妖華−女神館の住人達
第四十八話:DD2−五精使いと吸血鬼の密談
「しかし前回は、幾分計算違いだったな」
「はっ」
ただし内容とは違い、言った方も受けた方もさして思っていない感じはある。
「一撃で新宿位は落とせると、脇侍はほぼ全力をつぎ込んでおる」
「して、叉丹様。現在回復は、いかがなっておりますでしょうか」
あくまでも主の機嫌を損ねぬようにと、口調にも最大限注意しながらミロクが訊く。
「一割だ」
答えは早かった。
一瞬聞き返そうとして、寸前で踏みとどまる。
確かに前回、脇侍は百二十体を喪い、銀角もまた五十体近くを喪っているのだ。
鉄砲三段構えに大敗を喫した名家みたいなものであり、そう簡単に戻るものではあるまい。
が、その割には主の顔にさして焦燥がない事に、ミロクは内心で頼もしさを感じていた。
双方とも元はれっきとした人間だが、現在は既に人外のそれへと成り下がっている。
いや、出世したというべきなのだろうか。
「叉丹様、では私が参りましょうか」
「いや、それには及ばぬ」
叉丹は軽く首を振って、
「現時点では、まだあやつとぶつかって勝てる保証はない」
苦々しげに言うと、
「むしろ逆の公算が高いのだ。少なくとも、迂闊に挑んで良い時ではない」
「ではしばし放って置かれますか?」
「いや、それもなるまい」
「はっ?」
初めて、小さな?マークがミロクの顔に浮かんだのを見て取り、叉丹はにやっと笑った。
「動くのも、我らと使い魔だけではあるまい−入れ」
叉丹の声に、すっと扉が開いて待っていた者が滑り込んでくる。
それを見た時、ミロクの口許が僅かに歪んだ。
すみれの部屋に召喚された二日後、シンジは一人で夜道を歩いていた。
行く先は戸山町、麗香の所である。
普段なら妖艶な美女か、或いは妖狼のそれが横にいるのだが、今シンジの横は誰もいない。
時節柄、まだ夜は寒く、凍りついたようなアスファルトに、シンジの靴音が冷たく響く。
ポケットに軽く入れた手は、自己加熱には使っていないらしい。
妖狼の背に乗らず、わざわざ歩いてきた理由は、無論寄ってくるトラブルにある。
長い髪は顔を覆い隠し、髪に隠れて見えぬ視線は、気弱だと勝手に思いこませる効果も創り出す。
その身から漂う気は、鍛錬などから来る物では無いだけに、衣類の値段だけ算出すれば、鴨葱にも見えるのだ。
自分から絡む事はないし、無論絡んでくる方が悪いのだが、この青年にはどこかそれを楽しんでいる風情がある。
自分から仕掛けぬ代わり、寄ってくるそれを待つのは何と言うのだろうか。
わざわざ従魔を下がらせてまで、シンジが夜の道を歩く。
だが、まだ何も寄ってこない。
「不作だ…」
物騒な事を呟いたシンジは、百人町へと足を向けた。
ここは以前、戦闘アンドロイドに絡まれた場所でもあり、夜ともなればその手の話には事欠かない。
無論アンドロイドはまだ一般的ではない。
ごく一部に流れたそれの、そのまた一部が戦闘用に改良されたのだ。
AI、すなわち人工知能を持ったそれは、極めて有能な戦闘員と成り得た。
だが人間に酷似した頭脳を持ったそれがあっさりと廃れたのは、やはりロボット三原則を組まれていない物であった事に、最大の原因がある。
人に危害を加えない、と言う事は他人との戦闘を命じた時点でどうしても齟齬が生じる事になる。
また命令系統の融通の無さも手伝い、戦闘部門ではほとんど名を知られる事もなく消えていった。
事実、先だってシンジが片づけたそれは、既に研究所から指名手配の出ていたタイプだったのだ。
おそらくは、その腕力を見込んだ店長が、これは使えると踏んだのだろう。
熟れきった肢体のそれは、確かに正解であったが、唯一にして最大の誤算はシンジに目を付けた事であろう。
小さな事に見えるがそれさえなければ、まだまだ店は金の成る木を飼っておけたであろうに。
いわば珍妙とも言える体験だが、果たして今夜は不作に終わるのか。
屯している家出娘らしきそれや、これから同伴出勤に見える中年男女と若い女の組み合わせ。
警察に見付かったら即座に捕まりそうな、小さなビニールの袋を手に持っている外国人もおり、トラブルなど三歩歩けばぶつかりそうな気がする。
と、その眉が僅かに寄ったのは、何かを見つけた物らしい。
シンジの周囲を、黒服が取り囲んだのはその直後であった。
いずれも表情は一般人の物だが、漂う雰囲気は堅気のそれではない。
シンジがぐるりと取り囲まれたそこへ、黒塗りのリムジンが音もなく横付けされた。
