第七十七話
 
 
 
 
 
 悪気がなければいい、と言う物ではないが、あるよりはない方がいい。
 とはいえ、この場合はどっちにしても似たような結果であったろう。
 アオイがサツキの家を訪れた時、ちょうどアスカとレイが睨み合っている最中であった。二人とも手をおさえている。
(指搗き、ね)
 内心でアオイが呟いた通り、先に人差し指を搗かれたのはアスカであった。
 ごめんなさい、と謝ったレイに、
「いいのよ。あなたに悪気が無いのは分かっているから」
 アスカの台詞と、にっこり笑った顔に気付くべきだったのだ。
 うりゃ、と振り下ろされた杵は、紛うことなくレイの手を餅米と一緒に搗き、キッと睨んだレイが、
「…あなたわざとやったでしょ」
「あんた、さっきわざとやったわけ?」
「してないわ」
「じゃ、あたしのも偶然よ。運が悪かったわね」
 平然と言ってのけたアスカに、
「分かったわ。ならば次は私ね。アスカの運が良い事を祈ってるわ」
 ぐいと引っ張ろうとした杵をアスカが放さず、引っ張り合いから睨み合いへと移行したのだ。
「二人とも、お疲れ様」
 アオイの声に、慌てて手を放したのはいいが、同時に放したものだから杵が臼を直撃し、細かい破片が餅に混ざった。
 多少は栄養価が上がっていいかもしれない。
「どう?順調に行ってるかしら」
「『は、はい…』」
 二人とも頷きはしたが、二人の間にはチクチクとトゲが生えているのは明らかだ。
「期日までに二人のコンビネーションが完成しなければ、二人にはエヴァから降りてもらう事になるわ。分かっているわね」
「『はい』」
 返事はしたものの、声は四オクターブほど低い。
「とは言っても、課題だけ出して出来なかった時の罰則規定を作るのは、芸がなさ過ぎるわ。相手が好きじゃないのに、無理矢理押さえつけても良い結果は生まれないもの。いずれ爆発するのは目に見えているわ。それに、今でも危険そうだしね」
 そう言ってアオイが取り出したのは、一通の封筒であった。
「本人には事後承諾だけど、動員は私が保証するわ。とりあえず、やれる所まで頑張ってごらんなさい」
 レイに封筒を渡したアオイは、さっさと身を翻した。
 慌てて玄関まで見送った二人が、ドアの閉まった後ちらっと顔を見合わせ、一瞬沈黙が漂ったが、
「あんた読みなさいよ。信濃大佐に渡されたのあんたでしょ」
「……」
 封筒から便箋を取り出して読んだレイの顔が、すうっと紅潮していく。
「レイ?」
 ぽっと赤くなったレイへ、訝しげな視線を向けたアスカに便せんを渡す。
 アスカの顔がレイの後を追うのに、数秒と時間は掛からなかった。
「レイこれ…」
「ええ…」
 顔を見合わせた二人が、同時に頷いた。
「わざとじゃなかったけれど、指を巻き込んで悪かったわ」
「いいわよ、あたしだってお返ししたんだし」
「…え?」
「え?」
「やっぱりわざとだったのね」
「あ、あんたのだって、悪気が無くたってすっごく痛かったんだからね」
「そうね。今回は大目に見てあげる」
(……)
 妥当な線なのかはともかく、再度折り合いの付いた二人が作業に戻っていく。シンジがマグロ状態となった二人を見たのは、この数時間後の事である。
 
 
 
 
 
