妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百三話:ヌード×拉致×危険な助っ人(前編)
 
 
 
 
 
「あの、シンジさん一つ訊いていいですか?」
「何?」
 機体工事の進捗状況が記されている書類を眺めているシンジに、マヤが遠慮がちに声を掛けた。無論、リツコがいないのは確認済みだ。
「この間のホワイトデーなんですけど」
「はい」
「カード、全然使われなかったですよね。どうしてなんですか?」
 先だってのホワイトデーに、住人達は使った金額に対して恐ろしい程不釣り合いな金額を使ったお返しを受けた。しかしその金額は、何故かリツコのカードからは一銭も使われていなかったのだ。
 そのおかげでマヤも多少とばっちりを食ったので、リツコがいる所では訊けなかったのである。
「何でって、何となく。義理だから義理の範疇でいいんだけど、中には手作りもあったしね。係数では数百倍の筈だから、十分だと思ったんだけど足りなかった?」
 ぶるぶるぶる。
 マヤは激しく首を振った。まさか、シンジがこんな事をあっさり口にするとは思わなかったのだ。百円なら数万だが、まさか百円と言う事は無いだろうし、二千円も使えば数十万まで行く。
 ところで、ブランド物の時計、と言う事でアスカが一番高いように見えるが、実際の最高金額はアイリスであった。
 バレンタインのお返しに下着というのは、変態親父の象徴なのだが、本人が喜々として受け取ったから問題はないだろう。贈答の関係もまた、常に需要と供給で成り立っているのだから。
 こきゅ、とカップを空にしてから、シンジが思い出したように言った。
「言っとくけど、ウチからも一銭だって出てないからね」
「え?」
「だから、祖母や姉のお金を使ったわけじゃないって言ったの」
「じ、じゃあどこから?」
「お仕事。ここしばらくしてなかったし、久しぶりに少しやって来たの。ま、金で愛人を作るおっさんもおっさんだけど、金の切れ目が縁の切れ目で、奥さんにちくって報奨金をもらった挙げ句、縁を切った女も女だ」
「と言うと、二人のどちらかが自殺でも?」
「いいや、どうせなら両方とも首吊ってくれれば良かったんだけどね。元愛人の裏切りを知った男が激昂して、やくざ者に女を輪姦させたんだ。無論女は男を許せないが、男の方にしたって元は自分に非があるとは言え、金がなくなっただけで不満を持って縁を切った挙げ句、ご丁寧に家庭を壊していった女を許せなかった」
「不潔です…それでどうなったんですか?」
「迷惑なのは第三者だな。二人が密会の場に使っていたマンションを借りた人がいたんだが、夜な夜な男と女の霊が掴み合いの喧嘩をするからって、魔道省の方に依頼が持ち込まれたんだよ。完璧を期すならあっちに勝る所はないからね。で、俺がのこのこ出かけていって、生き霊二つを処分したの」
「そ、それでっ?」
「女の方は三ヶ月、男の方は四ヶ月は床から起きられない。自業自得だな。もっとも俺の方は管理人からもお礼もらったし、両方から所場代ふんだくってきたし、めでたしめでたし、と」
「しょ、所場代って…良かったんですか?」
「勿論」
 シンジは軽く頷いて、
「これが単なるポスターガイコツの範疇なら別だけど、目に見える形にまでなっていたから、管理人は住人から訴えられるわそしたら管理人からそっちに請求がいくわで、訴えさせなかっただけでも御の字なんだから。訴訟のその辺は、マヤちゃん知らなかったの?」
「い、いえっ、ちゃんと覚えてますよちゃんとっ」
 ポスターガイコツ?とマヤが密かに首を傾げたところへ、
「ならいいけど。ところで、義理でも今までくれた事無かったよね?」
「勿論です。だってずーっとミサ…」
 当然という感じの口調だったが、台詞は途中で止まった。
「い、いえあのシンジさんの身を案じて、ミサトさんがおかしな物を近づけないようにと…」
「そうそう。マヤちゃんもいい事言うじゃないの」
 妙に人懐っこそうな笑みを浮かべてはいるが、この姉が自分の後ろでどんな顔をしていたのかなどと、シンジには考えるまでもなかった。
「あたしが解禁にしたら、それこそ山盛りでシンちゃんに来るでしょ。もし危険物でも仕込まれたら事だし、大事な弟を危険な目に遭わせるわけには行かなかったのよン」
 物は言い様だが、
「ま、所詮は義理だしね…って、見知らぬ相手からもらう謂われはないぞ。だいたい見知らぬ相手に生ものなんか送るか、普通?」
 姉が姉なら弟も弟であり、それを聞いた途端ニマっとミサトは笑った。
 それはもう――文字通り無垢な天使のごとき笑みで。
 
