妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
第七十七話:乱れ髪
 
 
 
 
 
「そうか…やむをえんな」
 逃げ戻ってきた二人から報告を受けた葵叉丹は、何故かさして怒る様子もなく、軽く頷いただけであった。
 その前には無論、さっさと退散した水狐を睨め付けているミロクがいる。
「碇シンジなんか、赤子の手をひねるようなもんじゃなかったのかい」
 皮肉と嫌みのたっぷり詰まった台詞にも、
「あんたを尊重しただけよ」
「…何だって」
「あんたがあんまり恐れるから、どんな物かと様子を見ていたら、なんかうまくいきそうだったから、手柄はあんた一人の物にする気だった。でも火車が出てきて壊れるのが分かったから、愚図愚図してないで帰ってきただけよ。それとも、土壇場で私が出ていって手柄を持って行かれた方が良かったのかしら」
「だ、誰がお前なんかにっ」
「止せ、二人とも」
 険悪になりかけた二人を止めると、何を思ったか悪の親玉はすっと抱き寄せた。
「え?」「さ、叉丹様?」
「確かに、あやつを相手に正攻法で分が悪いのはもう分かっている。とは言え、小娘一人で釣れるともまた私は思ってお前達を行かせたわけではなかった。だがお前達は良くやった。報いとして今日はお前達二人、この手に抱いてくれる」
「『!?』」
 今までは愛人どころか、目もくれなかった懸想の相手が抱いてやると言い出した。無論お互いに邪魔者がいるが、
「いやか?」
 一瞬だけ視線が交錯したものの、すぐに揃って勢いよく首を振った。
 どうやら、女の御し方は肢体にあるとこの親玉は踏んだらしい。両手が一閃すると二人の衣服が揃って床に落ち、一糸まとわぬ姿になった女達の胸にそのまま手を伸ばしていった。
 
 
 
 
 
