妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第三十三話:教材制作(前)
 
 
 
 
 
「ところでマスター」
「ん?」
「今日の予定はどうなってる?」
「今日はゆっくりしたい所だな。何かじたばたしてたし」
「同感だね」
 二人の会話だが、どうもくぐもって聞こえるのは湯越しの為だ。
 主従揃って、既に一時間近く入っているのだが、フェンリルがその妖艶な肢体を惜しげもなく晒していると知ったら、住人達は何というか。
 いや、到底敵わぬと明らかなそれを見れば、言葉さえも或いは喪うかも知れない。
 男なら、誰でも見た瞬間に手を伸ばしたくなるような肢体は、湯の中のくせにその輪郭を全く崩していない。
 時に、寝所へ弟を襲撃するミサトだが、この肢体には遠く及ぶ所ではない。
 これに敵う存在と言えば唯一、とある女医くらいしか思い浮かばない。
「マスター、何を考えてる」
「お前さ、なんで戻らないんだ?」
「私?」
 一瞬怪訝な顔になったが、すぐに薄く笑った。
「毛むくじゃらと入ってもつまらない。何より、マスターを誘惑出来ないからな」
 永遠の真理を説くような口調で言うと、両手で胸を持ち上げた。
 ずしり、と量感のある乳房が指の間から妖しくこぼれる。
 が、言葉の割にはシンジに迫っては来ず、
「元が残っていないのは必然だな」
 と言った。
 毛皮の事であろう。
 湯のせいか、ほんのりと染まったフェンリルの乳房を見ながら、
「前から気になっていたんだけどな」
「ん?」
「お前がそうなると、冥府にいるあっちはどうなってるんだ?」
「不完全なそれだ、と言った筈だよ。半身を爛れさせた、黄泉の女王を知らぬ訳でもあるまい?」
「不便な物だな」
 主の言葉をどう取ったのか、
「姉妹は便利だよ。そうそう、折角だし誘惑に使わないのは大罪ね」
 思い出したように、すっと迫りかけた所へ、
「朝から優雅ね」
 背筋がぞくりとするような、妖しい声が湯煙を通して響いた。
 
 
 
 
 
「しっかし、分からないわよねえ」
「何がですか?」
「あの連中よ、あの連中」
 アスカが顔で指した先には、色々と武勇伝を披露している男子生徒の姿があった。
 無論、先だっての対降魔のそれであり、いきなりで仕留めただの何だのと、ある意味では男子的な物と言えるそれであった。
 ただし。
「ま、俺は八人掛かりだったからな。俺の方が強いだろ」
「何言ってるんだ、こっちは十人でもそっちより掛かった時間は少ないぞ」
 片手で、と言うより殆ど指一本で片づけていったシンジからすれば、文字通り雲泥の差があるそれであり、それは実際に見ていたさくらにはよく分かっていた。
「でもいいじゃありませんか」
「何で?」
「だって、降魔相手の実戦は勿論初めてですし、普段やって来た事の成果が出たと思って、喜んでいるんですから」
「あんたも呑気ね」
 呆れたような視線を向けたアスカだが、
「だからですよ」
 分かり切ったような口調で、静かにさくらは言った。
「一歩間違えば大怪我、どころか死んでいる事です。避難が絶対優先で、降魔退治などするなと、普段から教えられています。たまたま、結果が良かったからあんな風に騒いでいられるだけです」
 急に冷たくなったそれに、アスカはある事を思い出した。
 すなわち、真宮寺一馬の名を持つ男の事を。
「そう、だったわね」
 軽く頷いたが、ふと気になって訊いた。
「さくら、あんた一体何体倒したの?」
「え?」
 くすっと笑って、
「アスカさんの二十倍ぐら…ひたたた」
「さくらのくせに生意気ねー!」
 ふぎゅう、とほっぺたを引っ張られたさくらだが、
「な、何するんですかっ」
 すぐに引っ張り返す。
 ほっぺたを引っ張り合っている美少女二人に、教室中から怪訝な視線が向けられた。
 
 
 
 
 
