妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第七十二話:去就会議
 
 
 
 
 
「あーあ、つまんないの。もう帰ろうかな」
「駄目だよシンジ、御前様に怒られちゃうよ」
 豪勢な式ではあったが、結婚も式も興味のない子供にとっては、食べるくらいしか楽しみが無く、それすら興味がないと来てはもう帰ろうと言い出すのは時間の問題であった。最上級ランクで接待された家族だが、両親はいつも通り二人きりで旅行しており、姉は姉でフランスへグルメの旅に行ってしまった。
 メインの祖母はと言うと、ボディガードに囲まれて、更にその上から政治家だの経済界の著名人だのに囲まれていて、とても孫に目がいく所ではない。
「いーや、もういい帰る。帰るったら帰るー!!」
 従妹の制止を振り切って帰ろうとしたヤン茶坊主だが、
「そう言わずに、もう少し過ごしてお行きよ」
 後ろから声を掛けたのは、魔道省長官南郷さつきだが、この時はまだ長官にはなっていない。
「それに、折角可愛い従妹が一緒なのに、それじゃ失礼ってものだよ」
「可愛い?どこに?」
 首を左右に動かそうとした途端、ごきっと音がした。
「いったーい!」
「棺桶に埋めるしかない冗談はお止し」
 シンジの首を右に捻ると、
「こんな冷たい従兄は処分した方がいいね。レニちゃん、どうする?」
 もう少し右にいくとそのまま逝きそうな角度だが、これはこのガキンチョが悪い。
「大人ばっかりでつまらないから一緒に行こ」
 シンジの誘いに、レニが目一杯お洒落して来たというのに。
 でもレニは首を振って、
「あの、僕は大丈夫だから放してあげて」
「いいのかい?」
「うん」
 レニの言葉に、
「可愛い子を泣かせるんじゃないよ」
 姉御みたいな台詞と共にもう一回、今度は反対に捻ってから解放した。
「首がバネになっちゃうじゃないか」
 さつきが離れた後、首を左右に回しているシンジに、
「シンジ…あのね、僕も一緒に行くから抜け出してもいいよ」
「え?本当にいいの?」
「いいよ…でも…」
「でも?」
「きょ、今日の花嫁さん…きれいだよね」
「えーと?」
 どこが、と言いかけてシンジは止めた。確かに衣装は豪勢だが、若いときに古代エジプト人が蠅除けに塗っていたようなアイシャドウを塗り、全身を派手に焼きまくっていたせいで白無垢が似合わずえらい苦労したと聞いている。
 あの顔面の白が、文字通り左官業である事をシンジはちゃんと知っているのだ。
 しかし外見で感心してる従妹の夢を壊す気にもなれず、
「きれいだよね」
 自分に大嘘をついて頷いておいた。
「ぼ、僕もその…ああいうの似合うかな」
 絶対駄目、と言いそうになったが今度何とか抑えた。レニが全身を焼いて後々大後悔する間抜けな女なら別だが、単に白無垢に憧れてるならそれはまずい。
「あんな衣装とか着てみたいの?」
「う、うん」
 頬を赤くして頷いたのは、小さくてもやはり女の子であり、
「それならきっと似合うよ、レニに」
 幾分ほっとして頷いた。
 母もそうだが、姉もけばいタイプではないから、全身真っ黒などシンジには理解出来ないのだ。第一、肌荒れを考えれば手を出すべきではない。
 そんな従兄の心中には気づかず、
「じゃ、じゃあ…シンジが着せてくれる?」
「うん?」
 馬鹿娘を化けさせて白無垢とは、親の顔が見たいぞと思っていたシンジは、レニが言った事を聞いていなかった。
 そして、
「シンジの…その、お嫁さんにして…僕に着せてくれる?」
「え?あ、ああいいよ」
 左から右に抜ける感じだったからあっさりと頷いてしまい、気が付いたのは、
「じゃあシンジ行こっ」
 それはもう、嬉しそうにレニがシンジの手を引いた時であった。
 これが世に言う『結婚のお約束』である。
 そしてその後、結婚の約束済みと言い張る従妹に、何時したのか思い出せぬ間抜けな少年は記憶にございませんとは言えず、頷いてきたのだった。
 
 
 
 
 
