妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第四十七話:DD1−夜更けに男女が二人きり
 
 
 
 
 
 一瞬、かーっと赤くなったすみれだったが、次の瞬間には直ぐさま、薙刀が唸りを立てて襲ってきた。
 ぶん、と飛んできたそれを、アイリスを抱いたままひょいとかわす。
「…やっぱりあなたでしたのね」
「館は今、余人は入れない」
「は?」
「この間二人に喧嘩されてから、結界の強度を更に上げたんだ。文字通り、陸の孤島みたいなもんだね。で、それより練習を?」
「あ、あなたがみたいな人がいるから、護身は欠かせないんですわっ」
「普段は護衛がいるのに?」
「この中では無理でしょう。碇さん、言っておきますけれど、今度わたくしにこんな真似をしたら、その首打ち落として差し上げますわよ」
「だって首が白かったから。じゃ」
「なっ!?」
 今度こそ、首まで赤く染めたすみれに、
「おやす…え?」
 にゅうと伸びてきた刃が、シンジの行く手を塞いだ。
「ちょいとお待ちなさい」
 妙な語彙に振り向くと、
「ちょっとお聞きしたい事がありますの。わたくしの部屋までいらして下さいな」
「はあ」
 荷物を背中に背負ったまま、断ることも出来ずシンジは曖昧に頷いた。
 
 
 
 
 
「じゃおやすみ、アイリス」
 すやすや寝息を−正確には酔い潰れた少女の髪をそっと撫でてから、シンジは部屋を出た。
「ところで」
 歩き出しながら、後ろを見ないで言う。
 それだけ見れば、独り言を呟いているように見えたかもしれない。
 が、すぐに応答があった。
「何?」
「アルコールって、おっぱい縮むんだっけ?」
「柔らかくはなるかもしれないが…何故私に訊く?」
「胸が小さい、背が伸びない−おにいちゃんが飲ませたせいだー!って、文句言われても困るから」
 アイリスの事らしい。
「シビウの所で豊胸手術も可能だろう。あの医者なら、痕跡一つ残さずにスイカをぶら下げたようにしてくれる筈よ」
「んー」
 ちょっと考えてから、
「いや」
 と首を振った。
「胸は天然にかぎ…こら」
 言い終わらぬ内に、たっぷりと重量感の乗った乳房が背中に押しつけられた−初めて見た時から、まったく型くずれもしていない乳房が。
「こんなのはどう?」
「扁平がいい場合は邪魔だね」
「マスターはどっちがいい」
 声が少し尖ったように聞こえたのは、気のせいだったろうか。
「冬の胸はあったかい」
 奇妙な答えだがフェンリルは満足したらしい、
「ま、薙刀で首落とされないように気を付ける事だ、マイマスター」
 すっと消えた声からは、危険な物は消えていた。
  
