妖華−女神館の住人達
第三十五話:ソレッタ=織姫と言う娘(前)
「マスター」
「何?」
「ここへ来てから、妙に自分を偽ることが多くない?」
「またそんなあらぬ中傷を」
そう言いながらも、シンジの台詞にあまり迫力はない。
性格から来る物と言うより、認めているような節があるのだ。
「さっきのあれ、レベル最高とか言いながらかなり落としただろ。攻守共に最高じゃないと、片手落ちだよ」
「仕方あるまいよ」
シンジが、見つめていたカップから視線を上げてフェンリルを見た。
教材を手配した帰り道、珍しくフェンリルから喫茶店に寄ると言い出したのだ。
「確かにあやめは強い。でも結局、先の降魔大戦では巨大化した降魔が相手だったし、彼らが倒したのはその下っ端で、実際に大ボスに傷を負わせられた訳でも無さそうだ。比べるのはかわいそうだよ、フェンリル」
シンジの綺麗な指が、カップを口許に運んでいくのを、フェンリルは慈愛に満ちた視線で見つめた。
「ふと、思うことがあるのよマスター」
「なにを?」
「かつてラグナロク−神々の黄昏にその命を捨てた筈の者が、こんな所にいてもいいのか、とね」
「多分」
とシンジは曖昧に応じて、
「フェンリルを知らなければ俺は、『五精を使える者』のままで一生を終わっていた筈さ。到底今の俺はあり得なかった、感謝しているよ」
「良いことを言うね、マスター」
フェンリルがにこりと笑った時、回りの者達は声もなくその美貌に見とれた。
す、と手を伸ばしてシンジの指に触れたが、それも一瞬の事で、
「あの小娘達、どの程度まで取りあえず伸ばす?」
と訊いた。
「難しいところ」
シンジも真顔に戻った。
「ミロクの力が以前と同じなら、さくらと山岸辺りは一ヶ月位で対抗出来る筈だ。がしかし、そこまで間抜けな連中でもあるまい。それに、アイリスをどうするかも考えておかないと」
「エヴァから降ろしたらどうだ」
いきなりとんでもない事を言いだしたが、
「あの子供は生身の方が、能力の発揮は出来るタイプだ。或いは、機体を増幅型にしてみる?」
「その辺は、まだ見ぬ改造適格者と話す事にしよう。引き受けてくれるといいが」
そう言いながら、ふと窓の外を見たシンジが、
「フェンリル戻って」
不意に告げた。
なぜ、とも言わずフェンリルがすっとその姿を消した時、一瞬店内がざわめいた。
だがそれも刹那の事で、すぐに全員が視線を戻したのは、白昼夢と自分に言い聞かせる事を決意したからに違いない。
これも一瞬唖然としたウェイトレスが、カップを一人分下げた直後、ドアが開いて四人組が姿を見せた。
「何もボクだけ立たせなくたっていいじゃないか…」
ぶつぶつぼやいているのは、無論レイである。
他のメンバーとは違い、派手に広めて回ったのはいいが、ちょっと度が過ぎて立たされたのだ。
とは言え、各自の端末から職員室のそれへ侵入し、学年主任の画面に、
「シンちゃん最高!」
などと張り付けたとあっては、ある意味当然の結果かも知れない。
が、その顔は立たされたにしては妙に緩んでいる。
シンジの気分を別にすれば、住人達の中でシンジをちゃん付けで呼ぶのはレイだけである。
つまり、ある見地からすれば一番近いとも言える。
「だってシンちゃん格好いいしねえ〜♪」
などと鼻歌交じりに呟いてはいるが、本人がどう思っているかは全く思考外に置いているらしい。
何よりも、レイにとってはどこか玩具を見つけたような感じがあるのだ。
ちゃんなどと呼ぶのも、その一端かも知れない。
「今度買い物に付き合ってもらって…いっぱい荷物持ってもらお」
やはりその程度の感覚らしい。
「あれも買ってこれも買って…お小遣い足りないよう!」
素っ頓狂な声を上げた途端、ガラッと窓が開いて、
「やかましい!」
唸りを立ててチョークが飛んできて、レイは慌てて首をすくめた。
「おや、学生さんがどうしてここにいる?」
