フェロモンでも持ってるのかしら。
 自分も惹かれてる事は棚に上げて考えた時、ふとアスカは気づいた。
「ちょっとシンジ、あんたカンナはどうするのよ」
「カンナって板を削る方じゃなくて、桐島の方?」
「そっちのカンナよ」
「どうするって、何をどうすんの」
「ま、まさかシンジ、病室から棺桶直行なんて思ってるんじゃないでしょうね」
 ぽかっ。
「あたっ!?」
「アスカと一緒にすんな。桐島は始末できないから、安心すんだな」
 何となく投げやりに聞こえたから、
「何で?」
「だから言ったでしょ、桐島の身体触ったわけじゃないって」
「……」
「無理?」
「あーいい、いいわ」
 アスカは手を振って、
「とりあえず考える。ちょっと待ってて」
 アイコンタクト、というのは恋人同士において必須事項である。すなわち、ウインクし合ってるだけで通じると言う、一種不気味なそれが。
 まして断片とは言えヒントがあるのに、分からなかったりしたらやはり彼女の面目は立たない。恋人同士たるものそれくらいは、と成立も、いや告白すらしていないのにもかかわらず、アスカの脳裏には既に明確なヴィジョンが描かれているらしかった。
 がしかし。
「ところでちょっと訊きたいんだけど」
「何よ〜」
 脳をフル回転させているから、返事など上の空である。
「アスカって白色に憧憬でもあるの?」
「白色彗星〜?ないわよそんなもん」
「じゃ、出すな」
 手先がふっと暖かくなったと知ったのは二秒後であり、それの収納先に気づいたのは四秒後の事であった――すなわち、シンジのポケットの中へと。
 ぽう。
「な、な、何をっ!?」
「何をって、手袋もしないでウロチョロしてたら、手が凍傷になるぞ。とりあえず収納しておく。嫌なら止めるけど」
「ま、まあ寒いし特別に入れ…っ!」
 手がシンジのコートに入れられ、あまつさえきゅっと握られた途端、アスカの顔は真っ赤になっていた。
「どした?顔赤いよ」
「な、何でもないわ大丈夫よっ」
「ならいいけど」
(しっかし…何つーか手慣れてるわね〜。今までに女の千人斬りでもしてきたんじゃないのまったく)
 すっとポケットに入れてそのまま繋ぐ、その動作が実にスムーズだったため、絶対自分が初めてじゃないと確信したが、余計な事を突っ込むと絶対出されそうだし、
(ちゃ〜んす)
 内心でにやっと笑うと、そっと力を入れて握り返した。
(…やっぱり)
 ちらっと横目で見ると、まったく気にも留めていないのが見て取れ、彼女になったら絶対とっちめてやるとこの時点で決定した。
 しかしながら、元々人間はいくつもの事が出来るようにはなっていない。聖徳太子ですら十人の声を聞き分けるのがやっとだったのに、ましてこの惣流・アスカ・ラングレーに手繋ぎと思考が一緒に出来るわけもない。
 まして相手はシンジである――ある意味公然の片思い相手。
「浮かんだ?」
 不意に訊かれた時にもぷるぷると首を振るのが精一杯であった。
「桐島が俺に突っかかってきた時、俺は別に実害なんて与えてない。単にマリアの一件で勘違いしてジェラシーの炎燃やしただけだ」
「ジェ、ジェラシー?」
「あるいは友情とか言うもっとくさい物かも知れない。何にしても、そんな筋肉女に襲われる筋合いはないな…何がおかしい?」
 不意にアスカがくすっと笑ったのだ。
「シンジってさ、結局なんだかんだ言っても優しいのよね」
「誰が?」
「あんた」
「俺?」
「そう、俺」
「何でよ」
 聞いててイライラする会話ではあるが、本人達に取っては別に平気らしい。世に言うバカップルとはまた違うが、襲撃したくなる要素は十分持ち合わせている。
「カンナも結局、手も足も出なかったんでしょ?あたし達の時だって、奥義とか言って全然本気なんか出してなかったじゃない」
「で?」
「シンジあの時さ…別にあたし達殺しても構わなかったんでしょ?」
 繋がった手は暖かいが、周りの空気がそこだけ妙に冷たくなったような気がした。
 
 
 
 
 
