妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第五十一話:DD5−脱がせたいヒト
 
 
 
 
 
「お、お、おはようございます」
 湯上がりだったせいか、妙に慌てて挨拶したすみれに、
「あ、おはよう。あれ?」
「な、何ですの」
 湯でわずかに染まった肌を見られているのに気付き、ぎゅっと胸元を合わせる。
「そっちじゃくて。屋根はどうした?」
「屋根?そんなのありませんわよ」
「そのまま入ったのか、と聞いたんだけど」
 フェンリルの言葉に、
「あ、あの、そのっ…ろ、露天ですから」
「でも寒いだろうに」
「…え?」
 何を言い出すのかと、奇妙な表情を見せたすみれだが、つぎの瞬間には更に仰天する事になった。
 シンジが、何を思ったのかいきなりフェンリルの胸元に手を突っ込んだのだ。
 わずかにフェンリルの眉が寄ったのを見て、朝っぱらからの痴情にすみれが顔を背けかけたが、
「あった」
 取りだしたのは、小さなリモコンであった。
「な、何ですのそれ」
「見ての通り。効果は、ほら」
「え…なっ!?」
 唖然とした視線の先には、合わさっていく屋根があった。
「屋根、この間こっそり作っておきました」
 柱から出てきた屋根は、あっという間にドーム状の屋根と化し、露天風呂を完全に雪からシャットアウトしてしまった。
「冷えると寒いんだもの」
 軟弱な事を言うと、
「と言うことで、暖かい風呂に入ってきます。一緒に来る?」
 かあっ。
 バッチーン。
「え…え?」
 無論シンジは避けた。
 が、その身体が後ろからがっしりと抑え込まれたのだ。
「いったー!」
「あ、あのごめんなさ…」
 謝る立場が逆のような気もするが、頬にうっすらと出来たモミジに触れながら、
「いや、いい」
 首を振ったシンジの言葉に、妙な物が混ざっているのにすみれは気付いた。
 その右手がすっと上がり、
「風裂!」
 凄まじい風が後ろを襲った瞬間にはもう、危害を幇助した妖狼はいなかった。
「ちっ、逃がしたか」
「い、碇さん…」
「あ?」
「い、今本気で…あ」
「十五パーセント位。跳ね返ったら、すみれが無傷じゃ済まないし」
 言いながら、軽くその額に触れた。
「それとも無差別で跳ね返ってきた風裂、避けてみる?」
 ぶるぶるぶる。
 慌ててすみれが勢いよく首を振ると、
「ま、それがいいかも知れない。それはそうと、今日どうしても行く?」
 それを聞いたすみれの表情が、刹那翳ったような気がしたが、すぐ元に戻して、
「い、碇さんがおいやならわたくしは構いませんわ。じゃ…あう」
 にゅうと伸びた手がすみれを拿捕し、
「雪だから滑ると危ない−と思ったんだけど、すみれが乗り気みたいだし」
「わ、わたくしは別に…」
「嫌なの?」
 ひょいと覗き込まれてささっと逸らす。
 シンジはそれ以上追おうとはせずに、
「俺はここで浸かってるから。食事は先にしておいて」
「え?ええ、分かりましたわ」
 すみれが遠ざかった後、シンジは軽く頬に触れた。
 肩を抑えられて、首だけを動かして避けたせいで、うっすらと紅いのが残っている。
 軽く一撫でするとすぐに消えたが、
「女の子にビンタされた−フェンリル、責任は取ってもらうぞ」
 右手がすっと上がったが、
「何をおかしな事を」
 数倍冷ややかな声がした時、シンジは従魔が脱走したのを知った。
 
 
 
 
 
「…で、後どれくらいあるのぉ〜?」
 間延びした語尾で、それはもうやる気が無いとすぐに分かる口調で聞いたのは、無論ミサトだ。
 何をしているかと言うと、どっさり届く書類に一々目を通しているのだが、その量がまたあまりに膨大なせいで、もううんざりしているのだ。
 理由?
 危険な弟のせいである。
 そう、シンジがフユノを病院に送ったおかげで、そのつけが全部ミサトに回ってきている。
 フユノの代わりをする、と言えば簡単に聞こえるが、これがまたえらく面倒な事だとよっく分かった。
 おかげで、着たくもないスーツに身を包み、昨晩も会合に顔を出したばかりなのだ。
「量的には大したことはありません。御前様なら、十分もあれば終わらせられる量ですから」
 そこにある物に気付かぬ程、ミサトは鈍くない。
「瞳、あんたそうやってすぐ皮肉言うの止めなさいよ。だから何時までも、男が敬遠して寄ってこないのよ」
 来生瞳−立場上、男ばかりが護衛をしているフユノだが、極めて希に一人歩きする事があり、その時は彼女が完全な護衛を果たしている。
 立場がフユノの直属であり、碇邸のメイドではないからミサトにも従う理由は無い。
 無論そんな事を言われて放っておく性格ではなく、
「敬遠、ですか」
 ミサトから視線は外したまま、
「構いません。倫理上、決して叶わぬ相手に懸想するよりはましですから」
「…何ですって」
 倫理上、とは無論シンジの事だ。
 ミサトのブラコン度が危険域まで入っていることを、無論瞳は知っている。
 先に自分が言いだした事も忘れて、ミサトがガタンと椅子を揺らして立ち上がる。
 いずれも豊かな胸の美女二人が、空間で見えざる火花を散らしたように見えた。
 