 さくら達の方は呑気だったが、こちらはそうも行かなかった。
「何ですって…じゃ、じゃあ碇さんが殆ど全部を!?」
「ええ、そうです」
 マユミは表情を変えずに頷いた。
 仲の険悪なアスカとすみれは、クラスは別であり、それぞれさくらとマユミが一緒になっている。
 無論のことだが、寝ている間の事情などすみれが知るはずもない。
 それをマユミから、殆ど逐一聞かされたのだ。
 シンジの余裕ぶりも、そしてさくらが暴走した事もまた。
 本来すみれのプライドからすれば、到底許せぬ話の筈だが、天敵もそうだったと言う事でまだ救われたらしい。
 すなわちアスカが。
 だが、
「で、結局その女ボスはどうしたんですの?」
 とすみれが訊いた時、マユミは一瞬ながら顔色を変えた。
 勿論マユミは、本当の事は知っている。
 そう、女神館の住人の中で唯一。
「どうしたの、マユミさん」
「あ、いえ何でも…」
 軽く咳払いして、
「碇さんが追っ払っちゃいました」
「無傷で?」
 すみれが怪訝な顔になったのも、ある意味では当然であったろう。
 シンジの能力を、マユミから聞く範疇でも相当な物だと分かる。
 何より、自らもそれを片鱗ながら体験しているすみれなのだから。
 そのシンジが、敵を無傷で追っ払うとは思えない。
 と言うよりそれ以前に、あっち行け、で素直に行く敵でもあるまい。
「ええ、ですが」
「ですが?」
「私はあの時、碇さんのブレスレットのおかげで、唯一それを起きて見ていました。でも、碇さんからは絶対に口外するなと言われています。だから…碇さんにお訊きになって下さい」
 幾分硬いマユミの表情だったが、すみれの目にそれは、シンジとの秘密とは映らなかった。
 だから、
「いいわ、無理に訊いてもあなたがかわいそうですから。でも一つだけ」
「はい?」
「碇さんが敵と内通していた、訳ではないのね」
「いえ、それは全然」
 すぐに首を振って否定したマユミだが、良く知っている間柄でしたが、と言う一文は付け加えなかった。
 マユミもそこまで、人を見る目がない訳ではないのだ。
「そう、それならいいわ」
 ふむ、と頷いてから何やら考え込んだすみれに、
(悪いことが起きなければいいけれど…)
 いたくプライドを傷つけられたに違いないと、マユミは秘かに心配していたのだが、この時に限ってはやや違う方面であった。
 少なくとも、それ自体は杞憂だったのだ。
 
  
 
 
 
