妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第八十八話:シンジ的診療譚
 
 
 
 
 
 色っぽい、或いは艶めいている。
 単語にすれば簡単だが、その適用される状況を全て数えられる者など、一体何人居るだろうか。
 大別すると二つ、まず一つは自発的なものであり、もう一つは無論自分の意志によらないものだ。
 しかし後者にしても、誰かの手によって開発させられたりするものと、自分の状況が必然的に引き起こす場合とがある。
 何も知らなかった初な娘が、肉体を開発されて自ずから色香を備えるのもそうだし、或いは憂いを帯びた表情が、凄まじい程の艶を持たせることもある。
 そしてまた。
 泣き顔や発熱した顔のそれも、時には危険な程の色香を帯びる事があるのだった。
 
 
 
 
 
「忘れてた事ってなに?」
 まさか、自分にタキシードを着せて拉致る気じゃあるまいなと、妙な想像が浮かんだシンジだったが、
「私がお願いしたのって、お見合いでしたよね」
「うん」
「お見合いというのは、数回目からは相互承諾の元でデートしたりしますが、最初は単に会うだけです。それに、私にはもう時間がありませんから」
「忘れてたってそのこと?」
「はい。よく考えたら一緒にお食事して、その辺をうろうろするだけじゃ足りませんから。それであの、私の式にはいらして頂けますか?」
「アタッシュケースに御霊前詰めて持っていこう。ただし引き出物は要らない」
「ご、御霊前?」
「そう。だって結婚式にはごれ…あれ?違った、新婚祝いだ」
「普通にご祝儀って言って下さい。別に私は嬉しくありません」
「そっか、ごめん」
 シンジはあっさりと謝った。
「分かっていただければいいです。ところで碇さん」
「はい?」
「恋人とか彼女とか、今いらっしゃらないんですよね−愛人を別にして」
「うん」
 愛人を最後に付け加えたのは、愛人はいるんだと、シンジが言い出すのを分かっていたからだ。
「…じゃ、大丈夫ですね」
「何が?」
「こっちの話です。住人の方たちを治してあげて下さい。それじゃ」
 一定音を聞きながら、
「絶対に何か企んでる。でも何を?」
 むう、と首を捻ったところへ、
「マスター、お目覚め」
 背後からフェンリルの声がした。
「うん、お目覚め。で、なんでうちの連中全員ぶっ倒れてるの」
「さて。小娘の健康など私の知ったことではない。私は風呂に浮かんでいる、手当するなら好きにするがいい」
「あっそ、冷たいんだから。そう言えばフェンリル、なんで朝俺の枕になってたの?」
 振り向くと、妖狼ではなく美女の姿を取ったフェンリルが立っており、静かにシンジを眺めている。
「なに?」
「人間の童話に、狼が化けた祖母に気づかぬ、お気楽な娘の話があったな」
「あるある、紫頭巾ちゃんだ」
「もっと明るい色だったような気もするが、まあいい、その娘の最後の問いに狼はなんと答えた?」
「確かどうしてそんなに耳が大きいのと少女は訊いた筈だ。それで狼がたしか、百キロ四方の物を全部呑み込むブラックホールだからとか何とか」
「違う、不正解だ」
「違うの?」
「娘は口の大きさを訝り、狼はこう言ったのだ−それはお前を食べるためだと」
「ふーん、お前を食べ…んむううっ」
 次の瞬間、万力のような力でシンジは引き寄せられ、あっという間にその唇は奪われていた。
「んんっ、んっ…んんううーっ」
 あまり乗り気でないのは、じたばたもがいている手足を見れば分かるが、その全身はびくともしない。
 数十秒が経ち、シンジの顔色に微妙な変化が現れだした頃、やっとフェンリルは主を解放した。
「ぷっはあーっ」
 肩で大きく息をしながら、
「帰国子女暴行罪で訴えるぞ」
 訳の分からない事を言っているシンジの反応など全く気にした様子はなく、
「せめて指を下へ這わす位のものは持って欲しいものだ。とはいえ少しすっきりした」
 つう、と糸を引いたそれを白い指先で拭い、そのままフェンリルは踵を返した。
「絶対訴えてやるー!」
 じたばたと地団駄を踏む足音が、病人だらけの館内の床にさっさと吸い込まれていった。
 