 
 
 
 
 マリアとカンナが帰って来なければ良かったのかもしれない。
 いや、違う。別に来ても良かったのだ。
 ただし、知っていればシンジは既にここを離れていた可能性が高い。それが離れられなくなったのは、自分が消えるとマリアに累が及ぶらしい事が分かったのと、当の本人から迷惑掛けたくなければ消えるなと言われたからだ。
 目下この女神館で、もっともシンジの性格を分かっているのはマリアであり、マリアの事を掌に取るがごとく、分かり切っているのはシンジなのだ。
 と言う事はつまり――シンジがさっさと結界を元に戻していれば、なんの問題も無かったのである。
 幾何学の本を眺めていたせいで、シンジの寝付きは普段よりも幾分遅かったくせに、何故か目覚めは普段より早かった。全教科と実技で満点を取ったのに、名無しのせいで落ちたというある意味かなり屈辱的な事を思い出したせいかもしれない。
 剣舞みたいに霊刀を振っているさくらを見下ろしてから、シンジは新聞を取りに降りた。外食にするか作るかを考えるのは、大抵この時間である。
 シンジにはよく分からないが、バーゲンのチラシとかを見るのが大好きな娘達がいるから、迂闊にチラシの始末をするわけには行かない。よいしょと全部手に抱えて、玄関に帰りついた途端、後ろでスキール音が聞こえた。
「キキキー…って、誰だ朝っぱらから人んちで騒いでるのは…ん?」
 一発劫火でもかましてやろうかと後ろを向いたシンジだが、次の瞬間その目が点になった。
 真っ白な太股が気前よく見え、しかもそれが一気に迫ってきたのである。
「碇はんっ!」
「キャーッ!?」
 ふともも…おんなのあし。
 人間としてキケンだな、と一瞬哲学の世界に入り込んだから、事態に気がつくまで数秒掛かった。
「紅蘭…李紅蘭?」
 わーっと泣き付かれたシンジだが、脳裏を過ぎったのはチラシが破れると住人達に怒られそうだな、と言う事であり、
「どうしたの?」
 と訊いたのはそれより後である。
「相田はんが、相田はんが浮気したんやー!!」
 なんでそれでウチに来るんだ、と冷静に突っ込んでいるもう一人の碇シンジをまあまあと宥めて、
「浮気ってケンスケが?」
「そや、もうウチの事なんか嫌いになったんや!もう、もうウチの事なんてー!」
 んなバカな、と言いたくなったのを何とか寸前で抑えた。ケンスケの性格は無論シンジも知っている。悪い奴ではないが、なにせ町中でも迷彩服を着るほどの軍事オタクであり、そのマニアぶりと熱中ぶりが災いして、未だに彼女がいない。降魔戦の時、ケンスケに守られて以来二人がいい仲になったらしいのは知っているが、もしそれで付き合いだしたりなどしていたら決して浮気などはすまい。
 とはいえ、現にシンジにしがみついて泣きじゃくっている娘がいることだし――。
 と、そこまで考えてシンジはふっと気がついた。
 この場面を住人達に見られたらどうなるか。
「逆さ吊りだ」
「え…?」
「何でもない。とりあえず話聞くからここ出よう、ね」
 ぴゅうっとそのまま抱えて連れ出したのだが、門を出たところでトヨタのRAV4が止まっているのに気がついた。しかもそれは、シンジが見ても分かるほどあちこち改造がしてあり、こんなのが公道を走ったら一発で検挙間違いなさそうに思えた。
「誰だこんな危険物作るのは」
「ウチのです」
「は?」
「せやから、ウチが作った言うたんです。ほな碇はん、乗ってください」
 なぜか、急に生き生きしだしたような気がしたが、女ってそういうモンだろうとシンジがおとなしく乗ると、車はタイヤをきしませて急発進し、シンジはさっきの騒音源を知った。
 信号をえらい勢いで曲がってから、
「ところで紅蘭、何処行くの?」
「駆け落ち」
「ふーん」
 やるねえ、と納得してから、
「ケンスケの拉致に俺も付き合…何?」
 にゅ、と伸びた人差し指は自分を指している。
「だから俺が付き合うんでしょ」
「ウチ決めたんです。相田はんがウチを裏切ったから、ウチも碇はんと浮気してやるって。碇はん…ウチと駆け落ちしてな」
「そうそう、だから俺が…なんですと?」
 やっと脳が事態を把握し、じたばたと降りようとしたが、ドアのロックは解除される気配など微塵もない。
「…なんで?」
 ガチャガチャと往生際の悪いシンジに、
「碇はん、ドアは開きまへん」
 紅蘭は静かな声で告げた。
「碇はんには悪いけど、少し改造させてもろたんです。碇はんがその気になるまでそのドアは――」
「分かった」
 すっとシンジは手を上げた。
 紅蘭の双眸に、狂気にも似たものを見て取ったのである。
 女の嫉妬の暴走など、元からシンジには無縁の存在であり、ここを出る事などシンジにとってはごく容易い事であった。
 しかし、どうせ語弊か誤解が原因でこうなったに違いなく、自分が強硬手段に出た場合、紅蘭がどうするか読めなかったため、しばらくは付き合う事にしたのだ。
 とりあえず甲州街道でも飛ばせばすっきりするだろうと、
「紅蘭、次の交差点右に曲がって」
 指示してから、ふと気づいた。
「ところで紅蘭って、いつ免許取ったの?」
「心で祈りながらハンドルを切る、これ以外には何も必要ありまへん」
「…何ですとー!!」
 やはりここは強硬手段を取るべきだったかと、シンジの心は激しく揺れ動いた。
 