「アスカ、下りろ」
 シンジは妙に静かな声で言ったが、別に怒っていた訳ではない。俯せに踏まれて床とキスしてる腹部から、また出血しだしたのを知ったのだ。重石がどくと、服の前をぎゅっと合わせるように閉め、
「許嫁って、結婚のあれ?」
 レニに訊いた。
「シンジ…忘れてないよね、僕と約束したこと」
「…?」
 んーと首を捻っているシンジに、
「もしかして…もう忘れちゃったの」
「あ、そう言えば」
「思いだした!?」
「結婚で思いだしたが、俺ってば来週お見合いだったんだ」
「…え?」「何ですって」
 一瞬静寂が漂った後、
「えー!!!」
 忽ち大騒ぎになり、女組が急遽団結してシンジをとっちめる動きになりかけたが、
「碇さん、だ、だ、誰と見合いするんですかっ」
「さくらうるさいよ」
「え?」
「俺はそんな話をしに来たんじゃないの。どうしてすみれがダウンしてると思ってるのさ」
「『あ…』」
 見違えるようになったレニとその発言で、すっかりすみれの事を忘れていた面々に、シンジは病院での事を掻い摘んで話して聞かせた。
「ちょ、ちょっと待ってよシンジ。じゃ、すみれは強制召還って事?」
「だからそう言ってるだろ。人の話聞いてる?」
「あんたがどうするのかって言ってるのよっ!このまま帰すわけっ!?」
「だから、おのれらに話しとるんだろーが」
 アスカの突っかかりにも、シンジは顔色一つ変えずにいなした。ハリセンに手は伸びない。
「大体、俺にそんな突っかかってどうするのさ。それともアスカ、すみれの意志は訊いた?」
「…すみれが帰りたいって言った訳」
 はーあ、とシンジは溜息をついて、
「発言する前には、も少し考えろってば。神崎忠義は、碇フユノを通して言ってきた訳じゃないんだよ」
「だから何よ」
「…アスカ退がってよし。ていうか退場」
「ふーん」
 アスカの表情に危険な物が浮かぶのを見て、
「アスカも言い過ぎよ。それに碇さんも、もう少し分かり易く言わないとアスカには分からないですよ」
「じゃ、山岸説明しといて」
 マユミに下駄を預けたシンジだが、その右手はひっそりと腹部に伸びている。上からの重圧で、じわりと出血しているそこを自己治療していたのだ。もしもフェンリルがいれば、上に乗った者達は無傷では済まなかったろう。
「マユミ、それどういう事よ」
「つまりね、ここの管理と責任は誰かって言う事よ。今管理人は碇さんだけど、契約書の相手は御前様でしょう?つまり本来なら御前様に、事情があるから退寮と先に話があるべきなのよ。それが無いというのは御前様を、ひいては碇さんをも無視−いえ敵に回す気になったと言う事よ」
「ちょ、ちょっとそれって、シンジを敵にって事は碇財閥を敵にするって事?」
「そう言う事よ。でも神崎重工はすみれさんのご実家、だから碇さんもどうこうは決めておられないのよ」
「大体合ってる。でもちょっとずれ」
 出血の止まったのを確認してから、シンジが口を開いた。
「アスカ・ラングレー以下を管理してるのはこの俺、従って碇財閥は関係ない。出てくるとしたら魔道省だ」
「…そっちの方が大きいじゃない」
「実家はやなんだってば」
 どっかの駄々っ子みたいに言うと、
「潰すのは簡単なんだけど、すみれが父無し爺無しになる可能性がある。それに、総合バランスで考えるとどうかなって気もする。と言うよりも…すみれがそこまでここを選ぶかどうか。母親の神崎雛子はスイスだから、二親無しにはならないけど」
 物騒な事を言いだしたシンジだが、アスカもそれ以上は言えなかった。
 ただし、ここのメンバーが人の生死を理解していることはまた別問題であり、人間の死を自らの手で作りだした者は管理人以外にいないのだ。
「それで、すみれは何て言ったのよ」
「さて、ね。訊く前にダウンしちゃったからな。取りあえず本人が起きてから…もういいの?」
