妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
第七十八話:その乙女敏感につき
 
 
 
 
 
「生命の神秘、なかなか壮大だね。滅多に立ち会えない神聖なものだ」
 言ってる内容は悪くないが、発言主の顔を見ると持っている感情は別のようだ。
「なんで俺がここにいるのさ」
「滅多にない、と今言ったばかりだ。たまには付き合ってみたら?」
「……」
 何やら言いかけてシンジは止めた。クランケ−陣痛に耐えている妊婦の前だという事を思いだしたのである。
 美味しいラーメンの店ができた、とシビウがシンジを誘い出した。口実をつけて誘い出すのは珍しくもないが、大体余計な事が起きる。今回も店員が、麺を妖しい手つきで口に運ぶシビウを見て卒倒しかけ、シンジがいなかったら客に熱々の丼が、その中身を勢いよくぶちまけていたところだ。
 大体、単に格好いいで終わるシンジは別だが、シビウなどどう見ても雲か霞を摘んで口にしているとしか思えない。
 立ち食いと大して変わらないような店に来るようなタイプではない。この人外の美貌は周囲に傍迷惑なのだ。
「今度からさ、院長室に運んでおいてくれない?」
 シンジの提案に、
「なぜかしら?」
 と、シビウはこの女のどこにと思われるような、無邪気な笑みを見せた。この顔を見せられたら、例え一国を滅ぼした事が明白であっても、思わず無実を宣告してしまうに違いない。
 ある青年にだけみせる表情(かお)でわずかに小首を傾げたシビウに、
「お前と店に行くと周囲が迷惑だ。おまけに迷惑な女の手下その一に俺がなる。合計五倍の迷惑だ」
「冷たいのね、相変わらず」
 男女問わず顔を赤らめそうな吐息と共に、切なく物憂げに口にしてから、
「その言葉、間違いないわね」
 何故か急に妖艶な表情を取り戻し、にっと笑った。
「え?」
「院長室ならば余計な従魔も入れない。あそこならば誰にも邪魔をされない最高の場所よ」
「あ」
 と言ったがもう遅い。
「まさか口にしたことを翻しはしないでしょうね?さ、約束の証に−」
 それだけで、口に含みたくなるような小指が伸びてきたそこへ、
「あれ、せんせいんとこの従業員?」
 五精の中に風があるシンジは、音を聞き分ける事に関しては普通よりかなり優れている。正確には、風そのものが音を伝えてくるのだ。その気になれば一キロ四方にアンテナを張り巡らし、近づいてくる者や起きた音をすべて把握する事すら出来る。
「救急車など十数台はいる。一台くらいぶつかっても不思議はないわ」
 と気にした様子もないのは、珍しい言質を取りかけたからか、或いは部下を信頼しきっているからか−多分前者の比重が幾分重い両方だろう。
「見に行かない?」
 妙に嬉々としたシンジの言葉にも、一瞥しただけで黙って足を向けたのは、簡単に縛れぬ相手と分かっていたせいか。
 二人が現場に着くと、既に担架に乗せられて若い女性が運ばれてくる所であった。膨らんだ腹部はおそらく妊婦であろう。それ以外の原因−取り憑かれたりしていれば病院よりも魔道省が優先になるからだ。
「患者の容態は」
 院長の姿に一瞬隊員は驚いた顔を見せたが、すぐにびしっと敬礼した。
