GOD SAVE THE SHINJI!
 
 
 
 
 
第三十話:帰還
 
 
 
 
 
 深夜の格納庫で、シンジは巨大な人型の兵器を見上げていた。
 ただ、シンジの初号機ではなくレイの零号機でもなく――参号機と四号機であった。
「なるほど、結構な壊れっぷりだ」
 呟いた言葉はどこか空虚であった。
 仲魔達は何も言わず、背後でひっそりと空中に控えている。
 散歩に来たような風情だが、ここはエヴァンゲリオン博物館ではない。コウゾウから許可も取らず、厳重なセキュリティで守られているここへどうやって入り込んだのか。
「ドワーフ、悪いけどこれの修理頼むね」
 誰にともなく声を掛けると、その足元からすうっと影が湧き出した。
「承知した、シンジ卿」
「ん」
 頷いたシンジが、きびすを返して歩き出すのを、地霊達は皆敬礼して見送った。かつて妖精界で、自分達と長い間過ごしてきた少年の心に、決して小さくない穴が開いている事を、彼らは知っていたのだ。
 黙然と歩く少年の行く先々で監視カメラはその役目を果たさず、ゲートもまた自動的に開いて少年を通す。
 無人の野原を行くが如く、シンジはゆっくりと歩き続けた。シンジ自身は、何一つ工作などしていない。
 この日、ネルフが誇るMAGIシステムはその能力を全て喪失していたのだが、気付いた者はいなかった。
 妖精達が機械を狂わせ、また他の妖精達は詰めていた者達を眠りの淵にへと導き、システムを根幹からダウンさせていたのだ。
 命令でも要請でもなく――帰る事を決意した一人の少年の為に。
 シンジが地表へ出ると、そこには二本足で立つ猫が待っていた。
「今晩は、シンジ卿。お待ちしておりました」
 ケットシーの口調は、先だってシンジをからかっていた時とは違い、ひどく丁寧なものであった。
「うん」
「馬車の用意は出来ております。既に女王陛下には、お発ちの旨お伝えしてありますから。さ、お乗り下さい」
 妖猫が器用に指を鳴らすと、現れたのは文字通りカボチャの馬車であった。しかも御者はコボルトと来た。
「よおシンジ卿、お迎えに来たぜ」
 全身真っ黒な狼男がにっと笑う。
 その歯は白かった。
「うん、よろしく」
 シンジの口調はいつもの物になっていたが、御者席にいた二匹のコボルトは顔を見合わせた。
(ヤバイな)
(ああ…)
 と。
 シンジが乗り込むと扉は閉まり、完全に一個のカボチャと化した。コボルトの手が動くと、馬車は音もなく走り出し、すぐにその姿は見えなくなった。
 なお、カボチャを引いているのは馬だがその顔は人間であった。いわゆる――改良された死霊(ゾンビ)である。無論常用されるものではなく、今回わざわざ用意された代物だ。
 そう、シンジを測る為に。
 シンジの精神(こころ)に幾ばくなりとも余裕が残っていれば、少なくとも気付いたろう。驚いたろう。
 だがシンジは――全く反応しなかったのだ。
「まあ、妖精界(あっち)に戻れば、少しは元気になられるだろうよ。こっちは…空気が悪すぎる」
 
 
 