「どうして、そこまであの二人に肩入れする?」
 拳銃を分解しながら、シンジは顔を上げずに訊いた。
「あれは肩入れとは言わないわ。飴と鞭というのよ」
 うっすらと笑ったアオイに、
「言わない」
 シンジは即座に否定した。
「だいたい、六升以上搗いたら僕のマッサージって、どういう条件だ。僕はユリじゃないぞ」
「シンジでしょう?」
 シンジの顔が上がった。
「私の身体はシンジに任せてあるもの。シンジのせいで悪化するのを知っていたら、間違っても頼まないわ」
「そっちから来るか」
 欧米系のように、文字通り球をぶら下げているような胸ではないが、それでも手に余って肩こりを引き起こす原因となるには十分の大きさである。
 凝った時、アオイはユリではなくシンジにいつも頼む。
 その意味では確かに、シンジに任せればいいと身を以て知っている事になるのだが、
「とは言っても、そこまでしなくたって良かったでしょ」
「あれでいいのよ」
「ん?」
「確かに、あの二人を下ろしてモミジを使うのは簡単よ。丸一日あれば、完全にマスターすると思うわ。でもそれは一時凌ぎ、根本的な解決にはならないわ――あの二人をエヴァから完全に下ろすのでなければね。シンジはそっちがいい?」
「分からない」
 シンジは、黒く艶を帯びた銃身にふーっと息を吹きかけてから、手を止めた。
「幸せにとか、そんな事を言う気はないよ。人生五十年どころか、二十歳にもならない内に病死したり、もしかしたら殺されてから犯されて埋められたりするかもしれない。だけど、それはエヴァとは関係なくなってからにしてほしい。あんな平和転用も利かない代物の為に一生を狂わされるのだけは、見たくないんだ」
「でも、レベルアップしたらシンジは帰るんでしょ?」
「即刻帰る」
「……」
 地底人でも見るような視線を向けたアオイに、
「でも、以前とは少し意味合いが違ってきた。レイちゃんは問題ないし、アスカの方もたんなる小娘に終わらない状況は出来てる。弐号機の中の人は拒んでたけど、今は恨んでいないと思う。解放された弐号機なら、アスカの能力はフルに生かせるはずだ。そうなったら僕も大手を振って、いや安心して帰れるってわけだ」
「シンジってば、最近ちょっと邪悪になってない?」
「家庭教師がいいから…はう」
 何時の間に回り込んだのか、後ろに忍び寄っていたアオイの手が、あっという間にシンジを捕縛した。
 シンジの肩に顔を乗せ、
「で、家庭教師が何ですって?」
「う、ううん何でもないの」
 ふるふると首を振ったが、蛇のように絡みついた手は解放してくれず、シンジが弱い首筋の周りに吐息が掛かる。
 無論、シンジの反応を愉しんでいるのは言うまでもないのだが、シンジとて逃げようとすれば逃げられない事はないのだ。
 十五秒後、耳朶に軽く歯を立てられてびくっと肩を震わせたシンジに、
「あの子達は、これからシンクロ率も上がっていくし、何よりも危険回避の術を身につけていくわ。でもシンジにはそれがない、むしろ逆の状況になっていく。くれぐれも無理な事はしないでね」
 暗殺者としての稼業なら一緒にいられるし、何かあっても命運を共にする事になる。
 だが、エヴァに乗っている時はそれが出来ない。前線にいるシンジと、戦況をモニターを見るだけのアオイとでは、どうしても感覚を共有する事が出来ないし、今となっては初号機の大破――シンジの死亡ですらも、アオイのそれとは繋がらない事もありうるのだ。
 それを一番分かっているのは、当の本人達である。
 ひっそりと囁いたアオイの言葉に、シンジは手を回して応じた。
「分かってる…分かってるよ」
 二人の頬がくっつき、寄り添った姿勢のまま、二人はしばらく動かなかった。
 
 
 
 
 
「う…頭いたい…」
 目覚めたアスカは、脳内が痺れるような痛みに顔をしかめてから、家の中に自分一人しかいないと気が付いた。
 レイはまだ帰っておらず、サツキは仕事に行ってしまったらしい。
 トイレから戻ってきたアスカが、ぎょっとして足を止めた。そこで見たのは、一振りの青龍刀だったのだ。
「な、なんでこんなのが…」
 どう見たって本物だし、鞘に収まってはいるが、粛々と殺気を湛えてまるでアスカを睨んでいるようにも見える。
 首を四十五度傾けてから、アスカは夕べの事を思い出した。
 