 壁に掴まるようにして顔を見せたすみれに、シンジが気が付いた。
「ええ…わたくしはもう、大丈夫ですから」
 とは言えふらついているすみれを見て、シンジがマユミに視線を向けた。マユミもすぐに気づき、すみれに肩を貸して椅子まで連れてきた。
「それですみれさん、どうされるんですか?」
「簡単に決められれば苦労などしませんわよ。あなたはいいですわよね、なーんにも悩むことなんか無いんですから」
「すみれだって普段は悩まないくせに。勝手に人を位置づけるんじゃないってば。それで、どうするか決まった?」
「ええ。ですが、一つだけお訊ねしてよろしいかしら」
「なに?」
「わたくしがもし帰ったら…また…迎えに来て下さいます?」
「お断り」
「シンジっ!」「碇さんっ!!」
 シンジの極めて短くそしてこの上なく冷たい返答に、すみれよりも他のメンバーが色めきたったが、参加しないのが二人だけいた。
 レニとマユミだ。
「レニはどうして言わない」
「他のみんなが間抜けだからだよ。何を考えてるのか知らないけど、強制召還するのは多分シンジが気に入らないからだ。何をどうしたら、その男が孫娘を手放すって言う発想になるのさ。最初から結論は分かり切ってるよ。すみれが帰ったら、送り出してもらえる事は絶対にあり得ないね」
 端的かつ大正解の答えに続いて、
「もしもすみれさんが帰ったら、二度とここへ来ることは出来ないと思います−強制的に連れ出さない限りは」
 マユミが口を挟んだのは、さっきの発言に続き間抜けと言い切ったことで、また空気が強ばったのを知ったからだ。
「そう言うこと」
 シンジは頷いて、
「結果は同じ事になるんだし、余計な騒ぎが増える事になる迎えは断る。それに、迎えに行った方がすみれの評判は下がるよ」
 いいよ行ってあげる、この返答を期待していたすみれは少しがっかりしたものの、マユミとレニに言われてそれもそうかと内心では得心した。
 だが、シンジの言葉にどういう意味かと首を傾げて訊いた。
「わ、わたくしの評判が下がるんですの?」
「下がる」
 シンジは断言し、
「ここから帰らなければ、管理人碇シンジを差し引いても帝都防衛の為、と言う建前は出来る。でも帰ってから無理に出ようとすれば、下手したら男に拐かされたなんて噂も立ちかねない。正確には男にさらわれたとかね」
「な、なんですってわたくしがっ!?」
「世間の噂ってそう言うモンだよ。実際には冤罪でも、頭の悪そうな小娘が泣いて訴えれば、お前は痴漢に違いないって断罪にかかるしね。要はそれをネタに楽しめれば面白い訳で、神崎重工のお嬢様兼帝国歌劇団のトップスターとなれば、もうこれ以上の材料は無いくらいだ」
「……」
「あのさ、シンジ」
「ん?」
「じゃあ結局…すみれは帰るしかないって事?」
「武器がない」
「ぶ、武器?」
「そう、武器。つまりすみれが帰らなかった場合、神崎忠義がうちに手を出せる武器がないって事。経済封鎖も不可能だし、まして社会的信用落下なんて仕掛けたら、南郷のお婆ちゃんを敵に回す事になる」
「誰それ」
「南郷さつき、魔道省の長官。レニは憶えて…あ」
 しまった、と言う顔を見せたシンジに、
「結婚式で会った人でしょ、よーく憶えてるよ」
 じっと覗き込んでくる視線から、かさかさと視線を逸らしたがすぐに掴まる。
「懐かしいよね?」
「は、はい」
 どう見ても二人の時間に、他のメンバーは面白くない。マユミとレイはその中には入っていなかったが、
「碇さん、今は懐かしんでる場合じゃないですよ。すみれさんの事、どうするのか考えないと。ほらレニも」
 邪魔されて一瞬レニの表情が動いたが、これは敵にはならないと見たのかあっさりと引っ込め、
「要はすみれがどうするかだよ。帰ったらもう戻れない、その結論は出たんだから後はすみれが決めること、そうでしょシンジ?」
「そうなるね」
 シンジは頷いた。
