第六十三話
 
 
 
 
 
 自分らしく、と言う言葉があるが、らしく、とは何を言うのだろうか。
 人から見て羨まれる事か?
 違う。
 富を追い求めた終着点が、虚しさにある事は既に歴史が証明している。
 本能のままに生きる事か?
 おそらく否、だ。
 食う寝るぶ、これが人間の三大欲求だが、すべての人間がそのままに生きれば現在の文明社会は崩壊する。
 少なくとも、弱肉強食の世界へまっしぐらに逆戻りするはずだ。
 もっとも、テロ行為と殉教の区別が付かなくなっている中東のとある地域を見るまでもなく、人の本性はともすれば弱肉強食を正当化する傾向がにある。
 ただ、問題は爆弾を背負って町中で起爆する−敵艦ではなくレストラン内でだ−普通に考えれば理解し難い行為であっても、当人達は殉教なのだと喜々として死んでいくとう部分にある。
 つまり…自分らしい生き方なのだ、と。
 無論、正誤以前に大迷惑な話ではあるが、当事者達は至って真剣であり、信念だけを胸に抱いて死んでいくのだ。
 それを非難するのは至極簡単だが、では問題に直接介入して原因を取り除けるか、と言えば出来ない。
 だとすれば、一概にそれを狂った狂信者と断じきる事は出来まい。
 理想とは、それを実行する力を持って初めて理想の形を取るのであり、それがなければ絵空事だからだ。
 すると、これもまたやや異形ではあるが、『自分らしく』の範疇に入る事になる。
 ここに一人、会って間もない少年の手で、自分の存在と言うものに気がついた娘がいる。
 幸か不幸か、その中には稀代の妖女の魂があり、片鱗ながらその力を使えるようになった娘だ。
 そして目下は、あり得なかった生理現象−月経まで発生した。
 彼女もまた、自分のいる場所を、そして何より自分というものをまだ見つけられていない。
「自分らしく」
 これがそれだと彼女が言える日は来るのだろうか。
 
 
 
 
 