「え?碇さんがアスカとデートに出かけたですって?」
「ええ、妙にアスカがご機嫌でしたし――碇さんはその辺をウロウロって言ってましたけど」
 ぴき、と数人の眉が上がり…すぐ元に戻った。
「ま、まあ一度くらいは好きにさせておきますわ。わたくしはこんな雪の日になど出歩きたくありませんもの」
「すみれさんの言う通りですねー。こんな日に碇さんを連れ出すなんて、きっと脳にカエルが住んでるに決まってます」
 いくらアスカでも脳内にカエルは飼ってないだろうが、それでもさくら達の表情が穏やかなのにマユミは気づいた。
 実はどんな反応をするかと、ちょっといけない想像もしていたものの、予想外の反応によほど高価な物でも貰ったのかと首を傾げたが、少なくとも金額面においては大幅に予想がずれている事は知らなかった。
 しかも…よく見ると三人とも、妙に顔が緩んでいるではないか。
(碇さん、ダイヤでも贈ったのかしら)
 金額的妄想が膨らんでいるマユミだが、いいな、とかそこはかとなく考えている自分に気づいてぶるぶると首を振った途端、
「『……』」
 道ばたの変な人を見る視線で見られている事に気づき、
「な、なな、何でもないですっ」
 慌てて出ていこうとした直後、ぴょんと飛び上がった。
 どうやらテーブルの脚に、小指を思い切りぶつけたらしい。
 
 
 
 
 
