妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第四十話:揺れる心
 
 
 
 
 
「いい眺めだねえ」
 碇シンジ、十八才。
 ほぼ完璧な頭脳を持ちながら、一本抜け落ちたネジのせいで浪人中。
 なお、現在は鬼畜中でもある。
 ひっそりと入った連絡に、自宅へ帰ったシンジは使用人に絡む姉を発見し、縛り上げて連行してきた。
 更に、さくら達を立たせた教師を病院へ送った後、ミサトを担いで学園に向かい総責任者を、つまりリツコを確保。
 現在二人は、蓑虫状態で吊されている。
 要するに、ぐるぐる巻きにされているのだ。
「大体、酔っぱらってメイド達に絡むなんて何考えてるのさ。あ、ありがと」
 マヤが持ってきたカップを受け取ると、一口飲んだ。
「で、でもシンジ君…」
 最高責任者のこの姿を見たら、生徒達は間違いなく卒倒するに違いない。
「でもじゃない」
 シンジは途中で断ち切った。
「そもそも、あの子供達が勝手に飲むかどうか、それも区別が付かないのかい?」
「そ、そう言うわけじゃないけど…」
 とそこへ、
「まったく使えない子だよ。とは言えシンジちゃん、その位にしてやっておくれでないかい」
 ドアを開けて、ナオコが入ってきた。
「塾の方はいいの?」
「この季節は、もう追い込みもほぼ終わっているさ。無駄な物はやっても無駄だよ」
 とんでもない言い方だが、シンジはくすっと笑った。
 赤木ゼミ。
 合格率にして、実に九割以上のそれを誇るそこは、並大抵では入れない。
 訂正しよう。
 入るのは誰でも入れる。
 ただし、夏休みを過ぎた時点でふるいに掛けられて、講習を受ける資格があるかどうか、チェックされる。
 夏休みに奇怪な化粧に走ったり、アルバイトに精を出す者達には用は無いのだ。
 その代わり、そこをクリアすれば、後は九割以上が目標高に受かるとあって、その人気もまた半端ではない。
 実際、ここの教室の空きなど、非常に珍奇とも言える位である。
「こんなぼんくらな所じゃあ、到底シンジちゃんには来て貰えないね」  
「その気になったら、無理矢理でも入れようとするくせに」
 カップを傾けて空にすると、
「それはそうと、今年の望みはどう?」
「そうだねえ」
 一瞬、宙づりになっている娘を見てから、
「97%は、ほぼ志望通りに行けそうだよ」
「大したものだね。これでまた、来年も忙しくなれそうだ」
 シンジがすっと手を動かすと、突如として縄が切れた。
 二人が床に落ちてくるそこへ、慌ててマヤが駆け寄る。
 ただし、抱き留めたのがリツコだったのはやむを得まい。
「いったーい」
 お尻をさすりながら、ミサトが起きあがってくる。
「大体シンちゃん、あんたが私を呼んでくれないのがいけないんでしょ!」
「そうなの?」
 と、ナオコを見る。
 ぶるぶると首を振った。
「論外」
「だってさ」
「ナオコさんそんなあ」
「若い者は若い者同士、任せておけばいいのさ。そろそろあんたも、弟からは卒業しないとね」
「でも私、リツコよりは五才も若いしまだまだ肌の艶だって」
 言いかけると、
「クリスマス超えたら、女の価値はどれも同じなのよ。分かってないわね」
「何ですってえっ」
「何よ」
「放って置こう」
 睨み合っている二人は放っておいて、
「ところで、機体の改造を任せるのはもう決めたのかい?」
 うん、とシンジは頷き、
「渚製薬の一人娘、あれにしたよ。学園も一度受けてるし、霊力も少しはある筈だ」
「でもいいのかい?」
「婚約のことだろ。それぐらいは知ってるよ。もっとも、本人も気乗りしてないみたいだから、これ幸いと乗ってくる可能性が高いしね」
「シンちゃん、分かってないわね」
 顔をくっつけて、まるで猫みたいに睨み合っていた二人だが、ミサトがひょいとこっちを向いた。
「何が?」
「その辺の一般人とは、シンちゃんは格が違うのよ?少なくとも碇財閥の次期総帥が、渚製薬の一人娘を引き込んだとなったら、世間はどう見…」
「それが嫌だ、と言ったはずだよ」
 シンジは冷たい視線を姉に向けた。
「会社の名など出さずとも、変装しなければすぐばれる。三文経済誌のせいで、おちおち自由行動も取れやしない」
 シンジの言うとおり、以前とある経済誌にシンジの写真が載った事がある。
 それも、碇財閥の次期総帥として。
 無論誹謗中傷でもないし、一応事実だ。
 本人の意向はどうあれ、周囲はもう間違いなくシンジだけを、フユノの後継者として見ているのだから。
 だが、その時はタイミングが悪かった。
 財界の著名な人物が、ずらりと顔を揃えたパーティに、当然のごとくシンジも呼ばれた。