「嫌がる者を連れ出すなら管理法抵触で撃退するが、本人が応諾したものに異論は唱えられない。すみれの考えしだ…何?」
「すみれだって、みんなといる方が楽しいよねえ?」
 そう言いながら、シンジの膝上に乗ってきたのは無論アイリス。レニの表情が一瞬動いたが、強いて止めようとはしなかった。
 取りあえず事態の結論は出た−すなわち、一度帰ればもう二度とここへは戻れまい、と。後はすみれが決めるのみだ。
 しかし、既にすみれは病院でシンジと話しており、祖父の命令を無視する事の意味も分かっている。そして住人達もそれは朧気に分かっており、すみれに結論を強いようとする者はいなかった。
 しばし座に沈黙が漂った後、
「碇さん、わたくしは…わたくしはやはりここに残ります。屋敷から出られぬ箱入り娘ならともかく、いまのわたくしは帝国歌劇団の女優であり、そして対降魔部隊の一員です。わたくしの居場所は…ここですから」
 わずかなざわめきが座に拡がり、
「りょーかい。ならば管理物に手を出すやつぁ許さん」
 何故か江戸っ子みたいな口調で言うと、
「そうなると、打つ手は打っておかないとならないな−アイリスおりて」
 ざわめきがすぐ鎮まったのは、シンジの言葉を思いだしたからだ。シンジはこう言ったのだ−すみれが父無し爺無しになる可能性がある、と。
 静まりかえる中、シンジが受話器を取ってかけた先は魔道省であった。さしあたっては経済封鎖−銀行に手を回せば済むが、それで動じなければ少し怖い目に遭ってもらう事にする。
 痛い目ではなく、あくまで怖い目だ。
 どんな屈強な男でも、恨みに固まって死んで当然のように祟り、しかも目的を果たせぬまま封じられた女の霊の大群が、夜な夜な枕元を乱舞したり夢に出たりしてはたまるまい。多少精神に異常が出て寝込んでも、それは範疇内だ。シンジとて、最初から冥土送りを眼中にして動こうとは思わない。自分に敵するとは言え、やはりすみれの祖父なのだから。
 が、シンジの受けた報告は奇妙な物であった。
 応対に出たのは黒木だったが、
「若、神崎重工の神崎忠義が攫われたようですが」
 と言う事であり、何が奇妙かと言うと営利誘拐などは、絶対と言っていいほど魔道省には回ってこないのだ。言うまでもなく、魔道省は身代金の管轄機関ではないし、来る以上はその筋の分野が絡んでいる。
 たとえば、攫ったのが全然関係ない者で霊に憑依されていたとか。ここ帝都の裁判は刑事事件でも、時折凶悪犯に無罪判決が出る事でも知られた変わった裁判である。
 無論本人の意思なら言い逃れの余地はないが、憑依または傀儡化していたと証明された場合には、特別に無罪が言い渡される事になるのだ。もっとも、そのためには深層意識化に於ける自白と言う、かなり痛みを伴った実験が必要になるが、自らの意志はあずかり知らぬ所で行われた自分の犯した犯罪で裁かれるよりはましである。
 木ぎれだろうが石ころだろうが、そこに何らかの存在を否定する者には、すくなくともこの街で人を裁く資格はない。
「遠隔操作で小娘にでも?」
 攫われた、と言う単語は使わなかった。ここにいるのはシンジ一人ではないのだ。
「いえそれが…先の戦闘で現れた敵のボス−ミロクと言う女ともう一人の女がいたのを部下が目撃しております。シビウ病院へ出向いた後、自宅へ戻り車から降りた所を、ドアを破壊して中から引きずり出されたようです」
「あいつか…何?」
「いかがなさいました」
「何で知ってる」
「先だって、宮村の遺体から残存思念を引き出しております。既に手配済みの事、若にはお伝えしておりませんでしたか」
「あ、いやそれはいい。しかしなん−あ、ちょっと待て」
 住人達の視線が自分に向いており、しかも室内が静まりかえっているのにシンジが気づいた。
 それを知ったシンジが受話器をおさえ、
「神崎忠義の件、何とかなりそうだ。もう遅いから全員やすむといい。レイ、すみれを寝室へ」
