妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第四十一話:五精使いの結界
 
 
 
 
 
「山岸いる?」
 マユミの部屋がノックされたのは、風呂から戻ってすぐのことであった。
 風呂上がりとは言え、下着姿でうろつくような教育は受けていない。
 第一、さくらと違ってブラジャーすら縁が無く、脱衣場でもうサラシは巻き終わっている。
 アスカあたりに言わせると、
「いつもおっぱいを閉じこめてるから、反発して大きくなるのよ」
 だそうだが、妙な事に真似する者は誰もいない。
 扉がノックされた時、ちょうど髪を乾かし始めた所だったが、そのせいか奇妙に狼狽えてしまい、
「は、はいっ、い、今開けますっ」
 声だけ聞くと、室内で妖しげな作業にふけっていたように聞こえる。
 変に思われたに違いない、そう思ってドアを開けたのだが、立っていた管理人の表情からは、少しも窺えなかった。
「お、おはようございます」
「おはよう。あれ、お風呂上がり?」
「ええ、さっき素振りが終わった所ですから。お湯加減もいい感じでした…あ」 
 つい余計な事を口走ってから気付き、
「あ、あの、何かありました?」
「朝から悪いけど、ちょっと付き合ってくれる」
「私ですか?」
「そう、山岸が」
 シンジは頷いて、
「今日訓練するんだけど、実戦並にするから準備がいる」
「準備って?」
「ここの結界を解く。つまり結界を解除する。フェンリルはまだ寝てるから、山岸に手伝ってもらいたいんだけど」
「別に構いませんが。今着替えて来ます」
「よろしく。ああ、それと」
「はい?」
「霊刀持ってきて」
「は、はい…」
 何となく、釈然としない表情で頷いたが数分後、袴姿に霊刀を持ってマユミは出てきた。
「じゃ、行こうか」
「はい」
 横に並んで歩き出したが、ふと気になって訊いてみた。
「あの、碇さん」
「何?」
「どうして私なんですか?霊力だったらさくらの方が」
「秘密」
「はい?」
「二人だけの秘密だから」
 ひょい、とシンジが横を向いた。
 黒瞳に捕らえられた、と気付いた瞬間、マユミの四肢から力が抜ける。
(そ、そんな…)
 気を集め、呼吸を回復しようとしても身体が言う事を聞いてくれない。
 文字通り、蛇に睨まれた蛙状態である。
 視界をシンジだけが占めた時、マユミは急激に視界が薄れていくのを感じた。
「住人達には話すなと言った。守っている?」
 声は遠くに聞こえた。
「…は、はい…」
 声帯が勝手に音を発し、それも十秒近く掛かったような気がする。
「それでいい」
 頷くと、シンジは軽く床を踏んだ。
 ふっと意識が戻った次の瞬間、ぐらりとよろめいたマユミをシンジは支えた。
「大丈夫?」
 訊ねた声には、今し方の事など微塵も感じられず、もしかしたら刹那の夢でも見たのでないかと、マユミは疑った程である。
「だ、大丈夫です」
 応じた声は幾分震えていたが、
「急によろめくからびっくりした」
 シンジが言った時、手を繋いだままなのに気が付いた。
「あ、あの」
 だが、言いかけた時にはもう、シンジは手を離して先に歩き出している。
 慌ててマユミは後を追ったが、妙に身体の力が抜けているのを知った。
 追いついた時、シンジはちらりとマユミを見て、
「身体の力抜けた?」
 と訊いた。
「え!?じゃ、じゃあやっぱり…」
 しかし、シンジはそれには答えず、
「アスカなら、多分失神してる。すみれでも持つかどうか」
(褒められたのかし…あ)
 ふと考えてから、やっぱりシンジの仕業だと気が付いた。
「碇さんっ!」
「何?」
「な、何ってその…」
「さっきのはこの状態だ。つまり現在のこれね」
「?」
「もうじき分かる。さて、まずここからだな」
 裏庭に着いたシンジは、隅に置かれた岩を見た。
「これ、ですか?」
「そうこれ。山岸そっち持って」
 今二人の前にあるのは、一見すると精巧な置き石であり。
 だが単にそんな物がここに、何よりもシンジがわざわざ連れて来る筈が無い。
 何よりも、龍を象ってあるそれは。
「で、でも碇さんこの石は、触れたら危険だって御前様が…」
「青龍だよ。四方を守護する四禽の一つで…あれ?」
「はい?」
「確か山岸、実家は京都じゃなかった?」
「ええ、そうです」
「船岡山を北に鴨川を東に、西には山陽・山陰があった。南には、かつての巨椋池が配されている。あれも四禽を模した物だよ」