「帰っておられたか、碇さん」
降りてきたのは、この辺でもつとに武闘派として知られる紀州組の組長、紀州吉宗であった。
既に六十を超えているのに、今なお真剣の素振りを一日千本欠かさない。
また、柔剣道その他合わせて十五段の猛者でもある。
「邪魔だっての、まったくもう」
シンジが顔を見るなりの台詞だが、他の者なら即座に東京湾行きである。
無論それで怒る吉宗でもなく、
「先般、アンドロイドが数体消えました−乗られますかい?」
「絶対に」
この場合は当然否定の方である。
「一体に付き四千万懸賞金が掛かってました。うちの若いモンが見つけたんですがね、すぐに分かりましたよ。おい」
顎をしゃくると、子分がすぐにアタッシュケースを持ってきた。
見なくても中身は分かっている。
そっちは見ないで、
「で?」
とシンジは訊いた。
「縄張り(シマ)荒らしですよ。街角に立たせて置いた女達が、あいつらに叩きのめされたんです。女同士の喧嘩でも、相手が人外なら黙っちゃいられないと、若いモンを行かせましたが悉く」
すう、と手刀で首を切る仕種をして見せた。
「男には手加減しなかった?」
敢えて訊くと、
「吸い尽くされただけですよ」
ひょっ、と笑った。
「その代わり、血も出ない程吸い尽くされた挙げ句、チンポを引き抜かれてました。うちに帰ってきたのは上半身だけです」
確かにそれなら、懸賞金をそっくり献上する気にもなるだろう。
「四千万」
ふと呟き、
「掛ける五で二億円、か。涎が出そうな金額だ」
どうでもいいような口調で呟いた。
「あんたに頼みがある」
「はっ?」
「その金はくれてやる。別にお金など欲しくないし。その代わり、俺と立ち会ってもらいたい−無論真剣で」
やくざの組長が、シンジの言葉を理解するのに数秒を要し、
「今夜はトラブルに振られ、しかもお前達のせいで決定的に振られた。この償いはしてもらうぞ」
てっきり受け取るものと思っていたのに、とんでもない事を言い出され、吉宗の顔から血の気が引く。
だが子分達が何も言わないのは、分かっているからだ。
すなわち、言葉はそのまま死に繋がると。
そしてそれは自分の死のみにあらず、組の壊滅をも意味している、と。
蒼白になった極道達に、
「さ、やるぞ?」
にやあ、と笑ってシンジは促した。
「それで碇様、どうなさいましたの?」
「取りあえずすっきりした」
ふふん、と笑ったシンジは幾分上機嫌に見える。
親分の代わりにと、三十人からを相手にして少し晴れたらしい。
直った機嫌でやって来たのだが、何故か出迎えた麗香はメイド姿であった。
しかも、胸の強調が少し増えていた。
カップをそっと置いた麗香に、
「その服、少し勉強した?」
ちらりと胸元を見ながら聞くと、
「い、碇様に…ほ、褒めて頂いたので…」
と蚊の鳴くような声で言った。
とは言え、シンジの来訪は知らせておらず、本来ならおかしな事情だが今は夜だ。
この新宿も、無論蝙蝠達の飛行区域に入っていることは、言うまでもあるまい。
「何で?」
重ねて訊くと、麗香はすっと一冊の本を差し出した。
「これを」
「麗香…」
一目見たシンジの表情は固まり、ぱらぱらと中をめくったシンジは完全に絶句した。
「これ…どこで」
やっと訊いたシンジに、
「その筋の専門だそうで、配下の者に捜させました」
「配下って女?」
「そうですが…」
不安になったのか、
「お、おかしいでしょうか?」
心配そうに訊いた。
(ん)
考える事0.5秒、
「そんな事はないよ」
すぐに首を振ったシンジに、麗香はほっと安堵した表情を見せた。
「じゃ、頂きます」
「はい、どうぞ」
カップを持ち上げて一口飲んでから、
「蝙蝠達を尖兵だとしよう」
「はい」
「で、その蝙蝠達がやられたら、次はどうする?」
「先手が全滅ですの?でしたら、次は手下を行かせるかと」
「そんな感じ」
頷いて、
「前回のやつで、多分手持ちの脇侍はほとんど底をついた筈だ。あと銀角も怪しい」
「はい」
「あの時、一発かまさなかったのもまだいる筈なんだな。そいつらが来るのか、或いは古顔が来るのか…何?」
シンジが古顔と言った時、何故か麗香はくすっと笑った。
「分かっておられるのに、おとぼけですわね碇様」
「む」
「既に実力の差ははっきりしておりますわ。もしも出すとしたら、まだの者しかおりませんわ」
「もしもって?」
「私なら、さっさと投降しておりますから」
麗香の物言いにシンジがわずかに笑うと、麗香もつられて口許を緩める。