「そう言えばカエデにはもう会っていたのね」
 レイから話を聞いたアオイが思い出したように言った。
 人を愛したり憎んだりするのに、さして理由など要らないのだが、だからと言って暗殺者でもないのに初対面でいきなり殺されるのは迷惑だ。
 まして、大好きなシンジと逃避行の最中だったというのに。
「お兄ちゃんとの逃避行を邪魔しました」
 レイの言葉を聞いて、アオイは内心でわずかに笑ったが、顔にはまったく出さなかった。
 これがシンジなら、逃避行なんて単語を教えたのは誰だと言い出すに違いない。
「確かにそうね」
 アオイは頷いて、
「崖から飛び降りようとしている寸前ならともかく、楽しい時間を邪魔されては、ね」
「今度は絶対に負けません」
 宙の一点を睨むように見ながら言ったレイだが、
「止めた方が無難よ」
 アオイの言葉は意外なものであった。
「し、信濃大佐…」
「レイちゃんが弱い、と言ってるわけではないわ。最初の時よりはずいぶんましになったし、シンジも全神経を向ける必要が無くなったのは知っているわ。短期間でよく成長したわね」
「は、はい…」
 レイにとっては、自分の容姿や能力など褒められても嬉しくない。そんな事よりも、シンジの側で邪魔にならなくなってきた、と言われる方がよほど嬉しく、無論アオイもそれは分かり切っている。
 少し恥ずかしそうに小さく頷いたレイに、
「闘牛みたいなものなのよ」
「闘牛…ですか?」
「闘牛と言ってもいくつかあるけれど、牛同士ではなくて人間対牛の方。人間は決して正面からぶつかろうとはせず、突っ込んでくる牛をかわしながら攻撃するの。無論、最後は殺すけれど」
「わ、私が牛ですか」
「直接的な意味合いじゃないわ。カエデと戦ってもそうなる、と言っているのよ。レイちゃんはATフィールドを使えるでしょう」
「はい」
「でもカエデは使えないわ−そのままでは」
「そのままでは?」
「シンジのダミーは知っているでしょう。あれをシンジに教えたのはカエデなのよ」
「!?」
 一瞬レイの表情が強ばる。
 シンジとカエデが単なる知り合いではないと、旧東京に行った時なんとなく感じてはいたのだが、アオイの口から直に告げられ、湧き上がった感情が嫉妬だとはまだ気付いていない。
「知らない者同士であれば、カエデを敵に回すのは無謀なのよ。シンジのダミーはそう簡単に作れなくても、レイちゃんに瓜二つなら簡単に作れるわ。それがシンジを片づけに行ったら−分かるでしょう」
 レイの顔からみるみる血の気が引いていき、
「そ、そんな事したらお兄ちゃんがっ!」
「知らなければ、ね」
「…え?」
「シンジはそんなに間抜けじゃないわ。お兄ちゃん一緒に死んで、なんてそんな事を言われる距離まで近づけると思う?」
「……」
 確かにアオイの言う通りだ。
 そんな簡単に殺意を帯びたダミーを近づけたら、命など幾つあっても足りまい。
 しかし、そうなるとシンジは自分を信頼していないと言う事になるではないか。
 自分はいつも疑われながら接されているのか−レイはまだ表情を消すのが得意ではない。最近まで無表情だった反動なのか、特にシンジのことに関しては顕著に出てくる。
 当然アオイには筒抜けであり、
「本物かどうか、見るところは幾つもあるでしょう」
「見分けるのに?」
「そうよ」
 視線をちらりとバックミラーに向けてから、
「例えばそうね−匂いとか」
「匂い…!?」
 呟いたレイが、五秒後に首筋まで赤く染めた。
 何かを思いだしたか、想像したらしい。
「何を思い出したの?」
「べっ、別に私は、な、何にもないですっ」
「そう」
 と、深追いどころかまったく追おうとせず、
「でもね、私の言葉でシンジの指を想像して赤くなっているようでは駄目よ」
「ど、どうしてそれをっ」
「図星みたいね」
 アオイの口許に浮かんで笑みで、レイはまんまと陥穽に落ちたことを知った。
 しゅうしゅうと、蒸気でも立ち上っていそうな表情をしていたレイだが、ふと元に戻った。
「あの…信濃大佐」
「なに?」
「今、それでは駄目だって…」
「そうね、その程度の反応ではシンジにくっついてる邪魔なお嬢さん止まり。どんなに似た者が来ても、シンジは絶対に自分に気が付く−それくらいの自信はないとね」
「お兄ちゃんが絶対に間違えない…」
 どこか自分に言い聞かせるように呟いたレイの胸中には、身体だけ入れ替えられるクローンである自分の姿があったのだろうか。
「カエデはいずれ、この第三診東京に来るわ−ほぼ間違いなく敵としてね。自分に問題があったとは言え、劣る存在だと歯牙にも掛けなかったモミジにシンジと契約されたのは、カエデのプライドが許さないわ」
「あの、その契約って?」
「ファイナンシャルプランナーって知ってるかしら」
 レイはふるふると首を振った。
「資産の運営・活用に関するアドバイスを業とする人達をそう呼ぶのよ。シンジは単なる資産家で、モミジはアドバイザーと言ったところね」
「はあ」
「シンジは本来、とんでもない魔力の量を持っているのよ。吸った姫が本来の姿を取り戻せるほどにね。でも使い方が分からない。お金だって、どれだけ持っていても使い方を知らなければ単なる紙切れでしょう」
「はい」
「モミジは、土御門の流れを組む優秀な術士よ。でも術を使うためにはエネルギーが要るわ。それも技の大きさに比した量が。シンジの魔力はエネルギーなの、分かる?」
「で、でもっ、でもどうしてその…だ、抱き合ったりする必要が…」
 レイは処女だが、何も知らぬ小娘ではない。
 もう一つの人格である妲姫に、酒池肉林の語源となる光景を見せられ、すんなりと受け入れた娘だ。
 もっとも、そうでなければ今頃人格を消し飛ばされていたかもしれないが。
「面倒だからよ」
 アオイの答えはあっさりしたものであった。
「確かに、その都度力をもらえばいいけど、それよりは契約した方が手っ取り早いわ。少なくとも、モミジは知っている術に関して使用するエネルギーが足りないという事はないし、シンジの方は全部とは行かないけれど使える術が増える。お互いに取って利益があるでしょう」
「で、でも…」
「気に入らない?」
「そ、そう言う訳じゃ…」
 レイは小さな声で言うと俯いた。
 原理は分からないが、性行為によって何らかの現象が発生し、力と術の共有が出来るようになったというアオイの言葉は分かる。
 そして、それが自分には決して真似できないこともまた。
 だがレイにも感情はある以上、どこかで受け入れられないのも事実だ。対象が余人ならともかく、目下視界にただ一人しか映っていないシンジなのだから。
 それをどう見たのか、
「本能と理性がいつも同盟しているとは限らないのよ」
「……」
「それとも、シンジの寝室へ忍び込んでみる?」
「!?」
 妖しい囁きに、レイの表情が一瞬激しく揺れ動いた。
 
