妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百一話:成績とおねだりの因果関係
 
 
 
 
 
「ん?」
 ほらお皿並べて、と朝食を手伝わせていたシンジが、妙な事に気づいた。
 若干名が、ご機嫌良さそうに見えるのだ。
(気のせいかな)
 女心と山の天気と言えば、変わりやすく予測が不可能な物の代表格なだけに、気のせいかとも思ったが、やはり違うようだ。
「アイリス」
「なあに、おにいちゃん?」
 期限良さそうなまず一人を捕まえてみると、やはり普段とはどこか違って見える。
「いや大した用事じゃないんだけど、いい夢でも見たの?」
「夢?ううん、昨日は見てないよ。どうして?」
「なんか機嫌良さそうに見えるんから。気のせい?」
「ふふふーん♪」
「……」
 異物でも見るような視線を向けたシンジに、
「あ、あのねっ、今日で学校はおしまいなのっ」
「学校が終わり――今日は終業式だっけ。だから機嫌がいいの?」
「あのね、ちょっと違うの」
「ふうん」
 追ってきてね、とそんな顔をしているアイリスだが、シンジは追わなかった。
 ほっといて、
「お皿は全員分あるね。じゃ、食べ…ん?」
 ぎゅっと上着の裾を引っ張られた。
「なに?」
「も〜、アイリスが訊いてほしいの分かってるくせにー!」
 ぷう、と口を尖らせたアイリスだが、こんな時、つまり聞いて欲しい光線を全身から発してる時というのは、かなり聞きたくないものである。
 好き嫌いは別として、何となくいやなのだ。
「はいはい。で、何?」
「あ、あのね…アイリスいい成績取ったらおにいちゃんにご褒美もらうのっ」
「…あ?」
 ?マークが付く辺りは、まだシンジも人間の領域にいると言えよう。これだけで分かったら、もうアイリスの領域である。
「山岸」
「はい?」
「通訳」
「え、えーとその…」
 さくらとすみれ、そして織姫まで似たような事を考えていると、シンジの勘は告げていた。
「聞いたままよ。別に問題はないでしょう」
 口を挟んだマリアは、一瞬だけ視界の端にシンジを捉えた。
「いやそう言う事じゃなくて」
「何が嫌なの」
「いや、だからさ…何で俺が?」
「管理人だからよ。普段ろくな事しないんだから、そのくらいはしても呪詛は来ないでしょ」
「ちょ、ちょっとマリアさ――」
 いくら何でもそれは言い過ぎと言おうとしたが、言いかけた途端、
「さくら」
「す、すみません…」
 あんた邪魔、とシンジの口調は告げており、さくらもそれ以上続ける事は出来なかった。
「分かった。じゃ、マリアもそう言ってることだし、そうしよう」
「…マリアさんが賛同されれば、すぐに動かれるんですのね」
 すみれの声にわずかなトゲが混じり、マリアの表情が一瞬動いた。
 しまったと思ったのである。
 しかしシンジは、
「当たり前でしょ、分かり切った事聞くな」
「ふ、ふうん、やっぱりそうで――」
「山岸とレイが賛同しないし」
「『え?』」
 これには他の娘達も?を顔に貼り付けたが、
「アイリスと同じ事考えてる人、手を上げて」
 手はそろそろと、それでも三本上がり、
「ほーら見ろ」
「あ、あのシンジ?」
「分かんない?つまり、織姫やすみれが賛同しても利害が一致してる、つまり与党の絶対多数による採決みたいなもんだ。でもマリアは関係ないでしょ」
「マ、マユミとレイが賛同しないとか言ったのはそのことだったの?」
「…何だと思ったの?」
 逆に聞き返され、
「う、ううん、な、何でもないわっ」
「そ、そう、なんでもないですっ」
 慌ててぷるぷると娘達は首を振った。
 と、そこへ、
「よっ、朝から元気そうじゃない」