「は?空いてないの?」
「申し訳ございません」
「使えないなー、全くこのホテルは」
 無遠慮に辺りを見回す小僧相手にも、フロントの男はまだ限界点に着火はしていなかった。
 しかしそれが一瞬で崩れたのは、
「どうせここのオーナーも間抜けなんだろ。顔が見たいものだ」
 呟くでもなく、平気で口にした瞬間であった。
 自分たちはあのオーナーを絶対信頼しており、その言う事は絶対だ。それを、こんな夜中によれよれの格好で来た小僧に侮られては自分たちの矜持にかかわる。
 あくまで表情は変えぬまま、卓下のベルにすっと手を伸ばす。屈強なガードマン達が数十秒とせぬうちに大挙して現れ、この無礼な奴を連れだしてくれる。あとは袋叩きにして放り出せば済む話であり、こいつがどうなろうと知った事ではない。
 無銭で泊まった客用ではなく、トラブルを持ってくる輩専用なのはここらしいと言える。
 だが、結局男達が来る事は無かった。
「ほう、間抜けなオーナーのお出ましか」
 何、とそっちを見て、
「オ、オーナー!?いつお戻りになられました」
 それには答えずにつかつかと歩み寄ってくると、
「若、お帰りなさいませ」
 恭しく一礼したのには本気で度肝を抜かれた。
(わ、若!?なんだこいつは)
「黒木、お前のとこって、服見て部屋を決める教育しかしてないのか?こんな所、さっさと潰しちゃいな」
 無礼極まる台詞にも、
「申し訳ありません。ただ今は他が満室になっておりまして−」
 男を見やり、
「あの部屋にお泊めするように。大至急だ」
「え?しかしあれは…」
「私に二度、同じ事を言わせる気か」
「も、申し訳ありませんっ」
 慌てて奧へ消えた男を見ながら、
「何?幽霊でも出る部屋なの?」
「いえ、ちょっとしたVIPルームです。大した部屋ではありませんが、よろしかったらお泊まり下さい。それと、あの男は今日付けで馘首しておきますので」
「それには及ばない」
 シンジはすっと手を挙げた。
「俺の顔なんか変じゃない?」
「と言われますと…」
 シンジの顔を眺めて、
「頬の辺りが少し赤くなっておられますが」
「両側から引っ張られた。まだ掌に残ってる右乳の余韻に免じて許してやる」
「そ、それはそれは」
 と一瞬呆気に取られてから苦笑した黒木は、出自も凡庸ではない。元々数年前までは日本でただ一人殺しのライセンスを与えられ、身分も経歴も全て抹消されて特別任務に就いていた男だが、鍛え上げた肉体も銃の腕も通じない相手−邪霊が人の形を取った物に追い込まれ、見た目は単なるへなちょこに、一国すら恐れると言われた男が絶対絶命の窮地になった所へ、
「助け要る?」
 妙に間延びした声がした。
 見ると背の高い少年が電柱の上から見下ろしており、
「何者だ」
 低い声で誰何すると、
「要るか、と訊いている。要らなきゃ帰るぞ」
 少し声が低くなった。
「…頼む」
 誰かに助けを、それも戦闘中になど死ぬまでないと思っていたが、自分の範疇外の相手に黒木はやむなく頼んだ。
 その時のことを、黒木は今も忘れてはいない。
「高くつくぞ」
 妙な返答と共に、電柱の上から少年はひらりと飛び降りた。地面に着く寸前、逆噴射みたいな感じがしたがよく分からなかった。それが風を使ったと知ったのはしばらく後の事である。
 そして少年が男と相対した途端、そいつに明らかな変化が生じた。圧倒的有利で黒木をもてあそんでいた男が、みるみる震えだしたのである。
 しかも少年は突っ立っているだけで、何もしていないと言うのに。
「見逃してやってもいいが、お前達を片づけてこの人から謝礼をふんだくる事になってる。来るか?こなければこちらから行くが」
 ポケットに手を入れたまま告げた時、
「き…きけええええっ」
 何故か、どう聞いても断末魔に聞こえる声で、男はサバイバルナイフを取り出して、腰溜にして襲いかかった。少年は避けるでもなく、刃が身体に触れる寸前、すっと片手を抜いた。
 そしてなにやら呟いた次の瞬間、男の身体はみるみる崩れていき、二秒とかからず灰になってしまったのだ。
「片づいたよ」
 お部屋の片づけ終わり、みたいな口調で少年は言うと黒木を振り返った。
「碇シンジだ。見てのお帰りにお礼は大量にしてもらうぞ」
 何故か偉そうに威張ってから、
「肉体がどんなに強くても、叶わない次元ってのはある。そのベレッタは、こいつに踏まれたな」
 地面でひしゃげている大型拳銃に目を向けた。
 黒木が頷くと、
「普通の肉体を持った奴を相手の鬼退治なら、あんたとその銃で十分だろう。でもこの街ではむしろ通じない事を学習し直したほうがいい。あんた、名前は?」
「…黒木だ」
「いいモン見せてあげやう。腕相撲でもしたら俺はあんたに敵わない−絶対にだ。だが素手のままこれは出来まい」
 左手はポケットに入れたまま、シンジは右手を電柱に向けた。
「風裂」
 黒木は呆然と見ていた−その手から風が放たれ、当たった電柱が真ん中ですっぱりと断たれたのを。
「弾切れも遊底がイカれる事も関係ない。五体が木っ端微塵になって墓碑も残らんのはあんたの方だろうな−あ、避けて」
 ぶうん、と倒れて来たそれを黒木は慌てて避けたが、もう一度目を剥く事になった。
「切った物は繋がないと」
 奇怪な台詞と共にシンジの手から何かが飛び、ぶち切れた筈の送電線が幾分たわみ気味ではあったが繋がったのだ。
「美貌の院長特製の鳥もち」
 少年の台詞に、もはや呆然として立ち尽くすしかなかった。
(まさか、あの時は自分が魔道省に入るなどとは思わなかったが…)
 黒木の指示で現場検証中の警官達を見ながら、黒木は胸中で呟いた。無論かつての過去を知る者はシンジしかいない。警官達が指示に従ったのは上からの物ではなく、降魔や霊障が絡んだ事件の場合に魔道省の者がいればその指示に従う事になっているのだ。
「神崎忠義は死んだ。後は−若があそこを潰されるかどうかだか」
 呟いた時、黒木の双眸に一瞬だけ鋭いものが宿った。
  
 
                                                                                                         