 
 
 
 
「で…なんで僕とサツキが二人きりなんだ」
「院長はお出かけです」
「どこへかしら?」
 嫌味たっぷりに訊いたシンジに、
「社会見学です」
 答えたサツキの視線は、わずかだが少しばかり明後日の方向を向いている。
 三人でホテルに部屋を取った筈が、同行者が一人足りない。
 無論ユリだが、その辺で美少女収集に励み、成功したらしい。男になど患者でなければ目もくれないし、そもそも襲おうとして襲える相手ではない。
 元々シンジは一人部屋の予定だったが、今は一室にシャワーを浴びてきたサツキと二人きりだ。
 にもかかわらず、至極平穏無事な二人である。
「そんな事より」
「はい?」
「この間使徒を分解したら、人間によく似てたよね」
「ええ。勿論コピーと言うほどではありませんが、ちょっと失敗したコピーくらいに似ていました」
「なんで?」
「はい?」
「レイちゃんは微妙なスタンスだけど、普通の人間はATフィールドなんて使えない。つまり、結局は使徒って人間の一味なんじゃないの」
「偶然と言うには似すぎてますな。シンジさんはどちらをご希望で?」
「どっちでもいいよ別に。それよりサツキ、髪拭かないと風邪ひくよ」
 しっとりと濡れた髪からは、かすかに芳香が漂っているのだが、シンジとしては手入れをしていないのが目の前にある方が気になるらしい。
「ここのタオルはあまりいいのがなくて」
「…本当に?」
「え、えーと多分」
「嘘だね」
 大抵の事にはのんびりしているくせに、こんな事は妙に気にしてくる。じっと見つめてくる視線からサツキは視線を逸らした。
「すみません、今タオル取って来ます−え?」
「いいよ別に」
 立ち上がったサツキの手が取られた。
「あまりいい物を使ってないのは本当だよ。スーツケースの中にタオルが入ってるから使うといい」
「すみません」
 髪を拭きながら戻ってきたサツキが、
「それでシンジさん、なんでそれを気にされるんです?」
「ハンデ」
「はい?」
「人間同士の場合は、性別とか鍛錬とかを別にすればそんなに差はないでしょ」
「ええ」
「分かったね」
「…五秒だけ時間下さい」
「五秒だけだよ」
 普段、付き合っている相手がアオイと言うこともあるのだが、シンジはあまり全部を言いたがらない。
 特に付き合いのある相手なら尚更である。
 何が言いたいのか読めと言っているのだが、アオイやユリ、あるいはヤマト達なら別だがサツキだと少し難しい。
 おまけに五秒と来た。
「分かった?」
 シンジが訊いたのは六秒経ってからであった。
 
 
 
 
 
 マグロ、と言う言葉がある。
 単語だが名詞ではなく形容詞の方だ。
 語源は魚河岸に転がっている巨体から来たともされているが、性行為の際に反応がない−要するにつまらない女を指すと言われている。
 初めての相手に言われたなら、袋だたきにして放り出せばいい。
 だが、いつも体を重ねている相手に言われたとしたら?
 