 
「お前も大した事はないな。ドイツでは、ビールなど水代わりだろうが」
「そ、そうだけどこんなの飲んでる子供なんていないわよ…」
 最初は、一杯つき合えくらいの雰囲気だった筈だが、サツキが飲んでいるのはブランデーをベースにして、ウオッカとワインを混ぜた代物で、平然と飲んでいるそれをアスカにも押しつけたのだ。
「子供にはまだ早いか?」
 挑発するでもなく、単に確認するような口調にムカッと来て、一気にグラスを煽ったのだが、これが墓穴であった。
 脳内が爆発したかと思うほど、脳から胃に掛けてかーっと熱くなり、そのまま全身へと広がっていく。
 何とかぶっ倒れずに済んだが、それも二杯目を勧められる迄のことで、強烈な匂いを嗅いだ途端、その身体はふにゃふにゃと倒れ込んでいた。
 そのアスカを見て、サツキはふっと笑ったのだが、それ以上無理に飲ませようとはせず、取り出したのは発泡酒の缶であった。
「とりあえず、これでも飲んでおけ。それと、子供だからと言うのは別に関係ないぞ。あたしがガキの頃には、これ位は若いモンとよく飲んだもんだ」
(うげ)
 内心で呟いてから、
「あ、あの…」
「どうした?」
「サツキさんの親は、何をしている人なんですか」
 普通にサツキと呼んだ場合どうなるか。
 赫怒して半殺しにされたりはしないだろう。別に、本人がさん付けで呼べと言ったわけではないのだ。
 だが出来ない。
 アオイやユリを始め、どうも本部にはアスカの調子を狂わせる者が多い。大体、シンジからして未だに名前では呼べておらず、レイに比べると三歩も四歩も後退しているのは間違いないところだ。
「何をしていた、と言うのが正解だな。やくざ――分かり易く言うと、ジャパニーズマフィアというところか」
「ジャ、ジャパニーズマフィアっ!?」
 そうだ、と頷いたサツキが、
「私は、正直お前が羨ましい。武器を持ってでも、自分の貞操を守る度胸と根性があれば、私の人生もまた変わっていたかもしれんよ」
 と言った時、アスカは思わず跳ね起きていた。
「あ、あんたあたしの事をどこまでっ」
 言ってから顔色が変わった。誰に向かって口にしたのか気付いたのだ。
「ご、ごめんなさい」
 サツキは気にした様子もなく、
「別に構わんよ。ただ、シンジさんが知っておられる位の事は知っている、と言っておこうか。綾波レイの事も同様だ。いくら私でも、飼っている娘の事を知りもせずに守ろうと思うほど、自惚れてはいないつもりだ」
「……」
 アスカの口から言葉が出なかったのは、無言を選んだと言うよりも、言葉が出てこなかったのだ。
 正直に言えば、どうしてそうなるのか分からない。ただこれも、弐号機に無理矢理乗せられながら、乗った瞬間からアスカを守って尚かつ勝利が当然だと言ってのけ、それに頷いていた信濃ヤマトとシンジの思考に近いのだろうと、何となく気付いたのだ。
 要するに、自分にはちっとも分からないという事だ。
(どうしてそう言う話になるのよ)
 ぼやいてから、ふと気が付いた。
「あの、あたしが羨ましいってどういう事ですか?」
「私は組織のボスの一人娘でな。この世界では、そう言う場合誰かと結婚して陰から支えるか、さもなければ自分で継ぐのが普通なんだ。少なくとも、この代で終わらせるなんてのは論外だ。でも、私は断った」
「どうして?」
「親父が、麻薬に手を出しているのを知ったからだ。元から、堅気に迷惑を掛けて生きる種族だが、絶対に超えてはならんラインというのはある。とにかく、私はもう後を継ぐ気はないし、関わるのも嫌だと断った。それを知った親父は、私を組員に下げ渡して輪姦(マワ)させた」
「まわす?」
 首を傾げたアスカに、
「レイプだよ。実の娘を、十数名の男達にレイプさせたのさ」
「!?」
 アスカの顔がさっと青ざめ、思わずアスカは口許を手でおさえた。
 サツキの表情は変わることもなく、