「やはり、温泉に浸かるのはいいわね。ホルマリンとは雲泥の差だわ」
 不気味な台詞とは裏腹に、これも豊かな肢体を湯に沈めているのはシビウである。
「シビウ、マスターを使い走りに出すとはどういう了見だ」
「決まってるじゃない、あなたに話があるのよ」
 ふらりと訪れたシビウは、
「老人と子供の手当で疲れたわ。湯治が必要ね」
 と、勝手に湯の中に入ってきた。
 これもフェンリルに匹敵するような、いや艶に掛けては更に上を行くような肢体を、あっさりと白日の下にさらして、湯の中に入ってきた。
 元のせいか、神々しさを備えるようなフェンリルのそれに対して、こちらは文字通り妖艶が人の形を取ったようなそれであり、身動ぎする度に妖しく揺れる乳房は、触れたくなるフェンリルとは反対に、押し倒したくなるような物を兼ね備えている。
 目的は無論、全裸を武器としたシンジの攻略にあり、長きにわたる抗争に決着を付けるため、と思われたのだが、
「飲みに行くと言ったのに反古になったわ。ここでいいから、熱いのを持ってきて」
 と、シンジを使いに出したのだ。
「肢体比べにきた訳でもあるまい、何の用だ」
「それもいいわねえ」
 シビウはひっそりと笑った。
 或いは自らの肢体に、神の名を冠したそれにさえも、抗しうる自信を持っているというのか。
「試してみるか、シビウ」
 フェンリルの声に、のどかな湯煙に刹那、女の気がぶつかり合ったかに見えた。
 だがそれも一瞬の事で、
「うちの妹から連絡があったのよ」
「お嬢ちゃんから?定時連絡はどうした」
「そんな物させる程、私は管理熱心じゃなくてよ。そんな事より、今どこにいるか知りたくない?」
 金髪碧眼の娘が、フェンリルの脳裏に浮かんだ。
 ふむと考えてから、
「今は…西海岸あたりか」
「ご名答よ。さすがに勘は萎えていないわね」
 問題は、分析するような口調であろう。
「ではもう一つ、誰と一緒にいると思って?」
「何?」
 フェンリルが、わずかに奇妙な表情になった。
「毒草大全でも揃えに行ったのではないのか」
「私は毒草マニアではなくてよ」
 わずかに笑うと、すっと身を寄せてきた。
 成熟した色香が重なり合い、湯の中に妖しい気が漂う。
 当人達にその気など皆無でも、ここまで艶香の幅が高いと、必然的な結果なのかも知れない。
 しかし、
「何、あの娘がか!?」
 滅多に聞けぬフェンリルの声に、妖艶な女医はひっそりと笑った。
「それが聞きたくて、わざわざここまで来たのよ」
 とそこへ、
「院長が暇な病院もあるもんだ」
 盆に熱燗のセットを乗せたシンジが戻ってきた。
「シンジに話してあげる?」
 すぐに返答はなかったが、
「いや、止めておこう。その方が面白そうだ」
 シンジの回りには、いい性格が揃っているらしい。
 それを聞いて、
「女同士の密談は終わり。さ、あなたも来るのよ」
 盃を左手に取ると、右手ですっとシンジの手を捉える。
 屈んだ不安定な姿勢とは言え、そこには女の繊手とは思えぬ程の力がこもっており、
「医者に身体を見せるのは、健康診断の時だけと決まってる」
 逃げようとしたが、
「何をおかしな事を」
 あっさりと一蹴され、あまつさえぐいと引っ張られた。
 ぐらり、と揺れた盆をすっと伸びたフェンリルの手が抑え、湯に引きずり込まれたシンジは、シビウの乳房に顔をぶつける羽目になった。
「フェンリル、そっち剥いで」
「了解」
 女二人が共同作業に掛かろうとした直後、巨大な湯柱が上がった。
 
 
 
 
 
「それで姉さん、どうするの」
「なにが?」
「脇侍の件よ。このまま、指をくわえて見ている訳には行かないでしょう」
「無論そのつもりよ、かえで。少なくとも、実践用教材くらいは造れないとね。役立たずのレッテルはごめんだわ」
 だが、内容とは裏腹に、口調はどこか寂しげな物であった。
 別に、花組を指揮する名誉を欲した訳ではない。
 ミサトの力を借りたとは言え、初の脇侍改造に成功した事を、誇る気もなかった。
 もっとも後者に関しては、シンジがあっさりと脇侍の操演に成功しており、記録は簡単に塗り替えられたのだが。
 しかも、何ら儀式など無しにしてのけたと知ったら、二人は驚愕するに違いない。
「じゃ、始めましょうか」
「ええ」
 円上に描かれた結界の上には、脇侍の残骸が置かれている。
 無論、既に霊力は喪っている残骸であり、どんなに挑発しても襲ってくる事はない。
 では、どうしてわざわざ結界を描いているのか?
 理由はすぐに知れた。
 どろり、と鎧からこぼれている中身が、あやめが何やら唱えると、ゆっくりと元に戻り始めたのだ。
 見た目には、時間すら遡っているように見える。
 だが、実際にはすべてが戻ってはおらず、黄土色にも似た液体はまだ残っている。
 しかしそんな事よりも、既に無機物と化している筈のそれが、ずるりと動いたのだ。
 まずは手が。
 そして次いで足が。
 そして、最後に頭部がごとりと動いた。
 エヴァに匹敵するほどの大きさのそれが、ゆっくりと起きあがるのを二人は黙って見ていた。
 その視界に、何かを捉えたかのように顔が固定した。
 すなわち、自分達を蘇らせた者を。 
 フオオオオオオッ!
 不意に脇侍が咆哮したが、それは好意とはほど遠い物であった。
 咆哮が響き渡るなか、
「順調ね、姉さん」
「ええ」
 奇妙な会話を合図としたかのように、脇侍が地を蹴る。
 キン、と音がした直後、脇侍はどっと崩れ落ちていた。
 殆ど抜く手も見せずに引き抜いたそれは、何事も無かったかのようにあやめの手に収まっている。
「大した物だな」
 不意に声がして、二人はぎくりと後ろを振り向いた。
「い、碇さん!?」「ど、どうしてここにっ?」
「濡れ鼠」
「は?」
 