浪人ズは別として、織姫と紅蘭までそこにいたのだ。
しかも、距離が若干近づいているのをシンジは見抜いていた。
それと、ケンスケがどこかに負傷しているのも。
「ああ、ちょ、ちょっとな」
シンジを見た途端、びくっと反応したケンスケだったが、ここで帰るのはさすがにあからさまかと、諦めたように入ってきた。
「碇はん、こんにちは」
軽く頷いて、
「先日の夜は無事に切り抜けたようだな。ところで学校はいいの?」
「あ、えーとその、今日は特別やから。別に、普段からこんな事してる訳やありまへんで」
「付き添い看護婦か?」
そう言ってシンジがくすっと笑うと、ケンスケと紅蘭が揃って赤くなった。
図星らしい。
「座るといい」
足りない椅子を持ってこさせ、四人に椅子を勧めた。
「で、騎士(ナイト)の名誉の負傷の訳は?」
ん、とシンジは気付いた。
すなわち、トウジと織姫の距離に。
こっちはケンスケ達のようには行かないらしい。
「あの日は、知り合いの店でカメラを見てて、帰るのが遅くなったんだよ。店を出るのと、避難命令が出るのとがほぼ同時だったんだ。急いで家に向かったんだけど…」
ケンスケによれば、途中でこれも帰りの遅くなった紅蘭達を見つけたという。
ただし、そっちは講習の帰りだったらしい。
「いきなり一般人が狙われたのか?」
「ちゃいます、碇はん」
紅蘭は首を振った。
「あんなでかいヤツなんか、ウチらが敵う相手じゃありまへん。せやから、さっさと逃げとったんやけど」
子供連れの母親が、子供の一人を喪いかけている所に出くわしたと言う。
「子供って言うのは、本能的に何かをしてのけたかと思うと、全然間抜けな事もしてます。あの時、あの化け物の前にふらふら出て行きよったんや」
咄嗟に子供を抱えて飛んだ直後、巨大な腕が地面を抉ったのだ。
ふとシンジが、
「紅蘭がか?」
と訊いた。
「私デス。まったく、子供なんてろくなモンじゃありまセーン」
黙っていた織姫が口を挟む。
「いい所あるんだな」
シンジの言葉にうふふう、と笑うと、シンジにぴたっと椅子を寄せてきた。
「もっと褒めて下さーい」
はいはい、と応じて、
「好きな物を取って」
手を上げてメニューを持って来させてから、
「でもケンスケ、脇侍相手に奮戦できるほど強かったっけ?」
「…そんな訳ないだろ」
やや自嘲混じりにケンスケが呟く。
「ん?」
「そんな事はない、相田はんはちゃんと守ってくれはりました」
紅蘭が首を振ったのを見て、だいたいシンジには予想が付いた。
「フラッシュの閃光も、闇夜の目眩ましには十分使える。それだって立派な戦法だよ」
「『え?』」
何で分かった、と言う視線を向けてくる彼らに、
「まともにやり合うにはちょっときついかな、と思って。ところで、トウジはどうした?一緒だったんだろ?」
「論外やな」
おしぼりの袋をいじっていたトウジが、憮然とした表情で言った。
「ロン?」
「麻雀やないてシンジ。この女、いきなり蹴飛ばしおったんや」
視線の先には、知らん顔している織姫がいる。
「どしたの?」
「トウジがさ、取りあえず背負ってやるからって言ったら、背中に蹴り入れられたんだよ」
「……それはそれは」
さすがにトウジに同情したシンジだが、すべての女がいきなり男を信用する訳でもないと、ふと思い出して、
「まあまあ、男嫌いかも知れないじゃ…なにこれ?」
シンジが腕を見ると、きゅっと取られている右腕がある。
「碇サンなら安心して乗れマース。今度から碇さんにお願いするデス」
「何で俺なのさ」
「パパに聞きました。五精使い碇シンジの事を」
織姫の言葉に、シンジの表情が動く。
「何処でそれを知った」
シンジの表情を見て何かを感じたのか、
「怒っちゃ嫌デス」
「……」
声をひそめるようにしてシンジの耳元に口を近づけると、
「大丈夫、パパからは内緒だと言われていマスから」
「お父上は何処にお勤め?」