「家の中で突如陣痛が始まったとの事です。現在脈拍は−」
 報告しようとするのを制して、
「私も行こう」
「院長が来られるのですか?」
「一人、是非生命の神秘に付き合いたい者もいる事だ。来たまえ」
 てっきりオロオロしている旦那の事だと思ったら、ぐいと手を掴まれた。
「は?」
「望んだのは君だ」
 しなやかな、傷など決して付けてはならぬと思われるような手だが、掴まれた方はびくともしなかった。
 下手に抗うと危険だと判断し、
「ほら、あんたも乗った乗った」
 狼狽えている亭主を押し込み、救急車は走り出した。
 こんな時、普通なら母体の安全が優先されて手当が施される。だがシビウの取った行動は、直接の医療行為ではなかった。
 脂汗を滲ませて大きく肩で息をしている女性の手を取り、
「あなたにはお礼をしてもらう」
 仰天するような事を言いだした。
「…え?…」
 医者にこんな事を言われたのは初めて、いや普通の患者ならまず体験できまい。目を白黒させている妊婦に、
「本来ならこの車に乗っているスタッフだけで十分なのを、この私までも付き合わせたのだから当然でしょう」
 あなたが勝手に乗ったのに、とは言わせぬだけのものがこの院長にはあった。
「ただし−ご主人と、それから生まれてくるお子さんの三人で来て頂くわ。さ、ゆっくり息を吸って」
「せ、先生…は、はいっ」
 何を言われるかと身を固くしていたが、思いも寄らぬ言葉で目に涙を浮かべて何度も頷いた。
 未だ見ぬ子と必ず対面させる、シビウはそう言っているのだ。
 神技にも近い腕前から、或いは悪魔とも契約したのではないかと言われるドクトルシビウの名に賭けて。
 が、まもなく救急車は停止した。運転手の腕がいいのかよほどのスプリングが入っているのか、まったくと言っていい位停車のショックはなかった。
 病院はまだ先である。
「どうしたの?」
 訊ねたのは、冒頭の台詞の後、乗らなきゃ良かったと外を眺めていたシンジである。
「それが、駐車車両が道を塞いでいて−」
「標識は」
「駐車禁止の標識が出ています」
 困ったね、と呟いてからシビウを見たが、その手はすでに見えぬ毛布の下に滑り込んでおり、波のように襲ってくる痛みから母親を保護しているに違いない。こちらの方は見ようともしない。
「病院までは後十分くらい?」
「ええ、ですが…」
 無論その後には、急がねば母体に危険が、いや母子共に危険になるとの意が込められており、それが分からぬシンジではない。
「ん?」
 その表情が動いたのは、オロオロ星にでも生まれたとしか思えない旦那が、急に降りようとした時であった。
「何をしている」
「運転手にどかしてくれるよう頼んできますっ」
「さっきからスピーカーで、さっさと立ち退けって言ってるの聞こえない?」
「で、ですがこのままでは妻が、妻がっ!」
 シンジがほう、と言うような顔になったのは、そこに男の顔があったからだ。オロオロ星人から地球人の、それも妻子を守る男へと僅かな間に進化したらしい。
 まあまあ、と取りあえず止めてから、
「もし間に合わなかったらどうする?奥さんが逝っちゃったら」
