妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第八十七話:乙女の身体、時々便利に付き
 
 
 
 
 
 ぐったりと果てた女二人を左右に見て、葵叉丹がゆっくりと起きあがった。
 ミロクも水狐も豊かな肢体をぐったりと投げだし、死んだように眠り込んでいるが、葵叉丹の方もまた、やや精力を吸い取られた風情が見える。
 シンジならばぬぼーっと起きあがっただろうが、女を抱くのが無論初めてでないとは言え、普通の、そして床ではやや乱れる女二人であり、百度の交わりすら課す医師とつきあっているシンジとは違うのだ。
 最後は身体を入れ替え、数度にわたる中出しで溢れてきた精を、互いの股間から音を立てて吸い上げた二人だが、これは葵叉丹の逃げであり、後一度迫られていたらおそらく身体が持たなかったに違いない。
「セックスに燃やす情熱を、そのまま奴らの殲滅に向けて欲しいものだ」
 やや疲れたような口調は、ここまで乱れるとは思っておらず、自分が主体となって責められると思っていたのにがらりと当てが外れたせいもある。
 こんな事では、セックスを餌に釣ることができなくなってしまうではないか。
 だが美貌の院長に聞かれれば、この程度で操縦を自負するなど自惚れも甚だしいと、嘲笑されることは間違いあるまい。
 問題は、
「少なくともこのくらいでなければ」
 と、ある青年の首に腕を巻き付けて引き出す事であり、そしてそれが当人の意志とは関係ないことだ。
 しかし、葵叉丹は無論そんな事など知らず、どことなく精気の抜けたような顔で、
「だがとりあえず手はできた。碇シンジ…いつまでもお前の好きにはさせん−私に切り札がある限り、最後の運は私に回ってくるのだ」
 手に一葉の写真を持った葵叉丹の顔に笑みが浮かんだが、疲れたような表情でなければもっと迫力があったに違いない。
 
 
 
 
 
