妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第七十六話:乙女は一つを喪い、更に手を伸ばす
 
 
 
 
 
「うーん、気持ちいい」
 両手を思い切り伸ばしたシンジは、真昼の陽光の下みたいな台詞だが、実際には深更であり、傍らには吸血鬼の当主がいる。
「余計なことかとは思いますが−」
「多分余計だよ。で、何?」
「育成はあまり、手を付けられない方がよろしいかと思います。失礼ですが、教える側と教えられる側にあまりにも差があります」
「うん」
 因幡の白ウサギがよってたかって餅をついてる姿が、クレーターの中に見えそうな満月にぼんやりと視線を向けたまま、シンジは頷いた。
「でもそれがいい。もちろん、最初から強かったら楽だし、それに俺がまた海外をうろちょろ出来る。ただ問題は、強いやつに気がなくて、発展途上の娘(こ)達に正義感とやる気が溢れてる事だ」
「足して割ればちょうどいいかもしれませんが」
「じゃ、夜香執刀医やってちょうだい。俺はやだけどね」
「どうしてです?」
「とーっても強くて正義感があって、帝都に仇なす降魔退治に燃えてる碇シンジなんて見たいか?そんな俺になったら即人格剥離だ」
「それもそうですな」
 夜香が考えもせずに頷いた所を見ると、これもまた、燃えるシンジなど似合わないと思ってるのかもしれない。
「でもね、夜香」
「何でしょう」
「確かに今のあの娘達じゃ、脇侍が精一杯で銀角はきつい。つまり今はまだ瓦と見分けが付かない。でも実体は玉の原石だから磨き上げれば必ず強くなる。彼女たちの本当の力がどこまで伸びるのか、海外で古城の宝を探すより遙かに興味は深いよ」
「中には尖った玉もあるようですが」
 あっはっは、とシンジは笑った。
「球だって、バレーボールもあればサッカーボールもあるし、どこ行くか分からないスーパーボールもある。住人が全員丸かったら、俺がつまらないじゃない」
 ふっと真顔になり、
「子供の育成には健全な両親が欠かせない−が、うちの住人でまともな親がいるのはほとんどいないんだよ。アイリスに至っては、親に力を疎まれて幽閉されてる。あれでよく、ぐれた少女ができあがらなかったもんだよ。ジャングルで十数年も育てば、都会の生活は肌に合わないし、虐待され続けて育てば他人への信頼は崩壊する。プライドが高かったりわがままだったり、或いは意地っ張りだったりしても、それはそれで可愛いものさ。それに、俺を追い出したがってるのも今はいなくなったし、矯正する必要もないじゃない」
「今ではその反対に回りましたか」
「何か言った?」
 いえ別に、とわずかに視線を逸らし、
「個人的には、夜歩きの相手がいなくならなければ、それで構いません。手が掛かればかかるほど、教師はこの地に足止めされる事になりますから」
「夜歩きの相手?誰?」
 夜、それは吸血鬼の時刻(とき)である。
 ひときわ強い赤光を放つ視線が、くるりとこちらを向いた。
 かさかさと逃れようとする肩に、しなやかな人差し指が触れると、シンジは微動だに出来なくなった。
「夜は私たちに属します」
 美麗な吸血鬼の青年は、囁くように告げた。
「前から一度試してみたかったのです−今の私にどこまで抗えるか。さて、試してみましょうか」
 ゆっくりと近づいてくる口許には、無論妖しく光る乱杭歯が伸びている。
「やーめーてー!」
 妙に間延びした悲鳴もどきが、子供も眠っている街に流れ、迷惑だと言わんばかりにすぐ吸い込まれた。
 
 
 
 
 