 
 
 
 
 ところで、シンジに洗面器を押しつけてさっさとずらかったレイだが、その脱走方法を知ればシンジは間違いなく火の玉をぶつけたに違いない。
 門を出たすぐ横に、深紅のフェラーリが止まっており、
「レイ、首尾は?」
 サングラスを掛けた美女は無論ミサトだ。
「上手くいったよ。これで碇君はお見合いなんか行かれない筈だ。今日一日は体温計持って右往左往だね」
「よーし、良くやったわレイ」
 にたあと笑った顔は、客を泊めた夜中に包丁を研ぐ伝説の老婆といい勝負であり、
「今日はお姉さまが奢ってあげるから、なーんでも好きなもの頼んでいいわよ」
「中華でも仏でも露でも伊でも?」
「なーんでもよ、なーんでも」
 ぼむっと胸をたたくとそのまま弾き返され、なぜかそれを見たレイがぷうっとふくれた。
「何怒って…ああ、大丈夫よレイ。あんたもいずれはこうなれるんだから」
「…ほんとに?」
「ほんとだってば。そうだ、とりあえず中華にしよ中華。飲茶と杏仁豆腐、巨乳の始まりはここからなんだから」
 そんな事でなれるのかどうか知らないが、自信たっぷりなミサトにつられてレイもつい頷き、たちまち車体は法定速度を大胆にオーバーして吹っ飛んでいった。
 金は善人が持つとは限らない、いい例である。
 ところでミサトがここにいる理由は、住人が揃ってダウンした事で、レイが本邸に連絡を入れた事にある。
 フユノに通れば良かったのだが、運悪くミサトに繋がってしまった。
 しかも、見合いの事をそこでレイから聞かされたのが初めてであり、当然ミサトは赫怒した。
「ぜってーぶっ潰す!」
 このミサトでも、ブラコンを除けば容姿もスタイルも悪くなく、特に薄着させて街を歩かせれば、数組はカップルをぶち壊す力がある。従って、結構憧れている者も多いのだが、この般若みたいな顔を見れば五秒で正気に戻るに違いない。
 が、先に見合いの事を聞かされて激怒したミサトだったが、住人達が揃ってダウンした事を聞いて、電話を持ったままにんまりと笑った。
 労せずして、シンジを行かせない方法を思いついたのである。
 レイの押しつけが、ミサトの作戦によるのは言うまでもなく、無論それは餌付きであった。
 レイはさくら達とは違い、シンジにべたべたくっついても本質が違う。それだけに、餌なしでは乗ってこないとミサトは踏んだのだ。
 甲州街道へ吹っ飛んでいく車体を、ふとある白バイ隊員が見つけた。一瞬獲物を見つけた豹のように双眸が光ったが、すぐ諦めたように視線を逸らした。
 このナンバーだけは、手を出してはならないと上から通達が来ているのだ。
 それも、もみ消しとかそんなちっぽけなものではなく、過去に追いかけた白バイが数台、コーナーで追いつけずに路肩へ吹っ飛んだのだ。
 そのうち一台は、罰当たりにも皇居の濠へと突っ込んだのだが、これはまだ運がいい方であろう。あとの者は皆、最長六ヶ月最短三ヶ月という、禁固刑みたいな期間を病院のベッドで過ごす事になったのだから。
 なお、不運な正義漢達はいずれもシビウ病院から治療を拒否されている。
 
 
 
 
 