 ぷはーっと、バーボンの入った瓶を手に現れたのは、ミサトであった。
「姉貴どこから…って、まだ結界直してなかったか」
「そ、直ってないのよ〜ん」
 べちゃあ、とシンジに頬をすり寄せた途端、シンジの表情にほんの少し変化があったが、気づいた者はいなかった。
 ミサトの吐息には、アルコール臭がまったくなかったのだ。
(酔ってない?)
 しかし、外見はどう見ても酔っぱらいであり、
「で、小娘共。シンちゃんにたかってるんだって〜?このあたしをさしおいて、いーい度胸してるじゃないの」
 スパン!
「あたっ!?」
「朝っぱらから、俺の性癖疑われるような台詞を口にしないでくれ。ほら、ご飯なんだから帰った帰った」
「やだね〜」
 にたあ、と笑うと、今度は強く腕を巻き付け、ぐにゅっと乳房を押しつける。
 ぴき、と数人の娘の表情が変わるのに気づき、
「シンちゃんもあたしの事愛してるもんね〜。やっぱり女は爆乳が一番よ〜」
「いや、一応倫理と言うものが――ふぎゅっ」
「シャーラップ。愛があれば、そんなのはぬあーんでもないのよ。ドゥユウアンダスタン?」
「は、はい」
(駄目だこりゃ)
 諦めると同時に、ちっと舌打ちしたのは、薫子達の成果が耳に入ったと気づいたからであり、そしてその通りであった。
 なおもシンジに身体を押しつけながら、
「まーね、あたしも鬼じゃないし、お子さま達に貸してあげない事もないわよん。ただし」
「『た、ただし?』」
「シンちゃんより成績良かったらね。ま、シンちゃんコメントはあまり良くないし、大したハードルじゃないでしょ」
「そ、それなら…ねえ?」
「そ、そうね、ミサト、約束は違えないわよね」
「アスカの胸があたしよりちっちゃいままなのと同じくらい確実よ」
「くっ」
 唇を噛んだが、いかんせん十八に手が届く頃になっても、本来純血ならとっくにクリアしていそうなサイズにも、混血が足をひっぱったせいなのかは不明だが、まだ達しておらず、ぼよぼよと揺れているこの小癪なFに、猛追撃を掛けられる自信はない。
 しかし、手は妙なところからやってきた。
「別に、でかけりゃいいってもんじゃないと思うぞ」
「…何ですって」
「だから乳のサイズは評価のサイズに比例しないっての」
「う、裏切ったのねっ、あんたもあたしを裏切ったのねっ」
 よよよと嘘泣きしてしがみついてこようとするのに、一発かましたところへ、
「碇君てさあ」
「あ?」
「たしか、今年の入試は一番、それも霊能科をトップで通過したんだよねえ」
「あっ、馬鹿レイ余計なことをっ」
 慌ててミサトが封じようとしたがもう遅く、
「そ、それって絶対お話にならないじゃありませんのっ」
「ミサトさんずるいですっ」
「ちっ、余計なことをっ」
 舌打ちし、どうやって妨害しようかと脳をフル回転させ始めたが、
「ん?」
 弟の表情に気がついた。
 その弟に、耳元へ口を寄せて囁かれ、
「やん、耳くすぐったい」
 くねくねと身もだえして見せ、娘達の顔に危険なマークを浮かばせたが、程なくしてかさかさと退散していった。
「……」
「あ、あの碇さん」
「何」
「い、今なんて言われたんですか?」
「ご飯が冷えたって言ったんだ。まったく、冷たくなっちゃったじゃないか」
 シンジらしい、と妙に得心し、
「大丈夫ですわよ、碇さん。碇さんが作られたものなら、少しくらい冷えても十分美味しいままですわ」
 さりげなくポイント増――に見えたが、
「あっそ」
 と言っただけで、別に嬉しそうな顔も見せない。おそらく、料理魂みたいな物があるのかもしれない。
 妙にあっさりと館を退去したミサトだが、門の外へ出ると片手にバーボンの瓶を手にしたまま、もう片方の手で懐から何かを取りだした。
 