「さすがに、ちょっと飲ませ過ぎちゃったかな」
 夜の街をマドラックスが歩いていた。その足取りがほんの少し蹌踉としているのは、バーで空けた十数本のワインやバーボンのせいではなく、背中に背負った荷物のせいだ。
「よく寝てるわ。多分朝までぐっすりね」
 その背にいるのはナタルである。
 殆ど飲めないナタルが、バーでぽつねんと座っているところを発見したマドラックスは、その姿がひどく所在なさげに見えた事もあり、飲めぬ事を承知で飲ませたのだ。原因はほぼ想像が付いたし、たまには飲んで忘れた方がいいと、完全に酔い潰れるまで飲ませてから、目下家まで送る途中である。
「ただ…ちょっと会いたくないけどね」
 マドラックスがこんな台詞を吐くのは珍しい。しかも相手は年下の少年で、恋愛関係どころか交友関係すらないのだ。
 正確に言えば――死刑宣告された間柄である。ナタルが最重要人物として、自分に護衛を依頼した時点で妙だとは思ったのだが、案の定かなり人外に近い存在であった。本人の素材はともかく、カボチャと雪だるまを使いこなす時点でどう見ても尋常ではない。
 ナタルの取りなしで何とか助かったが、その後何かが変わったわけでもない。負傷してはいないから、多分大丈夫だろうとは思うが、人外の存在を駆使する少年の思考を読み取る事には残念ながら長けていない。
「歩いて帰ってもらえそうにも、ないしね」
 呟いたマドラックスの銃は、安全装置が掛かったままになっている。万一死の銃口を向けられたとしても、抗える相手ではないともう諦めているのだ。
 やがてマンションまで着くと、マドラックスは数回深呼吸した。背中の重量はまだしも、この先に文字通り死神がいるかも知れないと思うとさすがに緊張する。
「行くわよマドラックス――あたしはまだ死ねないんだから」
 酔い潰れた友人を送るとは到底思えない台詞を口にしてから、マドラックスはゆっくりと歩き始めた。部屋の前まで来ると、ポケットに手を入れて鍵を取り出す。
 さっきバーを出るとき、こうなるだろうと鍵は借りておいたのだ。無論、本人は知らない。
「…お、お邪魔します」
 数回深呼吸してから、咳払いしてドアを開ける。
 多分安全だろうとは思うがやはり緊張する。親の目を盗んで恋人の部屋へ忍び込むのは、案外こんな心境なのかも知れない。
 が、数歩も行かぬ内にマドラックスの感覚は無人の室内を察知していた。
(こんな時間なのに…いないのかしら)
 来慣れた家だから、リビングへの入り口位までは電気を付けずとも分かる。足下に障害物があった場合でも、それと分からぬマドラックスではない。シンジがいないと知って安堵し、また同時に首を傾げたマドラックスが入り口で壁のスイッチを入れた。
「食事が用意してある…あの子が作った――!?」
 呟いたマドラックスの目に、二つに折られた小さなメモが映った途端、その背を何かが走り抜けた。それは強烈なまでの悪寒であり、彼女がこれを感じた時に、外れた事は一度もない。
 マドラックスの表情に緊張の色が浮かび、メモに手を伸ばして開く。
「お世話になりました。さよなら、ナタル」
 こんな夜更けに誰もいない室内と、用意されながら手の付けられていない食事、そして残されたメモ――これだけあれば事態を想像するのは容易い。
「な、なにこれ…ナタル、ナタル起きてっ!!」
 完全に顔色の変わったマドラックスが、慌ててナタルを起こしにかかった。
 
 
 
