妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第二十六話:処女(おとめ)を担いだ恐怖の大王? 
 
 
 
 
 
「碇さんっ」
 泣きながら駆け寄ってくるさくらと、それを彩るのは四本の火柱。
 整えられた部隊に、誰もが魅入られる。
 しかも、それを迎えるのは長身の青年と来ている。
 後は、しっかり抱き留めてやれば、その辺の舞台など到底及ばぬ絵が出来上がるに違いない。
 そう、抱き留めてやれば。
 だが。
 スパン!!
「い、いたっ!?」
「なーにしてるんだ、お前は」 
 むにーっ。  
「い、いひゃりひゃん…いひゃい…」
 今度は頬を左右にぐいっと引っ張った。
「誰が機動部隊まで引っ張り出せと言った」
「……」
「言い訳があるなら聞いておいや…いてっ」
「碇さんがいけないんですっ」
「…ナニ?」
「碇さんが…碇さんが置いて行っちゃうからっ、碇さんが…碇さんがっ」
 わーっと胸に飛び込んで、後はもう泣きじゃくっているさくら。
 身長が二十センチ近く違うから、文字通り胸の中にと言う単語が相応しい。
「さくら…」
 何時の間にそんな関係に、と呆然と見ているリツコだが、訳が分からない隊員達はなおの事であった。
 が、
「さ、さくらっ!?」
 さくらが、ふいに崩れ落ちたのだ。
 走り寄ろうとしたリツコを、フユノは止めた。
「放っておおき」
「御前様?」
「泣き疲れただけじゃ。気にする事もない」
 その通りだったらしく、
「まったく女ってのは、泣けば何とかなると思ってるんだから」
 ぶつぶつ言いながら、さくらを軽々と肩に担いだ。
 抱き上げたのでも背負ったのでもない、担いだのだ。
 ちょうど、姫君を拐かす悪党にもどこか似ている。
 さくらを担いだまま、隊員達の所へ歩いていくと、
「世話を掛けた。隊長殿は?」
 シンジの言葉に、隊員達が道を空ける。
「特殊機動部隊、第三管区隊長立花だ」
「連れが迷惑を掛けました。総監によろしくお伝え下さい」
「総監って、冬月総監を知っているのか?」
「儂の知り合いじゃよ」
「あなたは…」
 一瞬訝しげな顔になったが、すぐに直立不動の姿勢で敬礼した。
「い、碇フユノ様っ!し、失礼致しましたっ!!」
「こっちこそ、こんな格好で済まないね」
 軽く手を上げたフユノに、
「し、しかしどうしてここへ?わざわざお越しにならなくとも…」
「孫に忌まれた愚かな老婆の気まぐれじゃよ」
 その時になってやっと彼らは、フユノの姓を思い出した。
 すなわち、碇だったと。
 シンジに視線が集まったが、
「リっちゃん、押すのも面倒だろうし、その辺に捨てて置いてもいいぞ」
 車椅子など、見ようともせずに言った。
 そして荒鷹を拾い上げると、軽く一振りしたが、その場にいた者達の顔色が変わったのは次の瞬間である。
 それはシンジの手に渡った途端、凄まじい色を見せたのだ。
 刹那、炎のようなものがその刀身全体を覆い、思わず身構えた程の妖気が迸る。
「あ、これ相性良さそうだ」
 薄く笑ったシンジが、それを振りかぶる。
 びゅう、と風を切って地に落とす寸前で止めた。
「直すの大変?」
 いたずらっ子みたいな口調に、隊員達が一斉に頷く。
「じゃあ、止めとくわ。ああ、それと」
「何か?」
「パトカーの修理代、これで足りるかな」
 ごそごそと、ポケットに手を突っ込んだシンジだが、そこに十分な金額などは、到底入っていそうには見えなかった。
 だが、出てきた手を見た途端、隊員達の目が点になった。
「!?」
 シンジは、原石のままのダイヤを出して見せたのだ。
 未加工ながら、ダイヤの輝きは燦然と失われておらず、しかも直径は十センチ近くもある。
 無造作にそれを取り出すと、
「お金は無いけどお宝はあるんですよ」
「?」
 奇妙な表情になった隊長に、
「相棒が、宝の地図は腐るほど持ってるもので」
 一層訳の分からない事を言ったが、シンジが出国時にいつも、最小限の現金しか持っていない事など、無論隊長は知らない。
 まして、要り用な分は現地調達している事などは。
 はい、と渡されて思わず受け取ったが、あまりに大きなそれに、隊員達の視線が一斉に集まった。
「足りなかったら、館の方に言ってきてください。それじゃ」
 左手にさくらを担ぎ、右手には霊刀を引っ提げたまま歩き出す。
 その姿を呆然と見送っていたが、
「あ、あの碇様…」
「どうかしたのかえ」
「あ、あのこれは…よ、よろしいのでしょうか」
「ん?ああ、もらっておくといいさ」
 ダイヤは、立花の手のひらで燦然と輝いているが、フユノは興味も無さそうに、
「もし余ったら、部下達と宴会でもするといいさ。お前達、ご苦労だったね」
 フユノは彼らの上司ではない。
 繰り返すが、まったく命令などされる立場ではない。
 だがそれなのに、フユノの言葉に彼らは一斉に敬礼したのだ。
 まるで、警視総監直々に声でも掛けられたかのように。
「リっちゃん、行こうかね」
「はい」
 隊員達が敬礼する中、またリツコが車椅子を押して歩き出す。
 シンジが去り、フユノもまた去った後で、ようやく彼らはその姿勢を解いたが、ほとんどの者が何故か肩を揉んだ。
 知らずして、妙な重圧をそこに感じたのだ。
 もう少しで孫に葬られ掛けたものの、巨大な財閥の総帥としては、押しも押されもせぬ地位にある碇フユノ、その存在感から来た者だとは誰も気付いていない。
 そう、凄まじい妖気を放っていたとは言え、シンジからの物では無かったのだ。
 数度肩を揉んだ後、
「車には間違いなく余るし、ぱーっと打ち上げでも行くか」
 立花の言葉に、ようやく周囲が沸いた。
 
