第五十六話
 
 
 
 
 
「どうしちゃったのかしら…私の身体は…」
 三十年生きてきて、初めての台詞をリツコは呟いていた。それもその筈で、体調が回復したからさっさと帰って自分の偽物と対決だと意気込んでいたのだが、立ち上がった途端ふらふらと倒れた。
「貧血…ですね?」
 やって来たナースは脈拍と血圧を測ってから告げたのだが、彼女がわずかに首を傾げたのにリツコは気付いていた。
 そして、案の定と言うべきかやっぱり起きられず、半日経って訪れたユリも一言、
「身体の外部、あるいは内部の問題ではない」
 と診断したのだ。
「あの、それは一体…」
「精神に問題がある。私のような未熟な医者は無論だが、どんなに熟練した名医であっても精神(こころ)が癒される事を拒んでいる場合には手が出せない」
「は、はあ」
「何かお心当たりは?」
 訊かれても分からない。
 いや、実際には気合いは入っている筈だし、どうして土壇場で自分を身体が裏切るのかと、むしろリツコは泣きたい位であった。
 他人に裏切られるならまだしも、自分の身体に裏切られるとは。
 自分がいなければあの偽物が横行し、それはすなわち−。
 ぶるぶると首を振ってから、
「だ、大丈夫です、もう帰れますから…」
 立ち上がろうとして倒れ込み、ユリの美しい腕に抱き留められた。
「無理はしない方がいい」
 耳元で囁かれたとき、何故かリツコは顔が赤くなるのを感じた。
「は、はい…」
 ふらふらと横になったリツコに布団をかけると、
「精神と身体が一致しないのはよくある事だ。いずれにせよ、万全の状態で復帰した方がいい。おそらく、数日安静にしていれば治る筈だ」
 精神の問題と言われては、さすがにリツコも頷くしかなかった。
 もう勝てない、もう無理だと諦めている部分が微塵もないとは言い切れなかったのである。
 窓の外にリツコが視線を向けてから、ユリは音もなく部屋を出た。
 だがユリが表情を変えぬまま、
「平安時代から伝わる物でも、手の加えようはいくらでもある。微妙な所で精神に影響を及ぼしうるのは滅多にはないものだ。総司令の陥落までは、未だ大人しくしていてもらおうか」
 冷ややかな声で呟いた事など、無論リツコは知らないのだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「いやです…起きたくないです」
「お前の都合は聞いてない、さっさと起きろ」
 失神したレイを担いできたサツキだったが、別段追っ手がくる事もなく、次の日に出勤しても何も言われなかった。
 一方担がれた方はと言うと、一日目二日目と、泣いたり落ち込んだりととにかく負の表情で過ごし、サツキが無理矢理食べさせた食事を少し流し込んだだけであった。
 すぐに出て行くかと思ったのだが、別段出て行くこともなくサツキの家にいる。
 かと言って、シンジの気が向くまでこのままにもしておけないし、どうした物かとコニャックと一緒に考えたサツキの結論は、学校へ行かせる事であった。
 シンジと顔を会わせる事になるとかは二の次で、何はともあれ行かせるとスパルタが決定された。
 無論顔を会わせたくないのは分かっているが、シンジがアオイの所にいない以上必然的に学校には出てくる。何を思ったのか、シンジはアオイの所ではなく自分の家に泊まっている。
 一緒にいれば何処かに出歩く可能性もあるが、一緒でなければまず学校に違いない。
 分かっていてレイを起こしたのだが、レイは布団から出てこようとしない。
「どうしても嫌か?」
「いやです」
「そうか…だが何度も言ったがお前の都合は聞いていない。中学生の身分で学校も行かない娘なら、何としても行ってもらわなくてはならないぞ」
「嫌なものは嫌です」
「シンジさんに会うからか?」
 分かり切った事を訊いた途端、傍目にも分かるほど布団がびくっと揺れた。
「…わ、私のことはもう…嫌いなんです…」
 放っておけば数十秒もしないで泣き出したに違いないが、サツキはそれを待つほどのんびりしてはいなかった。勢いよく布団を剥がしたのである。
「お前はシンジさんが嫌いなのか?」
 ぶるぶると勢いよく首を振ったレイの顔は、ほんのり赤らんだ頬と潤んだ瞳で以前とは比較にならない色香が出ている。
「そ、そんな事ありませんっ」
「じゃ、行ってこい」
「…え?」
「大体、お前がどうしてここにいるのか理由も聞いてないだろうが。理由も分からないまま離されてそれでいいのか?」
「そ、それは…」
「ま、いざとなったらとっちめてでも聞き出すんだな。人形ならともかく、自分で生きている娘ならそれくらい出来る筈だ、そうだろう?」
 言い方は荒っぽいが、レイに向ける視線に険しい物はない。
「わ、私は−」
「泣いてばかりいたって腐るだけだ。取りあえず自分の足で前に行かないと、道を見つける事はできないぞ…って、私が前に言われた事の受け売りだがな」
 