「あの碇さん、四禽て何ですか?」
「青龍・白虎・朱雀・玄武。実家ではそう言うの教えられなかった?」
 京は平安の地に設立された平安京。
 四禽を周囲に配した造りのためか、四百年も続いた歴史を持っている。
 京出身で、剣の心得もあれば多分実家もそうに違いないと思ったのだが、
「両親は…姉を後継者にしてずっと見てきましたから。私は、両親から剣術とか教わった事は一度もありません」
「じゃ、剣術は姉上から?」
「はい。私なんかが到底敵う相手じゃなくて…」
 何となく、これ以上は触れぬ方が良さそうだと判断して、
「一度、お会いしてみたいものだね。さ、そっち持って」
「どこかへ持っていくんですか?」
「違う。五秒間持ち上げていればいい」
「はあ」
 よく分からなかったが、言われるまま縁に手を掛ける。
「!?」
 触れた瞬間、まるで全身に電流でも流れたような感覚に、マユミは襲われた。
 しかも、持った手が離れなくなったような気さえしたのだ。
 だがシンジは平然と、
「じゃ、持ち上げるよ」
「はっ、はいっ」
 よいしょと持ち上げた時、マユミは内心で首をひねった。
 重くない。
 いや、手の感覚は無く、腕は勝手に動いた。
 しかも龍を刻まれたその石は、あたかも発泡スチロールか何かのように、非常に軽かったのだ。
「はい、降ろして」
 言われるまま、依然として腕の感覚は利かぬまま、またも勝手に腕が動いた。
「…?」
「どうしたの?」
 訊ねたシンジだが、その口許には僅かな笑みがある。
「い、今何か気が…?」
「やっぱり分かったか」
 ふむと頷き、
「結界を一つ外したのさ。何か感じる?」
「なにかこう…」
 辺りを見回して、
「うっすらと寒くなったような気が…な、なにを…」
 僅かに赤くなったのは、シンジがきゅっと手を握ったせいだが、その直後に真顔に戻った。
「こ、これは…」
「そう言うこと」
 シンジが手を握った時、マユミはさっきの状態に戻ったのを感じたのだ。
 すなわち、感じた寒気にも似た物が消え去ったのだ。
(じゃあ、あの気は碇さんの?)
 つまり、館内を覆っていた気はすべて、シンジの霊力に基づく物だと言う事になる。
 とは言えこの女神館、その辺のマンションより敷地は大きく、住人達も皆霊力を持った者達ばかりと来ている。
 おまけに、さくらとアスカを例に取っても、その質は根本から異なった物だ。
 同じ霊力でも、さくらがアスカのように火を放てる事は決して無く、その逆もまた然りである。
 ただ、霊刀のそれは使えないにせよ、単なる刀としては使えるから、さくらの方が幾分小回りは利くと言えるかも知れない。
 アスカやレイの場合には、霊力を喪ったらそれで終わりなのだから。
 いずれにせよ、ここの構成や住人を考えた場合、それをすべて覆い尽くすなど並大抵ではなく、その辺の人間が出来る事ではない。
 第一、マユミにしてもやれと言われれば、即座に首を振っているだろう。
 だが、シンジの手が離れた指先を見ながら、マユミはある事を思い出していた。
 すなわち、シンジの前にも結界はあったのだ、と。
 そう、碇フユノのそれである。
 が、フユノの時には。
「でも御前様の時は…」
「何も感じなかったって?」
 頷いたマユミに、
「それは質が違うから」
「質?」
「正確に言うと目的が違う。つまり、碇フユノのそれは単に結界を張っただけ。無論外部からの霊的侵入は防ぐけれど、中を全部網羅はしていない。言い換えれば、霊力の制御はしてなかったんだな。この前、さくらがいきなり奥義を出したのは聞いてる?」
「…碇さんに触られたって聞きました」
「そんな視線で見ないでよう」
 すっと視線を逸らすと、
「で、結果は?」
「え…あっ」
 さくらと湯に浸かりながら、殆ど効果が出なかったと、さくらがこぼしていたのを思い出したのだ。
「じゃあ、さくらの奥義が抑えられたのも…い、碇さんのこれが原因なんですか」
「そう」
 あっさり肯定すると、
「勿論、バックボーンが太いからだけどね。とまれ、今日一日は外すの。分かる?」
 が、分からない。
「わ、分からないです…」
「さっき、今はこの状態だと言ったでしょ。俺の色で結界が出来ていると、住人達の力は通常の十分の一くらいまで抑えられる。もっともそれは、働く力と反比例しているけどね」