「ザーとかゆってる。ザーとか」
 どうしたものかな、とシンジはグラスの氷を見つめながら呟いた。ただし、琥珀ではなく茶色の液体は烏竜茶だ。
 二人がいるのは、最初にすみれが選んだ場所ではない。
「こっちがきれいだよ」
 反対方向に足を向けたシンジに、
「よく…ご存じですのね」
 皮肉をたっぷり詰めた声で囁いたが、
「職業柄、ホテルの部屋に行くこともあるんだよ。依頼者が家の中にだけいる訳じゃないからね」
 仕事です、と言われて着いた先はラブホテルであり、あっそうと入っていくシンジもシンジだったが、その時は内容を聞いていなかったのだ。
「…何これ」
「膣痙攣で…おごっ」
 ゴス、と一撃入れられ、
「そんな事は分かってる。そんな事なら医者の分野だろう。俺には関係ないぞ」
「は?」
「大方、出張ヘルスか何かで頼んだ女に変な霊でも憑いていたんだろ。それも地縛系じゃなくて突発型だからほら、もう普通の女に戻ってる」
 はあ、と頷いたがよく分かっていない。大体、淫魔が女にとりついて、最中に膣痙攣を起こさせた所に派遣され、二人とも気を失ってるからいいが、これで声でも上げていたら射殺していたかもしれない。そこへやってきたのがシンジだったから、後は任せてもうさっさと帰りたかったのだ。
「予はもう帰るぞ」
「はっ?」
「予は帰る、と申しておる。後はお前が医者を手配しておくがよい」
 どっかの殿様みたいな口調で言うと、そのまますたすたと出ていってしまい、振り返ろうともしなかった。
 だからすみれに言ったことはウソではない−シンジがシビウを襲う時は、いつも院長室と決まっているからだ。
 後ろから胸をたっぷり楽しんでから、首筋に痕を付ける姿は傍目には結構犯罪的光景だが、無論ミサトはそんな事は知らない。
 知らない方が幸せだろう。
「お仕事ですのね?」
 何故か念を押すように聞いたすみれに、
「それ以外になんかあるの?」
 シンジが聞き返すと、何でもありませんわっと首を振った。
 結構と頷いてシンジが向かったのは、そこから百メートルほど離れた所にあるホテルだったが、これはもうその辺りのシティホテルより遙かにきれいな造りであり、しかし奇妙だったのはシンジの行動であった。シンジは裏口に向かったのである。
「頼もう」
 江戸時代の道場破りじゃあるまいし、これにはすみれの方が慌ててシンジの袖を引いたが、大丈夫大丈夫とシンジは気にもしない。
 そして二十秒後、はた迷惑な裏口からの客を出迎えたのは支配人であった。
「碇様、お久しぶりです。ささ、こちらへどうぞ」
 と、背中にいるすみれに気づき、傷の手当てをなさいますか?、と訊いたが、
「必要なのは心の傷だ。外見は大丈夫」
 シンジの言葉に頷いて、
「かしこまりました。部屋は用意してございますので、ご自由にお使い下さい」
 そう言って二人をエレベーターに乗せるとボタンを押した。みるみる速度を増して最上階までまっしぐらに上がっていく箱に、
「い、碇さんこれは何ですの」
「ここのエレベーターは二つあってね。一つは一般用でもう一つは最上階の部屋直行になってるの。さ、着いたよ」
 
 
 
 
 
「ねえ、レニ」
「何?」
「おにいちゃんはずっとここにいるのかなあ?」
 シンジに言われた通り、アイリスと二人して学校へ向かう途中のレニは出る間際、刹那懐かしそうに鞄を見た。また、こうやって普通に学校へ行く日が来るとは思っていなかったのだ。
「アイリスはずっと居て欲しいの?」
「うんっ」
 アイリスは勢いよく首を縦に振った。
「だっておにいちゃん、優しいしかっこいいんだもん」
 半分同意だ、とレニは内心で呟いた。
 確かに一級品ではないが、180を優に越える長身とそれなりに整った顔立ちは悪くない。いや、レニに取ってはそれで十分である。
 そう、本人は知り合いと比べて美が足りないと気にしているとしても、だ。
 しかし優しいかどうか、と言うのはまた別である。
 自分が止めなければ、間違いなくシンジはフユノを殺していた。そして、自分を連れてきた男二人を、自分には見せないようにしていたが、跡形もなく滅ぼしたのも分かっている。もっとも、あれは赤木ナオコも絡んでいたようには見えたが。
 麻痺してるかな、とは思う。自分をひどい目に遭わせた、ということは別として、そのことで怯えも恐怖も確かに自分は感じなかったのだ。
 ただ一つ分かっているのは、その点で自分は住人達より大きくリードしている、ということだ。勿論、金や単に気にくわない、で人を殺すシンジではないが、それが敵に回れば容赦しないのは分かっている。
 とは言っても、住人達の事だから、いざそれを目にすれば怯えるに違いない。だとすれば、鈍ったような自分の感覚も有利なカードに変わる。
 アスカにさくら、それにすみれまでもシンジに気があるのはもう分かっている。もっとも、アスカは性格的にストレートには出せないだろうし、嫌いは好きの裏返し、というのはシンジには通じない。
(駄目押しに…夜這いでもしてみようかな)
 ぼんやりと、レニがとんでもないことを考えた時、
「レニ、今何か言った?」
 表情に出たのかアイリスがひょいと顔を覗き込んだが、
「なんでもないよ」
 とレニは首を振った。まだ幼いとはいえ、自分と並んでシンジの寝室に入れると言う意味では、やっぱりこの娘もライバルなのだ。
 