「パパ?魔道省デスよ」
その単語に、一瞬シンジが宙を見上げたが、すぐに視線を戻す。
シンジの視線が刹那だが、鋭くなったのを知った紅蘭達は不安げに見ていたが、視線を戻した時にはもう、その表情は普段の物に戻っていた。
「そっか、なるほどね。さて、頼む物決まったかい?」
「で、これはここでいいのか…?」
シンジが喫茶店で織姫に腕を取られている頃、女神館の前に配送のトラックが止まった所であった。
門の所からベルを押したものの、誰も出てこない。
かといって、中の建物まで入るのは躊躇われる。
何しろここは、危険度は区中ナンバーワンに挙げられる「第一級危険地域」なのだ。
それも、並み居るやくざ事務所だの危険な化学薬品の研究所だのを押さえてのトップなのだ。
今までは誰かが居たし、いない時にはメモを置いて、さっさと帰ってきていたのである。
だがそれなのに。
「いい、絶対に配達するんだよ」
通常の三割増しの料金を貰った事より、店に来た青年と美女の容姿でつい受けてしまい、運悪く彼らにお鉢が回って来たのだ。
「どうする?中まで入るか?」
「俺はごめんだよ。しようがない、誰かが帰ってくるまで車ん中で待ってようぜ」
「ああ、そうだな」
別段、奇怪な建物ではない。
にも関わらず、悪意を持って押し入ろうとした者が、今までに悉くその骸を晒してきただとか、夜中に奇怪な声がするだとか嫌な噂がここは絶えない。
無論、前者は女子寮と知ってちょっと侵入を謀った者が、碇フユノの結界に阻まれて手足と引き替えに反省した事を指しているし、後者は夜の女神館でアスカとすみれが大喧嘩した時の物である。
車の中で待つ事にした二人だが、ある意味では正解であり、ある意味では間違いだったろう。
結界の色が、碇フユノから碇シンジに変わった事で、その強さは凄まじい程に強化された。
その為、霊力を持った見知らぬ者は強力な検査を受ける事になる。
神崎邸から向けられた者が、精鋭にもかかわらず一歩も入れなかったのはその為なのだ。
また、霊力を持たずとも悪意や敵意を持っていれば弾かれる事になる。
が、何ら作意の無い一般人であれば、別段どうという事は無かったのだ。
つまり、この二人なら玄関まで行っても、何も起きなかったに違いない。
そう、風に揺れている洗濯物を見て、おかしな気分を起こしたりしなければ、の話だが。
「わ、若!?」
いきなり訪れたシンジの来訪に、室内は大慌てであった。
人妻の形をした鬼がいた時はまだしも、今日は全く来るなどと思っていなかったのである。
第一、未来があるとされるここに、シンジが来ることは極めて希だったのだ。
「黒木はどうした」
「黒木なら先ほど戻り、あ」
「若、いかがなさいました」
丁度そこへ、黒木が戻ってきた所であった。
「お前、この娘を知らないか」
黒木に見せたのは、織姫の写真であった。
離れちゃイヤん、とくっついてくる織姫を離して、
「大丈夫、悪い娘じゃないから」
と、憮然としているトウジに囁くと店を出た。
その足でここへ向かったのだが、どこぞで織姫の写真を手に入れて来たらしい。
「この娘…」
黒木は写真を眺めていたが、
「ああ、思い出しました。たしかこれは、緒方の娘です」
「緒方?」
「緒方星也、偵察隊の所属ですよ。能力は高くありませんが、なかなか俊敏です。何かありましたか?」
「お呼び出し」
シンジの口調に何を感じたのか、
「はっ、ただいま」
黒木は一礼すると受話器を取り上げた。
「今来させます。若、掛けてお待ちになって下さい」
「その前に黒木」
「はい?」
「緒方の個人資料、すぐに出るか?緒方が来る前に」
やってみます、とは言わなかった。
「すぐに出します」
そう言って、コンピューターに近づくと自らキーを叩いた。
自分の直轄でなければ、全勤務者の中から捜す事になる。
百や二百の数ではないのだが、十秒も掛からずに黒木は何枚か紙を持ってきた。