「あのさあ、どこまで行くの?」
 てくてく歩きながら、ふとシンジがミロクに訊いた。まるでデートで連れ回される優男みたいな口調である。
「いいから黙ってついておいで」
 身体は数メートル先だが、声は顔のすぐ近くでした−首が伸びて来たのである。
 一瞬引いたシンジに、その顔は愉しそうに笑った。
「あんたでもびっくりする事があるんだねえ」
 くっくと笑ったミロクに、
「余計なお世話だ。女の身体で引っ張って伸びるのは乳首と決まっている。おまえが不気味なんだ」
「さすが、女の身体には詳しい男だね。あの時の娘にはもう−おっと」
 何気なしにひょいと動いたシンジの手から、炎の槍が飛び出してミロクを襲ったが、長い首をすっと引っ込めて避けた。
「今度言ったらその場で燃やす」
 シンジの反応に、おやと言うような表情をしてから、
「あんた、なんでそっちにいるんだい」
「あ?」
「あんたの性格なら、本来そっちの人間じゃないだろう。あんたには、守るより壊す方が合ってるよ」
「良く知ってるな」
 シンジは、にやあと笑った。
 その表情を崩さぬまま、
「で、俺にそっちにつけというのか」
「あんたならもう、あたしらはともかく、駒となる降魔が何で動くか位は分かってるだろう。この帝都に潜む魔気−嫉妬や怨念や憎悪、そう言ったものをエネルギーに脇侍や銀角は動く。魔力でも無論動くけど、そっちの方がエネルギーになるのさ」
「そしてそれは、この帝都に人間がいる限り途絶えることはない、か」
「その通りさ。あんたがあたし達を全滅させたとしても、また次の者がすぐに出てくるんだ。それが分からないあんたじゃないだろ」
「分かってないな、このろくろっ首。俺はここの覇権なんかに興味もないし、碇財閥にも興味はない。俺は本来好きなところを好きに放浪して、邪魔が入らなければそれでいいんだ。もっとも、おまえの理屈が崩れても困るがな」
「どう言う事だい?」
「俺の稼業は知ってるな?家業じゃなくて稼業の方だ。人の心が澄み渡り、邪霊も淫魔もいなくなると、俺がプーになる」
「プータローかい。だったら、なおさらこっち側に−」
「元人間だけあって、少しは語彙も残ってるようだな。が、思考ルーチンは消えたと見える。どうして俺がわざわざ騒ぎの張本人に荷担しなきゃならんのだ」
「別に荷担しろとは言ってないさ。葵叉丹様の視野には、実質碇シンジ一人しか入っていない。あんたは黙ってみていてくれればそれでいいよ」
 ふむ、と何やら考え込んでから、
「でも、うちの住人達がそうは行かない。あの連中は正義感に燃えてる…って何がおかしい?」
 ミロクは、さもおかしそうにほほほと笑った。
「鈍感なのかわざとなのか−あんたの所の娘達は、全員あんたに入れ込んでるじゃないか。あんたが手出ししないと宣言すれば、誰一人異論なんか唱えやしないよ。あんたさえ−碇シンジさえ手出ししなければ、こんな街は一週間で落として見せ−!?」
 シンジの顔がふっと上がった。
 その視線は冷たくミロクを捉えている。
「この街を落とす?なーに言ってるんだか。おまえ達はあくまでも、この街を利用できるにすぎない。この街を落とすなど、思い上がりもいいところだ。それとも一つ、うちの住人の中に、俺に入れ込んでる娘なんか一人もいないぞ。ちゃんと事前調査しとくんだな」
 それはウソだ、と突っ込む余地は何故か、今のシンジには見いだせなかった。
「俺を引っ張り込みたがってるようだが、おまえ達は俺に刃を向けた−四川省の奥地の事はもう躯からも消え失せたか」
 冷たく笑ったシンジに、思わずミロクの視線が自分の胸元に行き、それが憎悪の視線に変わるまで秒と要さなかった。
「ならば何故、わざわざ小娘一人の為に出向いてきた。ふん、女一人の為に身を滅ぼすがいい」
 どうあってもシンジは敵、そう知ったミロクは憎々しげに言い捨てた。無論、現時点ではシンジが自分に手出し出来ないのを知っての上である。
 
 
 
 
 