「別に構わなかったよ」
 残酷な答えは速く、そしてあっさりとやってきた。
「でも、何で殺っちゃわなかったのよ」
 連れ立っている男女二人、片手はポケットの中で繋がれている会話だとは誰も思うまい。
「一応生娘の乳揉んじゃったし。あれがホムンクルスかアンドロイドだったら、別なんだけどね」
「ホムンクルス?」
「その定義も知らないで、東京学園に籍など置けない筈だが」
「あ、ああ知ってるわよ、人造の生命体でしょ」
「そう。それが相手だったなら別だが、友人の貞操の危機に際して、幾分興奮気味になった住人達を冥府へ送るわけにもいかない」
「じゃ、カンナは?カンナの場合はマリア絡みだったから?ねえそうなの?」
 止めなさいよこのバカ、そう言ってるもう一人の自分に、確かにアスカは気づいていた。そして今、自分が醜い顔をしているに違いないことにもまた。
「…ごめん」
 ぎゅっと唇を噛んでから一言謝ったアスカは、繋いでいた手を離し、ポケットから手を取りだして歩き出した。
 いや、違う。
 歩き出したのはアスカの脳内のみで、実際の手はシンジにそっとおさえられたままであった。
「無論マリアだ。だが必ずしもそうって事でもないよ」
「…どういう事?」
「自分のことを気にした友人が、最も相手にしたくない奴を襲って当然の結果――返り討ちに遭った。多少の傷ならばまだしも、それが死んだとなればどうなる?そのまま平然と、ここはやっぱり住みやすいわねと留まるマリアでは決してない。もっとも、その程度の娘なら最初から要らないけどね」
「じゃあ…あたし達の時と同じってこと?」
「相手が誰であっても、俺にとっては変わらないよ。すくなくとも、それが管理物という同条件のもとであれば、ね」
 アスカの反応にも、別に気負った様子も怒った様子もなく、シンジは淡々と告げた。
「か、管理物って言うのがちょっと気になるけど…」
 少しくぐもったような声は、シンジの肩の辺りで聞こえた。
 アスカが顔を腕に押しつけたのだ。
(あー、コートに涎が)
 実際につくかどうかは別として、シンジが考えたのはそんな事であり、やはりムードより自前で持っているヌードの方が合っているらしい。
 立ち止まってると寒いから歩き続け、五分ほど経ったところで、
「もう落ち着いた?」
「あ、あたしは最初っから落ち着いてるわよ失礼ね」
「はいはい」
「あーっ、何よそれあんた疑ってるでしょっ」
「別にそんな事は――いででで」
 繋がってる手をぎゅっと捕まれ、繋がなきゃ良かったと離そうとしたら――離れない。
「逃がさないわよ、シンジ」
 アスカは蜘蛛女みたいな笑みを見せて囁いた。
「よく考えたら、手を握ってたらあんた捕まえてられるんだしね〜」
「あっそ。じゃあいい、このまま帰る」
 本当にくるりと回れ右したから慌てて、
「じょ、冗談よ冗談、もうしないからさ」
「本当にしない?」
「しないわよ。ほら、細かい事は気にしない気にしない」
「なーんか怪しいんだよなあ」
 確かに、今まで幾度と無く攻撃――全裸のままの回し蹴りを含む――されてきていれば、無理もないぼやきだが、
「で、アスカは何が欲しいの?」 
 まあいいか、と諦めたように訊いた。
「あたし?うーんと…」
 なにやら考え込んでいたが、
「ううん、見物でいいわ」
「見物?」
「そ、ウィンドウショッピングってやつ。知ってるでしょ?」
「あれだ、よく手が出ない代物ばかりを、指をくわえながら見物して歩くツアーだ。どう考えても店側に対する当てつけだな」
「あんたねえ、あんたには夢ってモンとかないわけ?お金貯めて買うんだとか、彼氏が出来たら買ってもらうんだとか、見る方だって色々考えてんのよ」
「大抵は叶わないけどね。大体貯金はともかく、彼氏が云々なんて他力本願だ。どんなに綺麗な女でも、他人と付き合うのは相手の承諾がいるんだから。ま、そんなケースはほとんどが一年位して、結局自分で買ってるのが相場だな」
「あんたって冷めてるって言うか…結構やな奴ね〜」
「こら」
「何よ?」
「じゃ、なんであんたはそのやな奴と手なんか繋いでんのさ」
「それはそれ、これはこれ。ま、まあその…あたしがいずれ治してあげるから安心しなさいよねっ」
「何を?」
「あんたの性格」
「他人に治してもらわなきゃならんほど重病じゃない。だいたい、ウチの住人達こそすぐ人を襲う癖は直した方がいいと思うぞ」
(だから他人じゃない位置にいくって言ってんのよっ)
 ピンポイントはあっさり外れたが、自分の気などまったく知られてもいないから、文句を言うわけにも行かず、
「あ、あのちょっと?」
「さっさと行くわよっ」
 シンジのコートのポケット内で手を繋いだまま、ずんずん歩き出したアスカに、やっぱり手は離した方が良かったかなと、シンジはぼんやり考えていた。
 その後、手を繋いだままあちこち引っ張り回されたシンジだが、アスカは言葉通り見物するだけであった。それも店の外から。
 試着でもすれば、とシンジは勧めたが、アスカは全部いいわよと断った。
 アスカにしてみれば、試着室にでも入れば無論一人だし、当然ながら手は離れる。今日は寒空だから、手を繋いでいても汗ばむ事はないし、その意味では良い天気となったものの、一旦離すともう繋げないような気がしていたのだ。
 しかし、アスカは気づいていなかった。
 元々ムードで繋いだのではなく、アスカの手が冷気に晒されているのを見てシンジが自分のポケットに突っ込んだのであり、シンジは一度離れたらもう放っておく、と言うタイプの性格ではないことを。
 手を繋いでもいい?とアスカが訊けば、駄目とは言わなかったはずだ。
 無論、この気温限定ではあるが。
 その意味では、アスカはやや勿体なかったと言えよう。
 とは言え、最初は繋がった手が大きいとか暖かいとか、そんな事にばかり気が行って歩き方も妙だったアスカだが、三十分もすると慣れてきて、次はあっちで次はこっちでと次々にシンジを引っ張っていった。
 シンジの方も、嫌な顔も面倒な色も見せずに、雪の上をさくさくと歩いていく。
 しかし、時間などあっという間に過ぎていくものである――ましてそれが、楽しい時間なら尚更だ。