五精使いと吸血鬼当主、異種な組み合わせ二人の間に、どこか甘い気が漂ったが、先に引き締めたのは麗香であった。
「でも碇様、何にお使いになられます?」
訊ねた口調は、既にシンジの目的を見切っているように見えた。
すなわち、それが対降魔戦のそれとは違う物だと。
「腕試し」
「あの娘達ですか?」
重ねて訊いた口調に、どこか冷ややかな物があったのは仕方あるまい。
緒戦とは言え、その為に訓練を重ねて来た彼女たちが、ほとんど役に立たなかったことはとっくに知っているのだ。
「何割かは合ってる」
微妙な言い回しをして、
「一人、腕試しがしたくてしようがないのがいる。前回欠席した娘だ」
「腕試し?それでしたら、私がお相手を」
「こら」
めっと軽く睨むと、
「麗香じゃ腕試しにならないでしょ。まだ、住人を減らす気は俺にはないよ」
「余計なことを申し上げました」
「ま、麗香が言う事も分かるけどね。でも」
「でも?」
「今はまだ−遊んでいる時だ」
シンジはゆったりと言った。
「それに、あの時間に合わなかった連中が、どんなものか見てみたい気もする。いざとなったらその時は、麗香に守って貰うから」
悪戯っぽく笑ったシンジに、
「碇様は、この身に替えてもお守りいたします」
「じゃ、ピンチになるのは夜じゃないとね」
真顔で口にしてから、
「それでだ」
「はい?」
「この街の妖気が、次に最も強くなる時を知りたい−何時になる?」
「そう言うことでしたら」
麗香のほっそりした手がすっと上がると、窓から黒い塊が飛び込んできた。
いや塊と見えたのは気のせいで、正確には蝙蝠であった。
吸血美姫の肩に一斉にぶら下がったそれだが、それだけでも十分なのか、
「妖気が満ちるのは、そのまま月のそれと関係しております。彼らが示したのは−」
失礼いたします、とすっと耳元に口を寄せて、何やら囁いた。
「なるほどね…それはそれは」
良いことを聞いたと頷き、
「じゃ、俺はこれで帰る。いいテストが出来そうだ…あら?」
立ち上がった袖がそっと、遠慮がちに捉えられた。
「ご用だけでは淋しいですわ。もう少し、ごゆっくりなさって頂けません?」
「ごめんね、そうでした」
もう一度座り直して、
「じゃ、お茶くれる?」
「はいっ」
嬉々として立っていくのを見ながら、卓上の本をもう一度眺めた。
「確かにメイドと縛は繋がってるけど…」
呟いたのは、一体何を見たものか。
「で、マスター合わせるの?」
フェンリルが横に立ったのは、麗香の所を辞してからであった。
「おそらくはミロク以上」
シンジは短く言ったが、それはすなわち前回以上の戦力を指してもいる。
「体験しないと、何事も理解するのは難しい」
講釈するように言うと、
「住人達が訓練の単語にあっさり従ったのは、基本的には大敗に近いあれが堪えているからだ。あれで楽勝だったら…いや、それだったら訓練なんかいらないな。どうしたの?」
「今なんて言った?」
「だから訓練なんかいらない…」
「その前」
「ん?だから体験が一番だって…おい」
にゅうと伸びてきた腕に、シンジの身体はがっしりと捕まっていた。
「マスターが反応しないのは、私の躰を知り尽くしていないせいだったのね」
言うが早いか、その耳朶にふっと吐息を吹きかける。
「だから誰もそんな事は…んむー!!」
シンジ襲わる−往来の真ん中で、それも至極簡単にあっさりと。
じたばたもがいたが、その四肢はびくともしなかった。
「ただいま〜、あれ、まだ寝てなかったの?」
シンジが帰ってくると、珍しく全員が食堂にいた。
「まだそんな時間じゃないって。それよりシンジ、ちょっと聞きたい事あるんだけどさあ…いい?」
どこか歯切れの悪いアスカだが、
「別にいいけど、何?」
「あー、ちょっとそこ座ってよ」
「はあ」
言われるまま腰を降ろすと、全員の視線が集中した。
「あの、何か?」
ルージュの痕は無いはずだと思いながら聞くと、アスカにさくら、それにすみれが互いをつつき合っている。
「…用がないなら帰ります」
立ちかけた所へ、
「あ、あの碇さんっ」
「はい?」
「チョ、チョコレートなんですけど…」
「どうかしたの?」
「こ、今年のバレンタインはどうされたんですか?」
「どうって?」
「だ、だから沢山貰ったんでしょ?シンジ」
「何で」
「『はあ!?』」
思わず声の大きくなった住人達に、
「ここにも文化を曲解しているのがうじゃうじゃと」
なぜかシンジは、眉をひそめて見せた。