 
 
 
 
「歩くと時間が掛かる」
 ふとシンジが、呟くように言った。
 ほとんど間髪入れず、白狼の巨体がシンジの横に現れた。
「確か、成城だったな」
「歩いてくと、一晩掛かるぞ」
 シンジの言った成城とは、無論世田谷区の成城であり、高級住宅がずらりと並ぶ区域である。
 二人の言葉からすると、今からそこへ行こうとしていたのか。
 しかし、さくらを担いだシンジがどうしてそんな所に用がある?
「誘拐犯と間違えられそうだ、乗せてってくれる?」
「自分の主に誘拐犯の前歴付くのもつまらな話だ。乗せてやる、ただし一度だけだ」
 フェンリルの言葉通り、今までその背には、シンジが以外乗せた事は無かった。
 例えどんな事情があろうとも、そしてシンジと一緒であってもだ。
「よろしく」
 主プラス1を乗せて、巨体が一気に跳躍する。
 そのまま足音も立てずに、夜の街を疾駆していった。
 
 
 
 
 
 シンジ達が長老の邸を辞す少し前の事。
「後始末の方は進んでいるのかい?」
「はい、順調です」
 娘がフユノの車椅子を押している頃、母親の方はマヤを呼びつけていた。
 区民が次々と避難してくる東京学園だが、そこのナンバー1とナンバー2が両方ともいない。
 ただし、避難に関しては、無差別攻撃が行われなかった事もあり、順調に終わっていた。攻撃がシンジ達に集中した事が、逆に幸いしたと言えよう。
 集まってきた住民達は、生徒達によってほぼ整然と避難しており、椿と由里がそれをまとめている所であった。
 が、ミロクの撤退に伴い、既に避難命令は解除されている。
 避難行動にも関わらず、警察や自衛隊の関与がないのは、それだけ東京学園と言う所の独立性を表していると言えるだろう。
 そして、その徹底した訓練ぶりも。
 事実、此処までの経緯を見る限り、およそ難点は付けようがないと言って良かったのだ。
「今残っているのは?」
「後は一割を切りました。生徒達も大部分が帰宅しています」
「明日はお休み、って訳には行かないからねえ。もっとも、あの子が決める事だけどもさ」
 大型のパネルを見ながら、
「それにしても」
「はい?」
「敵わぬ物を認める、と言うのは難しいのかねえ」
「シンジさんの事ですね」
「碇フユノ、と名の付く人間に手出し出来るのは、ただ一人しかいないんだよ」
 と言ってからふと、
「マヤちゃん、あんたはどうだい」
「私ですか?私は御前様のお考えなら…」
「そうじゃないよ」
「?」
「リツコが男に、自分の命を自由にさせる、と言ったらやっぱり反対かい?」
「わ、私はべ、べ、別にっ」
 わかりやすい反応に、ナオコはうすく笑った。
「マヤがいてくれて助かる、リツコがいつも言っているよ」
「先輩がですか?」
「そうさ。なにせ、妖魔に対抗しうる唯一とも言える手段を、実用化まで持っていったのはあんたなんだからね。霊力を含んだ攻撃でなくちゃ、降魔達にはほとんど通じない。それにはエヴァが一番有効なのさ」
 だとすれば、アスカやレイが苦戦したのは、そこに因があるという事なのか。
 そしてマユミの剣技が通じたのは、そのレベルの高さを意味していたのか。
 が、シンジはどうなのか。
 シンジは五精使いであり、退魔もこなして見せる。
 とは言え、今回はすべて五精だけであり、退魔のそれは使っていない。
 にもかかわらず、脇侍の残骸の山を作り、しかもその腕輪だけでアスカ達に、通常を遙かに超える力を与えたシンジは?
「シンジさん、帰ってきてくれるでしょうか…」
 既に二人の所には、シンジが去った事は届いていた。
 しかし、避難状況とその解除後の状況を見ていた二人は、現場へ行くほどの余裕は無かった。
 それに、自分達が行っても止められぬ、との思いがあったせいもある。
「分からないね」
 ナオコはあっさりと言った。
「いなきゃならない、と思ったら帰ってくるさ」
「ならない?」
「そう。言い方を変えれば、目が離せないと思ったら、だね」
 奇しくもその通りになったのだが、そこまではナオコは知らなかった。
「あ、終わりました」
 丁度その時、全避難民の帰宅を告げるランプが灯った。
 すなわち、避難民ゼロ、と。
「あと、今回の脇侍共の被害額、一応出しておいてくれるかい」
「分かりました」
「それとコーヒーを」
「はいっ」
 マヤの声がどこか弾んで聞こえるのは、気のせいではなかった。
 死者ゼロ、けが人五名の報告が入っていたが、いずれも軽傷だと知れたのだ。
 物的被害はともかく、人的被害を出さぬ事が、マヤに取ってはもっとも大きな事だったのだ。
「シンジさんにお礼言わなくちゃ」
 どこか浮き浮きした声で言ったのは、もうシンジが戻ってくると決めていたものか。
 
 
 
 
 