 
「そうかい、林原悠里の結婚式だったのかい。して、シンジは無事に女神館へ戻ったのかい?」
「はい、先ほどお帰りになりました」
「そうか、ご苦労だったね」
「いえ、とんでもございません。ですが御前様…よろしかったのでしょうか?」
「何がじゃ?」
「あの、私などではなくミサト様か御前様がご同行された方が、よろしかったのではなかったのでしょうか」
「出来ぬ事よ。シンジは、式場にミサトなど決して伴わぬからの」
「はい?」
「某と某が結婚しますので式には是非、そう言われてシンジがのこのこ出かける事などまずあり得ぬ。今回シンジが出向いたのも、花嫁の林原悠里に頼み込まれたからであろうよ。母親の林原恵の除霊の時、確かシンジはミスをしでかした筈じゃ。そんな式にミサトなど連れて行って、人目も憚らず私と結婚するのよね、などと触れ回られてみよ、儂の孫は近親相姦志願者と言う事になってしまうわ」
「は、はあ」
 確かに説得力がたっぷりあって頷いたのだが、
「ですが御前様が行かれれば問題はないかと…」
「そうも行かぬ」
 フユノはなぜか寂しげに笑った。
 理由はすぐに知れた。
「儂が――碇フユノが行けば事は大事になる。儂がその辺の老婆であれば…何も問題は無かったかも知れぬがの」
「もっ、申しわけございませんっ」
 遥佳は反射的に頭を下げていた。無論、叱られると思ったからではない。
 確かに碇フユノが行く以上、単身お忍びでと言うわけには行くまい。どうしたって事は大事になる。
 それを望まぬフユノ、と言うより一番それを好まぬのはシンジであろう。そして、そんな事など分かり切っている祖母なのだ。
 激務に追われて多忙の中、少しでもシンジと過ごしたい、というのはフユノの思いであろう。ましてそれが自分の後継と決めており、そのくせあちこち出歩いてなかなか捕まらないとなればなおさらの事だ。
 しかし、自分が出る事でシンジが好まぬ事態を招くならば、決してフユノは出ていきはすまい。
 碇財閥と言えば、世界に名を知られた複合企業体の中心であり、ましてその頂点に君臨するとなれば、文字通りその一言が数万の人命を左右する。そのフユノであっても、常に優先は孫のシンジなのだ。
「儂も引退して、日向で茶など啜っている身分になれば、また変わるかもしれぬ。儂はそれまではただ、待っているつもりじゃ」
「は、はい…」
 とそこへ、
「遥佳、あんた結婚式行ったんだって?それもシンちゃんと」
「ミサト様」
「あたしを差し置いてどういうつもりよこら」
「あ、あの若様が私に、今来いすぐ来いやれ来いと言われまして、行ったら若様に叱られました」
「シンちゃんに?あんた何かしたの?」
「い、いえあの…ミサト様にご迷惑を掛けるなと」
「あたしに?ふうーん、あたしの事心配してくれたんだ」
 シンジに怒られたと言った途端危険な気を帯びたミサトだったが、遥佳の言葉にその顔がにへらあ、と溶けた。
「それとミサト様、もしよろしかったらこれを」
「ん?これってブーケじゃない、どうしたのよ」
「それが、運良く私の手元に飛んできましたのでミサト様にと思って」
「ブーケってさ、ゲットした女の子が次に結婚できるのよね」
「普通はそうなっております」
「アイワナゲッチュー、それ貰った。あんたなかなか気が利くじゃない」
「あ、ありがとうございます」
 妙に浮き浮きしてるミサトに遥佳が内心で首を捻った時、黙って見ていたフユノが口を開いた。
「ミサトよ、誰と結婚する気じゃ」
「決まってるじゃない、シンちゃ…はっ?」
「ミ、ミサト様…」
「お前にはやはり、一度精神改造が必要じゃな」
「あたし?健康そのものだからパス、じゃあね〜」
 ぴゅうっと逃げ出してきたのだが、その後で薫子達がリョウジと俊夫を捕獲したと聞かされたのだ。
 