「一つ吹いては母のため〜、二つ吹いては父のため〜」
 ふうふうと、なぜかシンジは釜でご飯を炊いている。しかも口ずさんでいる内容は、原本とはかけ離れているが本人は全く気にしていない。
 とりあえず全員の部屋をこっそり覗いてくると、どの娘も赤い顔をして唸っていた。
 一瞬策略かな、とも思ったのだが、すぐに首を振って否定した。
 ただし、自分は絶対伝染されない自信があるから、どこの病院にも連絡はせず、一人でちくちく看てやることにしたのだ。感謝するかどうかは知らないが、その時はその時であり、高熱で弱ってる体を押さえつけて無理矢理流し込めばいいのだと、既に邪悪な構想を練っているところだ。
 やがて出来上がったらしく、釜の蓋を取って中を覗き込み、
「うん、ぐちゃぐちゃ」
 と、聞いたら食欲が失せるような台詞とともに、ふっと火を吹き消した。
「さて、どの独房から持っていくかな〜」
 台詞だけ聞くとかなり不機嫌そうだが、顔を見る限りそんな色はなく、むしろどちらかと言えば上の部類に入る。
 と、ふと何かを思いだしたように冷蔵庫を開けた。
 ない、と呟いて携帯のボタンを押した。
 二回と鳴らずに相手が出ると、
「リンゴ一箱。女神館まで十分以内に持ってきて」
 相手の承諾も聞かずに切ったが、懐へ仕舞う拍子に鍋つかみから指が外れたらしく、
「あちゃちゃちゃっ」
 慌てて指を振った。
 
 
 
 
 
「しかし良かったのか、悠里よ」
 シンジから土壇場でキャンセルの連絡が入り、さぞ落胆していると思ったら、なぜかその表情は妙に浮いて見える。
 魁偉とて、今回の縁談が当人の気持ち最優先でない事は分かり切っている。しかし悠里の想いが絶対に叶わぬそれである以上、諦めてもらわざるを得ない。
 いつまでも縁談を断り続け、その視線の先にあるのが結婚にまったく興味のない青年と知られたら、さすがに魁偉も面倒な事になる。
 シンジに自分の娘を、と企む連中がまずぶつかるのがそれ、つまり本人の無関心さなのだ。
 もっとも、その付き合っている相手を知れば、どんなに着飾ってレンズの前に立った娘でも、塵芥にしか映るまい。
 その辺がよく分かってない連中が多い中、この親子は的確に状況を分析していた。
 悠里が早々に諦めたのも、状況をちゃんと分かっているからだ。とはいえもっと叶わぬ想い−近親相姦に燃える実姉もいるのだが。
「いいのです、お父様。その代わり、碇さんには結婚式に来ていただきますから」
「結婚式?」
 怪訝な顔になった父親に、悠里はにこりと笑って何かを囁いた。
「…お、お前そんな事を考えていたのか?」
 驚愕の表情を見せた魁偉だったが、
「大丈夫です。この位はしてくださいますわ−多分」
  
 
 
 
 