 今日は寒いから半日だよ、と出がけにシンジから言われており、ちらっと時計を見るともう無情にも十二時が近づいてきている。
 そのアスカに気がついたのか、
「アスカ、何か食べにいく?」
「シンジに任せるわ。あたしはどこでもいいから」
「お腹は空いてる?」
「そんなでもないわ。食べるより甘い方がいいわね」
「じゃ、そうしよう」
 で。
「シンジ…何よこれは」
「パフェ」
「この刺さってる角は?」
「コーンアイス。さっさと食べないと溶けるよ」
「た、食べられるわけないじゃないのよっ」
 アスカが言うのもごもっともで、あるホテルのレストランに入ったシンジは、ウェイターになにやら囁いた。
「なんて言ったの?」
「手を繋いだまま座っていいかって」
「繋いでないじゃないのよ」
「あれ?」
 首を傾げたシンジだったが、それが大嘘だったのは程なくして明らかになった。
 ウェイトレスが水を持ってきただけですぐ下がってしまい、
「ちょっと、ここメニューはどうなってるのよ」
「ここはお任せだから」
「じゃ、あそこでオーダー取ってるのは何よ」
「気のせいだ。アスカも勉強しすぎだな」
 言い返してやろうとしたアスカの目に、なにやら妙な物体が映った。ワゴンに乗ったそれが最初は信じられず、しかも段々近づいて来るのを見てまさかと思ったら、やっぱり自分の所に来た。
 お待たせ致しました、と置かれたそれは、文字通りボールに入った巨大なパフェであり、
「な、なにこれ…」
 漸く訊いたのは十秒後の事であった。
 アスカは知らなかったが、シンジが例のやつを一つ、と囁いたのはこのレストランで開発された巨大パフェであり、しかもそれは通常のメニューには載っていないのだ。一人が特大を頼んだとして、ざっとそれの八人分あるそれは、もうパフェと言うよりはパフェの材料を為す物達の雑居房みたいな感じだが、無論適当に詰め込まれているのではない。
 ざくっと刺さっているコーンアイスを見ながら、
「これ…あんたも手伝うんでしょうね」
「少しならね」
 しかし、結局シンジは一口も食べる事はなかった。
 甘い物は別腹、どころかどっかの惑星にある氷漬けになった自分の身体にでも転移してるような食べっぷりで、アスカは八割まで片づけた。
 ただ、残りの二割にどうしても手が出ない。
「ちょ、ちょっとシンジあんたも少しは手伝っ…う〜」
 ひらひらと白旗を上げているアスカに、
「獅子は我が子を谷に突き落とす。その深さはおよそ――」
「エンジンでしょ〜、そんなの分かってるわよー」
 思考能力まで麻痺してきたらしい。
「違う、千尋だ。ただし、大抵谷底からはこっそり道があるんだ」
「だ、だからなに…んむっ!?」
「成り代わって食べるわけには行かないけど、お手伝いしよう」
 ごきゅっと飲み込んだところでスプーンにアイスを乗せ、
「はい、あーん」
「そ、そんなシンジ…」
 恥ずかしいからと言おうとしたら、
「言っとくけど、頼んだ物を残したら罰があたるからね」
 別にアスカが頼んだわけではないが、シンジのこの台詞と、やや奥まった場所に座っていたことも幸いした。
「口開けて」
「ん…」
 小さく開けた口にスプーンが挿入され、
「全部入るね?」
「シ、シンジがそう言うなら…た、食べてあげるわよ」
 アスカ再起動。
「負けてらんないのよっ、あんた達にー!!」
 と、パフェを見て内心で叫んだかどうかは不明だが、とにかくアスカは食べ方に手伝いはあったものの量は一人で全部片づけた。
「シンジ、ごちそうさま」
 店を出た時、アスカの顔が妙に緩んでいたのは、決して大量の甘い物に起因してはいなかったろう。
「はい、どう致しまして。じゃ、行こ」
 差し出された手に、
「…え?」
「また冷えるでしょ?それとも冷たいのがお好き?」
「う、ううん、そ、そんな事はちっとも全然ないのよっ」
 差し出された手をきゅっと握ると、またコートの中へ仕舞い込まれたが、
(つまり手を離しても大丈夫だったんじゃない…しまったー!!)
 これは迂闊の大失敗だと気づいたがもう遅く、
「じゃ、帰ろっか」
 半日と言われてしまったし、本当は水着でもと思っていたのだが、この上言い出す事は出来ず、でも手を繋いだ上食べさせてもらったし、と満足が九割と後悔が一割の微妙な表情のまま家路に就いた。
 人間、幸せと幸運が一度には来ない――特にデートに於いては――と言う良い例ではあったが、結局幸の部分が大きかったせいか、ふにゃっと緩んだその表情は晩まで直らず、一体何を買ってもらったんだと問いつめられても、
「別に〜。なーんにもないわよ、ねえシンジ〜」
 絶対嘘と断定出来る口調だが、
「うん。まったく買ってない。中にも入ってないし」
 と、こっちはしごくあっさりした口調で告げられてしまった。
 買ってもらったわけではなさそうだが、それにしては随分緩みきっているし、まさかキスを!?と首をがくがく揺すったら、少し真顔で、いきなりそんな事せがむほど淫乱じゃないわよと言われ、却って心当たりのある問いつめた方が赤くなってしまった。
(ま、何にも買ってないしキスもしてないしね。至極健康な道行きだ)
 うんうんと騒ぎを見ながら一人頷いていたシンジだったが、
(おにいちゃん…次はアイリスの番だからね。ちょこんとお膝に座るだけじゃ、アイリス足りないんだから)
 良く知る者が見れば分かったであろう、ちょっと危険な光を目元に湛えて、シンジをじーっと見つめる少女がいる事にまでは気がついていなかった。
 なおその晩、一番先にすやすやと寝息を立て、なおかつ翌朝一番ご機嫌な顔で起きて来たのはアスカであった。
 夢の中でも小指をぶつけたマユミに対し、こっちはデートの続きが夢の中まで持続していたらしい。
 自己補完出来るとは、片想い中の乙女というのもなかなか便利な存在だ
 だがそれも長続きはしなかった。
 アスカが目覚めた時、館内にシンジの姿は無かったのである。
 
 
         
 
 
(つづく)

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