 進路希望が意志に沿わなかったとは言え、サツキは実の父から組員に下げ渡されて輪姦されたのである。
 これが養子だったり連れ子だったりしたならともかく、実の娘が輪姦されるのを平然と眺められる父親はそうそう存在しない。
 熟れた肢体に欲情して群がっていたとは言え、武闘派で知られた男達をいとも簡単に片づけたアオイは、十字架に架けられていたサツキを見た。
「お願い…殺して下さい…」
 もう悲鳴を上げる力も残っていなかったサツキを、アオイは黙って肩に担いだ。自分への性的暴行と目の前の惨状に、アオイの指が触れた瞬間サツキは気絶した。
 次にサツキが目覚めたのは長門病院の個室だったが、自分の状況を知った瞬間自殺を図り、あっさりと止められてから丸一週間、ずっと泣き続けた。
「死にたいなら止めない、いえお手伝いしてあげるわ」
 ぶらりとやって来たアオイの第一声はこれであった。
「でも、取りあえず肩に担いで私が重かったからすぐには駄目。助けた甲斐がないと私が判断したら、その時は殺してあげるわ」
 えらい言われようだが、優しく慰められていたら、自分は間違いなく窓から飛び降りていたとサツキは分かっている。
 無論それがすべてに通用するわけではないが、少なくとも自分に限って言えば適合だったと言えるだろう。そして実際の所、アオイのこの物言いはサツキを別にすれば、一度たりともなかったのだ。
 さらに、アオイが誰かの人生を加工した事もまた。
 
「…誰かに言われたの?」
 レイの問いにサツキはふっと笑った。
「すべてに絶望し、助け出された事すらも恨んでいた時の私にな」
「そう…」
 その思考に何が浮かんだのか、自分の膝元を見つめたレイに、
「食事が冷える、さっさと起きろ」
 シンジとは明らかに違う、そしてリツコともまた違う文字通り極道を思わせる言い方だったが、
「…はい…」
 十秒ほど経った時、レイは首を小さくだが縦に振った。
 
 
 
 
 
「ご苦労様、マヤ」
 首筋に背後からふうっと息がかかった時、伊吹マヤは背中に電流に似た物が流れるのを感じた。
 その言葉自体は珍しくもないが、吐息のおまけ付きは今までに一度もない。
 まして、こんなにも艶のこもった声でなどは。
「そ、そんな事ないです…せ、先輩に比べれば私なんか全然ですから」
 応じた声も既に上擦っているが、自分では分かっていない。
「マヤはそう言う所もいいのよ。そうやって、謙遜する所もね」
 その声を聞いた時、マヤのどこかで警報が鳴った。
 これは先輩だ…いえ違う。
 どんな時にも表情を変えず、その辺の男なんか足元にも及ばない。でも女としても魅力的だし、自分はいつも憧れていたのだ。
 そのリツコが背後から囁いている−それも艶やかな吐息と共に。欣喜すべきとも言える状況なのに、何故か本能は警告を告げている。
 だがそれも一瞬で吹き飛んだ。
 つう、と伸びてきた指がマヤの耳たぶに触れたのだ。
「ピアスはしないの、こんなにきれいなのに?」
 マヤの返事は待たず、柔らかなそこをかりっと噛む。
「せ…せ、先輩…駄目…」
「駄目?それが身動きもしないで言う台詞かしら?」
 左手でマヤの顔を押さえると、右手が全く気配も感じさせずに制服のジッパーを外して中に滑り込む。
 白かピンク、おそらく後者だろう。勤務中だろうがオフだろうが、黒だの紫だのを着けるのは到底出来そうにない。
 ある程度の外見を満たせば、後は乳房を覆って保護すると言う役目があればいい。そんなマヤの下着を選ぶ基準は無論分かっている。
 するりと差し込んだ指が、固くとがった乳首を捉え、きゅっとねじるとマヤはたまらず喘いだ。
「身体は正直ね、マヤ。でも、女同士でレイプが成立するのも無粋な話−止めろと言うならこれ以上はしないわ」
 男を知らぬ自分の肌よりも、なおしっとりと吸い付いてくるリツコの手に、何故かマヤは離れがたい欲求を強烈に感じた。
「…もっと……もっとして下さい、先輩」
 喘ぎながら声を吐き出すには十秒近くかかったが、それを聞いたリツコは顔色も変えず手を抜きだし、
「付いてきなさい」
 冷ややかとさえ思える声で命じた。
 数分後、どこかぎこちない動きでリツコの後に続くマヤを、シゲルとマコトが見かけたのだが、その足取りとは不似合いな雰囲気−初めて見る淫靡とも言える気を漂わせたマヤに二人は顔を見合わせた。
「おい、今のは…」
「ああ、赤木博士とマヤちゃんだったが…本物か?」
 ついおかしな事を口にしたが、勿論それが半分は正解で半分は間違っている事など、二人とも知る由はない。
 そう、伊吹マヤは“本物”だが、それを従えるリツコはダミーであり、実験の対象にマヤを選んだことは。
 そして、その雰囲気を豹変させたマヤの表情からは、すでに正常な思考の色が喪われている事にもまた気付かないのだ。
 