 シンジから電話が入った直後、本邸からナナハンが二台飛び出して行った。
 リンゴを持ってこいと言われても、そんなに買い置きがなかったから娘が二人買いに行ったのだ。しかも、シンジの場合時間厳守だからてくてく歩いてなどいられないし、この家に仕えている者はほぼ全員ナナハンまでは乗りこなす。
 以前に一度、メイド服のままの娘がナナハンに跨り、町中を走り回ったせいであれは誰だと話題になった事があったが、今日非番がいたのは幸いだったろう。
 しかもこの服、結構際どいのだがそれには訳がある。
「どんな服ならシンジが気に入るか、お前が描いてみよ」
 そう言ってフユノがミサトに描かせたものを、
「良かろう。では今日からこれに衣装替えじゃな」
 と制服に採用したのだ。
 無論、ミサトが地団駄踏んだ事は言うまでもないが、発注に際して二割ほど派手さは落としてある。
 元々は、もっと地味な服だったのだ。
 とまれ、津軽産のリンゴ二箱が届いたのは、ちょうど九分四十秒が経過した時で、ぎりぎり間に合ったと胸を撫で下ろしたが、三分経ってもシンジが出てこない。
 結界があるから、門から中には絶対に入るなと言われており、それを無視するほど彼女たちはいい度胸をしてない。
 どうしたのかと顔を見合わせた時、
「待った?ごめんね」
 デートの待ち合わせに遅れた男みたいな台詞と共にシンジが出てきたが、その格好に二人とも思わず吹き出した。
「わ、若様そのお姿は一体…」
「か、割烹着なんて着なくても…」
 何とか笑いを抑えていたが、
「住人が全員ダウンしてるから、みんなのご飯作らなきゃならないんだ」
 と言うシンジの台詞に顔色が変わった。
「若様、そんなのは私たちがやりますからっ」
「若様はお休み下さいっ」
「ああ、いいのいいの。どうせ知恵熱なんだから、美味しいものでも食べればすぐ治るさ。それとも、俺より美味しいの作ってみる?」
「『え…』」
 すぐにぶるぶると首を振った。
「じゃ、問題ないね。それと瑞希、姉貴見なかった?」
 この二人は井上梓と井上瑞希、瑞希の方が二つ年上の姉妹だ。性格は似ているが、個人的な好みは結構違うらしく、梓の方はいつもショートカットなのに対して、瑞希の方は肩過ぎまで黒髪を伸ばしている。
「ミサト様ですか?いえ、私はお見かけしませんでしたが」
 瑞希が首を振ったところへ、
「ミサト様ならお出かけになりました。フェラーリでお出かけでしたが」
「フェラーリ−フェラーリ」
 なぜかもう一度呟いてから、
「なんか匂うな」
 首を傾げたから二人が慌てて、
「わ、私たちあのっ、け、今朝はちゃんとお風呂に入って…いたっ」
 ぽこっ。
「その臭うじゃないっての。ところで、俺が見合いする事になってるの知ってた?」
「お、お見合い!?若様がですか?」
「あの、お相手は…」
「いや、知らなきゃいい。それに中止になったから…って、なんだそのうれしそうな顔は」
「い、いえ何でもありません」
「まあいい。だがレイは仲間を放り出して逃げるようなタイプではない。それに姉貴がフェラーリで…そうか、そう言う事か」
「若様どうかなさいま…うむっんんんっ」
 言いかけた途端いきなり唇を奪われ、梓がじばたばと暴れたがシンジは逃がさない。
 やがてその目がふにゃっと溶け、瞳が閉じかけたところでシンジは離れた。
「わ、若様なにを…」
 真っ赤な顔で口元をおさえた梓には構わず、濃密なキスでこれも顔を赤くしている瑞希を見た。
 きゅ、と指さした先は自分の前であり、
「い、いけませんそんなのっ」
 首を振った途端、物騒な力で引き寄せられ、これも重なった唇からたちまち舌の侵入を許してしまった。
 瑞希もまた片手で抱き寄せた主人に、こっちはややくすぐるように咥内を嬲られ、崩れようとするところを抱き留められた。
 二人ともすぐには反応できず、ぼやーっとしていたが、やがて正気に戻ったその目に見る見る涙が浮かんできた。
「こ、こんな事をされては私達…も、もう…」
「ど、どうしてこんなことを…」
 だがシンジの声は、涙すらもぴたっと氾濫を止めるほど冷たいものであった。 
「俺の前で、二人に手出ししてみると?。誰でも構わないけど」
「わ、若様?」
「二人が抗議するなら受ける。二人に向けられた敵意や害意は全て、碇シンジの料金受取人払いだ」
 ふっと表情がゆるみ、
「で、二人は嫌?」
「い、いえあのっ」「そ、そんな事はありませんっ」
「良かった。メイドさんから婦女暴行で訴えられたらやだしね」
「そ、そんな事は死んでもしませんっ、若様にそんな事なんて絶対っ」
「分かってるよ梓。無理言った事へ、俺からのお礼だ。それから」
「はい?」
「もし誰かにこの事を言われたらこう言うんだ−ウェルダンに焼けてからピラニアの餌になりたくなければ余計な詮索はするなってね」
「『は、はい…』」
 彼女たちも、他の屋敷ではメイドの役目が、単に雑務だけに終わらない事は知っているが、この若主人はメイド達に今まで一度も手を出した事がない−ただ一人、綾小路葉子を除いては。
 その葉子はいま帝都にはおらず、実家に帰っている。とは言え、無論ミサトの感情を知っている二人に取って、シンジを突き飛ばす事は許されないまでも、感じてしまった事はミサトへの反逆にも思えたのだ。
 だがシンジは、二人への手出しはさせないと言い切った。
 何よりも、ウェルダンとピラニアの単語が効いた。それがなにを意味するか、碇家に仕えている者なら分かりすぎるほど分かっているのだから。
「二人ともありがとう。非番なのに悪かったね」
「いえ、とんでもありません」
「お屋敷でも暇でしたから」
 どこかまだふわふわしている二人が、一礼して去っていく姿を見ながら、
「舌は…入れすぎだったかな」
 呟いた途端跨った車体が揃ってぐらりと揺れ、思わずシンジもぎょっとした表情になったが、すぐに立て直したのを見てほっと安堵の息をついた。
 やはり舌を入れてのディープキスは、やりすぎだったらしい。
 