「シンジ卿、着きやしたぜ」
「んー…」
 聞こえてきたコボルトの声に、シンジはうっすらと目を開けた。いつの間にか、寝入ってしまっていたらしい。
「寝ちゃってたんだ…あれ?あれれ?」
 いつも一緒にいる筈の仲魔達がいないのに気づき、シンジが胸元をぺたぺたと触る。
「フロストとランタンは?」
「既に、城内で陛下に謁見中ですわシンジ卿」
「そっか…って、ケットシー?」
 聞こえてきたのはケットシーの声で、先回りされた事には少しも驚かないが、シンジが目をぱちくりさせたのはその姿にあった――ケットシーは、その姿を女騎士のものへと変えていたのだ。
「凛々し過ぎて惚れちゃった?」
「うるさい」
 シンジの物言いに、何故かケットシーはうっすらと微笑んだ。
 安心したのである。
(一眠りしてちょっと戻ったみたいね。安心したわ)
 と。
 マンションを出たシンジを送った時は、着いてそのまま倒れ込むのではないかと、ひどく心配していたのである。
 耳は少し尖ったままだが、きりっとした顔立ちをした猫騎士が、シンジに手を差し出した。
「さ、シンジ卿参りましょう。女王陛下がお待ちですわ」
「うん」
 馬車を降りたシンジが眩しそうに目を細めた。既に陽光は高く昇っており、戻ってきた少年を燦々と照らし出している。
「帰ってくるのも久しぶり…うわ」
 まったくメイヴのやつ、と手を取られたまま、シンジがぼやく。
 そこには――正装した妖精騎士団が道の左右にずらりと居並び、シンジを出迎えていたのだ。
(私がこれでなきゃならない訳が分かった?)
(まあ、ね)
 錚々たる騎士達の中にあって、いかに知能が高いケットシートは言え、そのままの姿でシンジのエスコートは出来まい。
 出迎えたのは妖精騎士達は、人間で言えば一人で数百人は相手に出来る力を持っており、その騎士達が数十名直立不動で立っている中を、シンジはケットシーに腕を取られたままゆっくりと進んでいく。
 やがてその足が止まる。
「おや〜人間の匂いがするぞ?」
 悪戯っぽく言った時、ほんの少しだがシンジの表情が緩んだ。
 そこにいたのはクーフー・リン、女王メイヴの信頼が最も厚く、そして最強の妖精騎士であった。このクーフー・リンに対して、こんな物言いが出来る人間は碇シンジを於いて他にはない。逆に言えば、メイヴの寵愛とこのクーフー・リンの保護があるから、人間界の生き物であるシンジが生きてこられたのだ。
 決して人間を好まない性格である事は、ナタルにクーフー・リンの痕跡を見たシンジが、文字通り血相を変えた事にも表れている。
「私の友人が心配だったのねでね。余計だったかな」
「今回は勘弁してやる」
「それは良かった。お帰り、シンジ殿」
「うん…」
 頷いたシンジに、クーフー・リンはそれ以上人間界での事を持ち出さなかった。既に下級妖精達から報告は受けており、シンジの心がかなり痛んだ状態になっている事は分かっていた。
「ところで一人足りないんだけど、温泉でも行ってる?」
 何気ない言葉だったが、騎士達の数名がシンジに視線を向け――すぐに逸らした。
「今は寝込んでいるところだ。だいぶ良くはなったがね」
「タムが?」
「うむ」
 クーフー・リンは頷き、タム・リンが、先だってシンジの初出撃の折に自らの精神体を介入させ、シンジを再起動させた衝撃を全て引き受けた事を伝えた。
「そんな…」
「気にすることはない。あれが自分で決めた事だし、シンジ殿に強いられた事でもないからな。気になるのなら、後で会いに行ってやれば喜ぶだろう」
「分かった、会いに行ってくる」
「そうだな。さ、女王陛下がお待ちかねだ」
 シンジの耳元に顔を寄せ、
(シンジ殿に会えないとご機嫌斜めだったからな。疲れている所をすまないが、メイヴに会ってやってくれ)
(うん)
 ケットシーに腕を取られ、場内へ消えていくシンジを最強の武人は穏やかな表情で見守った。
 中へ入ったシンジは、もう歩き慣れた城内を進み、やがてとある部屋の前まで来た。
「じゃ、シンジ卿あとは一人で入ってね。私はここで」
「ふぇ?なんで僕を一人で行かせるのさ」
「シンジ卿の戻りをずっと待っておられた女王陛下の元へ、シンジ卿と腕を組んだまま入れって?地獄の溶鉱炉の上で毛繕いした方がましだわ。じゃあね」
「あ…」
 そう言うと、ケットシーはシンジの返事もまたずに身を翻してしまった。ふさふさした尻尾を揺らしながら歩いていくケットシーを見送り、シンジは小さくため息をついた。