「フェンリル」
「ん?」
「猫に小判って知ってるか?」
「豚にダイヤモンドなら知ってるぞ」
「そうか」
 さくらを担いだシンジを乗せ、フェンリルは深夜の街を疾駆した。
 脇侍の出現が新宿区に限られたせいか、区外はひっそりと寝静まっており、車もまばらで誰かに会うことも無かった。
 ここ、成城学園に着くまで十分と掛かっておらず、その息はまったく乱れていない。
 悠然と、歩いてきたような感じさえ受ける。
 だが、もしも誰かが彼らにあったなら、長い黒髪を妖しく風になびかせたシンジの姿に、呆然と魅入られたに違いない。
 月夜の下、無人の野を行くようなその姿に。
 彼らは今、とある大きな邸の前にいた。
 すなわち、ミルヒシュトラーセ邸の前に。
 レニの実家である。
 シンジ同様、二親は既にいないレニだが、その莫大な財産を親族の者が横領し、勝手に散財している事をシンジは調べていた。
 実際、以前シンジが来た時よりも、数段豪勢になっている。
 比例するように、趣味も悪くなって。
「そう言えばマスター」
「何?」
「奥義、使えるのか?」
「ああ、桜花放神だな」
 ちょっと考えてから、軽く荒鷹を振った。
 まるで水滴が飛ぶように、妖気が燦々と散っていく。
「少し亜流だがな。多分何とかなるさ」
 真宮寺さくら。
 破邪の血を引き、剣技に並々ならぬ素質を持ったさくらでさえ、その奥義を会得する為に払った苦労は、並大抵の物ではなかったのだ。
 それを、それを亜流とは言え使ってみせると言うのか。
「じゃ、賭けしないか」
「賭け?」
「マスターが奥義使えなかったら、私と一晩付き合う。勿論フルコースでね」
 何がフルコースなのかは別にしても、フェンリルに取ってはあまりにも分の良すぎる話に聞こえる。
 だが、どこか危険な響きを伴ったそれをどう取ったのか、
「俺が出来たら?」
 ともシンジは言わず、
「いいよ、分かった」
 軽く頷いた。
 やけにあっさりしているが、
「本当だろうな」
 とはフェンリルも言わない。
 目覚めぬさくらを肩に乗せたままなのは、或いはハンデでもあったかもしれないが、いきなり伴ってくるとは、やはりその思考は通常でははかり切れぬ部分を持っていると言える。
 じゃ行くか、と歩き出そうとした瞬間、その足元を何かが襲った。
 とんっ、と軽く飛び退いて避ける。
 驚いた風もない。
「レーザーかな?」
 焦げた地面を見ながら、一瞬首を傾げたシンジ。門の前に立つと、霊刀を振り上げて真一文字に構えた。
 ぶん、と目に見えるほどの妖気が刀身に集まり、見る見る銀光にも似た光を帯びた。
「てい」
 軽く横に薙いだ瞬間、触れていない筈の門扉が大きく横に避けた。
 まるで、不可視の刃に裂かれたかのように。
 先代から受け継がれたこの刀だが、これほどまでの力を発揮したのは、いや与えられたのは初めてであったろう。
 しかも、本人が余裕綽々なままで。
 メリ、とかすかな音を立てただけで開いたそこから、
「侵入」
 主と従魔は、堂々と押し入った。
 門から家までは二十メートル程あり、庭石が敷き詰められている。
 一歩を踏み出すのと、バリバリバリッと音がして、石が飛び散るのとがほとんど同時であった。
 消音器(サイレンサー)付きの自動小銃だ。
 石が跳ねた、と感覚で悟った瞬間に、シンジは地を蹴っていた。
 三回の窓に狙撃者を認め、そこまで一気に跳躍したのだ。それと間髪を入れずして、フェンリルがその巨躯を主の影に消す。
 無論、ただの跳躍力で出来る代物ではない。
 加えてシンジは、さくらを肩に乗せているのだ。
 風を自由に、そしてほぼ完全に操るシンジなればこその物であり、足だけで風を飛翔に使ったシンジの伎である。
 手旗信号でも下ろすかのように、軽く振った一撃で、男の首は宙に舞った。
 噴き出した鮮血は、到底肩の佳人には見せられまい。
 侵入されたと知って、音が止んだ。
 おそらく、この部屋を目指して走ってくるに違いない。
 シンジは慌てなかった。
 腰にぶら下げた鞘に霊刀を収めると、数回手の開閉を繰り返した。
 ん、と頷くと手のひらを前に突き出す。
 数十秒もしない内に、部屋の前に人間の気配がした。
 おそらく、いや間違いなく武装した連中が、部屋の前に集結したに違いない。
 だがどうして踏み込まない?
 防弾だろう、とシンジは読んだ。
 防音を目的としたそれかも知れないが、少なくともサブマシンガン位なら、穴は開かない構造になっている筈だ。
 だとしたら。