「無論、私にとっても思い出したい事ではない。でも、そのおかげで私はここにいる。可哀相だ、などと思うのは私への侮辱だ。ただ、お前の決して知られたくない過去だけ私が知るのも不公平だろうと思ってな」
 アオイとシンジが動いたのは、麻薬を流していたサツキの父親を処分する為で、サツキの為ではない。
 行ったら、たまたまいたのである。
 父親が麻薬に手を出していなかったら、自分は極道を忌む事もなく、後を継いでいただろうと思うが、そうなればアオイ達と出会う事はなく、無論看護婦になる事もなかった筈だ。麻薬の件がなければ、シンジ達がやって来る事などなかったろう。
 極道の組長、乃至は姐御などをしているより、今の方が遙かに生き甲斐はある。憐憫は侮辱だと言ったのは、その為だ。
「あの…」
「どうした」
「う、恨んだりはしていないんですか…」
「お前はエヴァに乗る時、世界人類の為を考えるか?」
 サツキは直接答えず、代わりに奇妙な事を訊いた。
 アスカが首を振る。
「だから、私にも分からん」
「え?」
「人類の砦だから、とか考えているならまだしも、そんな事などまったく関係ないところで、あんな不確定要素の高い代物に嬉々として乗り込むお前の考えは分からん。それと一緒だよ。閉鎖的なところを多分に持ち、腐りきった官僚が幅を利かす日本は、お前から見れば理解しがたいだろう」
「うん」
「極道の世界も似たようなものでな。私だって、最初は後を継ぐのが当然と思っていたんだ。麻薬の事がなければ、ほぼ間違いなく継いでいたよ。そう言う、ある意味では奇異な世界だし、親父だって最初はとても可愛がってくれていたんだ。私が最初から嫌がっていれば、少しは違ったのかもしれない」
「かわいさ余って憎さ百倍ってこと?」
「よく知ってるな。まあ、そんなところだ」
「でもあたしは違う…」
 アスカがぽつりと呟いた。
「お前なら違う選択をした、と言う事か?」
 アスカは首を振った。
「違うの。あたしの父親だった男は、ママが入院してる時から不倫してたし、法的に問題ない時期が来たらその女とさっさと再婚したわ。あたしの母親なんていつでも止められる、そう言ってる女を慕う位なら死んだ方がましだったもの」
「そうか」
 サツキが空にしたグラスは、これで五杯目である。その顔色にも口調にも、まったく変化は見られない。
「そう言う奴に限って、自分の足元は見えていないものさ。その女に言わせれば多分こう言うだろう――自分は新しい母親として一生懸命やったのに、あの子はちっともなつこうとしなかった、とな。とはいえ、お前の親権を持っていたのがその程度の連中だっだと言うのは事実だし、悔やんでも仕方がない。問題はその後だ」
「その後?」
「シンジさんはプライドが高い。お前がエヴァに乗っている時、戦死するような事は絶対に許されない。使徒も永遠に来る訳じゃないからな、いつかはお前も降りる時が来るだろう」
「お、降りるって…」
 アスカの言葉を抑えるように、
「任務を完了した上なら、誇りになりこそすれ、恥じる事はない。むしろ、お前が数年後に自分を褒められるかが問題だ。分かるか?」
 アスカは首を振った。
「今のお前は、取りあえず自分に合格点は付けられる状況だろう。だが数年後にそれが出来ているか、つまりお前は幸せになっていなけりゃならん、と言う事だ」
「ちょっと待って」
「あ?」
「幸せって何?」
「決まっている――自分で自分を褒められる事だ。例えば、世界で五指に入る資産家になれば、他人は羨むし成功だと言うだろう。だが、自分で自分に嫌気が差しながらの富豪生活に何の意味がある?」
「じゃあ…サツキさんは自分を褒めてるの?」
「私が幸せか、と言う事か?」
 頷いたアスカに、
「微妙に、だがな。まだまだ満足には程遠いが」
 ふっと笑ったサツキが、
「お前にもいずれ分かるだろう。さ、とりあえず飲め」
 