 
 
 
 
「あれ、おにいちゃんは?」
 食堂が女ばかりで埋まった時、アイリスが気が付いたように訊いた。
「一応寮なんだから、取れる時は一緒に取ること」
 と言う、らしいんだからしくないんだか分からない台詞だが、一応朝と夕は全員が揃う。そこにシンジがいないと、ネジが足りない気がするのだ。
「お風呂に行かれたわ。先に食事するようにとの伝言ですわ」
「ふーん、おにいちゃんがいないとつまらないのに」
 とは言え、そんなに時間があるわけではなく、今日は降雪だというのに学校は休みにならないのだ−ただ一人を除いては。
 すみれが部屋に戻った時、彼女宛にメールが届いていた。
 それも、理事長のリツコから直々に。
 祖父と一緒に一度だけ会った事があるが、金髪黒眉、それに神崎重工のトップを見ても何ら変わらなかったのは覚えている。
 メールを開けた時、シンジがリっちゃんとか言ったのを思い出した。
(碇さんとは、どういうご関係なのかしら)
 湧いた疑問が氷解したのは、文面を読んだ時である。
 そこにはこう書かれていた。
「シンジ君とのデートに付き、本日は神崎すみれを公休とします。ただし、シンジ君に甘えすぎることは許されません」
 と。
「……」
 画面の向こうにリツコの顔が浮かんだような気がしたが、さすがのすみれもそのリツコが、シンジに生活費用のカードを渡していることは知らなかった。
 まして、使う額が少ないとぼやいていたリツコが、先般シンジが用意した宴で額が急激に上がった事を知り、妙に相好を崩していた事などは。
「随分と、交友関係の広い方ですのね、碇さんは」
 ある種の感情を込めて呟いた時、部屋の扉がノックされた。
「どなた?」
「あの、マユミです」
「マユミさん?」
 ちらっと時計を見ると、呼びに来る時間でもない。
 第一、いつも一緒に行くわけでは無いのだ。
 ドアを開けて、
「どうかしまして?」
 訊ねるとわずかに口ごもったが、
「あの、今日…出かけられるんですか?」
「え?」
「その、碇さんと」
「…どうしてあなたがそれを知ってるんですの」
 自分でも、口調がきつくなった事に気付いたが、生憎と止まってくれない。
「ご、ごめんなさい、お話が聞こえてしまいました」
「それで?殿方とのお付き合いは控えろとでも仰るんですの?随分と倫理観が堅くていらっしゃるのね」
「そ、そうじゃなくてっ」
 慌てて首を振ったが、過剰とも言えるすみれの反応に、その顔からは血の気が引きかかっている。
「ただ…お気を付け下さい」
「…なんですって」
 すう、とすみれの双眸が据わる。
 対アスカで本当に怒った時の表情だ。
 が、
「碇さんにではなく」
 すっと止まった。
「どう言うことですの」
「碇さんが何かする、なんて思ってません。ただ今日は…」
 言いかけてから、シンジが危険だなどと、絶対に禁句だと気が付いた。
 シンジに注意、などとこの姫には決して言えないのだ。
「今日がなんですの、早くおっしゃいな」
 苛立ったようなすみれの声に、マユミが刹那焦燥を感じた時、ぽんといい台詞を思いついた。
「今日は、都市の気に凶が出ています−くれぐれもお気を付けて」
 プロではないが、一応マユミに占術の心得がある事はすみれも知っている。
 そのマユミが言うのだから、伊達や酔狂でもあるまいと一瞬真顔になったが、すぐにふっと笑った。
「どうしたんですか?」
「もう少し、危険予測には長けた方がよろしくてよ。わたくしがご一緒するのは、これ以上ない騎士(ナイト)さん、そうでしょう?」
「あ…」
 騎士は騎士でも暗黒の騎士、それも尻尾くらい生えていそうな気もしたが、マユミには口に出せぬ内容であった。
「そ、そうですね。じゃ、じゃあごゆっくり」
 と奇妙な事を言ってマユミが辞した後、
「一体何しに来られたのかしら。変わった方ね」
 呟いたが、それきり忘れたように衣装を物色し始めた。
 
