妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第五十二話:DD6−危ないナース
 
 
 
 
 
「あ、あの…そんな…困ります…」
 すみれから剥いだコートだが、無論シンジが持って歩く訳はない。
「これ、預かっといて」
 と、いとも簡単に窓口に預けたのだが、一目見ただけで、とんでもない値段だと素人でも分かる。
 グローブとボールの管理が仕事ではあっても、ミンクを触るのは仕事ではない。
 何とか辞退しようとしたが、
「その辺に吊っておいてくれればいいから」
 と気楽そのものの口調に加え、
「それでいいね?すみれ」
 着ていた娘に訊くと、
「扱いには最大限の…」
 言いかけたが、連れの青年の視線に遭って、
「ま、まああなた達にお任せしますわ」
 そうなっては、もう断る術はなく、受付の娘は生まれて初めて手にするコートを、おそるおそる受け取った。
 それを見て、
「じゃ、行くよ」
 さっさと歩き出した青年を、慌てて娘が追う。
 二人が出て行った後、
「ど、どうしよう…」
 万が一、傷など付けでもしたらと腫れ物を触るように持った途端、それがさっとひったくられた。
「え?」
「お嬢様のお洋服に何をする、無礼者」
「…は?」
 映画で見たことのある、運転手みたいな格好の老人がそこに、いかつい顔つきで立っていた。
「あ、あの方のお知り合いですか?」
 が、それに答えはなく、もう老人は靴音も高く去っていた。
「よ、良かったのかしら…」
 お嬢様、と言う単語が何となく似合いそうだった為、あっさりと持って行かれてしまったが、それが偽者だったら、と言う疑いは彼女の脳裏に微塵も浮かばなかった。
 
 
「と、ところで碇さん」
「はい?」
 シンジと手を繋いでいるせいか、その顔は幾分赤いままだ。
「このコート、これカシミアじゃありませんの?」
「そうだよ」
「おいくらですの、これ?」
「知らない」
「え?」
「誕生日にもらった物だから。でも、十万もしないと思うぞ」
 最後の語尾が、妙に上がったのにすみれは気が付いた。
 無論自分との対比だがそれは無視して、
「お誕生日に?ミサトさんがお贈りに?」
「違う」
 首を振って、
「葉ちゃんからもらった。コートはこれ一枚で十分だ…痛いんですけど」
「葉ちゃんて、どなたですの?」
 爪を立ててはいないが、繋がってる手に妙な力が加わっている。
「本邸には、メイドさん達がいるんだけどそれのまとめ。親思いのいい子だよ」
「メイドさんがそんなに多く?」
「多くはないけどね、俺がいないと女だけだし、やっぱりメイドさんの方がいいんじゃない。で、俺がコートもらってもいいと思うんだけど、どうして俺の手が痛いの?」
「べ、別に勘違いですわっ」
「あっそう」
 追求はしなかったが、使用人と知った時、手の力がふっと緩んだのは無論分かっている。
「あのさ、すみれ」
「はい?」
「だいぶ手は暖まったので、そろそろ離してもいいかな、と」
「いけません」
 即座に却下された。
「駄目?」
「わざわざ冷やす必要はなくてよ。それとも−わ、わたくしではお嫌ですの?」
「あ、いやそんな事はないんだけど…」
 別に誰と手を繋いでいても、そこから炎症が移ったりしなければ別にいいのだが、今から向かう先はシビウ病院である。
 そう、ドクトルシビウの総本山。
 手を離した方が、すみれの為に良さそうな気もしたのだが、それ以上言わなかった。
「あ、じゃあこのままで」
「それでよろしいのですわ」
 当然、という風に頷いたすみれを見てシンジは、何となく自分とは感性がずれているような気がした。
 善し悪し、或いはシンジとの相性は別として。
 ただ、繋いだ手にほんの少し力が加わったのを知り、ちらりとすみれを視界の端に入れた時、その頬がほんやりと赤いのに気づき、何故かシンジはほっとした。
 
 
 
 
 
「雪、ね」
 窓の外を見ながら、マユミがぽつりと呟いた。
 すみれはよくずれるし、シンジがたまに遅れるのもあるから、住人達はそんなに怪しみはしなかった。
 何よりも、それの意味する所を知らないから。
 数センチ積もった雪の中を、ぞろぞろと歩いて登校した住人達だったが、マユミの足取りはどこか重かった。
 初雪にはしゃぐアイリスにアスカ、そしてそれのお守りをしているさくら、の図があったのは却って幸いだったかもしれない。
 きゃっきゃと、雪をぶつけ合う友人達の姿は、ほとんどマユミの視界には入っていなかったのだ。
 そして−今、教師が読み上げている箇所もまた。
「…さん…山岸さん」
「…え?あ、はいっ」
 三回目に呼ばれてやっと気づき、がたっと立ち上がった拍子に景気良く足をぶつけ、マユミはわずかに眉を寄せた。
 ついでに、立たされ坊主になった事で、その眉は一層寄ることになるのだが。
 