 
「お邪魔します。確か二度目だったかな、ここ」
 その言葉に反応したのか、
「男の方が、それも二度も入るなど前代未聞ですわよ」
 だが通して置いての台詞に、
「そう?」
 ちらりと奥の部屋を見て、
「じゃ帰ります」
 きびすを返しかけたらきゅっと掴まれた。
「ふぐー!」
「じょ、冗談ですわよ、冗談。お通ししたのはわたくしなのですから」
「こないだは通されなかったけど」
「え?」
「無断侵入したけどね」
「……」
 しかし、シンジの言葉にすぐ本意を読んだらしく、軽く咳払いして、
「か、感謝してますわよ、ちゃ、ちゃんと」
「よろしい」
 偉そうに頷いたシンジにぴくっと眉が動いたが何とか抑えて、
「そこにお座りになって。何かお持ちしますわ」
 各人の部屋には、それぞれ冷蔵庫が置かれているのだが、
「いいよ、すみれ」
 歩き掛けたのを止めた。
「え?」
「既に十一時は深更だ。少なくとも、嫁入り前の娘には。何となく入れた訳でも無さそうだし、俺に何を訊きたいの?」
「そ、その…」
 ずばり訊かれて、すみれが一瞬言いよどんだ。
 と言うことは、立っていったのは精神(こころ)の準備だったのか。
 刹那、すみれがすっと息を吸い込んだのをシンジは見逃さなかった。
 それで気を集めたのか、戻ってくるとシンジの向かい側に腰を降ろす。
 シンジが無造作に座っているこのソファだが、本革張りのこれは数十万で足りるかどうか。
 その他に、どれ一つ取っても最新の物を、値段は気にせずに買い集めた節がある。
「こ、この間の事ですけれど…」
「この間?はて」
「だからその、わたくしがアスカと…」
「ああ、喧嘩した時ね。それがどうかした?」
「な、治していただきましたけれど…確か…ミサトさんは水治療はお出来にならなかった筈ですわ」
「できないね。で?」
「それに…ミサトさんはあの場に最初からはおられなかったような…」
「服のこと?」
 ちらりと天井を見上げながら訊くと、その顔がすうっと染まる。
 図星だったらしい。
「…ぇ、ぇぇ…」
 蚊の鳴くような声で頷いた。
「邪魔なんで剥いでみました」
 あっさりと言ってのけたシンジに、一瞬すみれが息を呑んだ。
 と、その顔が紅潮していくのを、シンジは黙って眺めていた。
 朱…赤…紅…赫怒。
 激昂に変わる寸前で、
「良かったの?」
 逆に静かな声で訊いた。
 人間、燃えている時の冷や水はかなり効くが、すみれも例外ではなく、
「ど、どう言うことですの…」
 低い声は、それでも堤防決壊寸前なのが見て取れる。
「医者というのは、患者の告知をそのまま受けて診療したり、薬を出して済む職業ではない。無論全部じゃないが、患部を見て症状を見立てる事も必要になってくる。もっともどっかの女医は、九割まで見抜くがね−口にはしないが」
 ちょうどその瞬間、とある病院の地下室で、小さなくしゃみが起きた。
 だがその主は、
「この噂−私の想い人ね」
 うっすらと笑った。
 この呼吸すら無縁に見える女医も、こんな人間的な部分を持っているらしい。
「…だから何ですの」
 シンジの言葉の意味は、すみれには通じなかったらしい。
「内部の病気でもそうだが、外傷なら大抵見抜く。少なくともそれは」
 細い指が、すっと指した一点はすみれの胸であった。
 思わずそこを抑えたすみれに、
「クランケは二人、いずれも身体のあちこちに揃って引っ掻き傷を作っている。おまけにそこここが破れた服−これで事態が見抜けぬなら医師免状は返上だ。アスカならともかく、神崎すみれの名を冠する娘が、それで構わないの?」
「…っ」
「女同士で取っ組み合いしてあちこちに引っかき傷、別に悪い事じゃない。無表情で殺し合いされるよりは、はるかにましさ。とは言え、神崎の名はその事態を許しはするまい」
「で、では…」
 俯いたすみれの顔がわずかに上がる。
「わ、わたくしの為に…?」
「二割」
「はっ?」
「二割はすみれ、後の二割はアスカ用」
 特別ではないと知り、僅かにすみれの眉が寄る。
 シンジへの感情はともかく、今までの扱いに置いて常に自分はナンバー1であった。
 だが、二人を足しても四割しかないではないか。
「後の六割は何ですの」
「俺のプライドと防衛」
 プライド、防衛、そのいずれもこの言葉には似合わぬ物であった。
 顔から怒りの色が消え、代わりに?マークがついたすみれに、
「どこかの剣道娘が煽ったとは言え、止めなかったのは俺だ。館内での出来事に余人を介入させる気はない。それと、対神崎用の防衛だ」
「わ、わたくしの…?」
「違う」
 シンジは首を振って、
「神崎のと言った筈だ。娘の、或いは孫の身体に傷が付いたのを知れば、黙って見過ごす一族でもあるまい?」
「そ、それは…」
 確かにシンジの言うとおり、すみれが喧嘩して傷を作った、それも全身になどと知れば、黙って見ている祖父ではない。
 父はまだしも、祖父がシンジに対して何もしないとは思えないのだ。
「あ、あの碇さん…」
「何?」
「ご、ごめんなさい…」
 すみれは深々と頭を下げた。
 シンジの言う通り、自分の傷ついた身体など、屋敷の者には到底見せられないのだ。
「もっとも、本当は違う守備もあるけどね」
「え?」
 次から次に出てくる言葉に、既にすみれは付いて行けていなかった。