 
 結局強引に飲まされてしまい、前後不覚でぶっ倒れたのを思い出した。
「あたしの幸せ、か…」
 文明社会に生きる者の八割は、形式に違いこそあれ大方似たような一生を送ると、相場が決まっている。
 国の為に散る者は居ても、全人類の為に命を賭けられる者など、某宇宙戦艦の乗組員を除けば自分だけだと、ある意味では大満足であった。
 それに、あれはアニメの話である。
 しかし、能力面では努力など程遠い位置にある少年に抜かれてしまい、あまつさえ自分と違って動機が極めて希薄と来た。とは言え、能力の差をこれ以上ないほどに見せつけられはしたが、自分を見下したり排除したりする少年ではなく、ある意味でアスカをあっさりと諦めさせたのは、その部分が大きかったろう。
 何よりも、今回の一件を見るまでもなく、例えアスカがどんなに優秀であっても、使徒を全て自分一人で倒せないのは分かっている事なのだから。
 それは分かったが、サツキの言葉はその更に先を行っていた。
 無論アスカとて、人生を一生エヴァに乗って過ごすとは思っていない。それでも、その後をどうしようとか、まして何年か経った時に自分がどうなっているかなどとは、まったく考えた事もなかったのだ。
「下ろされなくたって…いずれ終わりはくる…」
 分かっている事ながら、それは幼少時から全てをエヴァに賭してきたアスカにとっては、想像もしたくない姿であった。
「あたしって、どうなるんだろ」
 よいしょ、と青龍刀を持ち上げた時、
「なるようにしかならないんじゃない?」
 後ろから聞こえた声に、アスカは青龍刀を持ったまま飛び上がった。
「い、いつからいたのよっ?」
「君がドアを開けてくれないから、針金使って中入ったら君が物思いに耽ってたの」
 声ぐらい掛けてくれれば、と言いかけてから、多分呼んだのだろうと気が付いた。
「それ、サツキにもらったの?」
「もらったって言うか朝起きたら置いてあ…あの、それなに?」
 アスカの口が小さく開いた。
 シンジが担いでいたのは、古代エジプトで墓所に埋葬された遺体よろしく、全体を包帯でぐるぐると巻かれた代物だったのだ。
「えせクレオパトラ」
「は?」
「クレオパトラと裸と絨毯の関係って知ってる?」
「それ位知ってるわよ」
 アスカはふふんと笑って、
「クレオパトラがシーザーに会いに行こうとしたんだけど、あいつは人妻しか興味がなかったから、絨毯に隠れて運ばせたんでしょ…って、もしかしてその中味?」
 まさかと思ったら、シンジはどさっと放り出した。
「粗大ゴミの日じゃないから、持ってきただけ。そんな物より、今日は僕が付き合うからね」
「え?」
 多分レイだろうと思ったが、それにしては扱いが荒っぽい。
 きっとまた余計な事を言ってこの憂き目に遭ったのだろう。シンジが帰ったらたたき起こしてやろうと思ったら、思いも寄らない台詞が出てきた。
「アスカが嫌なら無理にとは言わない。僕じゃ嫌?」
 反射的に首を振ってから、
「で、でも…」
「ん?」
「信濃大佐が六升以上って言ってたから」
「そっちの話ね。三升でいいよ、僕が全部搗く」
「あの…じゃあやっぱりマッサージとかは無し?」
 おそるおそる訊いたら、
「有り」
 即答だったから、やるっと勢いよく頷いた。
 嬉々として準備に入ったアスカだが、そのせいで布にくるまれた物体が、もぞもぞと動いた事には気が付かなかった。
 