 
 
 
 
 重い。
 今までになく、いやこの自分が二人目と知って以来かも知れない−こんなに足取りが重いのは。
 取りあえず変な論法と迫力に押されて行くとは言ってしまったが、こんな事なら言わなければ、いや来なければ良かった。
 学校へ行っても誰一人話すわけでもなく、ただ出席と学業の要を満たすためだけに行く。今日からまたそれの繰り返しが始まるのだ。
 それは別にいい。
 でもそこには、以前は決してなかった物がある。
 そう、碇シンジの冷ややかな視線があるに違いないのだ。しかもシンジの席は自分の真後ろにある。
 一日過ごさなくてはならないなんて−
 泣きたくなるような感情が胸の裡から込み上げ、自分が何時の間にそんな感情を身に付けたのかとレイが自分に首を傾げた時。
 不意にクラクションが鳴った。
 どこかで聞いたような気がしたが、
「あの…行ってきます」
 小さく告げると、行っといでと返ってきた。
 送ろうかと言われたが、車で送られるとシンジを思い出すからと断った。中学生同士で車通学など言語道断だが、既にレイに取っては生活の一部と化していたのだ。
「さ、行くよレイちゃん」
 いつもなら、もう車を始動させているシンジと一緒に出ており、今日のお昼はどうするのと訊いている所なのに。
 レイが大きく溜息を吐き出した時、再度クラクションが鳴った。
 今度はさっきより長い。
「うるさいのね」
 僅かにレイの眉が上がる。
 普段なら気にもしないし、例え真横で鳴らされても視線すら向けなかったであろう。
 が、今のレイは機嫌が悪い。
 正確には鬱状態に近いが、普通に言えば機嫌が悪いのだ。
 眉根を寄せたまま、エレベーターは使わずにずんずんと階段を下りていく。
 マンションから出ると、朝からクラクションを鳴らす迷惑野郎はまだそこにいた。
 そしてその車も。
「おはよう、レイちゃん」
「………え?」
 自分では気付いていなかったが、その時のレイはかなり間抜けな表情をしていた。
 ぽかんと口を開けたまま、ひっそりと笑っている少年を見つめる。
「学校へ行くなら送ってくけど、どうする?」
 訊ねた声はいつもの声、そう知ったレイの顔がくしゃくしゃに歪む。
「うん…うん…」
 同じ涙でもまったく違う涙を双眸に溜めたまま、レイはこくこくと何度も頷いた。
 
 
 
 
 