「こちらになります」
ありがとう、と受け取ったシンジは、通された別室で応接用のソファに座ると、渡された資料に目を通す。
シンジは読んだ後に、はてと首を傾げた。
「何か、妙だったが」
別に巨大な妖魔が出ている訳ではないが、室内の霊気はどこか張りつめた物がある。
それでもむしろ、それをどこか楽しむようにシンジはソファに身を沈めた。
んー、と軽く伸びをした時、
「失礼致します」
巫女の衣装をした娘が、コーヒーを盆に乗せて持ってきた。
「あの、コーヒーでよろしかったでしょうか」
「添加物は全部入ってる?」
ここで言う添加物とは、砂糖とミルクの事を指すのだが、その位の『シンジ語』も知らず、
「無添加の豆で淹れ直します」
などと言うようでは、到底シンジへのコーヒー出しは務まらない。
ショートカットの巫女娘は、
「ちゃんと入れておきました」
「ありがとう。それでいい」
近代的なビルで巫女の姿をした者が茶を運んでくるなど、魔道省ならではの光景と言えよう。
「いい甘さ」
一口飲んでシンジが呟いた時、
「し、失礼致します」
ドアがノックされた。
「緒方か」
「はい」
「カモン」
ドアを開けて入って来たのは、どこか気の弱そうな中年男であった。
到底これが織姫の父親だなどとは、想像も付かない。
そっちへ、とシンジは反対側のソファを指して座るよう勧めた。
「碇シンジだ」
普段シンジは、こんな言い方はしない。
余程相手が気に入らない時だって、つかみはソフトなのだ。
「お、お名前はかねがねお聞きしております。お、緒方星也です」
「呼ばれた訳は分かってる?」
「む、娘の事でしょうか」
「そう」
「も、申し訳ありません。娘が碇さんにお会いしたと言っていたもので、つい…」
「別にそれはいい」
シンジは静かな声で言った。
「はい?」
「さっきも織姫に会った所だ。会って二度目で腕を組んでくるとは、なかなか度胸のある娘だ」
「織姫がっ?申し訳ありませんっ」
平伏した緒方を、シンジは地底人でも見るような目で見た。
「恋人の為に腕を組む事すらしない、などと言う奇妙な思想の持ち主じゃない。が、一つ気になった事があった」
「は?」
「腕を組んだ時、わずかだが霊力を感じた。いや、どちらかと言えば妖気に近い物だったな。一緒にいた連中が誰も気付かない位だし、恐らくは微々たる物だろう。しかしあれは、到底本来持っている物には遠いレベルだった。お前、自分の娘に何したの?」
その途端、緒方の表情が激しく揺れ動いた。
「そ、それは…」
親戚がその財産を使い込み、レニを人形化する一端を担っているのを知った時、家人ごとまとめて滅ぼしたシンジである。
では、シンジは織姫にも似たような何かを感じ取ったと言うのか?
だが、織姫はシンジに会った事を話した、と言ったではないか。
少なくとも断絶しているような親子の間柄なら、到底昼間あった事などを話はするまい。
にもかかわらずシンジは、俯き気味の緒方を冷ややかに見ている。
まだ、ミロクを見ていた視線の方が穏便かも知れない。
「あの子は…」
やっと緒方が顔を上げた。
「完全に覆ったつもりでしたが、碇さんなら或いはお分かりかも知れません。あの子は…娘は、純粋な人間ではないのです」
だとすると、織姫もまた実は鬼だったりでもするのだろうか。
シンジは驚いた様子も見せず、
「やはりそうか。それともう一つ、織姫の話し方が少し変わっているのは、単に日本語に馴染んでいないからではないな」
緒方は、これにも力無く頷いた。
「仰せの通りです。あれは…あれは押さえ込んだ一面のせいで、アンバランスな物になってしまったのです」
「本来の物を抑え込んでまで、娘に何かを取り憑かせたかった訳ではあるまい。何をあの娘に与え、そして何故それを封じたままにしておく?」
俯いた緒方を見て気が変わったか、シンジは少しだけ口調を戻して訊いた。