「こ、ここは…」
 神崎忠義は、肩に走る痛みで目を覚ました。
「誰か、誰かいるか」
 声を出してみたが、真っ暗闇に反響するだけで無論誰も来はしない。
「私はいったい何を…」
 妙にずきずきと痛む肩を押さえた忠義だが、何故かその表情にはもう、とりつかれたような物は見られない。
「確か池田屋に行った筈だ…だが何をしに…」
 普段はとっくに就寝している時間であり、しかも単身でうろうろする事などあり得ない。何よりも、どうして肩がこんなに痛むのか。自分には痛風など無かったはずだ。
「池田屋…そうか」
 思い出したように、数回目を瞬かせた。
 全てを思い出したのだ。池田屋へ行った事も、そしてそこで碇シンジ拉致の密談をしたことも。
「私がなぜあんな者に会わなければならないのだ」
 冗談ではない、という感じの口調からすると、どうやら神崎忠義の本意では無かったらしい。
 妙な女に拉致され、じっと覗き込まれてから以後、自分の行動が妙な物だったのを忠義は思い出した。
 そして、自分が今ここにいる原因もまた。
 用済みだと、女に掴まれてこの穴に落とされたのだ。
 確か、孫娘はもう手に入ったとか言っていたような気もする。
 そこまで思い出して、忠義の顔が愕然と上がった。
「すみれっ」
 孫娘を入手、その意味が今になって、鮮烈に脳裏に刻まれたのだ。
 だがこの時点で、既にすみれが降魔に拉致された事も、そしてそもそもの発端は、自分がすみれに強制召還を告げた事にあるとは気づいていない。
 何よりも、そのために一人の青年が、てくてくと赴いて行った事などは。
 急にあたふたと出口を探し始めたが、無論吸血鬼ではないし明かりもない。何かに躓いてすてんと転び、ご丁寧に落ちた時に打った肩をもう一度強打したのは、十秒ほど経ってからであった。
 
 
 
 
 