 いくら素人でも医療現場に於いては許されざる発言だったが、
「妻を、妻を一人ではいかせませんっ。自分も、自分もっ」
「あー、分かった分かった。じゃ、あんたの仕事は別に出来た」
「え?」
「いいか、奥さんの頭をぎゅっと抱いて。そうそうそれでいい。で、ついでに奥さんの耳もぎゅっと塞げ。火事を見ると流産するって言うからな」
「それは迷信よ」
 シビウの言葉は無視して、ほれ早くと促した。
 何がなんだか分からぬまま、男が妻をかき抱いてその耳を塞ぐのを見てから、シンジは窓から顔を出した。
「改造車−ヤンキーか暴走族だな。車がどいたら全速で走り抜けて。いいね」
「分かりました」
 何をする、と訊きもしない。院長の友人が何をするか位分かっていないと、救急隊員など勤まらないのだ。
 ゆっくりとシンジの手が上がり、
「爆風」
 放たれた凄まじい風が四台の車を一気に宙に舞い上げた所へ、
「風裂」
 続けざまに襲った烈風は宙で車を木っ端微塵にうち砕いた。風と言ってもただの風ではない。人が立っていられぬクラスのそれを、更に数百倍にまで上げた代物だ。
 凄まじい音に、喫茶店から頭を染めた連中が飛び出してくる。どうやら、救急車の声も柳に風と受け流してコーヒーでも飲んでいたらしい。血相を変えて飛び出してくるのを見て、シンジはひょいと降りた。
「後は医者の役目だよ」
「分かっているわ」
 妖艶なウインク一つと共に、車は一気に走り抜けた。
 それを見送って、
「そこに流れてるオイル、ブラックにでも入れて飲むんだな。でなきゃ、舌で舐め取っておく事だ」
「てめえの仕業か?」
 リーダー格みたいなモヒカン刈りが訊いた。辺りを囲んだのは十人ばかり、既に目は血走って殺気立っている。
「お前の残った髪も、なんなら切り落としてみるか?坊主の方が似合ってるぞ」
 連中の手に一斉に大型ナイフが飛び出すのを見て、シンジはフンと笑った。
 その晩シビウからの電話があり、
「産まれた?」
 まず先に訊いた。
「3800グラム、少し健康過多の長女誕生よ」
「うん、それは良かった」
 頷いてから、
「ところで、シビウの所の緊急車両って、全部戦闘装備してなかったっけ?」
「五台揃えば自衛隊の一個師団は相手に出来るわ。それが何か?」
「ううん、何でもない。ところで旦那はどうなった」
「息切れよ。病院に着いた途端腰が抜けたわ。所詮男などその程度の生き物よ−無論君は別よ、わかっているわね?」
 濃艶な声で囁きかけてくるのを、
「へっぽこな男如きでは美貌の院長の相手はつとまらない。二度と誘わないでくれ」
 さっさと電話を切ってしまった。
 シンジを襲った連中は、結局シンジから一撃を食う事もなかった。
 死亡診断書には、突発性失血症と言う、よく分からない理由が書かれていた。無論それ自体は事実だが、血を喪った箇所がどう調べても見あたらなかったのである。
 音もなく急降下してきた黒い物体が貼り付くと、時に人命に関わる違法駐車も平然とこなしていた不良達はみるみる生者の色を喪っていった。
 最期に相応しくオイル溜まりにどっと倒れ込むと、
「碇様、お暇そうですね。お付き合いいただけませんか?」
 玉鈴みたいな声がした。
 