 そして、当然のようにシンジは断った。
 だが、フユノがどうしてもと言うから、五分だけ出てすぐに戻ってきた。
 撮られたのは、その時の写真だったのである。
 シンジにしてみれば、出たくもない所へ出た挙げ句、そんな写真を撮られてしまったのだ。
 孫の口から危険な指令が出る前に、フユノが手を回したのだが、完全な回収は出来なかった。雑誌自体は有名どころであり、結果としてシンジの顔は、また一段と知られる事となった。
 そのせいでフユノは、二週間ほど孫に口を利いてもらえず、体重が激減したと言われている。
「どっちみち、強権発動する訳じゃない。決めるのは本人だ」
 渚カヲル。
 昨年度、ネルフ学院を受験しており、落ちている。
 筆記部分は足りたのだが実技部分で不足、つまり霊力の数値が足りなかったのだ。
 それなら一般科を受ければいいと思うのだが、何故か霊能科を受けている。
 そんな、ちょっと変わった発想もまた、シンジが目を付けた一因なのかも知れない。
 渚製薬社長の一人娘であり、現在は縁談が進んでいる。
 が、本人が気乗りしていないことを、シンジの情報網は既に掴んでいた。
「ごめん…」
「これだから、財閥の娘って嫌いなんだ。ま、自覚があるからちょうどいいね」
 冷気を帯びた口調に、ミサトの表情が凍りつく。
「俺は出かけるから、お嬢様の脚にマッサージでもして差し上げて」
 ナオコに言うと、これはもうおろおろしているマヤに、
「事務課寄るから付き合って」
「は、はいっ」
 マヤを従えて、シンジは振り返りもせずにさっさと出て行った。
 がっくりと膝をついたミサトを見ながら、
「シンジちゃんに余計な期待を持つのは、あんたの悪い癖だよ。後継、の言葉にあの子がどう反応するか、あんたが一番分かっている筈じゃないのかい?」
 自らは、驚異の合格率を誇る予備校のオーナーであり、その知名度は驚異的に高かったにもかかわらず、ナオコは一度としてリツコを公の場に引っ張り出した事はない。
 これはフユノ以上に、好きな道を歩ませたのだ。
 母の度が過ぎた位の気配りで、殆ど重圧とは無縁に来れたリツコであり、それだけにナオコの言葉には重みがあった。
 これが、息子に勝手な道を期待して勝手に押しつける身勝手な母親なら、戯言として重みなど微塵もなかったろう。
「…分かっては…いるんです…でも…」
「分かってないね」
 ナオコは冷たく断言した。
「あんたや御前が、もっとあの子の事を本当に分かっていたら、今頃碇財閥の総帥は碇シンジに代替わりしているよ。あの子なら、優秀なブレーンは掃いて捨てるほどに集まるんだ。それが出来ないのは、結局その道から外れて自由にさせられなかったせいじゃないのかい」
 ナオコの指摘にミサトは、唇が白くなるほど噛みしめた。
 放って置いたら、赤い筋が流れ出したに違いない。
 さすがにリツコが見かねて、
「で、でもお母さん、その位にしておいてあげたら?」
 口を挟んだ娘を、ナオコは穏やかな視線で見た。
「あたしがお前を、オーナーの娘として引っ張り回していたら、あんたは今頃どうしていたね?」
 そう、リツコの名が出るようになったのは、実際はミサトとの付き合いからだ。
 五才差で、しかも得意分野は違ったものの、何故かこの二人は気が合った。
 半ばミサトに引っ張られるようにして、行動を共にしていくうちに、その名が知られるようになるには、そう時間は掛からなかった。
 単なるお友達、で済むにはあまりにもリツコが優秀だったのだ。
 とは言え、リツコも東京学園の理事長へと収まっており、人前に出ることがまったく不向きな性格ではなかったらしい。
 だがそれを知ってもナオコは、
「著名度が上がるのにも、あんたはそっちの道から行った。それで良かったんだよ」
 と、笑ってみせただけであった。
 その辺は、母としてある種の信念にも似たものを持っていたらしい。
「そ、それは…」
 言いよどむリツコを見て、
「そんなんじゃ、まだまだシンジちゃんを理解は出来ないよ。こんな事なら、天井から吊されて修行でもした方が良かったかね」
 やれやれと肩をすくめてこれも出て行く。
 取り残された二人だが、
「やっぱりあたし、姉としては失格なのかなあ…」
 俯いた声が泣いていると知って、リツコは黙ってその肩を抱いた。
 勿論フユノも、そしてミサトもシンジを自分より大切にしているのは分かっている。
 ただ、その思いが時より不器用に出てしまうだけなのだ。
「不器用なのよ…きっと誰もが」
 少し疲れた声でリツコが言った時、ミサトは声を上げて泣き出していた。
 