 
 無論黒幕とその魂胆は分かっている。
 ブーケを眺めながら、
「あたしがおとなしく人妻になって、あいつの下で喘いでいるなんて思うんじゃないわよ。シンジ、あんたの姉さんは子猫ちゃんじゃないからねー」
 笑顔のまま物騒な台詞を口にして、ミサトはゆっくりと歩き出した。
 
 
「ところで碇君さ」
「何?」
「名前無いから落ちたけど――」
「どうした?」
「ううん、なんでもないよ。落ちはしたけど、入試の成績は満点だったんだよね?」
「一応」
 視界の片隅にマリアを捉えたレイだが、その表情は変わっていなかった。それは興味がないそれではなく、既に知っているとレイは見たのだ。
(やっぱり、色々話したりしてるんだ)
 しかしそんな事は表情に毛ほども見せずに、
「通知票とかさ、見せて貰っていい?」
「やだ」
「どーして」
「欠席ばっかりだから。お前なんかに見せたら、碇君より休んでないよ、とか言ってずる休みしそうだから」
「もう、そんな事しないってば。するわけないじゃない」
 ボクをなんだと思ってるんだとぶつぶつ言ってるレイに、
「ほんとにしないね。じゃ、見せてあげる」
「オッケー」
 いつもながら現金なレイであり、
「マリア、俺の部屋行って持ってきて」
「…場所なんか知らないわよ」
「ベッドの下に宝箱がある。その中に入ってるから持ってきて。鍵はかかってないから」
「変態的な写真集とか入ってないで…な、何でもないわっ」
  一瞬向いた皆の視線を避けるように、慌ててマリアは立ち上がった。
「シンジがおかしな事吹き込むから…今度吊してやるわ」
 確かに以前、妙な事を吹き込んだのはシンジだが、今口にしたのはマリアである。つい乗ってしまう、或いはボケをかましてしまう、シンジといるとなぜかそれが普通に出てきてしまうのだ。この辺りはシンジの人間性が放つ特質と言えるかも知れない。
 で。
 持ってこられた通知票だったが、
「嫌味かおのれの存在はー!!」
「ウギャーッ」
 わらわらと寄ってきて見たくせに、非の打ち所のない、確かにある意味では嫌味みたいな成績に嫉妬した小娘達にシンジは縛られ、あまつさえ上から吊されてしまった。
 
 
 
 
 
「ちゃんと髪ぐらい乾かしてから来なさい」
 この日、ごく当たり前の事を怒られた東京学園の生徒は、いずれも女神館に住所がある者達であった。
 無論、朝から風呂に浸かっていて濡れたわけではない。
「ちょ、ちょっとシンジ大丈夫っ」
 さすがにマリアが窓に駆け寄ったのは、全員が食堂から出ていった後であったが、マリアが見下ろすと既にシンジの姿は無かった。
「!?」
 マリアが一瞬顔色を変えたのは、まさか墜落でもしたのではと心配したのだ。
 だが次の瞬間、違う意味でその表情は変わった。
「『きゃああっ』」
 プールの方から悲鳴が、それも一つや二つではなく多数の悲鳴が聞こえてきたのである。
「みんなっ!?」
 咄嗟に銃を手にして走り出そうとしたところへ、
「マリアってば何処行くの?」
「シ、シンジ?今プールの方から悲鳴が――」
「そりゃまあ、いきなり入水すればねえ。いくら温水とは言え服のままだし」
「…い、今なんて?」
「自慢もしてないのに、しかも勝手に見といて襲ってくるような子には、たっぷりとお仕置きを〜」
「あ、あなたの仕業だったの…で、でもどうやって?」
「二秒でロープを抜けて、二十秒で入り口に罠を仕掛ける。全員が出ると同時に重量で反応して、強烈な風がプールまで運んでいくように」
「全員分の?でも私は出なかったわよ」
「マリアの分は抜いてある」
「え?」
「多分俺を助けに窓から顔出すんじゃないかなー、と思ったから」
「な、何をバカな事をっ」
 顔を幾分赤くしてそっぽを向いたマリアだが、ふと妙な事に気が付いた。
「今変な事言わなかった?」
「変な事?」
「全員分の重量とか、どうして知ってるの」
「管理人だから。別に部屋に侵入して日記覗いたわけじゃないよ」
「そ、そんな事は思ってないけど…」
 無論マリアは、シンジとリツコの関係を知らない。と言うよりシンジに関して、特にその交友関係においては、知らない事が多すぎるのだ。
 だから、それ以上訊くのは止めた。自分の知らない範疇だからと判断したのだ。
「それにしてもマリア」
「何?」
「ベッドの下にイン・ポルノなんて良く覚えてたね」
「シンジの腕の中で聞いたのよ」
「…そっか…」
 わずかに表情の曇ったシンジに、
「シンジ、私は――」
 言いかけた途端、
「碇さんの馬鹿ーっ!!」
「おにいちゃんのいじわるっ!!」
「絶対復讐してやるからねっ!!!」
 飛んできた金切り声に、二人は一瞬顔を見合わせたが、先に笑ったのはマリアであった。
「テロの報復対象になっちゃったようね。巻き込まれるのは困るから、私はこれで失礼するわ」
 誰もいなくなった食堂で、皿洗い機に水を満たしながら、シンジは一つ重たげにため息をついたが、こんなシンジを見たら屋敷のメイド達は度肝を抜かれるに違いない。
 