 
  
 
 
 五分ほどで戻ってくると、すみれの姿はブランケットにくるまれていた。
 外は勿論まだまだ日が高いが、壁のボタンを押すと完全に日光は遮断され、夜の時刻へと変わる。さらに別のボタンを押すと、室内から明かりが消えてわずかに月光が差し込んだ。
 無論、この部屋にのみ特別仕様の月光であり、北欧の月明かりを取り入れたものと言われている。
 ベッドに腰を下ろしてそっとブランケットをめくると、そこにはきゅっと目を閉じているいるすみれの姿があった。
 一瞬だけ窓の方を見たシンジが、首の下に軽く手を当てて顔を近づけていく。唇が触れ合った瞬間すみれの肢体がぴくっと動き、きれいな歯並びを割った時わずかな抵抗があったが、それもつかの間のことですぐにシンジの舌を受け入れた。
「ふむ…ん…んう…」
 最初に声が漏れた時、シンジはすっと顔を離した。
 入り込んでいた舌も無論抜かれ、切なげにすみれが目を開けて、自分の表情に気づいたのか頬を染めた。それを見たシンジの口許に笑みのようなものが浮かび、再度唇を合わせて舌で軽く触れると、今度は自分から絡めてきた。
「…ふっ、くぅ…」
 すみれの好きにさせておくと、シンジの背に手を回して舌を絡めて来るが、キス自体も初体験らしく、積極的ではあっても手慣れた感じはない。舌を絡め合ったまま、すみれの胸に手を伸ばし、いきなり乳首に触れると、そこはもう硬く尖って大きさも増している。
「んんーっ!」
 こり、と乳首を爪で軽くひっかいた瞬間、すみれの身体が大きく跳ねて顔が離れた。
「痛かった?」
 うっすらと笑みを掃いたような声で訊いたが、すみれはそこまで気付かない。
「だ、だってえ…」
 おもねるような声も溶けており、おそらく双瞳も濡れきっているに違いない。
 あっ、とすみれが小さく声を上げたのは、シンジがその身体をくるりとひっくり返したからだ。
 そのまま首筋から背中へ、ゆっくりとキスを下げてくる。 
「そ、そんな背中ばっかり…ああっ」
「熱くなってきた」
 囁いたシンジは指先も背中に這わせており、乳房にも性器にも触れようとはしない。
 それでも唇が背の一番下辺りに到達する頃にはもう、言葉通り背中にはしっとりと汗が浮かび、その手は必死に毛布を握りしめている。声を出すまい、まだそんな意志で辛うじて自分を抑えているに違いない。
 僅かにシンジの唇が動き、ふいっと前に回った手がもにゅっと乳房を揉んだ。
「ひああっ!?」
 それも中心は外していたが、不意の動きに思わず声が漏れ、慌てて口をおさえたすみれだったが、抱き起こされて乳房を揉まれたまま股間へ軽く指が触れたときにはもう、声は抑えられなくなっていた。
 しかも首筋への軽い口づけは止まらない。弱い所ばかりを責められたすみれの閉じた脚の間は、ほてった背中と同じくらい熱い液が溢れている。
「びしょびしょ」
 わざと機械的な声で囁くと、
「い、いやぁ…」
 暗くとも気配で分かるくらい顔を真っ赤にして横を向いたすみれだが、その声はどんな役でも聞かれないに違いない。
 抱き起こして首筋へ唇を付けたまま、股間へと指が伸び、その一方で乳房へも指を這わして責める。
 もう抑える事など忘れてあられもない声と共に身をよじっても、シンジの腕からは逃げられない。既に軽く達する事数度、大きく体を波打たせているすみれを、今度はまた俯せにさせた。
「な、なにを…ふはあッ!?」
 尻を軽く上げさせると、愛液が滴って湿っているアヌスの入口から、液のたっぷりと付いた指をぬぷりと押し込んだ。
 第一関節までするりと受け入れるのと、すみれの身体がびくびくと跳ねたのはほぼ同時であった。
 最初に指を当てた時点でまだ処女なのは分かっている。愛撫など知らぬ身体へはあまりの刺激であり、もう喘ぐ事すら出来ずただ肩を波打たせて呼吸しているだけのすみれに、
「まだ指だ…あれ?」
 言いかけてから見ると、すみれの呼吸は穏やかな物へと変わっている。それもその筈で、既にすみれは失神していた。やはり乙女に三点責めはきつ過ぎたらしい。
 ただシンジに昂揚も興奮の感もなくしかも。
 ちらっ。
「全然やる気ないし」
 自分の下半身を見ると、これまたすやすやと寝息を立てている。
「困ったもんだ」
 何が困ったのかは不明だが、失神しているすみれの横顔を見て、ふと表情が動いた。
 ちゅ、と軽く頬に口づけしたとき、やっとその表情に笑みが浮かぶ。
「本当なら寝かさないんだけど−」
 ぴくっと手が動きかけて止めた。普段の相手とは違うと思いだしたらしい。
 最後は俯せだったから、そうあられもない姿ではないが、全身を弛緩させて横たわるすみれにブランケットを掛けてやると、自分もまた横になった。不眠訓練なんか受けている訳じゃないし、昨晩からの流れでシンジも疲れている。
 軽く目を閉じるとこれもまた寝息を立てていった。
 
 
 
 
 