 
 
 
 
「あ、あの碇さん…」
「何?」
「そ、その…」
 汝、触れるべからず。
 高田馬場にあるシビウ病院、院内へ入ったすみれを迎えたのは強烈な、それも凄まじいまでの視線であった。
 無論、この病院に勤める者で、碇シンジの名を知らぬ者はいない。
 そして−院長との関係もまた。
 およそ、男と名の付く生き物など、足元に近寄る価値さえないと思われる妖艶な院長が、唯一想いをはばからぬ相手なのだ。
 ただし、それに対して冷たすぎるのが欠点とも言えるが。
 氷点下のような視線は、患者には決して向けられてはなるまい。
 だがその視線が明らかに今、すみれ一人を対象として向けられていた。
 幼い頃より、何一つ不自由なく育てられ、周囲は従うものだと思ってきた娘に。
 それがその辺の女なら、すみれも反応などしなかったろう。
 いや、逆に見せつけさえしたかも知れない。
 しかしシビウの名を冠するこの病院に、集まりし者はどれも精鋭揃いであり、多少裕福な家庭に育ったとは言え、荒波を知らぬ小娘が太刀打ち出来る物ではなかった。
「あ、あの…もう、手を…」
 か細い声で言いかけた時、一人の女性が二人の前に立った。
 武道を合わせて、二十段近く持っている彼女は、精神科の総婦長である。
「何?」
「お久しぶりです、碇さん」
 深々と一礼した彼女に、
「シビウはどこ?」
 シンジが訊いた途端、周囲がぎょっとしたようにこっちを見た。
 院長ではない、先生でもない、単にシビウなのだ。
 その名を呼び捨てに出来る存在が、それも男がいるなどと、彼らが知らなかったのは当然であったろう。
「シビウ先生は、院長室におられます−いつもの通り」
 が、その院長室がそう簡単に辿り着けぬ事は、既に周知の事実であり、大抵月に数回は死体の回収係が回ってくる。
 すなわち、発見される餓死死体を回収するために。
 無論、目測数十メートルも無いそれを、遂にたどり着く事の出来なかった殺し屋の末路だが、時として全身をこんがりと焼かれた死体も発見される。
 火罠は、仕掛けられていない筈の院長室付近に於いて。
 更にその時は、大抵その少し前辺りに長髪の若者が訪れており、そのつれなさに院長の美貌を曇らせているのだ。
「碇フユノを見に来たんだけど、会えるかな?」
「面会は可能です。先ほど、警視総監が来られました」
 言うまでもなく、フユノは精神科ではない。
 専門科が違っても、入院患者の事くらいは掴んでいるらしい。
「ふーん。良く来るの?」
 勿論、冬月の事だと分かっている。
「よく来られます。SPも付いて来ますが、病院前では子供が怯えるので、二人のみ院長が護衛を許可されました。ただし、それでも病室の外で立たされているようです」
「立たされ坊主、ね。迷惑な事だ」
 誰に取って迷惑なのかは不明だが、ふと呟いて歩き去ろうとした袖が、すっと抑えられた。
「何?」
 口調は変わらないが、取られた瞬間綺麗に叩き付ける技量の持ち主である事を、シンジは知っている。
「そちらの方は?」
「神崎すみれ、神崎重工総帥の一人娘だよ。帝劇の看板だし」
「そうではなく」
「俺に管理されてる人。俺の職業は知ってるね?」
「碇さん、置いて行きなさい」
 シンジも病院内を自由に横行する唯一の人物だが、この婦長はそのシンジに一言命じた。
 他の者が見れば仰天するかも知れないが、
「あ、それは駄目」
 やっぱり、あっさりと拒否した。
 だがすみれの方は、自分達に向けられている視線は分かり切っている。
「い、碇さん、わたくしはここでお待ちして…え?」
 すっとシンジがその耳に口を寄せた。
「待っていたら、生きて再会出来るか分からないぞ」
 人を癒す病院に於いてあまりにも物騒な台詞だが、すみれの感覚は既に自分達が取り囲まれているのに気付いている。
 すみれの本能が知ったのだ−シンジと手を繋ぐことは、少なくともこの病院に於いては危険だと。
 手を離し、
「わたくしは、後から付いて参りますから」
 言ってみたが、気は消えない。
 来るべきでは無かったと痛烈に後悔したが、別に手を繋いでいなければ、問題はなかったのだと彼女は気付いていない。
 何よりも、シンジの手の温かさに、院内と言う人前にも関わらず、離すことを忘れていたことなどは。
「そう。じゃ、行くよ」
 シンジの後に続いたすみれを、冷ややかと言うにはあまりにも危険な視線が追った。
 大舞台で、どんなへまをしても向けられはしないだろうと思うようなそれは、ある意味ですみれに取って初体験であった。
 ただし、二度と経験したくない物ではあったが。
 だから病室へ着いた時、顔色が幾分青ざめて見えたのはやむを得まい。