「じゃ、本人は帰さないの?」
「必要ない、と言うよりも今帰ってこられても邪魔になるでしょう。あの肢体(からだ)では司令の籠絡は到底無理な話よ」
「何したの?」
「何を、と言われても困るが多少躰を付け替えただけよ。大体元が悪すぎる、あれでは改良の仕様がない」
「女の躰って抱かれると開発されるものだそうよ」
「…何か?」
 なんでもないわ、と視線を逸らしたアオイに、
「ところでシンジの姿が家になかったが、どうして別居を?」
「面倒だから。本当は一緒の方が楽なんだけど、レイちゃんの自我が崩壊しても困るでしょう」
「胸を放っておいても?」
「三日に一度くらいは来てもらうから、それでいいのよ」
 そう言って軽く胸を押さえたのだが、二日添い寝しないだけでもう変調を来しているのは分かっている。
 重度の肩こりとそこから来る体の変調で、シンジと離れている間は気砲にも影響が出ていたのだ。
 ある意味レイ以上にシンジ依存だと笑ったアオイに、
「体質改善してみる?」
 訊いたシンジの声が、わずかにずれているのを知り何故かアオイはほっとした。
 ただし。
「お前が悪いわけではない。単に治療法が合うだけじゃ」
「はい?」
「人が病を持った時、ある種の治療法のみが合う事がある。それはお前も知っておろう。無論お前のそれは病ではないが、胸の豊かさはそのまま重荷にも繋がる。そこをシンジが夜傍らにいれば治まるというだけの話じゃ」
 と、ヒナギクには言われている。
 アオイを一から育てただけに、アオイの身体はよく熟知している。
 大体が、二人の仲ではなくアオイの身体にシンジがいいと言ったのは、このヒナギクが最初なのだ。
 とにかく、他の物がまったく効かない。どんな療法を施しても、壊滅と言っていい位効き目がない。
 ただし、アオイの場合には生理が極めて軽く、体調面にはゼロと言える程に影響がない。これで生理が重かったりなどすれば悲惨だが、気砲に影響が出るのを別にすれば、それで悩まされることがないのは救いと言える。
 ヒナギクは、
「胸のそれで差し引かれておる。双方とも重くては持つまい」
 そう分析したのだが、案外そうかも知れないとアオイは思っている。
 しかし、さしあたってアオイにとっては自分の身体よりも、シンジとの混浴中に決定した補完計画の頓挫が問題であった。
 とにかく、悪の根元を摘めば終わりと言う訳にはいかないのだ。どのみち、良からぬ計画が発動するのは使徒が全部来た後だし、そこにはまず使徒退治が最優先となる。
 ただ、それを子供に託すのはかなり邪悪な上に、他力本願な気もするが、実はアオイ自身について言えば、シンジにのみ気後れはない。
 と言うよりも、シンジ一人の方が本当はいい。
 目下チルドレンは三人いるが、残る二人、綾波レイと惣流・アスカ・ラングレーに関しては、これを戦場へ引っ張り出すのはアオイ自身良しとしていないのだ。
 しかしその一方で、選ばれた者しか触れられぬこの機体が、人類最後の砦と言うことも事実であり、気兼ねなく使える駒(シンジ)だけを使うわけにもいかない。
 要するに好みと現実の壁がそこにはあるのだが、それだけに補完計画などと言う代物は、何としても挫折してもらわなくてはならない。
「ダミーにしてしまってもいいのだけれど…」
「良くない」
「え?」
「シンジから、父親はダミーにするなと既に言われている。ダミーに替えたら縁を切るそうだ」
「何故?」
「シンジのやることは分からない」
 端的かつもっとも明確な返答に、アオイが僅かに笑った。
「父親の勇姿を見たいから、では無さそうね。想像は?」
「大体は。ただ問題は、のんびりと学校になど行ってる事だ。私の想像通りなら、シンジは自分の目で見ておきたいはずだ」
「何を?」
「父親の陥落する所を」
 ユリの返答に、アオイの表情はある種の色を浮かばせた。
「…見てどうするの」
「道を決めるために−甘い死か、或いは魂の牢獄のそれを」
「面倒な訳ね」
 興味が無さそうに言ってから、
「シンジのその顔なら見たいのに−契約に基づいたモミジしか知らないなんて、不公平だと思わない?」
「何故私に訊くの?」
「付き合いが悪いからよ。あまり、シンジの知り合いには手を出さない事ね」
 アオイが出て行った後、
「それを知らぬのは女の楽しみを半分しか知らないからだ。とは言え、常に利権は独占が最良と決まっている−ましてそれが美少女とあれば」
 そう言ったユリの顔に浮かんだ表情は、間違いなく年頃の娘を持つ親であれば、安心して通わせる事への不安を抱かせるには十分であったろう。
 だがその美貌が囁くとき、どんな親とて治療先を変える事は出来ずに娘をお願いしますと縋ってしまうのだ。そう、決して逃れられぬ何かに魅入られた亡者のように。
 
 
 
 
 