 ふうっと息を吐き出したシンジが、ゆっくりと息を吸い込んで扉に手を掛けた。メイヴに会うのが嫌なのではなく、その側近が何となく苦手なのだ。
 つまり――妖精女王に忠誠を誓うあまり、その想いが向いている人間風情を良く思っていない側近達が。
「えーと帰り…あれ?」
 大広間はおろか、玉座にも人の姿が無かったのだ。
 メイヴを始め側近達も皆妖精だが、この城内にいる時は人の姿を取っているから見落とす事はあるまい。それに、クーフー・リンがメイヴに会うようにと言ったのだ。
「散歩でも行ったのかな?まあいいや、帰って寝…ぎえ!?」
 いない事だし出て行こうとした途端、その首筋に腕が巻き付いた。
「どーして扉の陰を捜さないんだよ、もうっ!」
 シンジに抱き付きながら、ぷう、と唇を尖らせている黒髪の少女こそ妖精界の女王メイヴであり、またここに於ける一番の実力者である。
 メイヴに抱き付かれたままシンジが横を向き、
「ただ今…」
 言った瞬間、メイヴの目に涙が湧き上がった。シンジが反応する間もなく、その腕がシンジの胸元に肘まで吸い込まれる。
「こんなに…こんなに心が傷付いて…だから人間界なんかに行かせたくなかったんだっ!シンジ君の…シンジ君の馬鹿!!」
 心が傷付いているとの診立てはともかく、それを文字通り胸に手を差し込んで判断するというのは、人間界にはまずいるまい。
「前から言おうと思ったんだけど」
「なに」
「もうちょっと違う診断の仕方を覚える気は…んむー!?」
 言いかけた途端、いきなり唇を奪われた。そのまま押し倒された床は硬くなかったが、侵入してきた柔らかな舌がシンジの口内を嬲り回す。
 シンジの顔がうっすらと紅潮してくるまでたっぷりと楽しんでから、漸くメイヴは顔を離した。
「キスの味が違う。やっぱり心がボロボロになってるんだ」
「…皮を剥いで天麩羅にするぞこら。僕の肺活量を何だと思って…」
 言い終わらぬ内に、シンジの胸にメイヴの頭がぽすっと載った。
「良かった…本当に良かった…。帰ってきた君が壊れてたらどうしようかって僕は…」
(メイヴ…)
 会った早々いきなりキス責めで呼吸を塞がれ、素っ裸にした上縛って放り出そうかと思ったシンジだが、メイヴの声に涙が混ざっているのに気付くとさすがに何も言えなくなってしまった。
「あのさ…メイヴ」
「え?」
「じゃ、向こうにいる僕の事は見てなかったの?」
「!」
 その瞬間、胸の上に載っている頭から、僅かではあったが明らかな動揺が伝わってきた。
「あ、あ、当たり前じゃないっ!ぼ、僕がそんな事するわけないだろっ!」
「…果てしなく怪しい」
「ほ、本当だもんっ、僕はそんな事しないっ」
 その顔が赤くなっているのは見なくとも分かる。この誇り高き女王がこんな姿を見せるのは、ただ一人シンジを於いて他にはない。
 メイヴの頭を軽く撫でたシンジが、
「じゃ、信じる」
 言った途端、その頭がぴょんと起きた。
「ほんとにっ!?」
「メイヴは、僕には嘘言わないでしょ」
「シンジ君…」
「だから、人間界(むこう)には手を出さないでね」
「…っ」
 それを聞いた途端、メイヴの端正な顔が、苦虫を四匹まとめて噛み潰したようなものへと変わった。そのままメイヴの反応は待たず、
「じゃ、僕はちょっと寝てくるから。じゃあね」
 起きあがり歩いていくシンジの後ろ姿を見ながら、メイヴが歯をギリっと噛み鳴らしたのは、単に機先を制されたからではない。
 口調とは裏腹にシンジの心がひどく傷付いている事を――もう何年も一緒にいるメイヴだから分かる――見抜いていたのだ。
「僕は…そんな事の為にシンジ君を行かせた訳じゃない…」
 低く呟いた声には溢れ出す憎悪と――抑えきれぬ殺意が混ざっていた。シンジの手が触れた髪に手をやったまま、メイヴは石像と化したかのように暫く動かなかった。
 やがて妖精の女王はゆっくりと立ち上がり、本来の居場所である玉座へ向かって歩き出した。
 こちらを向いたその顔には、何の表情も浮かんでいない。間もなくメイヴの手がすっと上がると、大広間の扉が音もなく開いて一つの人影を吸い込んだ。
「クーフー・リン、参りました」
 今の動作は、騎士を呼ぶ合図だったらしい。
 恭しく片膝をついて控えるクーフー・リンを見下ろしたメイヴが、左手に嵌められている指輪を煌めかせると、空中に一人の女が現出した。
 それは、ナタルであった。
「クーフー・リン」
「はっ」
「我が名に於いて命じる。この女を殺し、その首を私の元へもたらせ」
 無表情のまま、抑揚のない口調でメイヴが命じた時、その周囲の空気が刹那凝固した。
 