「じゃ、さくらのは奥義だったから効果が無かったんですか?」
「そう言うこと。と言っても、弱いと逆に効果薄いんだな、これが。何かいい案ないかな」
 このクラスの力の主が言うと、嫌味以外の何物でもないが、シンジが言うと何故かあまり感じないのにマユミは気が付いた。
 もしかしたら次元が違うせいかもしれない、と何となく思い、
「それ以上望んだら、罰が当たりますよ」
「そう?」
「そうです」
 と断言してから、
「あの、ちょっとお聞きしてもよろしいですか」
「何?」
「碇さんはこの間、敵のボスを倒さなかったことを、皆には内緒だって言われましたけど、この事もそうなんですか?」
「無論」
 シンジは真顔で頷き、
「さて次」
 と歩き出した。
「でもどうして?」
 横に追いついて聞いた。
「子供が大きくならないから」
「はあ?」
「俺の結界が作動している時、銀角クラスが束にならないと侵入は出来ない。もっとも材料のままでは別だけど。でもそれを知ったら後衛がね」
「後衛って、私達のことですか?」
「そう。エヴァ搭乗者以外、でもここの防衛ラインを任せるから、さくら達並に強くなってもらわないと。エヴァに乗るだけが、対降魔のそれじゃない事は、先の一件で山岸も分かってるでしょ」
「ええ、それは分かっています」
 確かにシンジの言う通り前回の、マユミ達に取っては初陣となる降魔撃退戦では、文字通りエヴァ不要論でも出かねないような成果を残して見せた。
 ただし、シンジが。
 エヴァが無くても、取りあえず降魔には対抗できる。
 ただし、下っ端のそのまた下の脇侍だけであり、銀角には到底及ばない。
 その事は、唯一起きていたマユミが一番分かっている。
 まして、銀角が固める中へ斬り込んで、ボスの所まで行くなど至難の業である。
 エヴァ如何にかかわらず、大幅なレベルアップが必要なのは事実だ。
 がしかし。
 どうして自分なのだ?
 前回の件と言いこの結界と言い、マユミにはさくらの方がいいような気がする。
 むしろ、あれだけ好意にも似た物を持っているさくらなら、きっと理解するに違いないのだ。
「でも碇さん、どうして私なのですか?」
 ふと聞いてから、違う意味にも取れそうだと気付いたが、取り消す訳にも行かない。
「嫌?」
「べ、別に嫌って言う事はないですけど…ただ、どうして私なのかなって」
「胸」
「む、胸っ!?」
「最初に遭った時、俺が胸触ったでしょ。あの時の反応見て何となく」
 一瞬赤くなりかけ、それでも寸前で止まったのはシンジの表情のせいだ。
「さ、触られて赤くならなかったから…じゃないですね?」
「違う」
 シンジは即座に否定してから、
「思い出したけど、初対面としては最悪だ。悪かったね」
「い、いえそんな事は無いです。も、もう気にしてませんから」
「そう、それは良かった」
「あの、それでどうして反応で私に?」
「本来なら、突っかかるのはアスカやすみれじゃなく、トップは山岸の筈だ。にもかかわらず、山岸は反応しなかったね。どうして?」
「どうしてって…浴場で、さくらの一撃を綺麗にかわしたのを見てましたから」
「でも、アスカやすみれも綾波の情報で、碇シンジの能力は聞いた。でもあの反応だった。それにさくらも、浴場で斬りかかってきたのはおそらく、山岸がレイプでもされたと思ったのだろう。とは言え、あの体勢なら間違いなく山岸もろともだった。要するに刹那とは言え、回りが見えなくなったって事。アイリスは論外だし、勝手に侵入して試験結果を持ってくるようなのも駄目」
 レイの事であろう。
「で、消去していくと…山岸マユミの名前が残ったんですね」
「冷静沈着の度数が一番高い、それが選んだ理由だ。もっとも、いきなり決闘だと言い出した時は、少し驚いたけど」
 無論シビウが絡んだ件だが、思い出したマユミは今度こそ赤くなって、
「も、もうその事は言わないで下さい…」
 語尾の方は消え入るようになったが、袴姿の美少女が赤くなっている姿は、その道の者にはたまらないに違いない。
 ちょっと微妙な空気が流れたが、
「あの院長の気が変わらない内に、病院でも見物して来るといいさ。シビウが個別に付き合うなど、日本でオーロラが見えるようなものだからな」
 よく分からない例えだったが、
「じゃ、じゃあお言葉に甘えて」
 こくりと頷いたマユミだが、次の石へ向かう足取りが、幾分軽そうに見えたのは気のせいではあるまい。
 