 
 
 
 
 氷にカラカラと音をさせながらシンジがグラスを空けた時、これが最後だと頷いた。もうボトルを一本空にしてしまったのだから。
 ことり、とグラスを置いた時、ゆっくりとバスルームの扉が開いて一人の娘を吐き出した−真っ白なガウンに身を包んだ娘を。
「暖まった?」
「ええ、いいお湯でしたわ」
「悪いけど勝手に服持ってったよ」
「え?」
「汚れてたから全部ランドリーに入れておいた。多分、上がるのに時間かかると思ったから。数分で乾くから乾いたら帰ろうね」
 はらりと前を合わせていないガウンが、床に落ちるのをシンジは見ていた。完全には拭いてこなかったのか、一度シンジが触れた乳房も、そして髪と同じ漆黒の淫毛も妖しく濡れ光っている。
「わたくしでは…わたくしでは役不足ですの」
「アスカの裸は二度、すみれの裸も一度見ている」
 シンジはすみれの目を見ながら言った。
「一度目は二人が大喧嘩して、あちこちに傷を作った時だ。乳房にあったひっかき傷を治した時、すみれの胸に触れたのを知ってるかい?」
「わ、わたくしのっ?」
 思わず胸に手を当てたすみれに、
「アスカの方は、乳ではなくお尻に擦り傷があったから触ったのはそっちだ」
「…それで…もう一回は何なんですの」
「風呂で遭遇した。正確に言えば俺が温度を高温にしたまま出てきたものだから、アスカがバスタオル一枚で激怒して飛び出してきた。もっとも、単にゆだっただけかもしれないが」
 かすかに笑ってから、
「俺にぶつかってタオルが落ちた。もっとも、どれもわざわざ拝みにいった代物ではないし、すみれの身体に触れたのはむしろ煽動役の山岸に責任がある所だ」
「何がおっしゃりたいの」
「欲情ではなく治療で触れた、とそう言った。神崎忠義が死んだ以上、全権はすみれの親父さんに移る。すみれにも、色々とやる事が出てくるよ」
 生理中の彼女と喧嘩すると、朝日が東から昇るのと同じくらいの確率でこじれる、これはほぼ間違いない。
 祖父の死が原因だろうが、動転しているすみれを突き放しても、これまたこじれるのは確実だと思ったのだが、これはシンジの読み間違いであった。
「だから…ですわ…」
「え?」
「父が跡を継いでも、母はスイスからは戻りませんわ。そうなれば、多分私にも実家へ戻るよう正式に要請があるはず。そうしたらもう、わたくしは女神館へは二度と…」
(しまった)
 単なる錯乱かと思ったのだが、全然違ったらしい。
 だとすればやや不適当だったかと、シンジが内心で後悔しかけた時、すみれが音もなく動いた。
 文字通り滑るようにしてシンジに近づくと、
「私の事を命を賭して助けに来るような人は他には一人もいないと、わたくしだって分かっていますわ。だから、碇さんが来てくださった時本当に嬉しかったのです。でももうお会いする事もきっと…だから、だから…」
 それはない、と言いかけてシンジは止めた。
「すみれ一丁よろしく」
「あいよー!」
 とシンジが返さない事など、重樹だって分かっているはずだし、父親の二の舞を踏むことなどまずしないだろう。
 だがすみれにとっては、自分が戻れぬ事は確定事項のようであり、或いは自分の中で自らが悲劇のヒロインになっているのかもしれない。
 これも一時的なショックから来るものなのか。
「いいよ」
 少ししてからシンジは頷いた。
「でも、すみれの結婚相手が処女を絶対視するようなタイプだと困る。それにいきなりは痛いからその前までね」
 シンジの台詞に、頬をすうっと染めてすみれは頷いた。
「先にベッドに行ってて」
 小さく頷くと、身を隠すこともなくベッドに歩いていく。ぷりぷりと揺れる尻を見ながら、シンジはバスルームへと消えた。
 
 
 
 
 
(つづく)

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