 
 
「…ん?」
 ふと気配を感じたアスランが目を覚ますと、腕の中から抜け出したキラが窓辺に立っていた。普段は、外泊ならまだしもこの家にいる限り、キラが夜中に目覚めても気付かないのだが、明らかにキラの気配は普段と異なっていたのだ。
 起きあがったアスランがガウンを羽織り、窓辺へ歩いていく。
「キラ、夢見でも悪かったか?」
「アスラン…」
 振り向いたキラの表情には憂いの色が浮かんでいた。
「シンジ君に…呼ばれた気がしたんだ」
「そうか」
 アスランは、想い人の後ろ髪を少し複雑な表情で見つめた。無論、キラとシンジは従兄弟同士であり、それ以上でもそれ以下でもないのは分かっている。シンジに呼ばれた気がしたというのも、学校へ出てきたシンジの様子がどことなくおかしいからだろうと、アスランも分かってはいるのだ。
 ただ、この従兄弟は少し通常と違う。
 長い間音信不通で、その住居すら人間界にいなかったようなシンジが、キラの郵便だけは受け取っていたし、短いながらも返事はしていた。単なる従兄弟関係なら、なかなかこうはなるまい。
(気にしすぎなのは分かっているのだが…)
 内心で呟いたアスランが、
「彼なら大丈夫だ。今までだって、ずっとそうだったろう。シンジ君に話しても、お前なんか呼んでねーよ!と笑い飛ばされるよ。明日もまたあるんだ、あまり遅くならないようにな」
「うん…ありがとアスラン」
 頷いたキラだが、窓の外を見つめたまま動かない。
 間もなくアスランの寝息が聞こえてきても、キラはまだ動かなかった。
 シンジのことだから、身体面で危機が迫るような心配はキラもしていない。先だって、氷漬けにされかけたのはキラ達なのだ。
 何処がおかしいのか、と言われれば正直キラにも分からない。
 が、シンジはどこか変だとキラの本能が告げていた。それは、身体的なものではなく、むしろ内面から滲み出るような違和感であった。
「大丈夫だよね…シンジ君…」
 呟きが窓ガラスに吸い込まれていく。
 だがキラは知らなかった。
 この時、家のドアに矢が刺さっていたことを。
 そしてそれには紙が巻き付いており、こう書かれていたことを。
 すなわち、
「参号機と四号機は直しておいた。あとよろしく」
 と。
 もしも知っていれば、血相を変えて飛び出していたに違いない。
 
 
 