 
 
 
 
「碇さん、なぜ私まであんな目に遭うんですか」
 一応無関係だったマユミの言う事はもっともだったが、
「止めないから。よって処罰」
 刀を持って抗議するも秒と経たずに撃沈され、レイに至っては張本人と言う事で、問答無用で氷の彫像にされてしまった。
 これを見て、さすがに他の住人達も抗議の手は止まったが、
「通知票。はいさっさと出す」
 にゅうと伸びた手に、慌てて取り出した。
「さくらとアイリスは少し上がったね。すみれは相変わらず優秀だな。で、織姫は…この正の字が間違ったようなこれは?」
「私がいた所は、棒を一本ずつ引いて表現するでーす。それは要するに四と言う事ですね」
「じゃ、ほとんどが四なのね…国語と社会科に問題があるが、これは次に上げてもらうとして。山岸とレイのは、と」
 勝手に通知票を開けて、ふんふんと頷いた。
 レニは、と言わないのは、無いのを知っているからだ。欠席が多く、成績を判断するのには不十分だと、既に聞かされていたのである。
 全員のに目を通してから、
「別に俺のに嫉妬して暴れるほどでもないけどねえ…あれ、アスカは?」
「さっきまで一緒でしたけど…」
「ま、いいや。で、ご褒美とか言ったのは誰だっけ」
「はーい」
「アイリスと?」
「あ、あのあたしも」「わ、わたくしもよろしいですわよね、碇さん?」「私もして欲しい事あるでーす」
「ん、いいですよ。頑張ったみたいだし、願いを叶えてあげる」
 しかし、こんな事をシンジに強いているのが発覚したら、死人が出る事はほぼ間違いないのだが、問題は当事者達にまったくその自覚がないことだ。
「それでアイリスは何して欲しいの?」
「え、えーとアイリスね…」
 なにやら頬を染めたアイリスに、シンジは嫌な予感がしたのだが、それはぴたりと当たっていた。
(アイリス、おにいちゃんと一緒にお風呂はいるの)
「…駄目」
「えー!やだやだ、アイリスおにいちゃんといっ――もごっ」
 おにいちゃんとお風呂に、などと聞かれた日には、とりあえず生きて日の出を迎える自信がシンジにはない。
「分かった分かった、考えとくから」
「絶対だからねっ」
 あい、と頷きはしたものの、なんで物欲じゃないんだと、内心でシンジはぶつぶつと呟いた。
 それに引き替え、他の三人のおねだりは物だったから、シンジはほっとした。
 ただ、さくらと織姫はともかく、すみれのまで至極安価な物だったので、なぜこんなのをと密かに首を傾げたのだが、贈り主に意味がある、と言う事までは分からない。
 いや、今の時点では無理であろう。
 興味が無く、ソースも無ければ知るはずもない。ミサトは断じて教えないし、マリアはマリアで、自分が告げるのは余計なお世話だと思ってるから言わない。マユミやレイもまた然りである。
 結果として、シンジの思考にはいつまでもそれが上がって来ないのだが。
 三人と街へ買い物に出かけて戻ってきたシンジは、ぶらりとアスカの部屋を訪れた。
「アスカいる?」
「誰〜?」
「あ、俺だけど」
「ちょ、ちょっと待ってっ」
 何故かどたばたと物音がし、
「お客さんなら帰るよ」