 シンジが連れ込まれたのは、河田町にある東京女子医大近くの廃墟となったビルであった。依頼主が途中でずらかってしまったものか、地上三階位までが建てかけで放置されており、鉄筋のあちこちに錆が出ている。
「こっちだよ」
 ミロクが顎をしゃくったのは地下への階段だったが、シンジの足はそこで止まった。
「ちょい待ち」
「なんだい」
「約束のブツを、じゃなかったすみれに会わせてもらおう。言っとくが、かすり傷一つでも負っていたら、俺が地下に行く前におまえを餓鬼道まで落としてやる」
 餓鬼道とは、ガキ大将が歩む覇道ではなく、地獄のそのまた底辺にあるとされる六道の一つである。
「今つれてきてやるよ。冥土のみやげに見ておくんだね」
「へいへい」
 人を食ったような返答にミロクの表情が一瞬動いたが、ここでキレては元も子もないと我慢する気になったらしい、苦虫を十匹まとめて噛み潰したような顔で、地下へと降りていった。
 シンジを殺せると思ってるかは不明だが、とりあえずここに陥穽が敷かれてあるのは間違いなく、小娘一人と引き替えにここまで引っ張り出すのは成功したのだ。
「が」
 とシンジは辺りを見回した。妖気が漂ってこないのだ。しかも、ひっそりと抑え込んだような気配もない。
 つまり、シンジを仕留めるに足りる罠があるようには見えないのだ。シンジの気配に引っかからない罠など、降魔に出来る訳もない。
 ふむ、とその手がすっと動いたとき、ブルブルと携帯が鳴った。音も嫌だから振動型にしておいたのだ。
「はいもしもし」
 あの、レニですと相手は小さな声で告げた。シンジがまだ怒ってると思ったらしい。
「うん、どうしたの?」
 その口調にほっとしたのか、
「あ、あのね御前様が…こ、今年から高等部の一年生に編入してもいいってその…」
「試験を落ちた訳じゃあるまいね」
「しゅ、出席日数が足りなくて…で、でももういいのっ」
 レニが試験を落ちなどしないと、無論シンジは分かっている。
 では何故か。
 単に学校へと行かされなかったからだ。学校へ行く時間すら与えられなかったレニであり、シンジは一秒とかからずにそれを見抜いたのだ。シンジの口調に先だっての粛清を思い出し、レニが慌ててシンジを遮ったのも当然であったろう。
 今度は間違いなく、フユノが五体吹っ飛ばされると分かっているレニであり、彼女自身はそんな事を少しも望んでいないのだから。
「学校へ行けない親戚が出来た時点で、関係者全員処断の所だが、レニの大きくなった胸に免じて許してあげる」
「む、むね…シ、シンジのえっち…」
 ごにょごにょ言ってるのは、間違いなく顔を赤くしているに違いなかったが、
「じゃ、アイリスと一緒に学校行っておいで。変な連中に絡まれないように気を付けるんだよ」
「うん、もうシンジの足手まといにはならないから」
 変な連中、とは不良や即席強盗の意味ではなかったが、電話の向こうで張り切っている従弟に、
「そう…じゃあ、お気を付けて」
 とシンジは電話を切った。
「浪人なんか作ったら根絶やしにしてくれる」
 ぞくりとするような声で呟いたそこへ、ミロクが姿を見せた。腕の中にいるのはすみれだが、肩に担がなかったのは一応遠慮してだろう。それだけでも、即反撃に転じかねないシンジの性格を少しは分かっているようだ。
「悪いが、引き渡す訳にはいかないよ。今眠ってるところだ」
「では起きてもらうとしよう」
 こともなげに言ってシンジが人差し指を向けるのと、すみれが身動ぎするのとがほぼ同時であった。
「う…ん」
「な、なに!?」
 さすがのミロクも、指一本ですみれが目覚めるとは思っていなかった。すみれには、わざわざ麻酔薬を嗅がせてあったのだ。
「薬に負けるようでは、フェンリルを使いこなすのは無理だ」
 当たり前のようにシンジが言った時、
「いか…り…碇さんっ!?」
 起きあがったすみれが腕の中から落ち、
「お迎えに来ました」
 軽く頷いてみせたが、
「そこまでだね。さ、あんたはそっちであんたはこっちに来るんだ」
「お、お放しなさい無礼者っ」
 ミロクは冷ややかに笑い、
「自分の立場を考えるんだね、お嬢ちゃん。せっかくあんたの愛しい人が命を懸けて救いに来てくれたって言うのに」
「え、碇さん?」