「お、お見合いって…この間言ってたアレ?」
「それしかないでしょ」
 マユミとレイを除き、他の娘達は表情からして穏やかではないが、シンジの方は呑気に湯飲みを傾けている。
「お、おにいちゃんっ!」
「はい?」
「け、結婚しちゃうのっ?」
「それは結納とかその辺り。お見合いというのはその前の段階でそもそも−」
 頼まれたから実効はないんだ、と言おうとしたシンジだったが、
「だ、駄目だよシンジそんなのっ!」
「は?」
「こ、ここをほっぽり出して結婚なんて絶対駄目ですっ」
(…何事?)
 話が終わってない内から次々と遮られ、シンジには釈明の機会すら与えられない。
 いや、別に後ろめたくはないから釈明する必要もないのだが、思いもかけない反応に管理人も一瞬ひるんだ。
 と、そこへ、
「碇さん約束はどうなるんですかっ」
 状況次第ではかなり危ない台詞である。
「や、約束?」
「碇さん、最初の時言ったじゃないですが−あたし達がちゃんと合格できるようにお勉強も見てくれるってっ」
(言ってない言ってない)
 口に出す前に何となく止めた。と言うより、最初の時というのはシンジが斬りつけられた時なのだが、突っ込まなかったのは身の危険を本能的に感じたからだ。
「いやだからそう言う事じゃなくて、大体俺が見合いしても結婚してもそれは個−」
 個人の自由と言おうとした途端、
「迷惑ですわ」
 喫茶店でぷりぷりしていた時と比べ、温度が二十度ほど下がったすみれの声がした。
「え?」
「確かに、碇さんがお見合いされようとご結婚されようとそれは、碇さんがご自由にされることですわ−ただし」
 抗議しかけたさくらとレニを封じるように大きな声で続け、
「碇さんはご結婚される時、相手の方を子供を産む道具と思って籍だけ入れられる訳ではないでしょう。ええ、それはきっと一日中べたべたされるに決まってますわ。でも碇さんがわたくし達の指揮を引き受けられた以上、途中で放り出されては困りますし、そんな痴態を見せつけられっぱなしでは、精神的によくありません事よ。お分かりですわね?」
「いや、ですわねってそんな…」
 だからこれはフェイクなんだ、とシンジのどこかがぴくっと動いたそこへ、
「じゃ、多数決おにいちゃんのお見合いに反対のひとっー!」
 間髪入れぬアイリスの提議に、さくさくと上がった手は発起人を含めて六つ。レイはとりあえず、反対した方が面白そうだという甚だ迷惑な色が顔に浮かんでいるが、さくらを始めレニまで、その手は一斉に上がった。
 さすがにマユミは、見合いはシンジの自由だし、反対するのもどうかと手は挙げなかったが、
 ギヌロ。
 未だかつて経験したことのない強烈な視線を、五対の瞳から浴びて本能的に手を挙げた。
「きまりだね。おにいちゃんはお見合いしちゃ駄目って、決定〜」
「それにシンジ」
「…なに?」
「あんたが見合いしたらほぼ結婚決まりだし、いちゃいちゃを見せられたらあたし達の情操に甚だしい損害を与えるから今回はパスしなさい」
「そうですよ碇さん。遊びでするんじゃないんですから」
「……」
 遊びではないが、かといって結婚前提のそれでは絶対にあり得ない。
 つまり、さくらを始めここの住人達が見合い相手である林原悠里と碇シンジの結婚式に呼ばれることは決してないわけであり。
 が、言い出せる雰囲気ではなかった。と言うよりも、言ったところで絶対に信じないに違いない。
 しかしこのシンジ、小娘達の多数決に頷く素直な性格はしてないわけで、
「やなこった」
 べーだ、と舌を出した。
「『あ?』」
「あの、皆さんいきなりヤンキーの目つきになってますけど…って、何で俺が個人的な趣味を邪魔されなくちゃならないのさ」
「個人的な趣味〜?はいはい、おもてになる方はようございますねえ」
「誰が表だ誰が。ところで、レニも反対なの?」
 この時になって初めて、レニが許嫁だと宣言していた事を思い出したように、視線がレニに集まった。
「そ、それは確かにシンジの自由だけど…で、でもあまりして欲しくない」
「ブルータス、お前もか」
「誰がブルータスですか誰が。そんな事より碇さん、どうしてお見合いなんかするんですか?」
「え?」
「碇さんの性格なら、お見合いだけで相手を決めたりしないでしょう。お見合いだけで一生の相手が決まっちゃっていいんですか?」
 一応手は挙げたが、あまり加わりたくないような表情をしていたマユミが訊いた。
「お断りだ」
「じゃ、なんでですか?」
「大人の事情です」
 真相はただ、自分がミスしかけたからに他ならず、頼まれたそれを断れなかっただけの話だが。
「みんなが反対しても?」
「うん−いだだだ、アイリス首絞めないで」
「やだ。おにいちゃん絶対に行かせないもん」
「えーい、放せ」
 なかなか器用に手を後ろへ回すと、幼い殺人鬼をひょいと捕まえた、あっ、と言った時にはもう膝の上へ固定されており、何を思ったかこの男、その耳元へふうっと息を吹きかけたのである。
「あううっ」
 びくっと身体が震えたところへ、
「アイリスは反対?」
 邪悪な声でささやいたから、
「う…ううん、おにいちゃんがそう言うならアイリスは反対しないよ」
「アイリスはお利口さんだもんね」
 膝の上に乗せたままなのは、無論手の内に織り込み済みである。
「う、うん」
 きゅっと回された手に、尖っていた口元から一転、その頬は赤くなっている。
(ぬう、小癪な)
 思わぬ所で寝返りが出てしまい、これで一角が崩れた。
「それに山岸は無理矢理だし、レイは楽しんでないか?」
「ボク?」
「そう、ボク。単に楽しそうだから賛成したろ」
 ぎく、とレイは胸に手を当てた。その辺はあっさりした性格らしい。
「と言う事で残りは四名。で、残りの三人が反対、と」
「碇さん、三人って誰ですか?」
「アスカとさくらとすみれ、合計三名」
「こらシンジ、レニも反対してたじゃないの」
「分かってないな、アスカは。レニの物は俺の物、俺の物も俺の物。従って俺の意志はレニの意志−そうだよね、レニ?」
「え…う、うん…」
「ちょ、ちょっとレニあんた反対してたじゃないの」
「レニは俺のモン。レニが反対するわけないじゃない」
「あ、あんたそんな圧政やってると今に刺されるわよっ」
「そん時はまた考える。レニ、いいよね」
「は、はい」
 俺のモンが効いたか、レニは小さく頷いた。
 これで残りは三人。
「シンジ、言っとくけどあんたのいちゃ…ふぐっ」
 ずむ、と肘がアスカの脇腹に入り、
「な、なにすんのよあんたっ」
 きっと眉がつり上がるのには構わず、
「分かりました、碇さん。全員が反対ならともかく、寝返りが出たのでは仕方ありませんわ」
 ちら、と裏切り者二人を見て、
「碇さんがお見合いされても、結婚されてもわたくし達は反対しませんわ。でもその代わり」
「その代わり?」
「ここの管理業務だけはきちんとなさって下さいな」
「は、はあ」
 いくら旗色が悪いとはいえ、妙にあっさりとしたすみれにシンジも首を捻ったが、反対されないならされないで越したことはないと、
「じゃ、アイリスちょっと降りて」
 アイリスを降ろし、
「俺は明日の用意があるからこれで。じゃ、おやすみ」
 すたすたとシンジが出ていって扉が閉まった途端、
「あんた何考えてるのよっ」
 当然と言うかアスカが猛然と噛みつき、
「そうですよすみれさん。いくら何でもいきなり…」
 さくらも抗議したが、すみれは顔色一つ変えず平然と、
「少し頭を冷やしなさいな二人とも。わたくし達がいくら反対しても、碇さんの気が変わる訳ないでしょう」
「じゃ何、あんたはシンジがどっかの女と結婚して、毎日毎日いちゃいちゃしてもいいっての」
「冗談じゃありませんわ。誰がそんな社会悪を容認するものですか」
 個人的な思い入れはともかく、社会悪だなどとは、えらい言われようである。
「じゃあどうすんのよ」
 アスカを一瞥し、
「邪魔するに決まってるじゃありませんの」
 