「どりゃあああっ!!」
 かけ声と共に足が上がり、勢いよく落ちてくるその下には瓦が山と積まれている。十五枚を軽く蹴り割ったのは、鉢巻き代わりにタオルを巻いた長身の女であった。
「精が出るわね、カンナ」
 僅かに苦笑しながらタオルを渡したのは、これまた長身のブロンドである。
「だってよ〜マリア、いくら豪華客船だからって積まれっぱなしじゃ参っちゃうぜ」
 目下女神館にいない住人はこの二人であり、瓦を蹴り割ったのは霧島カンナ、タオルを渡したのはマリア・タチバナだ。
 しかし、この二人の存在をシンジから絶対内緒にする理由がどこにあると言うのか。
「あ、そうだ、マリアもやるか?いい運動になるぜ」
「私は遠慮するわ。身体がもたないもの」
 マリアがうっすらと笑ったそこへ、
「マリアさんまで瓦割に精を出されては、船員の方達が怯えてしまわれますわ」
 風の妖精が人の形を取ったらこんな声に違いない、と思われる声と共に一人の少女が姿を見せた。
 シビウが付けた人形娘であり、その美しさはいつ見てもまったく変わる事がない。
「今朝方お姉さまから連絡が入りました」
「シビウ先生から?何て言われたの?」
 主人と呼ぶな、そう命じたシビウの呼称はこれらしい。そしてまた、この娘を妹のように可愛がっているシビウでもあるのだ。
「帝都に脇侍が出たようです。既に女神館の皆さんが出撃されて、撃退されたそうですわ」
「『!?』」
 二人の顔に、一瞬にして緊張が走った。
 留守など気にせずに気を晴らして来るが良い、そう言ってフユノが用意したのは、何と世界一周の豪華客船であった。
 二人は知らないが、総費用は実に五千万を超える。無論、そんな大金を出した理由とシンジに秘している事は無関係ではない。いや、密接に繋がっていると言える。
 懸賞で当たったから今なら十万円で可能だと、一切の事は告げずに送り出したのである。
「そ、それであのっ、指揮は今誰が?」
 年齢など、どう見てもアイリスといい勝負だし、何よりも人形の肉体(からだ)だと分かっている。それでも確乎とした物を持つこの娘に、付き人だと告げられても横柄な物言いは出来なかった。
「藤枝あやめさんとかえでさんのお二人です」
 勿論、既にシンジが帰国して指揮に当たっている事は、委細洩らさずシビウから聞かされている。
「シンジさまが?」
 創造主から名を付けられなかった彼女を、シンジは姫と呼ぶ。そのシンジが帰国したと聞いて、最新鋭の装備に似合わぬ原始的な電話を手にして、彼女はぎこちなく頬に手を当てたのだ−なぜか、そこが染まっているような気がして。
 そして、二人にシンジの名を出さぬよう、シビウの判断で告げられていたのだ。
「そう、良かった」
 フユノから任命されてはいなかったが、発つ前は実質的なリーダーの役をマリアが果たしており、アスカとすみれが揉めでもしたらとそれが気になっていたのだ。
 がしかし。
 この二人が取っ組み合いの大喧嘩をして、揃って素っ裸にされてあっさり治された事などマリアは知る由もない。
 ましてそれが、ニュータイプの管理人の手による事などは。
「東京へ帰港するまで後一週間です。その間にお二人とも、体調は整えておいてください」
「了解」「分かったわ」
 
 
 
 
 