 
 
 
 
「ふにゃー」
 夢の中にもデートの続きは現れ、ご機嫌な顔で降りていったアスカだが、そこで見たのは深刻な表情の住人達であった。
「おはよっ…って、みんなどうしたのよ」
「碇さんが…さらわれたのよ」
「ふーん、シンジが拉致ねえ…何ですってっ!」
 眠気は一瞬にして吹っ飛んだ。
「シンジが拉致ってそれどういう事よっ」
「あ、あたしは見ていなかったから…ただすみれさんがご存じみたいで――」
「すみれどういう事よっ」
「ど、どういう事ってわたくしが目覚めて階下へ降りていったら、急ブレーキの音が聞こえて、その少し後に碇さんが妙な女に攫われていったのよ。わたくしが見たのはそれだけですわよ」
「何で止めなかったのよ!見ていたのはあんただけじゃないの」
 確かにそれはそうだが、それはあまりにも無理があり、ましてすみれにとっては最も言われたくない言葉であった。
「なんで止めなかったですって?あなたこそ自分の部屋で高鼾のまま熟睡していたくせに、よくもそんな事が言えたものですわねっ!そんな事を言うならあなたが止めればよろしかったじゃありませんのっ」
「何よっ、自分の無能ぶりを棚に上げてあたしを非難しようってのっ」
「棚に上げてるのはあなたの方でしょっ、自分はその場に居もしなかったくせにっ」
 後数秒この応酬を放っておいたら、平手が飛び交うか掴み合いにまでなったかも知れない。二人とも自分の言葉が無茶と知りながら、止める余裕はないほど感情的になっていたのだ。
 しかし、最初からこの場には居合わせず、激昂して口論する二人におろおろしてもいない娘がいた。
「止めなさい、二人とも」
 濡れた髪を拭きながら入ってきたマリアが、二人の間に割って入った。
「アスカも無茶な事言うものではないわ。それにすみれも、そのまま反応しないの」
「だ、だってマリアっ――」
「すみれとさくら、それにマユミと織姫を加えてもいいわ」
「…え?」
「そのメンバーでアスカ、あなたシンジを止めてみる?」
「と、止めるってそんな事出来るわけないじゃない。敵いっこないわよ」
「その通りね。じゃ、女一人がシンジを拉致できるの?」
「そ、それは…」
「そうでしょう。それにすみれも、ムキになるものではないわ。お互いに感情が高ぶったら、取り返しがつかなくなるかもしれないでしょう。もっとも、二人とも余計な事に気を回し過ぎよ」
「よ、余計ですって?マリアさん、あなたは心配じゃないんですの」
「すみれ、私がアスカに言った事を聞いてなかったようね」
 マリアがちらりと向けた一瞥に、すみれの背が刹那硬直した。シンジとはまた異質だが、マリアの気も研ぎ澄まされたそれを持っており、他の追随を許さぬものなのだ。
「あなた達が束になってもシンジを止められない。それが分かっているのに、どうしてどこかの女一人がシンジを拉致出来ると思うの」
「じゃ、じゃあ碇さんはどうして…」
 マリアはそれに直接は答えず、マユミに話を振った。
「マユミはどう思う?」
「わ、私に訊かれても…でも、私もやっぱり、碇さんの拉致は無理みたいな気がするんだけど…」
 そうね、とマリアが頷いたところへ、
「おにいちゃんがさらわれたのっ?」
 血相を変えたアイリスとレニが入ってきた。
「大丈夫よ、心配いらないから」
 マリアは頷いてみせたが、
「でも、問題は別の所にあるのかもしれないわ」
「『べ、別って?』」
「私ならシンジを拉致出来るかも知れないわ――ただし、両手両足をもがれた状態のシンジならね。その上、フェンリルさんはいないという条件が付くわ。つまり、普通の状態でシンジの拉致など出来るわけがないのよ。それなのに出来たと言うのは、おそらく逆だと思われるわ」
「逆?そ、それどういう事ですのっ」
 思わず身を乗り出したすみれに、
「そう、認知とかね」
 マリアはあっさりと、とんでもない台詞を口にした。
「認知〜!?」
「そう。シンジが認知を迫られて、とりあえず連れ出したと考える方が、シンジが拉致されたと考えるよりはるかに高確率よ」
「で、でもっ、い、碇さんはそんな人じゃ…」
「道に迷って訊きに来たなら、焦って連れ出す事はない。また伊達か酔狂で拉致させたのだとしたら、これは理屈に合わないわ。暇な時ならまだしも、シンジはあなた達の管理人なんだもの。そうでしょう?」
「そ、それはそうですけど…」
「それに、認知を迫ったのだとしたら、ここへ来た理由も分かるわ」
「ど、どうして?」
「シンジの事をよく知っていれば、本邸へ直接赴くのは自殺行為だと分かる筈よ。もしもこれがミサトさんに知られたら――」
 確かにそれを知ったミサトがどんな反応をするかなど、彼女たちは想像もしたくなかった。
「とはいえ、まだ事態が確定したわけではないし、もしかしたらシンジが何らかの理由でわざわざついていった可能性もあるわ。とりあえず、ここは待ちましょう。ただし御前様にはお知らせしない方が良さそうね」
「何でですか?」
「なんとなく、よ。正確に言えば、多分シンジの意志が働いているから、御前様やミサトさんには知られたくないような気がするの。ミサトさんの耳に入れば、すぐに大規模な捜索の手を広げるわ。もしもそれで、シンジに怒られたりしたら傍迷惑だもの」
 マリアの言葉に一応納得はしたものの、黙って眺めていた織姫を始め幾人かは、やはりシンジの事をよく分かっていると複雑な気分になったのも事実である。
 しかしそれを一気に覆したのは、
「認知って子供のことだよね?お、おにいちゃん子供できちゃったのっ?」
 真顔で訊いたアイリスの、この一言であった。
 