 
 そして数十分後。
「脱げ」
 すみれを見たシンジの第一声がこれであった。
「な、何を急にっ」
「いいからさっさと脱ぐ。でないと剥くよ」
 言いながらにゅうと手を伸ばしてくるシンジから、すみれはすっと身を遠ざけて、
「ら、乱暴な方はおやめになって。わ、わたくしが折角選んだのに」
「そう言う問題じゃないっつーの」
 そう言うシンジの眼前には、純白のミンクに身を包んだ娘の姿があった。
 それも、数百万はする代物であり、空飛ぶ黒帽女性にもどこか似ている。
「あのね、すみれ」
「なんですの」
「それいくらした?」
「五百万くらいですわ。大したことありませ…あ、あいを」
 愛ではなく何、だ。
 シンジがきゅっと頬を、それも両側から引っ張ったのだ。
「有閑マダムの娘とデートするんじゃないんだから。だいたい、その襟元に付いてるのは一匹を全部使ったやつでしょ」
「ご存じですの?」
「環境団体が、生物を絶滅させる悪の商法だってやり玉にあげてた」
「……」
「似合うとかじゃなくて、かなりアレに目立つから脱いで」
「お断りですわ。大体碇さん、お金を使うなら、碇さんもお得意でしょう」
「え?」
「この間、桜と蟹とお酒を用意されたでしょう。あそこにあった蟹は、どれも一尾三万円は下らない代物ですわ。それにお酒も入れると、百万では到底収まらなくてよ。一食に百万円など、わたくしでも使いませんわ」
 今は二月の終わりだが、まだ桜が咲く季節ではない。
 が、女神館は咲いている。
 そして碇邸も。
 自然のサークルを変えるにも等しいそれは、無論偶然の産物ではなく人が創り出したものだ。
 その下でシンジが、初戦のそれの慰労にと用意したのだが、確かにすみれの言うとおり百万では収まっていない。
 金遣い、と言う点では同世代中もっとも好きに出来そうな、いや出来るシンジだがほとんど興味がない。
 別に身を飾り立てる訳でもないし、高級な物を好むわけでもない。
 ただその一方で前回のように、費用に無頓着な一面も持ってはいるが。
「でもあの時は十人以上いたし、そんなに浪費でもないと思うよ。それに、わざわざそんなおっきな狐と一緒に歩かなくても…」
「却下ですわ。それとも碇さん、これの代わりになって頂けま…あ」
 性格なのか天然なのか、どうもすみれは危険な事をさらっと言う所がある。
 今も意識して言ったわけではなさそうだが、途中で気が付いたさーっと紅くなった。
「二人羽織でもする?」
 シンジもノリがいい。
「べっ、別にわたくしはそのっ…」
「ま、いいや。じゃ、こうしよう」
「はい?」
「賭けをして、もし俺が勝ったらすみれは脱ぐ。もしすみれが勝ったら、そのままでいいや」
「割が合いませんことよ。わたくしには別にメリットがありませんわ」
「じゃ、あれだ。今日は何を買っても、全部俺が持つって言うのは?」
「…何でも?」
「うん、何でも」
「……」
 考える事三秒、すぐに結論は出た。
「いいでしょう、その賭け乗りましたわ。で、何を?」
「ぼーりんぐ」
「…面白そうですわね」
 無論シンジは、すみれがマイボール及びマイグローブを持っている事は知っている。
 従って、すみれがにっと笑ったのも当然と言えよう。
 がしかし。
「く、くやしい…な、なんでわたくしが…」
 フルストライクを決めて見せたシンジの前に、動揺したのか段々と離され、終わった時には三十ポイント差となっていた。
 しかも、出した事のないガーターまで出して。
「破壊工作ならお手の物」
 にゃあと笑って、
「あれって標的にぶつけるから、要するに破壊工作みたいなモンだし」
 よく分からない事を言ったが、
「でも、コートの下はいい感じだったよ」
 ぽうっ。
 これまた値段不明なカシミアだったが、ぴったりとした黒のそれは、すみれの肢体によく似合っていた。
 そして下は、これも珍しいが同色のタイトスカート。
「や、約束だから仕方ありませんわねっ」
 仕方なく脱いだすみれに、
「はいこれ」
 ふわりと、シンジは着ていたコートを掛けた。
「え?」
「そのままじゃ、雪中行軍はきついでしょ。俺の着てるといい」
「え、ええ…」
 赤くなりっぱなしのすみれだったがふと思いついたように、
「あ、あの…て、手を貸してくださいな」
「手?はいこれ」
 差し出した手が、きゅっと握られるには一瞬の躊躇があった。
「こ、これで、す、少しは暖かい筈ですわ」
 紅くなって明後日の方を見ながら、繋いだシンジの手をコートに入れる。
 身長が二十センチ以上違うから、一気にロングコートと化したそれの中で、二人の手は繋ぎ合わされている。
「ま、無いよりはましかな」
 つれない台詞にちょっとがっかりしたが、
「ところで、一カ所寄りたい所があるんだけど」
「どこですの?」
「シビウ病院。半分死にかかってる老婆を見に行く」
「別に、構いませんけれど」
「じゃ、決まりね」
 歩き出したシンジが、繋いだままなのにほっとしたものの、病院へ着いた途端強烈に後悔する事になった。
 
 
 
 
 
(つづく)

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