 ガチャ、と音がしてドアがわずかに開いた。
 連携プレーのように、室内に物体が四つ投げ込まれる。
 手榴弾だ。
 もはや、消音にこだわっていられなくなったのか。
 警察が来たら、ガス爆発だとでも言うのかも知れない。
「爆風」 
 ピッと伸びた指から飛んだ風の刃が、ピンの抜かれたそれをすべて四つに分断した。
 続いて、さくらを担いだままの手が水を迸らせ、水攻めを加える。
 ジュッと音を立てて不発に終わったそれを見ながら、
「次はこちらから行こう」
 シンジの右手が上がった。
「では」
 すっと突き出された手から、一斉に風が放たれた。
 それはドアに向かいそれを破壊…はしなかった。
 揃って、ドアの隙間から抜けたのである。
 そして次の瞬間、断末魔の悲鳴が上がった。
 隙間から抜けたそれは、一気に見えざる殺戮の刃と化したのだ。
 例え透視は出来ずとも、状況は地が教え、風がシンジの耳に囁いてくる。
 シンジの前には、隠匿など不可能なのだ。
 そう、人が常に自然の前には無力である限り。
 邸内が広い分、廊下もまた広いらしい。
 以前はもっと質素だったが、無駄に広くなっていると見える。
「十五、か」
 シンジは冷ややかな声で言った。
 見えぬ刃の犠牲者の数を、正確に掴んでいたらしい。
 ゆっくりとドアに近づいて、軽くそれに触れた瞬間、分厚いドアが大鋸屑と化して崩れ落ちる。
 それをまたいで、シンジは悠然と廊下に出た。
 そこに転がっている、文字通り四肢をばらされた残骸には、目もくれずに歩き出す。
 その後の邸内は、まさに酸鼻を極めた状況となった。
 風の刃が向かうところ、潜んでいた者達がことごとく、身体を切り刻まれて絶命して行ったのだ。
 もはや悲鳴を上げる事も出来ず、ただ肉の落ちる音だけが響く。
 それを逐一知りながら、シンジが悠然と歩いて向かった先は、最上階のとある部屋であった。
 以前はレニの寝室だった所。
 だが今は。
「ふあっ、あーうっ、あっ、あっ!!」
 中の甲高い声が、絡み合う肉体の物だと風は伝えてきた。
 ただし、両方とも女だが。
 レニの叔母に当たる女と、この屋敷のメイドだろうか。
 男女老若問わず、すべて死骸と変えてきたシンジだが、女主人と絡み合っている女だけは、その災禍を逃れたらしい。
「ふむ」
 とシンジは刹那考え込んだ。
「ここで皆殺しは出来ぬか」
 双眸に一瞬危険な光が宿ったが、すぐにそれは消え、
「では、ここの始末だけしておくとしよう」
 冷たく頷いた時、室内で女の声が二つ同時に上がった。
 股間をつなぎ合わせ、激しく腰をぶつけ合っているのを知り、
「ダブル昇天なら、本望だろう」
 奇妙な台詞を呟くと、くるりと背を向けた。
 死屍累々となった邸内だが、女主人はメイドと痴情にふけっている。
 状況を知らないのか、あるいは知っていて、簡単に退治したと思いこんでいるのか。
 残骸をまたぎながら、シンジは邸の外に出た。
 さっきの悲鳴二つだけのせいか、誰もここに注意を払っている様子はない。
 或いは。
「いつものことか」
 SMプレイにでも興じているとすれば、納得は行く。
 嗜好のままに鞭を振るわれ、毎晩のように家人達の悲鳴が上がっているとすれば。
 だが、いずれにせよシンジに取ってはどうでもいいことであった。
 ゆっくりと荒鷹を抜きはなったシンジは、それを青眼に構えた。
 ただし、依然としてさくらを肩に載せたままで。
「桜、だな」
 呟くと、両目を閉じて意識を集中させる。
 瞼の裏に、ほぼ桜が充ちたのと同時に目が開かれ、シンジは勢いよくそれを振り下ろした。
 ひゅう、と風を切ってそれが振り下ろされる同時に、一斉に花びらが散った。
 さくらが見せたのとは、比較にならぬほど多い桜の葉であり、また大きさである。
 普通の二倍ほどもありそうなそれが、見る見る宙に舞っていき、隣家の倍近くもありそうなこの邸の上に降り注いでいく。
 あり得ぬ現象が起こり、邸がほぼその色で満たされた時。
「斬」
 一文字に、そして真上から一直線に振り下ろす。
 霊刀が十文字に振られた次の瞬間、凄まじい音がした。
 鉄筋製のそれが、一斉に崩れ落ちたのだ。
 文字通り、花びらに包まれるようにして崩壊していく様は、七日の行進とラッパを以て倒壊した、とある古代都市を思わせた。
 ズウ…ン、と地響きを立てて崩れ落ちた建物の上に、ひらひらと桜の花びらが舞い落ちる。
 ただし、それは明らかに朱色を、血の色を伴って見えた。
 