 
 
 
 
「あ、あのシンジさん…」
「何?」
「あ、あのっ」
 すたすた歩いていくシンジに、てっきり怒っているとばかり思っていたマヤだが、シンジの口調にはそんな気配はまったく感じられなかった。
「どしたの?」
「あ、あの…ミサトさんもきっと悪気があっての事では、な、ないと思います。だ、だからその…」
「電車の中で胸掴まれたら、例えそれが不可抗力と分かり切っていてもいやだね」
「え…」
「それとも植木鉢かな」
「は、はい?」
「三階から鉢が落ちてきて君の顔に当たった。二目と見られない醜貌になったけど、やった方は全然悪気がなかったんです−ちゃんと笑って許してあげるんだよ」
「っ!」
 硬直したマヤを見ようともせず、シンジはもう歩き出していた。
「ご、ごめんなさい…」
 余計な事を口にしたと、泣きそうな声でマヤは謝ったものの、無論シンジはさっさと遠ざかっていた。
 
 
「んー、よしよし」
 シンジの手がすっと伸びて、フェンリルの頭を撫でる。
 なお、フェンリルは美女の姿である。
 シンジがマヤを置いてきたのは、別にシンジが気を悪くしたためではなく、マヤの安全の為だ。
 後五秒あそこにいたらマヤが五体満足で、いや生きていられた保証すらない。
 立ち上る危険な鬼気を、シンジは察していたのだ。
「マスター、あまり私を怒らせるな」
 フェンリルが静かな、だが触れれば瞬時に断ち切られそうな声で言った。
 だがシンジは気にした様子もなく、
「ま、あんな程度のモンなんだよ」
 と、達観しているような口調で言った。
「同じ血が流れていても、その辺はま、色々と微妙でね」
 おかしな物言いだが、当然のようにフェンリルの気は変わらない。
 横を見たシンジが、すっとフェンリルを抱き寄せ、
「分かっているのは分かってる。だから−ありがとう」
 ふ、とほんの少しの吐息と共に奇妙な台詞を囁いた時、やっとフェンリルの口許が微妙に緩んだ。
「やはり、想い人の教育には向かない環境ね」
 ほんの少しだけ気を緩めたフェンリルが、胸の中にシンジを抱きしめる。
 胸にきゅうっと押しつけられながら、
「向こうほど自由には行かないからね。ところで俺の場合、報酬ってあるのかな」
 シンジが呟いた時、抱きしめている腕に更に力が加わった。
 
 
 
 
 
「で、三人が二人になった、と?」
 夜になってから、シンジは椿から劇場に呼び出されていた。
 はいはいと、二つ返事で応じたシンジだが、無論用件は分かっている。
 
「…どうして全員死にそうな顔してるのさ」
「…お願い、頭痛いから話しかけないで」
「わたくし、今日はもう休ませて頂きますわ」
「さくら、悪いけど今日は修練お休みにしない?」
「私も…そう言おうと思っていたの」
 帰ってきた住人達は、未だにグロッキー状態が抜けておらず、全員が早々に部屋へと引きこもってしまった。
 この分だと、数日間は大人しくしていそうだ。
 用意して置いたのは、これも朝と同じお茶漬けと、少し濃くいれた日本茶。
 梅風味にしたのが効いたか、全員が食べたものの、どれもまだ酒に捕まった顔をして殆ど会話もない。
 見ようによっては、険悪な空気に見えない事もない位だ。
 が、実際にはもっと切羽詰まっており、どれもこれも青白い顔をしている。
 おやすみなさいと、挨拶はして引き上げて行ったが、確かにこの顔を見れば、問答無用で立たせたくなるかもしれないと、シンジが内心で薄く笑った時電話が鳴ったのだ。
 