 そして二十分後。
 
「い、碇さん…わ、私もう…」
「もう駄目?」
 会話だけ聞くとかなり危険だが、実際にはダウン寸前のマユミが、ぺたんと座り込んでいるのだ。
 何のことはない、言われるまま手伝ったのはいいが、とんでもない量の霊力を持って行かれたのだと、やっと気が付いた。
 自慢ではないが今まで、こんなだらしなく座り込んだ事など、一度もないのだ。
「れ、霊力をあんなに吸われるなんて…」
「あれはまだ、少ない方だよ」
「え゛!?」
「結界を一旦ずらしただけだから、吸われた量は大したものじゃない。あれで、実際にその物を動かすとなったら」
 一瞬考えて、
「取りあえず、あれの数十倍は持って行かれる。だから霊刀を持ってくるように言ったのさ」
「これを?」
 幾分気怠げに霊刀を見やったマユミは、肩に持たせかけている所だ。
「霊刀があるから、幾分霊力が補給されている。霊刀無しだったら、今頃は倒れ込んでいるところだな」
「これが…」
 しげしげと愛刀を眺めたマユミに、 
「と言っても、その様子じゃ訓練はきついかな。無理だったら、休んでもいいよ」
「大丈夫ですっ」
 即答が返ってきた。
「これくらい、まだまだ平気で…あら?」
 勢いよく立ち上がろうとして、ぐらりとよろめいた。
「だから言ったのに」
 倒れる前にすっと手を伸ばした。
 どう見ても訓練など、それも実戦並のそれなど出来そうにない。
 が、シンジは何を思ったのか微妙に笑った。
「な、何ですか」
「いい物がある。訓練の時に貸すから、使っておくといい」
「あ、はい」
「でもその前に取りあえず、歩いて帰れないとね」
 そう言うと、シンジはマユミの手を取って両手に包んだ。
「い、碇さん?」
 シンジの触れた部分から、ゆっくりと熱のような物が伝わって来る。
「暖かいです…」
 思わずマユミが呟いた時、すっと手は離れた。
「朝から引っ張り出したからね、これぐらいの事はしておかないと。さてと、館の方に戻るか。先に帰ってるよ」
 何故か、一緒に行くとシンジは言わなかった。
 歩き出したその背に、
「あ、ありがとうございました」
 マユミが頭を下げると、シンジは軽く片手を上げて応えたが、立ち上がった瞬間体力も元に戻っているのに気が付いた。
 喪った霊力は戻りきっていないが、それでも中に戻るには十分である。
 シンジの手に包まれた部分にそっと触れてから、マユミはいつもの足取りで中へと戻っていった。
 
 
 朝食後、全員揃って中庭に出てきたが、
「碇さん、何でマユミが持ってるんですかっ!」
「何を?」
「何を?、じゃありませんっ、あのブレスレットですっ!!」
 さくらが指差した先には、確かにシンジのブレスレットがあり、それもマユミの腕にはめられていた。
 
 
 
 
 
(つづく)

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