「あ、あの碇さん」
「何?」
「な、何もお見舞いの品をお持ちしなくて…」
「いいの、別に。あと三日で退院できる筈だから」
「え?ご存じだったんですの?御前様のご容体」
「知らない」
 首を振ったシンジに、すみれの顔に?マークが浮かんだ時、
「誰だお前達は」
 懐中に手を入れたまま、黒服が低い声で誰何した。
「何これ?」
 訊ねたシンジに、
「警視総監のSPでは?さっきの方が言っておられたでしょう」
「それにしては変だぞ」
「変?」
「ドクトルシビウの名を冠する女医が、SP如きに銃を持って院内に入ることを許可する訳がない。あれ、きっと見せかけだ」
「貴様…」
 一人の歯が、ぎりりと鳴ったのが聞こえ、すみれは図星だったのを知った。
 だが次の瞬間に、
「お前には身体に訊いてやる。こい」
 すっと、若い方の男が一歩前に踏み出したから、
「お退がりなさい!」
 つい一喝してしまった所に、
「院内はお静かに、ね?」
 甘い、と言うよりも妖艶な毒を含んだような声がして、三人が一斉に振り向いた。
 無論、気にしてないのはシンジである。
「い、院長…」
「シンジの言う通りよ。ここへ、警察の下僕如きが、銃器を持ってはいる事は未来永劫許されないわ」
 ひっそりと言った時、すみれは看護婦達の視線の意味を瞬時に理解した。
 シビウの視線と、そしてシンジと言う呼称を聞いた時に。
「でも何よりも重いのは、シンジに手を出すこと。殴りたいのなら、違う者を殴るといいわ」
 まさか自分かと、つい身構えたすみれだったが、びくっと身を縮めた途端、とんでもないものを目撃することになった。
 SPの二人が拳を振り上げて、向かい合ったのだ。
(え?…まさか)
 そのまさかであり、きっちり二秒後に、強烈な一撃をお互いの顎に加えた二人は、揃ってその場に昏倒した。
「シンジのデート相手に、危害など加えさせなくてよ。安心なさいな」
「あ、は、はい…わ、わたくしはその…」
「神崎家のお嬢さんね。そうそう、あなたの付き人がここまで来ていたわ。残念ながら院内への立ち入りはお断りしたけれど」
「すみれってアイドルだったの?」
 本気か冗談か、真顔で訊いたシンジには視線を向けず、
「宮田、と名乗っていたわ。あなたの家の執事さんかしら?」
「申し訳ありません。宮田は、わたくしの家の執事です。ご迷惑をお掛け致しました」
 ほう、とシンジが感心したような顔になったのは、シビウの前ですぐに我を取り戻したすみれに感心したのだ。
 或いは、執事の単語が引き金になったのかも知れない。
「で、帰ったの?」
「外に立っているわ。着もしないのに、重そうなコートを持ってね」
「コート?」
 二人して顔を見合わせて、
「あ、さてはさっきのコート…今日のこと話したの?」
 シンジの言葉に慌てて首を振り、
「わ、わたくしはそんなことっ…でもどうして…」
 首を傾げているすみれに、嘘がないとシンジは見て取った。
「どっちにしても、家に持って帰ってもらったら?持ったまま、立たせておくのも大変だし」
「そ、そうですわ。ちょっと失礼致しますわ」
 すみれの姿が消えた後、
「シビウ」
 シンジが冷たい声で呼んだ。
「何かしら?」
「看護婦全員入れ替えろ。さもなきゃ、全員調教しなおせ」
 訓練、ではなく調教なのがシンジらしいと言える。
「きつく言って置くわ−私の想い人に構うなって。でも条件があるの」
「条件…ん…」
 そっと顔が捉えられた刹那、あっという間に唇が押し当てられた。
 柔らかく、そして熱い色を持った唇が。
 舌は侵入してこなかったが、シンジがとっ捕まった時としては珍しい。
 シビウに取って、人前だとか場所だとかは基本的に関係ないのだ。
 唇に軽く指を当てて、
「移るルージュだけはつけるなよ」
 と言った。
 キスで、ルージュの色が移った時、シンジの雰囲気がどう変化するか、シビウだけは知っている。
 その、ぞくりとするほど妖しく変わる雰囲気を。
 だがその代償はあまりに高いものであり、
「ええ、分かっているわ」
 妖々と頷いた。
「ところで、うちの国って平和なの?」
「平和よ−少なくとも、警視総監が個人の見舞いに勤務時間を大きく割ける位には」
「そうか、安心したよ。これで帝都の防衛も完全だ」
「そうなるわね。さて。見に行く?」
 シンジが頷いたのを見て、シビウの手が僅かに動く。
 その指に嵌った指輪が煌めき、ドアが音もなく開いた。
  
 
 
 
 
(つづく)

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