 桜の花が赤いのは、その木の下に死体が埋まっているせいだとは、誰が言ったのだろうか。
 
 建物が倒壊したちょうどその時、最上階で月を見ながら女同士の痴情にふけっていた二人が、同時に潮を噴き上げて絶頂に達していた。
 では、ダブル昇天とシンジが言ったのは、これを指していたのか。
 チン、と音を立てて鞘に収まった時、
「これじゃ、本体より威力あるぞ。でもマスター」
 現れたフェンリルは、美女の姿を取っている。
「ん?」
「手加減したな?」
 とんでもない台詞にも、
「隣近所に迷惑が掛かるだろ」
 大破壊者の台詞ではなさそうだが、確かにシンジの言った通り、塀を境にして隣接する家にはまったくと言っていいほど、被害が及んでいない。
 あるとすれば、地響きと騒音だけであったろう。
 まるで、花びらが結界の役目でも果たしたかのように。
 時季外れではないが、明らかに異様な真紅を伴ったそれを見ながら、
「出来ただろ?」
「やなやつ」
 ちゅ、と小さな音がシンジの首の辺りでした。
「こら、勝ったのは俺だぞ」
「乗せてくのは私だ」
「……」
 不毛な議論が起きるかと思われた時、遠くからサイレンが聞こえてきた。
 さすがに誰かが通報したらしい。
「ずらかるぞ」
 シンジの言葉に、フェンリルがその姿を変える。
 手は使わぬまま、器用にその背に乗ると、またフェンリルが大きく地を蹴る。
 トップスピードに乗った丁度その時、
「あれ…ここ、は…」
 ぼんやりとさくらの声がした。
 どうやら起きたらしい。 
 
 
 
 
 
(つづく)

TOP><NEXT