 
 
  
                                
 ごく普通の成人した女であれば、身体から出ているのは乳房が二つ、それと手足がそれぞれ二本ずつ生えて、頭がちょこんと乗っている筈だ。
 だが、普通の三倍位もありそうな大杯を傾けている女は、普通とは少々違っていた。
 手が六本あるのだ。
 付け腕ではなく、無論義手でもない。
 その証拠に、布地ではなく金具で乳房を覆っているそれをいじっているのは、明らかに本人の意思によるものであった。
 しかも器用な事に、上の二本は左手で一升瓶を持ち、右手には巨大な杯を持っているのだ。
「葵叉丹様はいったい何を考えておられるのだ」
 さっき部屋を通ったら甲高い喘ぎが、それも二つ聞こえて来て、しかもドアがわずかに開いており、隙間から見たら尻を高く掲げたミロクと水狐がバックから交互に貫かれていたのだ。
 ミロクや水狐のように、葵叉丹に対して生の女の感情は持っていないが、二人がしくじった事は既に知っており、そんな二人に褒美にも似た責めなど葵叉丹の考えが分からない。
 第一、そんな事よりもさっさと自分を出すべきではないのか?
 そんな心中を見て取ったのか、
「土蜘蛛殿、そう焦らぬ事でござる。葵叉丹様には、それなりのお考えがあっての事。それに独断と言え、火車殿が行って討たれている。ここで、貴殿まで先走って討たれては大きく戦力が削がれるのだ」
「だ、だからって…」
「貴殿のお気持ちはよく分かる」
 年長者の風情でうんうんと頷いてから、
「葵叉丹様も、無論土蜘蛛殿を腐らせようとは思っておられぬ。だが敵は帝劇などというちっぽけな物にあらず、碇シンジただ一人じゃ。逆に言えば、あやつ一人を討ち取ればこの帝都は我らの手に落ちる。それに、あの二人も単に性欲の対象だけに留め置かれた訳ではない」
「では、何かに使うと−?」
「無論の事。それに第一あの二人を−」
 まとめて相手では葵叉丹様とて、と言いかけたのだが止めた。
 土蜘蛛に漏らす事ではないと思ったのだ。
「あの二人をただ飼っておられるわけではないのだ。だが土蜘蛛殿、このことを忘れてはなりませんぞ」
「ん?」
「金剛殿があっさり破れ、火車殿もなす術なく、と言うより殆ど一撃で倒された。その時の事ご存じか?」
「い、いやあたしは知らないが…」
 一撃、と言う単語に土蜘蛛の顔色も一瞬変わった。寝込みを襲われたのならともかくとして、出撃して一撃とは不意打ちでも喰らわない限り、想像もできない。
 だが、
「不意打ちではなく、しかも神崎すみれを人質にしての上だ」
「神崎すみれと言うと、葵叉丹様が洗脳を命じたじいさんの孫娘だな。しかし人質などとは…」
 金剛同様、武闘派である土蜘蛛に取って、人質というのは汚いとか卑怯とか言うイメージがどうしてもある。
「なんにせよ、圧倒的有利な状況で火車殿は討たれた。無論、手加減したわけではないのだ。土蜘蛛殿も、このことだけは覚えておかれよ」
「…分かった」
 しかし、木喰や火車のようなタイプはともかく、金剛やこの土蜘蛛のような体育会系のタイプは相手が強ければ強いほど燃える方で、木喰の言葉は逆に土蜘蛛の闘争心を煽る事になったのだが、無論知らずに煽った方はそんなことに気づいてはいない。
 