 
 
 
 
「置いて行かれた。医者なら患者の拘束具位は用意するべきだな」
「それは従魔にそっくりお返しするわ。主の一人も捕縛出来ないでどうするの」
 現在湯の中には、シビウとフェンリルしかいない。
 シンジを引きずり込んだのはいいが、凄まじい湯砲を食らってあっさりと逃げられたのだ。
「やはり、関節くらいは外すべきだったわね」
 台詞は医者にあるまじき物だが、
「そこまでせずとも良かろう。グレイプニルでも十分だ」
 こちらも劣らず、とんでもない台詞を吐く。
「その名はもう、口に出来るようになったのね」
 フェンリルの盃に、シビウは手ずから酒を注いだ。
「…さて、な」
 盃を傾けたフェンリルの言葉は、どこか深沈たる物があった。
「で、神々の末裔を従えた男はどこへ行ったのかしら」
「どこか−多分妖気のある所だ」
「やはり、従魔はよく分かっているのね」
 そこには珍しく、冷やかすような物が含まれていた。
 
 
 
 
 
「もう少しで、四つの胸に襲われる所だった」
「『はあ?』」
「何でもない」
 少しぶっきらぼうに言うと、
「これが、例の脇侍新生か?」
 と訊いた。
「ええ…」
 歯切れが悪いのは、やはりまだ顔を合わせ辛いからだ。
 加えて、自分達が再生した脇侍を、ほんの軽く吹っ飛ばされた事が、まざまざと記憶に残っているせいもある。
「既に言った通り住人達には大幅な実力増が、それも早急に必要だ。そしてそれには、やはり実戦が望ましい」
「実戦、ですか?」
「そう、実戦だ」
 シンジは頷いて、
「とは言え、実際に降魔連中を相手にしては、命がけの修練になる。それよりはもっといい物がありそうだ」
 その視線の先に、二人とも気付いた。
「こ、これを…?」
 使うのですか、の部分を省いた台詞には、こんな物でも良いのかとの意味が含まれていた。
「今のあの子達には、十分に教材になる得るさ」
 生徒への授業内容を考える教師のような口調で言うと、
「もう少し手を入れれば」
 と付け加えた。
「ところであやめ」
「はい?」
「さっきのあれは抜刀術だな。いい腕だった」
「そ、そんな事は…」
「腕もいいが刀もいい。何より、その辺の日本刀で出来る代物でもあるまい。あれも霊刀か?」
 見たい、と視線が言っているのに気付き、あやめは鞘ごと渡した。
 ふむ、と手に取ったシンジはいきなり引き抜いた。
「っ!?」
 二人の表情が硬直したのは、シンジがそれを手にした瞬間、刀身全体が光を帯びたのを知ったからだ。
「さくらの荒鷹に、並ぶ力は持っていそうだな。名前は?」
「神剣白羽鳥、です」
「いい名前だ」
 軽く振ると、さっと妖気のような物が刃先から飛び散ったが、それが荒鷹の時と同じだと言う事を、無論二人は知らない。
「腕試しがしたい所だな。相手をしてもらおうか」
 シンジの口調に、急に危険な物が混ざり、さては取り憑かれたかと身構えたが、表情はそうでもない。
 とは言え、自分が到底与え得なかった妖気を帯びさせた事を知り、内心で僅かに妬心に似た物が湧いたあやめだが、おそらく抗し得ないとは分かっていた。
「わ、私がですか?」
 訊ねた声が、やや硬かったのはやむを得まい。
 シンジは首を振った。
「いいや、そこのホルスタイン」
 すっと腕が上がり、刀がある方向を指す。
「あっちゃあ、ばれたか」
 失敗失敗と、舌を出して現れたのはミサトである。
 だが、シンジに続いてミサトの時までも、二人はまったく気配に気付いていなかったのだ。
(まったく…分からなかった…)
(新生の儀の時は、気配は数段鋭くしているのにそんな…)
 姉妹の顔が強ばる中で、
「さ、きりきり立ち会ってもらおうか」
 びゅん、と刀を振るとミサトに向かってシンジは青眼に構えた。
 
 
 
 
 
(つづく)

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