 
 
 
 
「まずいなあ…どうしよっかなあ」
 言葉の内容とは反対に、呑気な口調でシンジが呟いたのは、首都高速四号新宿線上であった。
 このまま走れば環状線に抜ける、と言うよりそうせざるを得ない状況となっていた。
 甲州街道に抜けたのはいいが、走っていた白バイに見とがめられ、慌てて逃走を開始したのだ。
 と言うより紅蘭は、
「失敗は成功の母や。あのお巡りはんも、一度失敗したら上手い乗り方覚えるやろ」
 などと危険な言葉を口にし、何故かドクロの描かれたボタンに手を伸ばした為、慌ててシンジが止めたのだ。
 しかし結局は、追いつかれる寸前シンジが地中から巨大な火龍を立ち上らせ、路側帯でスリップさせたから、大して変わらなかったかも知れない。
 そのまま高速へ逃げ込んだのだが、早速パトカーの目に留まってしまい、現在パトカー五台程を引き連れての行列中なのだ。
 携帯は持ってるから、今一報入れればそれで済む話だ。何もわざわざ、追い回される必要もない。
 ただ、妙に腕のいい運転のせいと、完全閉鎖になっていない道路のおかげで、追いつかれることもなくひょいひょいと逃げ回れており、
「碇はん、掴まってててっ」
 言われるまま掴まった途端、片輪走行に移って思い切り車体が斜めになったのには、さすがのシンジも度肝を抜かれたが。
 ちらりと横を見ると、妙に目の据わった紅蘭がほとんど後ろなど見ずにステアリングを切っており、それは大した事ではないにせよ、どういう訳か中国服のままなため、全開の窓から入る風で太股まで思い切りめくれており、シンジはなんとなく揉めた原因がその辺にありそうな気もした。
 そう、見て欲しい紅蘭と形から入るケンスケがそれを断ったとか。
 と言っても、何時までもパトカーなど従えて走る訳にも行かず、さてどうしようかと首を捻った時、携帯が鳴った。
「もしもし〜?」
 間延びした声で出た途端、
「若、黒木です。今どこにおられますか」
 黒木の緊迫した声が伝わってきた。
「何処ってドライブ中だけど。首都高四号線を快適に走行中だ」
「違法改造車両に二人組の男女が乗って走行中と、首都高の交機が一斉にそちらに向かってます。閉鎖の可能性がありますから、すぐに降りて下さい。一般道に抜け次第お迎えに上がりますから」
 しかしそれを聞いて、シンジの表情が変わった。
 にやあ、と笑ったのである。
 東に大河があればフェンリルの巨躯で飛び越え、西に手続きの面倒な国境があれば強行突破し、あまつさえ降魔の大軍すらフェンリルの背で単騎駆け抜けてきたシンジである。間違っても、こんな所でおとなしく捕まったり、ましてやフユノかミサトを呼び出すなどとは思考に上りもしない。
「わ、若?」
「相変わらず情報網は密だな。でもいいよ黒木、大変だから出てこないでも。こっちはこっちで何とかするから。じゃあね」