 
 
 
 
「じゃ、邪魔するってあんた…そんな事を考えてたの?」
「別に嫌ならつきあわなくても結構。もっとも、既に寝返った方もいらっしゃるようですし」
 視線の先には無論アイリスとレニがいるが、
「だ、だっておにいちゃんふうってするんだもん。駄目なんて言えないよ」
「ぼ、僕はシンジの物だから…シンジが言う事は…」
「も、物ってあんたそれでいいの?一生シンジのおもちゃでも?」
「シンジはそんな事しないよ。それにシンジがいなかったら、僕はずっと人形の生活を送ったままだった。何よりも…僕との約束のこと、シンジは思い出してくれたんだ−ちょっと忘れてたみたいだけど」
「じゃあレニ、あなたは碇さんが結婚されようとどうされようと、遠くから指をくわえて黙って見ていると言うんですのね」
「そ、それは…や、やっぱりやだ。シンジが…僕の知らない誰かをお見合いなんかで気に入って結婚しちゃうなんてやだ」
「あら、気が変わったのね。アイリスはどうするのかしら?」
「だ、だっておにいちゃんが決めた事だから…」
 こっちは幾分二の足気味のアイリスだったが、
「でもアイリス、シンジがどっかの女と結婚しちゃったら、もう膝の上に乗る事は一生できないよ」 
 ぴくっ。
 これは効いた。
 アスカの囁きを聞いた途端、アイリスの顔色が変わったのだ。
「管理人だからシンジはここにいるけど、シンジの膝の上にいるのはどこかの女−それでもいいの?」
「やだっ、そ、そんなのアイリスやだようっ」
 女を膝に乗せて愛の囁き−そんな背中に虫酸が走るような事をシンジがするかどうかなど、考えなくても分かりそうなものだが、アイリスの頭の中には自分の位置を独占しているどこかの女の図が浮かんでしまったらしい。
 それにしても、シンジに知られたら全員まとめてミディアムはほぼ確定な計画を、彼女たちは分かっているのだろうか。
「アスカ、一つ訊いておきたいんだけど」
「何よ?」
「動機はどうあれ、碇さんのお見合いを邪魔するあるいは監視するのはいいけれど、当然後をつけるんでしょう」
「しようがないじゃん、スパイ衛星持ってる訳じゃないんだから」
「それで、もし見つかったらどうするの?もしも−碇さん以外に見つかったら」
「シンジ以外?何それ」
「碇さんのご実家にいるメイドさんは、現在三十数名。元々碇さんがあまり家に、と言うより日本にいないから、御前様やミサトさんのお世話はその人達がしているのよ。そしてプライベートの護衛も」
「よ、良く知ってるわねそんなの。で…それって強いの?」
 マユミの口調になんとなく不安になったアスカが訊くと、
「敵うでしょうね−私とさくらを足したら一人位には。碇さんは護衛を必要ないって断ったそうだけど、それは碇さんが別格だからよ。それに、御前様とミサトさんをその辺の女性が護衛などできるわけないでしょう」
 言ってる事はもっともだが、その時になってやっとすみれには、マユミの言わんとしている事が分かった。
 そう、これはお見合いなのだ−デートではなく。
 デートならいざ知らず、見合いなら間違いなく保護者が付いてくる訳で、常識で考えればフユノと言う事になる。
 そしてそれはそのまま、ガードの付帯も意味しているのだ。
「そ、そんなのって強すぎるじゃないのよっ。それじゃ、邪魔も何もする前にあたし達まとめて捕まっちゃうじゃないの」
「だからどうするのか、と訊いているのよ。理由は別にして、碇さんの行動を邪魔する以上よほど綿密に計画を立てないと、ご実家の地下にあるって言われる地下牢に全員放り込まれる事になるわ。それと、私は遠慮しておくわ。碇さんが結婚されたら少しは国内に落ち着くし、性格からも物騒な部分が幾分消える筈だから」
 シンジが聞いたら、ここの住人の方がよっぽど物騒だとクレームをつけるであろう事は、ほぼ間違いない。
「ったく、これだからブルジョアって嫌いなのよ。なーにが護衛よまったくもう」
 ぶつくさぼやいたアスカだったが、その目をかいくぐらなければ、自分たちのもくろみは成功しない。
 それから数時間、アイリスに頼んで全員転送だとか、さくらが囮で斬り込んでとか、いやそんな事に剣は使えないから嫌だとか、文字通りの小田原評定が続き、全員が部屋に戻った時にはもう、午前二時を回っていた。
 なお、マユミとレイは抜け出そうとしたのだが、がしっと椅子に縛り付けられてしまい、最後までつきあわされる羽目になった。
 