 理性も出番はなく、制止するマヤも居ない。
 手の中で木っ端微塵になったグラスの欠片と、止まらぬ出血にリツコは目もくれようとしなかった。
 結局抜くことの出来なかった母ナオコ。
 リツコのここまでの道には、常に母の影が見え隠れしていた。
 無論ナオコの方は、そんな事など考えもしなかったろう。とはいえ、親子の思考がすれ違うのはよくある事だし、まして生前に解決されなかったとなれば尚更の事だ。
 とまれ、リツコの思考には常にナオコならどうするか、と言う事があった。
 科学者としても、そして女としても。
 だからゲンドウにレイプされた時だって、告訴もせずに耐えたのだ。本人に言わせれば少々強引だった、と言うことだが、合意無しに体を開かせるのは普通レイプと呼称されるのである。
 心のどこかに、若い自分の肢体の方がと比較していたのは否めない。
 ゲンドウに襲われた時、リツコは処女だった。
 それを無理矢理開かされたのだから、当然最初は痛みしかなかった。それが徐々に快感に変わり、いつしか普通の愛人関係になっていった。
 ゲンドウに妻はなく、リツコも結婚していないから恋人でもかまわないが、決して公表される仲でない以上、愛人の域は脱し得ない。
 妙な愛情表現を向けるレイが気に入らなかったが、結局肉体関係は無かった上、レイとの仲は修復された。
 従って、もう妨げとなる物は存在しないと思っていたのだ−少なくとも、現時点に於いては。
 そのリツコを一気に突き落としたのは、ゲンドウの明らかに失望した表情と、
「今日の君はマグロと変わらないな」
 と言う信じられない言葉であった。
 リツコを崩れさせなかったのは、科学者としてと言うより女の意地であったろう。粉砕されかけたプライドが、リツコに何とか平静を保たせたのだ。
 結果ゲンドウから聞き出したのは−『既に自分に綾波レイの三人目を用意するよう命じた』という事であった。
 しかし自分は知らない。
 何よりレイの三人目など聞いた事もないのだ。
 そこから出てくる結論は一つだったが、それだけならそんなに大きくはなかったかもしれない。
 にせリツコが徘徊しようと、手の打ち方は考えればいいのだから。
 だがゲンドウが突き入れた途端に射精−そのまま抜かずに数度吸い取られた事を聞いた時、リツコの顔から表情が消えた。
 ゲンドウは薬を飲んでおらず、機器も使われなかったのだ。
 だとしたら。
「女として…私はあんなのに負けたと言うの…」
 噛み締めた唇が切れ、鮮血が伝ってもリツコは気づいた様子すらない。
 これがレイなら諦めはつく。
 中学生の小娘とは言え、亡妻の面影たっぷりのプレミア付きなのだ。
 だがにせリツコは違う。
 手が加えられたにせよ、自分のコピーなのだ。
 しかも、既に一度犯されている。女同士、自分同士にもかかわらず自分は一方的に嬲られるだけだったのだ。
 生身同士だったのは分かっている。
 今回もおそらく同じだろう。
 それが分かっているだけに、リツコの胸中は文字通り煮えくり返っていた。
 挿入しただけで射精など、リツコがどんな薬を使おうとも決してあり得なかった事なのだ。
 壁に拳を叩き付けたまま、リツコは数分間身じろぎもしなかったが、ゆっくりとその顔が上がっていった。
「上等じゃない…受けて立つわよ。ここまでコケにされて、おめおめと引き下がれるもんですか…」
 死魚のようだった双瞳に、徐々に光が戻っていった。
 そしてそれは、剣呑と殺気と言う名の光であった。
 
 
 
 
 