「あ、あのお兄ちゃん…」
「何?」
 声もいつもと変わらないシンジだが、それを聞いた瞬間サツキに言われた事は雲散霧消していた。
 自分が隔離された訳を訊いてこいと、サツキはレイに命じたのだ。
 無論そこには、自分で納得した方がいいとの判断があるが、サツキにしたって分かりきってる訳ではなかったのである。
 レイはそんな所までは知らない。が、いつものシンジの声であっさりと忘却してしまい、
「わ、私のこと怒ってないの…?」
「別に。どうして?」
「だ、だって家に帰って来ちゃ駄目って言われたからその…」
「言ったよ。サツキの所にもう荷物は運んである筈だ。生活には困らないよ」
「……え?」
 レイの表情に怪訝な物が浮かぶ。シンジの言葉がよく分からなかったのだ。
 そんなレイをどう見たか、
「レイちゃんは僕に依存しすぎだよ」
「そ、そんな事…」
「無いって言える?」
 ひょいとシンジが顔を横に向けた時、レイは思わず視線を逸らした。
「ほらね。もっともそれは別にいいんだけど、今のレイちゃんは自分を認識出来ていないから」
「ど、どう言うこと?」
「僕は君が人間だ、とは言ったけど実際の所は分からない。大体、僕だってもしかしたら知らない間に宇宙人にさらわれて、火星人辺りと身体と脳を入れ替えられてるかも知れないんだから。詰まるところ、自分の存在を定義できるのは自分だけでこれは当然なんだけど、レイちゃんはそれが出来てない」
「??」
 さっぱり分かってないらしい顔のレイに、
「問題を最初に戻そう。少しは人間の皮が出来てきたかと思ったけど、生態からして人形のそれだった時と変わってないんだな。依存の形態は変わってなくて、その前に自立の下地が出来てな…ん?」
 くす、とレイが笑った。
 そう、間違いなくレイは笑ったのだ。
「そんな事を気にしていたの、お兄ちゃんは?」
「もう一度」
「おかしな事を、と言ったの。私がこの手で黒服を片づけた時、そして碇ユイの思念と私の肢体を持った女を前にした時、誰が私に殺せと命じたの?同じ事でも、私は自分で考えて決めているわ」
「何を−運転の邪魔」
 左手で押し返したのは、にゅっと伸びた腕が首に巻き付いたからだ。
「お兄ちゃんと一緒がいいって、それは私がもう決めた事なの。同じに見えてもそれは…同じじゃないわ」
「その割に言ってることに進歩がないぞ」
「人が後悔と過ちをしなければ、遙か昔に神の座に触れているわ。お兄ちゃんは完全かもしれな…ひ、ひたい」
 きゅう、と頬を引っ張られたのは、その台詞に確信的な物を読みとったからだ。
 やっとシンジの指が離れてから、レイはそこにそっと触れたが、傷む箇所におさえるような仕種ではなかった。
「あんな事は言ったけれど、私はお兄ちゃんのことは本当に信用してるもの…本当の本当に」
「でも駄目」
「え?」
「問答の時間はともかく、僕は人間か非人間かの質問を考えていられるほど哲学者じゃないんだ。だから当分はサツキの所」
「…お、お兄ちゃんの意地悪」
「意地悪な人とは一緒に住まない方がいい」
 それを聞いてレイの表情が変わる。ぷう、とふくれたのである。
 ふくれた顔のまま、
「わ、私が信濃大佐みたいに胸も大きくないし、きれいでもないからお兄ちゃんは私と…」
「アオイとは一緒に住んでない」
 言いかけたレイを、シンジが途中で遮った。
「…え?」
「前はずっと一緒だったし、その方が僕としても楽なんだけど、空き巣に入られても困るしねえ」
「そ、それだけ?」
「うん、それだけ。とにかく君の棲息地域は今のところ。いいね」
「むう…」
 まだ頬はふくらんでいたレイだが、どうやら線が繋がったらしく頷いた。
 だが普段の顔に戻ったのもつかの間で、すぐにまた表情は硬化する事となった−それもより一層強ばった物へと。
「碇さん、おはよう」
 車を降りた時、後ろから聞こえた声にシンジが振り向くと、そこには山岸マユミが立っていた。
 レイの表情を変えたのは、その明らかに変わった雰囲気であった。
 眼鏡の下は美人、と言うのをそのまま地で行っているマユミは、ブラウスのボタンも開けていたのである。
 胸元から乳房がのぞくまでには行かなかったが、その全身から漂う気は明らかに数日前までとは異種の物であり、しかもマユミがそれをシンジに向けていると知り、レイの眉がぴくっと上がった。
 
 
 
 
 
(続く)

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