 
 
 
 
「…誰かによっぽど恨みでも買ってるのか?山岸は」
 とりあえず摺り下ろした林檎とお粥を持って、シンジは各部屋に侵入した。まず最初に訪れたのはアスカの部屋であり、なぜか額に濡れタオルを置いた手をぎゅっと握られたものでびっくりしたが、頬にできた一筋の涙と呟いた単語で、シンジはアスカの思考を知った。
 古い夢を、子供の頃に見た光景が甦っているのかもしれない。
 風邪を引いた幼い娘をずっと側で見守って、看病してくれた優しい母親の事が。
 他は皆、おとなしく熱を出して寝込んでおり、シンジは一人ずつ治してから、頭にタオルを乗せていった。
 治癒のスキルは文字通り、手取り足取りでシビウから教えられたシンジであり、別段苦労する事もなかったのだが、どの娘の顔も熱の火照りのせいか普段の数倍、と言うより普段では到底見られないほど色っぽく見え、そんな事もあるんだとシンジは妙な事に感心していた。
 だがマユミの部屋に入った途端、それどころではなくなった。
 三歩進んだ瞬間、両脇から矢が飛び出して来たのだ。よく言えば質素、悪く言えば要塞のイメージを受けた事で、何となくだが用心していなかったら矢ガモならぬ矢シンジができたかもしれない。
 しかもさらに進むと、今度は上から段平が降ってきた。これはひょいとかわしたシンジが、なにを思ったか箪笥の前に立った。無論、いずれかの引き出しには下着が入っているはずだ。
 が、なにも起こらない。
 と言う事はとりあえず、下着泥棒への対策ではないようだ。
 では何のために?
 念のためそば屋の出前みたいに、片手に盆を持って進んだシンジだったが、その後はなにも起こらなかった。
 首を傾げながら寝室へ行くと、質素にまとめられた和室らしく、ベッドなどという西洋かぶれの物は使っておらず、ちゃんと床に布団を敷いて寝ていた。
 ただ、赤らんで色気すら帯びた顔が、妙にこの部屋に不似合いな感じに見え、何となく治さねばという強迫観念にシンジは襲われた。
 かさかさと出ると、帰りは無事に出られたシンジだったが、部屋を出てから呟いたのが冒頭の台詞だったのである。
 少し首を傾げたまま、今度は大丈夫だろうと、アイリスの部屋を訪れた。
「入るよ?入ったよ〜」
 堂々と不法侵入すると、こっちは何の抵抗もなく寝室まで入れ、シンジはふうと息をついた。
 別につく場面でもないのだが、マユミの部屋の印象が強烈過ぎて、もしやここもと言う思いがあったのだ。
 さくらの部屋でさえ、普通の女の子の部屋だったというのに。
 アイリスのベッドはまた、アラビアンナイトから出てきたような代物で、いかにもお姫様というイメージが漂ってくる。
「ん?ん〜?」
 シンジがおや、と言う表情になったのは、ずっと抱いていた筈のぬいぐるみ−ジャンポールが壁に置かれていたのだ。
 聞いた話では、寝る時もずっと一緒だったと言うのだが。
 だがその顔が動いてある物を見つけた時、顔は空中で停止した。
 そこにあったのは写真立てであり、そして写っていたものは。
「げ!?」
 その先には自分がいた−アイリスを膝に、それも風呂場で乗せている自分が。
 無論アイリスが風呂にやってきた時の物だが、こんな写真など撮られた記憶はない。
 一瞬呆然とし、次の瞬間焼こうかと言う思考が脳裏を過ぎったが、恐るべし復讐が待っていそうな気がして止めた。
 それにしても、とシンジは口にした。
「末恐ろしいぞ」
 と言っても、アイリスもまた現時点では熱に苦しむ少女である事に変わりはなく、額に手を当てると燃えるように熱い。
 とりあえず風邪だろうとシンジは見ているが、全員が一斉にだからウイルスが流行した可能性もあり、早急な検査が必要だとシンジは判断していた。外傷はかなり守備範囲が広いが、内側はちょっと熱を下げられるだけで、医の分野はやはりドクトルシビウの専門である。
 パジャマの第二ボタンまでぷちぷちと外し、体温計を差し込むと数秒で機械音が鳴った。
「三十八度七分…高いな」
 他も大体似たり寄ったりだったが、アイリスとは年齢も違うし抵抗力も違う。既に薬要らずで治せるだけにはなっており、他の娘にはしなかった付録−首筋周りの汗を拭ってから小さな手を取った。
 やがて苦しげな息が、静かなそれに変わったのを確認すると、シンジはそっと部屋を出た。
 写真の処遇について後ろ髪をぎゅっと引かれる気はしたが、さすがに勝手な処分はできまいと諦めたらしい。
 