 
 
 
 
 ここ一週間であがってきた書類の束に目を通しながら、黒木はまだ着替えてはいなかった。以前なら別に珍しくもなんともない事だが、一番変わっているのは狭霧がいないことだ。
 既に妊娠している身だからと、黒木が先に休ませたのだが、以前なら絶対にあり得なかった事だ。
 自分でいれたレモンティーにブランデーを数滴落とし、一口飲んで置いたところへ電話が鳴った。
 この番号を知っていて掛けてくるのは一人しかおらず、ディスプレイもその相手を示している。
「はい、黒木です」
 この電話を取る時は、いつも1オクターブ違うと狭霧に言われているのだが、自分でもそうかもしれないと思う。
「机か?同衾中か?」
 こんな事を訊いてくるのは、世界中を探してもたった一人しかいない。
「雑務が少し残っていましたから。まだ起きておりますが」
 とはいえ、黒木の指に狭霧が喘いでいる時に、シンジから電話があった事も幾度かあったのだ。
 無論、シンジが見計らってしたのではなかったが。
「明日見合いがある。出てこい」
「出てこいって、私が保護者ですか?」
「親戚のおっさんでいい。無理なら構わないが」
 ちらりと黒木はスケジュール表を見た。そこはびっしり埋まっている。
「分かりました」
 黒木はすぐに頷いた。
「明日は一日空いていますから。ところで若、なぜお見合いを?」
「ダミ−、と言うかフェイクだ」
「フェイク?」
「もう結婚は決まってる娘だが、なぜか俺とお見合いしてみたいらしい。まったく、こんなののどこがいいのか」
 ふ、と黒木はわずかに笑った。
 シンジの言葉が嫌味ではないと知っているのだ。
 しかし、絶世の美形ではないが中の上よりは上だし、バランスの取れた長身は、そうそうどこにでもいるものではない。何よりも、背後にいる時の絶対的な安心感は、常に女性やか弱い者を守ってきた黒木から見れば、代え難いものだと思っている。
 もっとも、シンジは黒木のような性格ではないのだが。
 しかし、そのシンジがなぜ自分の魅力を知らないのか、黒木にはよく分からない。シンジにすれば、人外との付き合いがその大半を占めており、文字通りの美しさにおいては夜香であり、あるいはドクトルシビウ、そしてフェンリルもその辺の娘など足下にも及ばない存在だ。
 その前では霞んでしまうのも無理はない事であり、シンジがその下を見ないのもまたある意味では当然とも言えた。
「若、一緒にいて気分が悪くなるなら、たとえ思い出代わりとはいえ、お見合いなどという話は出ません。それが若のイメージなのですよ」
「イメージねえ」
 ふうん、と呟いてから、
「まあいいや。明日の朝、車で迎えに来て。そのまま直行するから」
「分かりました」
「じゃ、頼んだよ」
 切れた受話器を手に持ちながら、
「しかし…本気でされるのは何時になることか」
 女より男、と言う危険な人間ではないが、結婚とか恋愛に対してかなり興味薄である事も知っており、それだけに黒木は、どんな娘ならシンジの心が動くのか、ふと気になった。
 