「うん、分かった。すみれちゃん、肩貸して」
 有無を言わさず立ち上がらせ、全員がぞろぞろ出て行こうとするのへ、
「山岸とレニは残って。お前らには俺様のお説教がある」
「『?』」
 二人は顔を見合わせたが、言われるまま残り、二人を残して後は出て行った。気配が遠ざかるのを確認してから、
「それで、なんでミロクは神崎なんかさらったんだ?」
「!?」
 マユミの表情が一瞬変わったが、レニは変わらない。黙ってシンジの口許を見つめている。
「それが…何ともよく分からないのですが…あの老人、若には好意的でしたか?」
 敵を作る意図と読んだらしいが、
「孫娘の神崎すみれは知ってるな」
「ええ、名前は聞いております」
「この間力試しに連れ出したら、執事をぴったり付けさせてきた。ついでに本日、すみれに強制召還を言い渡してきた。女神館の経営者と管理人は一言の話も無く、な」
「ほう」
 黒木の口調にある物が混じった。普段はさざ波みたいなその中に、かすかに光る針のような物が。
「まあそれはいいんだけど、いずれにしても攫う理由が分からない。或いは、葵叉丹のやつ軍資金にでも困ったか」
「最近の化け物は現実的ですな。それで、どうされますか」
 ツッコまないのでなにか言ってやろうかと思ったが、
「女と言ったな。だとしたら、この間デカブツ退治を邪魔しに来た女だ。けが人出しても困るから、探すだけにしといて。こっちはこっちで当たってみるから」
「分かりました、お気を付けて」
「うん」
 電話を切ってから、
「聞いたとおりだ」
 二人に向き直った。
「山岸はどう見る?」
「私は−」
 ちょっと考えてから、
「多分敵が事情を知らなかったのかも知れません。だから、すみれさんのお祖父さんを攫って、碇さんに敵対するようにしたのではないかと」
 シンジは頷いて、
「なかなか優秀だ。レニはどう見る」
「多分シンジと一緒だよ」
 レニはうっすらと笑った。
「敵がそこまで間抜けとは思えないな。多分事情を知った上で、すみれの苦悩を織り込んで絶対的な敵にしようとしたんだ。でもいずれは死んでもらった方がいい、シンジそうでしょう?」
「レ、レニあなたっ」
「その通り」
 マユミが何か言う前にシンジが引き取った。
「この間の渚製薬とは訳が違う。神崎重樹自身もボンクラじゃないのに腕を振るえないのは、ひとえに妖怪爺さんが頑張ってるからだ。神崎忠義が消えれば、後は神崎重樹で十分やっていける。見た限りでは、神崎重樹にすみれを引き戻そうという意志はないようだ。もっとも、あの父娘はあまり相性が良くないようだが」
「で、ですが碇さんそれは人として…」
「山岸」
 シンジはむしろ優しげに呼んだ。
「殺す気なら、ミクロマンサーがとっくに殺してる」
「シンジ、それはネクロマンサー」
「分かってるよもう。とにかく、あの老爺が殺されていないのは、間違いなく洗脳して使う意図があるからだ。電話ではああ言ったが、営利誘拐などあり得ない。この意味が分かる?」
「い、いえ…」
「これが実権のない息子の方ならまだしも、全権を握っている総会長が碇シンジを目の敵にして、打てる手を全部打ってきたらどうなると思う?言って置くけど、神崎重工は個人商店じゃないんだよ」
「え…ま、まさか碇さん、神崎重工をっ」
「だからマユミは甘いんだよ」
 レニは冷ややかな視線をマユミに向けたが、冷気すら宿したような碧眼は、以前とまったく変わっていない。
「シンジは降りかかる災難に、碇財閥が出てくる事を好まない。もっとも、そんな物はなくともシビウ先生が、それに戸山町が動く。シンジの付き合いは、マユミ達とは別物だよ」
「レニ、いいよ」
 す、とシンジが軽く片手を上げた。マユミを残したのは、元より住人達の中では一番シンジに近く事態を眺められると思ったからだが、だからと言ってシンジとは元よりいる世界は違うのだ。