 
 
 
 
「おにいちゃんっ♪」
 妙に浮き浮きした声と共に、シンジがきゅっと抱きつかれたのはその日の晩になってからであった。
「もう大丈夫なの?」
 夕刊を眺めたまま訊いたシンジに、
「うん、もうすっかり大丈夫だよ。おにいちゃん、アイリス治してくれたんでしょ」
「熱出したのにほっとけないからね。ところでアイリス」
「なあに?」
「アイリスのベッドの枕元に、みょ〜な物があったんだけど」
 ぴくっ。
 きゅっと抱きついたまま、アイリスの身体が一瞬固まった。
「な、なんのことかなあ、アイリス知らないよ」
 白を切るアイリスを、シンジの腕がにゅうと伸びて捕獲しようとしたところへ、さくらとマユミが降りてきた。
「碇さん、お怪我はありませんでしたか?」
 これがマユミの第一声であり、
「…いつもあんなのを?」
「いえ、あれは飾りで解除スイッチはすぐ分かるよう、入り口の壁にあったんですけど碇さんが来られるとは思っていなくて…でもありがとうございました」
「あ、うん治って良かった」
 頷いた途端、アイリスがするりと抜け出してシンジは機会を失った。
 ちっ、と内心で舌打ちしたシンジだが、そこにさくらの真剣な顔が迫ってきた。
「ど、どしたの?」
「碇さん、あの、その…えーと…」
「大丈夫、誰も着替えさせたりはしてないから。お粥にも遅効性の毒は入ってない」
「そ、そんな事じゃなくてあの…お、お見合いはどうされたんですかっ」
「断ったよ」
 シンジはあっさりと言った。
「こ、断った?」
「住人が半分以上死んでるのに、一人だけ行かれないでしょうが」
「ほんとですかっ!?」
「きゅーっ」
 うん、と言おうとした途端さくらに飛びつかれ、シンジは死神が笑って手招きしている姿を一日で二度見る事になった。
 抱きついてから本人が、
「あっ、こ、これはその…」
 赤くなってもにょもにょ言ってる所を見ると無意識だったらしいが、その途端、
「さくらさん、何やってるんですの!」
「シンジあんた、なーに鼻の下伸ばしてるのよっ!!」
 伸びたんじゃなくて、生命線が縮んだんだと言おうとしたら、今度は後ろからきゅっと引っ張られた。
「おにいちゃんにそう言う事していいのは、アイリスだけなんだからねっ」
 誰もそんな事は言ってないが、そう言う事になってるらしい。
 大騒ぎになりかけたが、
「君らまだ体力戻ってないんだから、今日はもう休みなさい」
 シンジの一言で部屋に強制送還され、ぞろぞろと戻っていった。
 全員が戻ったところへ、妙に機嫌のいいレイが戻ってきた。
 シンジにはその訳がほぼ読めたのだが、
「お帰り、レイ」
 と言っただけで、なにも言わなかった。
 ただ、なにも気づかぬレイがご機嫌なまま上がっていった後、
「発生は偶然にせよ、次は許さないよ」
 いつもの声で呟いたのみである。
 その晩は病み上がりという事もあり、皆静かに眠ったのだが、この館を震撼させる事になる人物が訪れたのは、翌朝の事であった。
 
 
 
 
 
(つづく)

TOP><NEXT