「間抜けな降魔に拉致されたって言うんで、とりあえず来てみました。俺はこいつと話があるから、先に帰っていてくれる?」
「は、はあ」
 ぼんやりと頷いたのは、まだ意識もはっきりしていないに違いない。
「ところでミロク、俺を始末する気か?」
「あたしはそこまで自惚れてないよ。あんたには、今回の侵攻が終わるまでここに居てもらう。五精使いでも幽閉できる亜空間をこの中に作っておいたのさ」
「あっそ。じゃ、すみれそう言うことだから」
「い、いけませんっ!」
「何が?」
「何がって、わ、わたくしの代わりに捕まるなんてそんな事っ」
「…元々すみれちゃんがこんな連中に捕まったのが悪いんでしょ」
「そ、それは…」
「何でふらふら夜間外出したのか、帰ったらたっぷりお説教だからね」
 帰ったら、とシンジは言った。
 要するに捕まる気は無いと言う事だが、
「今回だけ、すみれが女神館に着いたらおまえ達の罠にはまってやる。すみれをさっさと返せ」
「約束は違えないだろうね」
「そんな心配より、幽閉先の心配でもするんだな。ちょん、と触っただけで崩れては話にならないぞ」
「生憎、このあたしが知恵者の手を借りて作った代物でね、あんたがごゆっくり入れるようになってるよ。水狐、あんたはこの娘を…!?」
「そうは行きませんよ」
 表面は変わっていなかったが、この時点でミロクは内心嬉々たるものであった。
 何しろ、勝手に飛び出してきた娘を囮にして、まさかとは思ったが、碇シンジを引っ張り出すのに成功したのだ。結界には自信があるし、シンジの性格からして約定を違えるような真似はすまい。あとは水狐を蹴落とせば、あたし一人が葵叉丹様の寵を一身に受けられる…内心で緩むのも無理はなかったが、声がした瞬間ミロクはすみれを失っていた。
「火車、何しに来たっ」
「何をしに?決まっているでしょう、碇シンジの抹殺ですよ」
 すみれを片腕に担ぎ、五行衆の一人火車はくっくと嗤った。
「せっかく呼び出しておきながら、幽閉するだなど葵叉丹様への反逆ですよ。この際この娘もろとも、一気に片づければいいだけの話です。この娘は我が手の内、さあミロク片づけてしまいな…」
 言葉が最後まで続くことはなかった。
「なるほど、こう言う事でしたか」
 唖然としていたように見えたシンジの顔が、妖々と上がった。
「貴方達をまとめて殺すのは、僕にとってはとてもたやすい事です。でも、人質などという姑息な手と、以前僕に胸を吹っ飛ばされた貴女の仕業と言う事で、退屈しのぎに付き合って差し上げても良かったのですよ」
 一見シンジには何の変貌もないように見える。だが、その全身から放たれる気は、ミロクの功を一瞬で台無しにしてのけた事態を把握していない火車も、空中で固定させたまま微動だにさせなかった。
 鬼気ではなく妖気とも違う何かが、その場にいた者全てを硬直させていたのだ。
「ですが、貴方達は僕を騙した。そんなに滅びたければ、僕がお手伝いしましょう」
 すう、と上がったシンジの右手がみるみる光を帯びていく。
「お、おまえはいったい…」
 震える声で呟いた火車に、
「貴方が知る必要は無いことです。貴方は今ここで死ぬのですし。次は、大空を舞う鳥にでも生まれ変わる事です」
 だが自分の腕にはすみれがいる。
 初めてみるシンジの姿に、もはや声すら出ないすみれだが、まさかこれごと撃ちはすまい。そう踏んだ火車だったが、軽く作られた拳が自分の方を向き、それがさっと開かれようとするのを見て血相を変えた。
 まさか、まさかこいつはさっきまで身代わりになろうとしていた娘ごと、この俺を撃つ気なのか!?
 答えはすぐに出た。
「いずれ、僕も行きます」
 むしろ優しく告げた直後、ばらりと開かれた手からは、拳を二つ合わせた程の太さを持った光の矢が一直線に火車目掛けて放たれたのだ。
「くっ」
 すみれごと撃ち抜かれると判断し、やむなくすみれを放り出して回避した火車だったが、不気味な光景を見てぎょっと動きが止まった。
 重力の法則に従って落下したすみれを、音もなく動いたシンジが腕に抱き留めて、これで完全に形勢は逆転した。だが不気味な事に、火車のいた所を襲った光の矢は、そのまま消滅も通り過ぎもせずそのまま宙で球となって止まっているではないか。
「お疲れ、すみれ」