「神崎重工の一族が俺を敵に回した場合、碇の財閥は放って置いて」
「はあ」
「ある医者が動く」
 シンジの指がすっと一本上がった。
「腕はこの上なく、だが敵には決してしたくない女だ。そして」
 指がもう一本上がり、
「戸山町が敵に回る。夜の間だけとは言え、月のない夜は背中に気を付けろ−この言葉が、これほど当てはまる種族もいるまい」
「戸山町…き、吸血鬼の一族が?」
「麗香も血の気の多い娘だからな」
 何を思ったのか、シンジがふっと笑った。
「麗香、とは誰ですの」
 女と知ったか、口調が僅かに変わった。
「夜香の妹。で、夜香は戸山町総帥、長老の孫。現当主代理」
 吸血鬼をよく知らぬすみれも、それが何を意味するか位は知っている。
「お、お知り合いですの」
 幾分強ばった口調で訊ねた。
「今度ベ…」
 言いかけて止めた。
 少なくとも、ベビードールの単語で事態は好転するまい。
「別に。それともう一点、人間が間違っても敵にしてはならぬ者が動く」
 もう一本指を折って、
「神を敵にするほど、物好きでもないだろうが」
 すみれが、あっと息を呑んだ。
 住人全ては知らぬが、少なくともすみれは知っている。
 そう、フェンリルの出自の事を。
「フェ、フェンリルさん…」
「そう、フェンリル。ひのふのみ、これを揃って向こうに回した日には、神崎一門も即日滅亡だ」
「……」
「降魔を敵にして、楽々と遊んでのける連中は、やっぱりちょっと怖い存在」
 少しおどけた口調で言うと、
「すみれを天涯孤独にする事もないでしょ?」
 ひょいとすみれの顔を覗き込んで訊いた。
「……ーっ!!」
 くすぐるような口調に、すみれの顔が赤くなる。
 だがその色は、さっきとは明らかに異なっていた。
「ま、そんな事で動かれても困るけど」
「そんな事?」
「降りかかる火の粉は自分で何とか…って言ってるんだけど」
「言ってるんだけど?」
 つい釣られて身を乗り出したすみれに、
「なかなかシンジ離れ出来ないの」
 くすくすと笑ったシンジのせいで、ついすみれの顔にも笑みが浮かんだ。
 少し近い距離のまま、
「それにこの子がいるから」
 ちょん、とすみれの頬に触れた。
「な、何をっ…え?わたくしが?」
「そうすみれ」
 うんと頷いた。
「わたくしが何ですの?」
「いざとなったら拙僧のぼでぃがあどに」
「わたくしが?」
 一瞬、きょとんとなったすみれだったが、すぐにふふんと笑った。
「まーあ、わたくしがいれば、父も祖父も碇さんに余計な事など申しませんわ。箱船に乗った気分でおいでなさい」
 高笑いしたが、
「箱船って、回りは全滅するんじゃなかった?」
「え…べ、べ、別に深い意味はなくてよっ」
「冗談だよ、冗談」
 さっきの仕返しだと知り、
「わ、わたくしをからかいましたのねっ」
「先に言ったのは誰?」
「そ、それは…と、ともかくっ」
 旗色悪しと見たかさっさと話題を変えるように、
「先だっては不覚を取りましたけれど、次は万全で臨みましてよ」
「何かお願いでも?」
「その望みじゃありませんわ。降魔戦の事です」
「ああ、そっちね」
「わたくしの活躍、よっくご覧になるといいわ」
 はあ、とシンジは頷いた。
 だが、住人達揃っての活躍は目の当たりにしているし、何よりもすみれが知らない訳はない。
 一体この自信がどこからくるのかと、シンジは内心で首を捻っていた。
 それを知ってか知らずか、
「この間だって、わたくしが出ていればもっと早く片が付きましたのに」
 シンジの表情は変わらない。
 が、一言、
「ほう」
 と言った。
「何ですの?」
「いや、確かすみれは薙刀使いだったな、と思って」
「ええ、そうですわ。神崎風塵流、既に免許は持っておりますの」
 この時すみれに、もし読心術があれば即座に口を噤んだろう。
 いや、それ以前にそんな言葉は口にしなかったに違いない。
 だが生憎とすみれにそんな能力は無かった。
 そう、少なくともシンジの心を見るような能力は。
「邪魔したね」
 すっとシンジは立ち上がり、
「次の降魔戦、楽しみにしている。それと二人だが」
「はい?」
「アスカとすみれだ。肢体は二人とも、手入れは出来ていたようだな」
 それだけ言うと、もう振り返らずに扉から出て行く。
 残されたすみれは、
「手入れ…?」
 三次式でも与えられた生徒のように、首を捻って宙の一点を見つめていた。
 
 
「いかがなさいました、我が君」
「分かってるなら訊くな」
 部屋に戻り、窓から外を見下ろすシンジの視線は、少なくともうら若い娘と二人で、部屋にいた青年の物ではなかった。
 膝をついて後ろに控えるフェンリルが、その後ろ姿に静かな視線を向けている。
「明日、麗香の所へ行く。お前も付いてこい」
「試されますか」
 シンジがゆっくりと振り向いた。
「住人達はどれも歯が立たなかった。驕りか或いは慢心か、それとも裏打ちする実力の所在があるのか。見せてもらうぞ−すみれ」
 不気味なことをシンジは口にした。
 だがいかにシンジとは言え、戸山町の住人を腕試しには使うまい。
 では、麗香の名が出たのは何故か?
 そして、すみれを試すと言ったそれに何の関係がある?
   
 
 
 
 
(つづく)

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