 
「かすみが帰ったの?」
 第一声に、二人の表情が硬直した。
「い、碇さん今なんて…?」
「もう一度言う?」
「そ、そうじゃなくてどうしてかすみ、になったんですか?」
「え?ああ、何となく。それより、なんて言って出て行ったの?」
 シンジの口調に、これ以上は白状しないと見たのか由里が、
「部屋から出てこないから、私が見に行ったんです。そ、そしたらこれが…」
 由里が差し出した便せんには、
「少し自分を眺めて来ます」
 とだけ、きれいな字で書いてあった。
「で?」
「はい?」
「何でこれ見て、俺に電話して来たの?」
「だ、だってミサトさんよりは碇さんの方が近いかと思って…」
「あっちも碇さんだよ」
「そ、それは…」
「ま、いいや」
 シンジは、ほんの少しだけ笑った。
「何ですか?」
 怪訝な顔で訊いた椿に、
「確かに昨日の晩、かすみは止めたいって言ってたよ」
「『なっ!?』」
「多分、自信をなくしたんじゃないかな」
「自信?」
「そう、自信」
 頷いて、
「椿と由里も、ここの劇場用に訓練は色々と受けたでしょ?」
 名前で呼ばれたのに気付き、つい顔が緩んでしまうのを抑えて、
「え、ええ一応は」
「かすみもそう。つまり、平常心とかその辺りも持ち合わせていた筈だ」
「は、はあ」
「ところがそこへ俺が来た。それも碇フユノをばーさん、とか呼ぶのが。分かる?」
「『いいえ』」
 揃って首を振った二人に、
「頭では分かっていたんだ。つまり、俺が碇フユノの孫だと言う事に。で、どうやって接しなきゃいけないのか、と言うことも。ところが、いざ来てみると一番尊敬する碇フユノを老婆と呼ぶわ、おまけにあの世へ送ろうとするわで、ついあるまじき行為を取ってしまった。で、自分がいざとなると平常心を喪うと思ったんだな」
「か、かすみがそう言ったんですか?」
「ううん」
 宙を見上げて分析したシンジが首を振って、
「俺の推測。でも、その線が一番合ってると思うよ」
 分析するような口調のシンジに、
「そ、それで碇さんは何てっ?」
「止めない、と思った?」
 逆に聞き返され、一瞬考えたが二人はすぐに首を振った。
「『い、いいえそんな事は…あ、あう」』
 シンジが指を伸ばして、二人の頬をむにゅっと引っ張ったのだ。
「今迷ったね?」
 ぶるぶる。
 首を振った二人に、
「本当だね?」
 ちっとも信用していない口調だが、それでもシンジは手を放した。
「ただ、止めていいとも言ってある」
 とんでもない事を言いだしたシンジだが、真顔で告げたため、二人とも反射神経で叫ぼうとはしなかった。
「ただ加えて、かすみがいなくなると言う事は、椿と由里の負担が大幅に増えることも告げてあるよ。劇場と、そして戦闘の分野でもね。だから、二人の事が嫌いで無ければきっと帰って…痛いんだけど」
「『碇さんが余計なことを言わなければ好きで…?』」
 頬を今度は引っ張られたシンジだが、なぜかふっと笑った。
「何ですか?」
「いや、いいなと思ってね」
「いい?」
「喧嘩とかしてても、本質は仲がいい。いい組み合わせだよ」
 笑みを含んだシンジの表情に、何故か二人とも赤くなった。
 が、すぐに気付いて、
「で、でも碇さんだって、フェンリルさんとかおられるじゃないですか。碇さんとはすごく相性がいいように見えましたよ。ねえ?由里」
「そうね。それに碇さん、知り合いは沢山おられるんでしょう?」
「一応、ね」
 どこか曖昧な返答の後、
「いずれにしても、自分が整理出来れば帰って来ると思うよ。勘だけどね」
「あの、碇さん」
 不意に由里が、真剣な顔で呼んだ。
「何か」
「それは…五精使いとしての勘ですか?それとも…何となく?」
 秒と経たずに答えはあった。
「時々ピントずれるけど、五精使いの勘」
 シンジの台詞に、二人の肩から力が抜けたのが分かった。
「メロスの話じゃないけど、来ると信じて待つのもいいものかも知れないよ」
「碇さんが言われるなら」「待ってみます」
 揃って頷いた二人に、
「それでいい。ところで、飲む物何かある?」
「あ、はいっ。い、今お茶いれますから。椿、何か探してお出しして」
「分かったわ」
 慌てて立ち上がった二人の後ろ姿を見ながら、
「女の友情、か。よく分かってるとはこの事だね」
 まったくだ、と姿の見えぬ所から相づちが聞こえたような気がした。
 
 
 
 
 
 一週間程経ってから、シンジが言った通りかすみは帰ってきた。
「ご迷惑、おかけしました」
 そう言って頭を下げたかすみの肩を、シンジはうっすらと笑って叩いた。
「椿、由里」
「『はい?』」
「たまった仕事の分、きっちり働かせてやるように」
「『はいっ』」
 やっと住人達の体調も元に戻り、シンジが満を持して渚カヲルを訪ねたのは、満月の微笑む週末の事であった。
 が。
「お風邪を召しておられ、お会いになれません」
 碇シンジと言わなかったせいか、あっさりと追い返された。
 だが、
「風邪なら仕方ないな」
 とあっさり諦め、
「取りあえず、脇侍を使っての実力テストと行こう」
 住人達が全員呼ばれたのは、良く晴れた日曜日の朝であった。
 そう、嵐を呼ぶ事となる第一回訓練の始まりである。
 
 
 
 
 
(つづく)

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