 囁いた声はもう、いつもの物に戻っている。耳元で囁いたシンジに、すみれは何も言わずぎゅっと抱きついた。
 美少女に抱きつかれたまま、呆気にとられている火車に、
「逃がさん」
 行け、というように手を振ると、それは再度火車の後を追った。
「な、何だこいつはっ!?」
 火車が度肝を抜かれるのも当然の光景だが、逃げても逃げてもそいつはしつこく追ってくる。
 そしてついに、火車は鉄筋と鉄筋の間に足を取られて大きくバランスを崩した。
「歯ごたえも無い」
 五行衆の一人であり、これも降魔を率いさせれば花組のメンバーを大いに苦しめたに違いない勇将だが、シンジの前にあっさりとその命運は尽きようとしていた。
 伸びたシンジの腕がさっと上がれば、そのまま光の球が火車を撃ち抜くだろう。
 ご丁寧に、光の球はまるでネズミを嬲るネコのようにその前で止まっており、まるで抵抗できるならしてみろと言わんばかりである。
 足を引き抜こうとするも身動きがとれず、ぎりりと歯がみした火車を見てシンジが手を上げようとした刹那、
「若造!このままでは終わらんぞ!!」
「は?」
 遂に脱出を諦め討ち死にを覚悟したらしい火車だが、叫ぶやいなや懐から何かを取り出してシンジ達に向けて投擲した。
 黒い棒に見えた物体だったが、それが見る見る大きさと形を変えるのを見てシンジの表情が動いた。
「ロンギヌスの槍?なんであんなモンが」
 中東の地に生誕した救世主キリスト、その杭に掛けられた脇腹に槍を突き刺した百人隊長の名前であり、その槍は後にアーサー王の聖杯並の伝説を残している。
 もっとも、実際には刺したのは別人であり、その名前は槍に絡むものを示すという説もあるのだが。
 槍と姿を変えたそれだが、シンジが固有名詞を口にしたのは、皇帝の物好きな母親が掘り返したとされるそれを、どこかで目にした事があるのかもしれない。
 しかしながらシンジにとっては、脇腹に刺さりそうなものでも、まして目に刺さりそうな物でもなくいとも簡単に弾き返せる代物であった。
 その口許に冷たい物が浮かび、指一本で炎上させようとしたその瞬間、
「いかん、すみれっ!」
 どこかで聞いたような声と共に、飛び出してきた人影が飛来する物体とシンジ達との間に立ちふさがった。
「なっ!?」
 一般人ならともかく、すみれを抱いていようとシンジにはあまりにも余計−しかし肩を掴んで引き寄せる時間はなく、次の瞬間には二メートル弱まで伸びたそれが人影を深々と貫き、その切っ先は一メートル以上も背から抜けた。
 しかしがっかりしたのは無論投擲した本人であり、
「む、むね…」
 言いかけた所を球に包まれてそれごと爆発したが、シンジと違って胸とか言おうとしたわけではあるまい。
 『無念!』
 の一言すら、最後まで言い切る事は出来なかったのだ。
 かつて近畿の地に、大名物の茶釜もろとも爆死した梟雄よろしく、火車が爆死すると同時に、神崎忠義を貫いていた槍も姿を消した。
 だがそれはシンジと言う稀代の獲物はならなかったが、一重工のトップを道連れにするだけの功績は残した。どういう仕組みになっていたのか、血は全く流れていないにもかかわらず、既にその顔は生者の色を喪いかけている。
 どさり、と倒れ込む音にようやくすみれがそっちを見た。
 一瞬事態が飲み込めず、そこで土気色の表情をしているのが祖父だと気づき、
「お祖父様っ!!」
 転がるようにシンジの腕から飛び降りると、忠義に駆け寄って慌てて揺さぶった。
 どう見ても瀕死のけが人に揺するなど論外である。だがシンジは止めようとはしなかった。既にその魂は大半が、フェンリルの姉が治めると言われる国へと、飛び立っているのを知ったのである。
「お祖父様、お祖父様しっかりなさってっ!」
 揺すられて魂が少し戻ってきたのか、忠義はうっすらと目を開けた。
「すみれ…か…無事……った…」
「わたくしは、わたくしは無事ですわっ。今、今すぐに医者をっ」
 しかし立ち上がろうとしたすみれの手を、忠義は力無くだが止めた。
「よ…い…」
「で、でもこのままではっ」
 すみれに忠義は力無く首を振り、
「すま…か…な…」
 いいえ、いいえとすみれは激しく首を振り、
「そんな事、そんな事もう気にしていませんわっ。だからお祖父様、お祖父様っ!」
「お…おま…良き……」