 黒木の反応も待たずに電話を切ったシンジだったが、ある事に気づいた。
 そう、隣に居るのはフェンリルでもシビウでも、そして麗香か夜香でもないのだ。
 ごく普通の、一般人の娘なのだ。
「当てはめる式が違う、再計算だ」
 呟いた二秒後、携帯を取って何処かに掛けた。
 眠そうな声だがすぐに出た。
「誰よ〜」
「碇シンジです」
「イカです?そんないかがわしい名前の知り合いはいない。切るぞ」
「…俺っていかがわしいの?」
「何だ君か。何の用だ?」
「この間逃走する時には助けるって言ったよね。よろしく」
「そんな事を言った記憶はないが。で、場所は」
「もうじき首都高環状線に抜ける。ヘリで来てくれる?」
「経費が掛かるから断る。カメラはどうした」
「Nシステム共々全部機能停止中。風圧で内部から圧壊させてるから」
「今眠い。従ってそっちまで行くのは面倒だから、湾岸線に抜けてアクアラインへ入るんだ。そしたら何とかなる」
「本当に大丈夫?」
 電話の相手は、先の卒業式でシンジにとんでもない服を送りつけた黒瓜堂であり、約定を違える相手でもないが、時として自分の眠気が優先されるため、シンジが念を押すと、
「多分」
 何とかなるなる、と言ってあげるシンジとは、根本的にどこかが違うらしい。
 常人が聞いたら頼む先を変えようと即座に電話を切る筈だが、じゃよろしく、とだけ言ってシンジは電話を切った。
 ここまで来ていても、オーバーにはしたくないシンジに取って、房総から引っ張り出すのが一番なのだ。
 もし来なかったら、店舗まで押し掛けて、巨大な炎に包んでやれば済む事である。
「紅蘭、ヘルパーさんが来てくれるから、湾岸線に抜けてくれる?」
「はいな」
 相変わらず後ろを見ない紅蘭に代わって、シンジがちらっと後ろを見るとその数は更に増えている。
 はらり、とシンジの手が開いた。
 前方にカメラを確認したのである。
 次の瞬間、右側にあった監視カメラが根本からぽきりと折れ、それでもお行儀良く真下に倒れ込み、後方では道をふさぐように広がった劫火のバリケードに、パトカーが一斉に急ブレーキを掛けて間に合わず、ガシャガシャとぶつかり合うのを確認してから、シンジは軽く手を上げて伸びをした。
「ねえ紅蘭」
「何です?」
「まだ、気は済まない?」
 訊いた瞬間、シンジは珍しく後悔した。
 紅蘭の目から大粒の涙がぽろぽろと落ちてきたのだ。
「碇はんも全然ウチなんか見ないし…ウチには…ウチにはちっとも魅力なんて無いんやー!!」
 シンジが見ない、他人のくせにそんな事を言ったら、好きなのにそれすら伝えられぬ住人達に袋だたきの目に遭う事は間違いないだろうが、とまれ今回の痴話喧嘩もどきがやはりその辺にあった事をシンジは知った。
 