 俯せになったレイの背をアオイの手が行き来する度に、レイは押し寄せてくる睡魔と必死になって戦っていた。
(気持ち良すぎる…)
 家に帰っても無論サツキはおらず、アオイの家に泊まる事になり、一緒に入ろうとアオイの方から誘ったのだ。
 見ただけでため息の出そうな胸に、分かり切っていた事ながら断れば良かったとぼんやり後悔したのも束の間で、背中流してあげるからと言われるまま横になったら、たちまち背を這うタオルから快感にも近い休息が流れ込んできた。
 アオイが何か言っていたが、それすら聞き取ることが出来ぬほどであり、後二分も続いたら間違いなく眠り込んでいたに違いない。
 終わったわ、と背筋を軽くつつかれてようやく目が覚めた。
「気持ちよかった?」
「は、はい…」
 幾分顔を赤くして頷いてから、これならシンジが一緒に入る筈だと思ったところに、
「シンジにはしてないわ」
「!?」
 読まれたらしい。
「レイちゃんは顔に出るからわかりやすいのよ」
 わずかに笑って、
「気持ちいいけど、五分も続けるとそのまま寝入っちゃうのよ。シンジならいいけど、私だと運ぶのに重たいでしょう」
「?」
「襲われた時の事よ−シンジから聞いていない?」
 ゆっくりとレイの顔に表情が戻っていく。
「アサシンだと…暗殺者でしょう」
「そうね。もっとも、要は殺し屋みたいなものよ。シンジから聞いた時、驚かなかったの?」
「別に…」
 湯面に浮かぶ真っ白な乳房からわずかに視線を逸らし、
「誰でも殺すわけではないし、それに私はお兄ちゃんと私を追ってきた諜報部を殺した時、悪いとも思わなかったの」
「姫の影響かしら」
「多分違います」
 レイは首を振った。
「私はお兄ちゃんに会うまで、死ぬことの意味を分からなかった。ただ単に、この入れ物が消えて次の肉体が水槽から出てくるだけだと思ってました。だから、死ぬ事なんてどうでも良かった−それが命令だったら」
「……」
「でも私はそれで良かったと思っています。普通ならきっと…脅えたり逃げたりする筈だから。私のことを人間だと−代わりのない存在だってお兄ちゃんは言ってくれました。だけど、普通ならば言えない、とも」
「札と髪から作るダミーだけど、もう一人の自分自体は見慣れているのよ。そもそも、論議の最初から常にクローン人間であって、人間という呼称は付けられていたわ」
「でも、お兄ちゃんの言うとおり、普通の人が私を見たらきっと脅えるか、化け物扱いすると思います。研究は密かに進んでいても、実現した人間の例はまだありません」
「知っているのはシンジだけ?」
「もちろ…あ」
 レイの脳裏にマユミの顔が浮かんだ。
「クローンの事を?」
「いいえ、でもATフィールドを使える事は」
「それで彼女はなんて?」
「し、知ってたんですか」
「知らないわ。でも誰にせよ、男の子じゃ無理な相談よ。この年頃ではね」
「マユミは夜の町を飛翔していた所を、お兄ちゃんに助けられたって言ってました。でも信濃大佐、どうしていけないんですか」
「なにが?」
「自分の家から物を盗まれたら、警察へ届けます。人に預かった物なら尚更の事です。でもお兄ちゃんは、マユミの運んでくる物は決して被害届が出ないって」
「私とシンジみたいなものよ」
「お兄ちゃんと信濃大佐?」
「稼業柄狙われる事は多いけれど、警察からマークはされてないのよ」
 どうして、と言う顔を見せたレイに、
「幾つかケースはあるけれど、一番多いのは殺されたなんて、口が裂けても言えないケースね。要するにそんな事が知られたら恥なのよ。ところでレイちゃん、一つ訊いてもいい?」
「はい」
「シンジがモミジを抱いてると聞いて反応したのに、どうして自分は行かないと言ったの?」
「モミジ…さんの場合は、必要上の行為だから。それに…お兄ちゃんと一緒に歩いているんでしょう?」
「シンジの右を、と言う事?」
「はい」
「そうね、モミジは普通に歩いているわ。でもね、それはあまりいい事じゃないのよ。シンジはまだ未熟と言う事なんだから」
「で、でも…」
 シンジを未熟と言われ、納得いかない色が顔に出てきたレイだが、
「何処歩いてもいいよ、僕が護衛してあげるから−そう言われた方が嬉しいでしょ?」