「時間通りか」
 ぱちりと目を開けたシンジが時計を見ると、丁度一時間が経過している。
 ひょいと起きあがったシンジは、ちらりと横と手を見た。まだ起きぬすみれと痕跡を残す自分の手を見たシンジは、そのままバスルームへ入っていく。
 十分ほどで出てきたシンジは、ベッドに腰を降ろすと電話を手に取った。
 すぐに出た。
「神崎です」
「碇シンジだが」
 電話の向こうで一瞬息を呑んだのが伝わってきたがそれには構わず、
「神崎重工の総代表に就任だな」
「え、ええ」
「親父さんの事は不幸な一件だった」
 自分を狙ったと知りつつ、シンジは一撃を加えようとはしなかったのだ。
「…すみれを庇って降魔と相打ちに、そう聞きました」
「そうか。だが生憎違う。実際は自爆だ」
「じ、自爆?」
「神崎忠義を貫いたのは生体兵器だが、あの時俺はすみれを腕に抱えていた。目を閉じても避けられそうな代物だったが、正気に返った爺さんが飛び込んできたのさ」
「正気…」
「降魔に拉致されて、俺を片づけるよう洗脳された。元から俺を何とかしたがっていただろうが」
「…申し訳ありません」
「別にあんたがし向けた訳じゃないだろう。それに、俺にとってはどうでもいい事だ。とにかく、見た目は殉死だが実際は単なる自爆だ。他はともかく、息子は知っておかないとなるまい。それと理由もだ。で、すみれの事はどうする?」
 何気なく訊いたそれは、お前も父の後を追うかとの響きは十分持っていた。
 とその時、すみれの身体がぴくっと動いた。意識が戻ったらしい。
 シンジが電話を手にしたまま、ブランケットの中にすっと手を沈めると、
「や…あんっ」
 悩ましげな声と一緒にすみれがこっちを向いた。
「もう…」
 言いかけて電話中なのに気付き、慌てて口をおさえた。
「私は、すみれの事はもう碇さんにお任せしてあります。あの方が要らぬと言われぬ限り、連れ戻す気はありません」
「カエルの子はカエル、ではないか」
 電話を耳から離し、
「親父さんからだ」
 それを聞いた途端すみれの顔色が変わったが、
「ん…ごほん」
 咳払いしてから、
「お父様、すみれでございます」
 思わずシンジの表情に笑みが浮かんだのは、そこにはもうあれだけ乱れた痕など微塵も感じられない声だったからだ。
「無事なようだな、良かった」
「…はい」
「会長の葬儀は明後日になる、それには帰って来るんだ」
「分かっております」
「ただし、葬儀が済んだら出棺を待ってお前は女神館に戻れ」
「え?お父様?」
「雛子はまだ向こうだ。一族から、お前に縁談の話が殺到するのは目に見えている。それとも、もう結婚して引退でもする気になったか」
「だっ、誰がそんな事をっ」
「では私の言うとおりにしろ。それから−」
「はい?」
「碇さんによろしく伝えておいてくれ。総帥ではなく、お前の想い人の方だ」
「お、お父様わたくしはっ」
 真っ赤になったすみれをシンジは眺めたが、その時にはもう電話は切られていた。
「何だって?」
「あ、いえ…その、碇さんによろしくと」
「夜露死苦って言ったの?」
「なんですの、それ」
「いや、すみれちゃんが赤くなってたから」
「に、似たようなものですわ」
 顔を隠すように横を向いたが、その拍子に身体を覆っていたブランケットがはらりと落ちた。
「きゃっ」
 思わず引き寄せて身体を覆ったすみれに、
「あん、とか言った直後にあれだけ変われるのはたいしたものだ」
「わ、わたくしは帝劇のトップスターですからっ」
「でもさっきのは本物だったよね」
「え、演技ですわよ演技っ」
 顔を真っ赤にして否定してから、急に真顔になった。
「い、碇さん…最初からわかっていらしたの?」
「何を」
「お、お父様がわたくしを呼び戻したりはしない事を−」
 言いかけてからシンジの表情に肯定を見たらしい。
「じゃ、じゃあどうして…」
 迷子の子供のような顔でシンジを見上げたすみれの頭を、シンジはくしゃくしゃと撫でた。
「さして長くはないが、すみれが見た目ほど強くないのも分かった。それと女だと言う事も」
「お、女?」
「自分を悲劇のヒロインに出来るのは女の特権だ。ここへ入る前、すみれはもう自分が帰らざるを得ないものと思っていたでしょ?」
「え、ええ、でもそれは…」
「演技じゃないのは分かっている。だから女だと言った。ほら、シャワー浴びといで。顔洗ったら帰るよ」
 シンジは全部分かっていた。分かっていてその上で…。
 きゅっと唇を噛んだすみれに、
「失神する前の声、録音しておくべきだったかな」
「っ!!」
 シンジの言葉に真っ赤になってバスルームへと駆け込んだ。
 火照った顔を冷ますためかあるいは気持ちを整理していたのか、すみれが出てきたのはさっきとは違い四十分ほどしてからである。
「着替えるから、向こうを向いていてくださいな」
「あ、はいはい」
 もぞもぞと着替えている気配がしたが、
「もうよろしいですわ」
「じゃ、行こうか」
 そっちは見ぬまま声を掛けると、
「ええ」
 妙に弾んだ声がして絡めてきた柔らかい腕を、シンジはちらりと見た。
 
 
 
 
                    
(つづく)

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