 
 
 
 
 だが。
 結局、翌朝黒木が愛車にシンジを乗せる事はなかった。
「三十九度〜!?なんでまたそんなモンが」
「そんなモンってボクは知らないよ。別にボクがウイルスばらまいた訳じゃないんだからさあ」
「いや、別にそんな事は言ってないけど…」
 黒木に連絡した後、戻ってきたフェンリルを黒こげにしようとしたら、返り討ちにされてしまい、従魔に枕にされてしまった。
 が、朝起きたらちゃんとフェンリルが枕になっており、下克上は避けられたようだ。
 顔を洗って戻ってきたのだが、館内が妙に静まり返っている。
 第一、いつもならとっくに起きている筈のマユミとさくらの姿がない。揃って家出でもしたかなと、夜道で刺されそうな事を考えながらうろうろしていると、洗面器にタオルを入れたレイに会った。
 何をしてるんだと訊いたら、自分以外全員熱を出して寝込んでるときた。
「レイ以外全員?」
「そ、全員。あ、そーだこれ持ってって」
 渡された洗面器に、シンジが目をぱちくりさせてると、
「看病だよ、看病」
「俺が?何で?」
「理由その一、君が管理人だから。理由その二、ボクはミサトさんに呼ばれてるから行かなくちゃならない。以上」
「以上って、ちょ、ちょっとこらレイ待て…あっ」
 脱兎のように走り出したレイをとっ捕まえようとして、洗面器が反乱を起こしかけ、シンジは慌てて踏みとどまった。
「この連中放り出して…は、いけないかやっぱり。医者も呼べないしな」
 この場合の医者、というのは微妙であり、シビウは無論呼べない。何となくだが、栄養剤と称して、空気のみが入った注射をされそうな気がする。
 では普通の医者はどうか。これも強すぎる結界に弾かれる可能性が高い。医者の往診のために、結界を緩めるのは気乗りしないのだ。
「ま、いいか。身体触ればすぐに治るんだし」
 誤解されそうな台詞だが、すみれが高熱を出して寝込んだ時、与えたのは栄養剤で実際に治したのはシンジである。
「取り合えずお粥かなんか作って…そうだ、その前に電話しないと」
 左手の洗面器をひっくり返し、当然の結果として空中に落下した水は、吹き出した炎により一瞬で蒸発した。
 空の洗面器をぶら下げて部屋に戻ったシンジは、黒木に中止を告げると、そのまま悠里に電話した。
「あの、悪いんだけど…」
 しかし事情を話すと、気を悪くした様子もなく、
「分かりました。それなら仕方ありませんね」
 あっさりした反応が返ってきた。
「あの、いいの?」
「いいんです。それに私、忘れていた事があったんです」
「忘れてた事?」
「はい」
 何故か弾むような声に、シンジは朝から二度首を傾げた。
 
 
 
 
 
(つづく)

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