 
 
 
 
「随分と早いのね。相当溜まっていたのかしら?」
 実験動物でも見るような視線で見下ろすにせリツコに、
「ひ、ひどいわ…」
 リツコは蚊の鳴くような声で訴えるのが精一杯であった。
 二時間以上の間、たっぷりとリツコを責め立て、嬲ったのはまたしても自分と同じ姿形をした女だったのだ。
 それも四人がかりである。
 最後には前後の穴にバイブを突き入れられ、四つのローターを前回で振動させられ、あられもなく身悶えして失神したリツコだったが、その本能が違和感を告げていた。
 すなわち、これはにせリツコとは違うタイプだと。
 失神から醒めるまでに一時間、我を取り戻すまでに三十分を要したリツコが、
「あんな事…望んでいなかったのに…」
「私より上手だったでしょ。なかなか可愛い反応だったわよ」
 この言葉にかーっと赤くなり、
「あ、あれは誰だったのっ、ど、どうして四人もいたのっ」
「欲張りは駄目って教わらなかったかしら?質問は一つにしてちょうだい」
「…じゃあ一つにするわ。あれは誰なの?あなたとは別人だったわ」
「私より上手、と言ったでしょう。無論別人よ。正確に言えば、シンジ様に札をお借りしたのよ」
「シンジ君に?」
「赤木リツコの痴態をフィルムに収めて、お渡しする事が条件よ」
「な!?」
「冗談よ。そんな下らない事に、シンジ様が興味を持たれると思ったの?」
「……」
 冗談を口調で判断するとしたら、これ程かけ離れた口調も珍しいだろう。
「あなたにうろつかれると迷惑だから、しばらく眠ってもらったのよ。そう、赤木リツコが射殺されるまでね」
「…何ですって」
 反射的に起きあがったリツコだが、よく考えればオリジナルは自分だし、ここはまだあの世ではない。
「分からないの?赤木リツコが射殺されるまで、と言ったのよ」
 自分を今から殺す、と言う意味では無さそうだ。
 冥土のみやげの快感、と言うのも十分あり得る事だが、さっさと始末されている可能性の方が高い。
 数秒後、リツコの脳が弾きだした答えは一つであった。
「戦自が動いたのね」
「そう。やっと分かったのね。“誘拐されかけた赤木リツコ”は、隠していた軽機関銃で応戦し、射殺されたわ。ただし、八人を道連れにしてね。先の使徒戦で、ネルフに兵器を貸し出した時の担当者は、全員消息を絶ったわ。あなたのは第二弾よ。どうせ、あなたじゃぼんやりと攫われるのがオチだから、来なければ連行する気だったのよ」
「待って、どうして戦自が急にそんな強硬手段に出てきたの?この時期に動くのは得策でない事くらい、連中だって分かってるはずよ」
「この間のJAの披露式で、関係者の面子は丸潰れになったけれど、一番事態を重視したのは戦自だったのよ。機体の暴走はまだしも、関係者からの証言はまったく得られなかった上に、仕掛けておいたカメラは全て潰された。確かに、連中が焦るのも当然ね。口封じなのか、単なる拉致かは分からないわ。とりあえず、チルドレン三人と指揮官クラスに白羽の矢が立ったみたいね。私はどうでも良かったけど、一応もう一人も守っておいたけれど」
「もう一人って、ミサトの事?」
「守ってもらわないとならないお荷物なんて、他にいないでしょう。ただし、結果は予想外だったわ」
「え?」
「襲われなかったのよ。飾り物の作戦担当だと、連中も気付いていたのかしらね」
 違うわ、とリツコは内心で呟いた。飾り物とは言え、零号機と弐号機の担当はミサトになっているし、いくら何でもそんな事すら知らずに襲ってくる敵とは思えない。戦自とて、そこまで役立たずが揃ってはいない筈だ。
 ではどうして?
 考えられる答えは一つしかない。
 リツコの脳がある名前を弾きだした時、いつの間にか身体がすっかり乾いているのに気が付いた。起きた時は身体全体が汗ばんでいたし、股間もまだ濡れていた筈だが、淫毛はもう乾いて肌に貼り付いている。
「快感の余韻に浸ってるだけじゃなさそうね」
 にせリツコの弄うような口調も、気にならなかった。
「やっぱり加持君がスパイだという事?」
「正確に言えば、戦自所属ではないわね。要するに、その上から鈴の愛人を除外するように、命令が出たのよ。とはいえ、今回五十匹以上始末したから、当分は連中も大人しくしているはずよ。無論、黙っているかは別としてね」
(五十匹を始末、ね…)
 目の前にいるにせリツコも、そしてその創り主も、人の命など何とも思っていないのだろう。
 敵ならば始末する、ただそれだけだ――無論、自分とて論外ではあるまい。
 浮かんだ考えを振り払い、
「じゃ、私は帰ってもいいの」
 リツコは訊いた。
 単純に考えれば、ネルフ本部内にも敵のスパイがいる可能性は高い。それは、加持リョウジのようにある意味では目立ち過ぎる立場よりも、些細な情報だけ仕入れる為ならば、遙か末端の者の方が役に立つからだ。
 作戦部長の彼氏など、何かあったら真っ先に疑われる事請け合いである。
 スパイがいれば、当然自分の出勤は知れるだろうし、そうなったら怪しい奴だと、再度襲撃される可能性がある。
 自分の武器は頭脳であって、銃や格闘技ではない。だから、もしかしたらしばらくここへ抑留されるのかと思ったのだが、
「いいわよ。別に用はないもの」
 返ってきたのは意外な言葉であった。
「え?」
「あなたが護身術で役に立たないのは分かっているし、いざとなったら百人でも護衛を付けてあげるわよ。それでも、私が出るよりは余程ましだわ」
 リツコでなければ出来ない仕事ばかりだから、ではあるまい。
「そんなに嫌?」
「仕事自体はそうでもないわ。適当に仕事して、暇な時間はマヤを開発してればいいんだから。あの子には素質があるみたいだしね。ただ、碇ゲンドウの愛人役を演じるのがご免なのよ。今度触られたら、その場で射殺してしまいそうだし。そう言えば、おニューの綾波レイに夢中みたいだけど、あなた最近は呼ばれてるの?」
「……」
 