「いいから患者と夜の散歩に専念してて−こう言えばシビウも夜香もすぐには動かないけど、俺もぼやあっと眺めてる気はない。やはり、神崎忠義に消えてもらうのが一番いい」
「それで…すみれさんはどうなるんですか?祖父を亡くして、すみれさんは平気なんですか碇さん」
「山岸、俺の話聞いてた?すみれは正気の祖父に強制召還を言い渡されてるんだよ。エヴァはともかく、劇団すらもほぼ間違いなく退団を言い渡してくる、その事も分かってる?」
 シンジが言うとおり、来院した時点では操られておらず、シンジが気に入らないばかりに会いもせぬうちに人物を断定し、すみれの引き離しに掛かっている。そして、おそらくは劇団の退団も決定事項となるであろう。
 つまり放っておけば、すみれは対降魔としてのそれも女優としての夢も、潰える事になるのだ。いかにすみれに才能があっても、劇場の規模はこの帝国劇場が群を抜いており、一人きりで客を集められるものではない。
「まあいいさ。山岸、取りあえず探す手は打つが、良い案があったら是非教えて。すみれの夢も消えず、すべてが丸く行く方法があったらね」
「言って置くけど、シンジが管理人辞職なんて言ったら−もごっ」
「レニうるさい」
 シンジが口を塞いだのは、実はシンジにも刹那それが浮かんだからだ。性が根無し草に近い自分であり、自分がここを去れば済むのではないかと。
 がしかし。
 ここを去っただけでは、おそらく神崎忠義は納得しまい。少なくとも、すみれとの一切の線は断とうとする筈であり、それはそのままシンジが対降魔の指揮からは外れる事になる。
 そして…どう見てもシンジを抜きにして戦える戦力ではなく、それにそんな事は碇フユノが絶対に許すまい。
 すみれの祖父に言われたから止める、あるいはここを離れる、そう言った時にフユノがする事は、シンジには明らか過ぎるビジョンとして見えていたのだ。それも、シンジの意志を別にする事になっても、だ。
「…おやすみなさい」
 やや剣呑な気を漂わせて出て行くマユミを見送ってから、
「シンジ、どうするの?」
「神崎忠義を喪っても、すみれはそんなにショックを受けないはずだ。すでに祖父の言葉で、このままだとどうなるか位分かった筈だし」
「じゃ、さくっと殺る?」
「誰がヒットマンに入門して来いと言った…まったくもう性格変わっちゃって。さ、それはもういいから寝るよ。俺も寝るから。そうそう、レニの部屋は五階に用意しておいたから」
「五階ってシンジと一緒?」
「そ、一番上」
「ふーん、そうなんだ」
 何故か嬉しそうに頬を緩めると、
「じゃ、おやすみシンジ」
 きゅ、と軽くシンジに抱き付いてから出て行く。シンジの表情が僅かに緩んだのは、その仕種にシンジの知る従妹を見いだしたからであり、それが完全でないのはさっきの視線にまだ戻りきっていない一面を見たからだ。
 進歩或いは進化したのなら構わない。だが、愚かな者達に植え付けられた物は、残さず消し去りたかったシンジなのだ。
 取りあえずシビウに尋問だと決め、シンジも寝ようと立ち上がった。今夜はフェンリルもいないから、人口の寝心地の良くない枕で寝る事になる。
 寝室へ入ったシンジは、リモコンを取るとスイッチを押した。かすかな音と共にブラインドが開き、室内に月光が優しく差し込んでくる。
「よしよし」
 その光景が気に入ったのか、うんうんと頷いてブランケットを持ち上げ…そのまま固まった。
「…あの〜、もしもし?」
 そこにいたのは放置された幼児、もとい寝間着に身を包んで丸まっているアイリスの姿があったのだ。
 きゃはっと笑って、
「アイリスね、おにいちゃんと一緒に寝るんだもーン」
 はやくう、とシンジの手が引っ張られたその時、
「そうはいかないね」
 凍夜に落ちた冷菓みたいな声に、シンジの首が機械仕掛けの音を立てて後ろを向く。
「ぶーっ」
 黒に身を包んだ人物に、シンジが吹き出したのは次の瞬間であった。
 
  
 
 
 
(つづく)

TOP><NEXT