 そう言われた途端、表情がふにゃふにゃと緩んだ。
 感情を覚えた分、ポーカーは不向きな性格になってきたらしい。
「要は、まだ自分には早いと思ってるのね」
 アオイの言葉にレイは真顔で頷いた。
「お兄ちゃんが右を歩いてもいいよって、そう言ってくれたらその時は私も…」
 同じレベルになったから手を出すとか、シンジはそんなタイプではない。
 そんな事は分かり切っているアオイだが、無論口にはしない。
 成長したい、レイがそう言うならそれで良い。自分が言うよりも、シンジの思考パターンはその時に知ればいいのだ。
「そうね、その方がシンジの事もよく分かるでしょう。それから一つ言っておくけど、モミジとカエデは瓜二つよ。モミジが来た時、間違っても手を出さない事ね。万が一にも間違えて手を出したりしたら、その場で腕が根元から断たれるわよ−シンジのナイフでね」
「!?」
 一瞬にしてレイの顔から血の気が引いた。
「契約、言葉にするのは簡単だけど、実際には自分の命を相手に託す事なのよ。今のモミジは、銃で撃たれても毒を飲まされても死なないけれど、シンジに何かあったらそのまま一蓮托生よ。あれは対等の契約じゃなくて、殆ど隷属に近いわ。カエデならまだしも、モミジにだけは決して手を出しては駄目よ」
「は、はい…」
「モミジは死なない、いえ死ねない体だけど、痛みやその他の感覚は残っているの。だからこそ、シンジも過剰とも言える反応を見せるのよ。もっとも、私の目の前でレイちゃんの腕が落ちたら、私の責任になっちゃうし。シンジくらいは止めてあげるから」
「……はい」
 アオイの言葉に脅しや誇張は欠片もない、それはレイの本能が感じ取っていた。
 シンジがレイに刃を向けると言った事も、そしてその程度なら止めてあげると言った事もすべて事実だろう。
 十数秒経ってから、わずかに頷くのが精一杯であった。
 浸かってる部分が染まってきたレイを見て、
「逆上せるといけないから、もう上がった方がいいわ。冷蔵庫には冷たい物が冷やしてあるから好きな物を取って」
 声を掛けたが反応がない。
(?)
 俯いているが意識はある。
 何より、妲姫に変わってはいない。
 アオイもそれ以上呼びかけはせず、放っておいた。
 二十秒程経った時、漸く顔が上がった。
「信濃大佐…一つだけお願いがあります」
「私に出来る事なら」
「私の事、レイって呼んで下さい」
 レイの科白に三秒考えてから、
「その方が大人みたいだから?」
「はい…あの、だめですか」
「いいわ、ならばそうしてあげる。でもシンジにも言っておくからね」
「え?」
「もう、自分は人外だからなんて甘えた事を言っていては駄目よ。ぼんやりしてると、モミジにシンジの寝室を占領されて、一歩も入れなくなってしまうわよ」
「が、頑張りますっ」
 アオイの言った通り、現在の状況でモミジが来日したら、レイなどシンジの寝室どころか家にすら入れなくなる可能性がある。
 キッと顔を上げて頷いたレイに、
「それでいいわ、レイ。明日から私が発つまで、戦闘訓練を受けなさい。攻撃される場所は常にATフィールドを使える場所ばかりとは限らないわ。訓練は私が担当します」
 ユリに武道を教えたのはアオイであり、またシンジにも教えたと聞かされている。そのアオイに自ら担当すると告げられ、レイの喉が小さく鳴った。
 扱いが変わる事、それが実感となって全身を包んだのだ。
 多分今日は眠れないに違いない、そう思ったレイだったが、アオイの腕の中で三十秒もかからずに寝息を立て始めたのは一時間ほど経ってからであった。
 ほんの少し湿気の残っているレイの髪を撫でてから、アオイはうっすらと笑った。
「数日では催眠学習でもしない限り、大した効果はないわ。でも大切なのは本人の気持ち。モミジ、あなたものんびりしてはいられないかもしれないわよ」
 今日もまた、シンジのダミーを抱き枕にして眠るに違いない、遠く離れた島国にいる知り合いにアオイは心の中で囁いた。
 宙に浮かんだその顔が、一瞬厳しくなったように見えたのは気のせいだったろうか。
 
 
 
 
 
(続く)

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