 孫娘への最期の遺言はならず、その手はがっくりと垂れた。
「お、お祖父様?お祖父様っ!?」
 激しく揺するも、二度と答えが返ってくる事はなかった。
 すみれの後ろで見下ろしていたシンジが、黙って十字を切った。もっといい何かがあるような気もしたが、シンジにはそれしか思いつかなかった。
 だが、吸血鬼の当主が知ればそれさえ惰弱のそしりを受けるかも知れないが。
「すみれ」
 シンジが呼ぶと、
「お祖父様がっ、お祖父様がっ!!」
 自分にしがみ付いて泣きじゃくるすみれを、シンジは黙って片手で抱き寄せた。
 麗香なら、
「猛禽の餌にでもしておきましょう」
 とこう言うかもしれない。
 しかしシンジは、自分を追い落とそうとしていた老人ではあっても、胸の中で泣いている娘の祖父を、その目の前で跡形無く炎上させる気にはなれなかった。
 既に誰かが通報したのか、パトカーと消防車の音が近づいてきている。だがその前に急停車したのは、黒塗りのベンツであった。
「若っ、どうなさいました」
 降りてきた黒木に、
「一般人が降魔の頭目を一人、孫娘の為に倒された−それだけの事だ」
「若…」
 自分に及びかけた累と下手人には全く触れず、
「黒木、後はお前に任せた」
 既に黒木の所には、神崎忠義がすみれの強制召還を掛けた情報は入っている。そして勿論、死んでいるのが神崎忠義本人である事は黒木も分かっている。
 しかしそれ以上何も訊かず、
「お任せ下さい」
 すっと踵を引いて敬礼した。
 警察がくれば見物人も来る。そうなれば泣いているのが帝劇のトップスターだと知られる事になり、三文週刊誌とはいえまた出版社が潰される事になる。その前にシンジはすみれを抱き上げて立ち上がった。
「すみれ、背に乗って」
「はい…」
 普段からは想像もつかないか細い声で頷くと、すみれは力無くシンジの背に乗った。
 火車が光の束に追われた時、ミロクが姿を消しているのにシンジは気づいており、水狐は最初から姿を見せていない。
 すみれは何も言わず、シンジもまた口を開くことなく黙って歩いていたが、ふと腕に力が加わった。
「碇…さん…」
「ん?」
「わたくしの為に…ごめんなさい…ご迷惑を…掛けてしまって…」
 その直後にぴくっと肢体が震えたのは、お尻の下に回っている手がぽんぽんと丸い尻に触れたからだ。
「いいよ」
 一言だけ告げたシンジに、すみれは涙がまた溢れそうになるのをぎゅっと唇を噛んで堪えた。
 わざわざ虎穴に身を晒しにやってきて、一言もシンジは咎めようとはしない。自分の命と引き替えに殺されたかもしれない、そんな状況でも黙ってきてくれたシンジの優しさはすみれに取って、あまりにも切ないものであった。
 何も言わず死地に来てくれた。それも勝手に出ていった自分の為だけに。
 切なさがこみ上げて、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような気持ちがした。
 がしかし。
「は?俺があんなのに幽閉されてる訳ないじゃない。三分で抜け出して来るよ」
 もしも浅慮だとか言われたら、シンジがこう言ってからから笑う事を勿論すみれは知らない。そもそも、死地という発想すらあるかどうか怪しいモンである。
 だがすみれはそこまでシンジを知らない。ただすみれに取ってはとても嬉しくて、そして苦しいものであり、気がついたら巻き付けた腕に力を入れていた。
「どうかした?」
「わ、わたくしこんな顔じゃ帰れませんわ」
 囁いた声はもういつもの物に戻っている−ような気もした。
「顔も洗いたいしそれに…少し休みたいの…」
 ぞくりとする艶っぽい囁きをどう聞いたのか、
「じゃ、うちのモン呼んで車回させるから。うちの寝室で少しやす…ぐえ」
 きゅう、と引っ張られて気道が絞まったところへ、
「あ、あそこが…いいですわ…」
 指した先へゆっくりとシンジの顔が動き、
「えーと…らぶほてるみたいだけど」
「ええ、らぶほてるですわ」
 わざと一文字一文字区切るように言ったすみれに、はあとシンジは頷いた。
  
 
 
 
                    
(つづく)

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