 
 
 
 
「ん、そこ…気持ちいい…」
 ベッドに俯せになったアスカは、シンジのマッサージで、すっかり力が抜けていた。
 なお、餅を搗いたのは全部シンジであり、アスカの動作が速まったわけではないが、タイムは五分近くも短縮されていた。
 かといって、シンジのやり方が荒いわけではない。事実、出来上がった餅は自分とレイが作った物より美味しかったのだ。
「あのさ」
「ん?」
「この間言ってた切り札って子、もう手配はしたの?」
「いや、止めたよ」
「なんで?」
「決めたのは僕じゃないからね」
「どういう事?」
「受けたのは、惣流・アスカ・ラングレーと綾波レイだ。綾波レイはともかく、惣流・アスカ・ラングレーは自分のプライドに賭けてもやってのける。だから外したんだ」
 シンジの言葉に、目を閉じているアスカの顔がぽうっと赤くなったのだが、背中にいるシンジからは見えない。
「よ、よく分かってるじゃない」
 ちょっと早口で言ってから、
「で、レイにはご褒美とかあるの?」
「何それ」
「だからほら、家に戻すとか」
「当分ナイ」
(それじゃ困るのよ)
 無論、レイをお兄ちゃんのところに戻してあげようとなどと、慈母の女神の如き発想ではない。
「レイちゃんの事は気に入った?」
「別にそう言うんじゃないけど…でもさ、別に嫌ってるわけじゃないんでしょ?」
「好きでもないけどね」
 嫌っていれば、遠ざけるか乃至は改造位してのけるだろう。碇シンジとはそう言う少年だと、アスカには何となく分かり掛けていた。
 アスカから見れば、随分と甘やかしているように見えるのに、好きでもないとはどういう事なのか。
 言うまでもなく、事情をまったく知らないアスカに、何回言っても人外とかそんな事を気にするからだなどと話す気はない。
 今まで、シンジの周りにいたのはアオイやユリであり、いずれも外見や容姿は言うまでもなく、子供っぽいところは無縁の女である。同年代では土御門モミジがいるが、モミジにしたって精神年齢は四つ位プラスされている。
 言ってみれば、ごく普通の同年代やそれ以下の子供という物に、シンジが慣れていないのだ。
 これで、シンジが至極普通の少年として来ていれば、まだレイの駄々を含んだ甘えにも対応出来ていたかも知れない。
 レイがとかく気にするのは、要は甘えているだけで、その度にそんなことはないと言って欲しいだけに過ぎない。
 周囲が大人ばかりと言うのは、時として弊害をもたらす事もあるのだ。
「アスカ」
「なに?」
「君の背中から邪悪なオーラが漂ってる。特にこの辺から」
 背中のラインをつうっとなぞられ、アスカの肩がびくっと震えた。
「単純にレイを心配してるんじゃないね。何を企んでる?」
「企んでるってあたしは別に…」
「じゃ、ここまで。もういいね」
「ちょ、ちょっと待ってよ。まだ下半分残ってるじゃない」
「だめ」
 すっと離れた手に、
「わ、分かったわよ。言うわよもう」
 うむ、と偉そうに頷いてから、
「で、何を企んでるの?」
「ちょっと耳貸して」
 シンジの耳元に口を寄せて、アスカは何やら囁いた。
 ふんふんと聞いたシンジが、
「なるほどね」
「い、いいかな?」
「駄目」
 ムカッと来たアスカだが、怒って追い返しては元も子もなくなるとぐっと我慢し、シンジが帰った後、包帯の塊をひっくり返したらやっぱりレイが入っていた。
 今日は全部レイにやらせてやると決意し、肩を掴んで揺り起こしたら、
「あん、お兄ちゃんそこ駄目…」
 半開きの口から漏れた喘ぎを含んだ声に、安全装置が解除されたアスカの雷が落ちたのは三十分後の事であった。
 
 
 使徒の再来襲まで後三日――。
 
 
 
 
 
(続く)