 
 ところでその頃、管理人が消えた女神館の方でも動きは起きていた。
「シンジ、シンジはいるかっ」
 血相を変えた迷彩服が玄関先に飛び込んできて、シンジの仲裁と違ってお互いに謝っていないから、まだ機嫌の悪いアスカとすみれにたちまち捕縛され、吊し上げられていたのである。
「なによこの迷彩服は。あんた、ここに殴り込み掛けるなんていい度胸じゃない」
「ち、違う俺はシンジの知り合いなんだ、本当だよっ」
「シンジの?本当でしょうね」
「ほ、本当だっ」
 いきなり吊され、身の危険を感じて必死に頷くのを見たアスカが、
「しょ、しょうがないわね。じゃ、じゃあシンジに確認するから待ってなさい」
 と、妙に喜々として電話に手を伸ばした途端、
「わたくしが碇さんにお訊きしますわよ、あなたは引っ込んでいらっしゃい」
「あ、あたしがするのよ、あんたこそそいつの番でもしてなさいよっ」
「碇さんには私がするでーす」
「だめえ、おにいちゃんにはアイリスがするんだからあ」
 収集が付かなくなりそうなそこへ、軽くため息をついて、
「誰がしても同じでしょう、まったくあなた達は」
 いや、同じではないのだが、取り合ってる受話器を没収し、
「あなたがするのが一番いいわ。レニ、悪いけどお願いね」
「う、うん」
 鳶、ではないが、横から持って行かれてしまい、お互いのせいにして睨み合ってた娘達だが、マリアの一瞥に会ってぷいっとそっぽを向いた。
 
 
 
 
 
(つづく)

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