 彼氏でもいるかなと、素っ頓狂な事をシンジが考えたところへ、
「ち、違うわよっ。お、お待たせっ」
 妙に、はあはあ言ってるアスカが顔を出した。
「…何かお取り込み中だったの?」
「な、何でもないわよ、で?」
「成績表のチェックに来ました。はい、通知票出して」
「…いや」
「いや、じゃない。アスカに選ぶ権利はないの。ほら、さっさと出した出した。それとも、原本を学園の掲示板に貼られたい?」
「ちょっ、何よそれっ」
「アスカは知らないだろうが、生徒に渡してるのは複写で、原本は学園が保管してるんだ。全生徒の原本、見ようと思えば見れるし」
「ちょっと待ちなさいよこら」
「なに?」
「ぬあーんであんたがそんなもん見れるのよっ」
「その質問に対する明確な答えを、それも今すぐ知りたい?」
 あったりまえ、と言いかけてアスカは考えた。
(止めとこ)
 賢明な判断が出るまでコンマ三秒。
「ううん、別にいいわ」
「そ。じゃ、アスカの見せて。言っとくけど、俺のを見て勝手にジェラシー燃やした挙げ句、自分のは見せないなんて言ったら人肉饅頭にするからね」
「わ、わかったわよもう…わ、笑ったりしない?」
「そんな予定はない」
「ぜ、絶対だからねっ」
「ん」
「み、見たらすぐ返してよっ」
 成績は、さすがにすみれと張り合うだけあって、アヒルの姿はない。ただし、前学期は四の字がやや姿を消しており、今学期はまた復活している。
「これは、落ちてまた上がったってやつ?」
「ど、どうせあんたより悪いわよっ」
「当たり前でしょ」
「…」
「そんな事は最初っから分かり切ってるし。もしかして抜こうとか思ってた?」
 ここまで来ると、嫌味とか言うレベルはもう通り越している。
 至極当たり前のように訊いたシンジに、アスカはもう怒る気も失せてしまった。
「…んなこた思ってないわよ。で…見て満足した?」
「別に満足はしてないけど。それで、アスカは言わないの?」
「何を?」
「成績上がったから何かちょーだいとか」
「い、言わないわよそんな事っ。あ、あたしが言うわけないじゃないのっ」
「アスカも何となく言いそうな気がしたんだけど――気のせいだったみたいね。じゃ、お邪魔しました」
 シンジにしてみれば、分析結果を口にしただけで、別に深い事は考えていない。
 そう、自分が好かれているのでは、と言う発想は微塵もない。ただ、何らかの理由でアスカがイベントに参加しなかったのではないかと、やって来ただけで。
 だから、拍子抜けするほどあっさり身を翻した。
「見込み違いだったかなあ。まあいいや、お風呂入ってから寝よっと」
 その表情に、断られた事への拘泥は微塵も見られない。
 にゅう、と背伸びして階段を下りていこうとしたその足が止まる――服を引っ張られたのだ。
「あ、あたしがいいって言うまで付き合ってもらうからねっ」
 わずかに下を向いたままのアスカを見ても、別に表情は変わらない。
「そう、分かった。分かったからとりあえず――」
「え?」
「手、離して。服が伸びる」
 
 
 
 
 
(つづく)

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