 メイヴに命じられたクーフー・リンは、すぐには反応しなかった。
 十秒近く経ってから、
「委細…宜しいのですね」
 と、一言それだけ訊いた。
 問われたメイヴの眉がすう、と上がり、
「お前、僕とシンジ君の事盗み聞きしていたな」
「シンジ殿の精神状態が甚だ不安定に見えましたので。ご容赦を」
「まあいい、処分は後回しだ。僕の言った事が分かったならさっさと――」
 メイヴの言葉が途中で止まり、その表情が一瞬にして凍り付く。
 大広間の扉がほんの少し開いており――そこからシンジが覗いていたのである。
「ち、違うんだシンジ君これはっ…そ、そのっ…!」
 立ち上がったメイヴが慌てて言い訳しようとしたが、咄嗟に上手い言葉が見つかる筈もなく、
「おまえなんかだいっきらいだ」
 これ以上はない位に軽蔑のこもった眼差しをメイヴに向け、シンジがぷいっと背を向けた背後で扉が冷たく閉まる。
「あ…あぁ…」
 がっくりと膝を突いたメイヴを見下ろしたクーフー・リンが、
「陛下、今一度お訊ねします。私に命令を遂行せよ、と?」
「……」
 メイヴの顔が上がり、キッとクーフー・リンを睨む。その双眸には、またも涙がいっぱいに溜まっていた。
「シンジ殿はあの通りの性格ですが、誰かを恨み続けるような事はありません。あの人間の小娘を恨んでいるようなら、陛下のお手など煩わさずにコボルト辺りの餌にしていたでしょう。少しばかり、シンジ殿の性格を見誤っておられましたな」
「うるさい!誰が…誰が見誤るものかっ!お前などに説かれずとも、そんな事は分かっている!でも…でも、シンジ君の心をあんなボロボロにした女を僕は…僕は…」
 声を押し殺して泣くメイヴを、クーフー・リンは穏やかな表情で見つめた。クーフー・リンとて、メイヴがシンジの事を分からなくなったとは思っていない。普段は名君の呼び声高いメイヴだが、シンジの事になると途端に冷静さを失う一面があり、それが出ただけだと分かっている。
 がしかし、問題は――シンジがメイヴを殆ど信用していなかった事だ。信じていたら、覗き見になど来るまい。
(ここは…やはり奴しかおるまい)
「それはシンジ殿も分かっておられる。だから…陛下の性格を知っているから、引き返して見に来たのです」
「!」
 それを聞いた途端、メイヴの嗚咽がぴたりと止まった。
「じゃ、じゃあ…そんなに怒ってない?」
「それとこれとは別です。間違いなく相当怒ってます」
 ぐし、とみるみる表情が歪んでいくメイヴに、
「人間界の事はもう放っておかれた方が良い。それがあなたの為です。それから、目下の最優先事項はシンジ殿のご機嫌を直す事だが、あなたが行っては逆効果、無論私でも無理な事です」
「じゃ…どうしたら良いのだ?」
「寝込んでいる者を使うとしましょう。幸い、まだダメージは癒えきっておりませぬ故」
「ふえ?」
 無垢な少女みたいに小首を傾げたメイヴに、誇り高き武人はにっと笑ってみせた。
 一方、不機嫌な顔で廊下を歩くシンジの回りには、カボチャと雪だるまが浮遊しており、シンジを宥めるのに必死になっていた。
「オヤビン、陛下も悪気があったわけじゃないんだって。たださ、オヤビンの心がひどく傷ついていたからキレちゃったんだよ」
「そうよシンジ卿。だいたい、さっきシンジ卿が言った時、陛下はうんとは言われてないでしょう。そんなに怒ったら逆効果よ」
 ランタンの台詞にシンジの足がぴた、と止まり、
「…逆効果だ〜?」
「どうせシンジ君を怒らせたんだからもういい。クーフー・リン、さっさとあの女を殺して来い、と陛下が命じられたらどうすんのよ」
「何だとー!?メイヴの奴!」
「『げ!?』」
 あっさり復活したのはいいが、明らかにそのエネルギーは怒りで、しかも間違った方向に噴出しようとしており、慌てて止めようとした仲魔達だが、
「メイヴはそこまで愚かではないよ、シンジ殿」
「クー…」
 クーフー・リンが出てきたのを見て、妖精達は心から安堵した。
「メイヴをとっちめるのは後回しにして、シンジ殿は少し休まれた方がいい。身も心も健康で、気力溢れたまま一時帰国されたのではないだろう?」
「…分かった」
 頷いたシンジに、
「一眠りされたら、すまないがタムの所へ行ってやってはくれまいか?あれも、シンジ殿には会いたがっていた故」
「じゃ先に行ってくる。頑丈な奴に寝込まれるとなんか気になるから」
「そうか。では頼む」
「ん」
 決して声を荒げたり、睨んだりする事はない。それでもシンジの気をあっさりと和らげてのける辺りは、いくら親しいとは言え仲魔達ではまだ及ばない。
 どうにか気分が変わり、戻っていくシンジの回りで浮遊しながら、振り返った仲魔達に騎士は一つ頷いてみせた。
 
 
 
「あ…」
 ナタルがミサトに張り飛ばされ、しかも壁際まで吹っ飛んだ傍らで、マリューは事態について行けず、目をぱちくりさせていた。
 非常事態だとネルフに呼び出され、すっ飛んできた二人を待っていたのは蒼白なナタルと、シンジが出奔したという報告であった。しかもナタルはシンジとの約束をすっぽかし、帰ってみたらシンジが居なかったという。
 論外としか言いようのない無様な醜態を聞かされ、怒りのこみ上げたマリューだが、それでもナタルとシンジが引きこもっていた時、ミサトに制止されていたから手を挙げるような事はしなかったのだが、聞くなりミサトが動いた。
 避ける間もあらばこそ、全く無防備なままナタルは壁まで吹っ飛んだのだ。
「ミ、ミサトっ!?」
 我に返ったマリューが慌ててナタルに駆け寄ると、唇が切れたのみならず、鼻血まで出ている。そのナタルを、マリューが今までに見たこともないような表情で見下ろしたミサトが、
「訓練がきついから出て行ったのならいい。パイロットが嫌だから家を飛び出したのなら何も言わないわ。でもね、あなたの仕事はパイロットの育成じゃない、彼をこの地へ引き留めておく事よ。あなたがシンジ君と家で爛れた生活を送っていた時、何も言わなかったのは、少なくともシンジ君がここにいる理由にはなる、とそう思ったからよ。あなたが――」
「ちょっと待って」
 何も言えずに唇を噛むナタルの血を拭ってやっていたマリューだが、ミサトの言葉にその手が止まった。
「ミサト、今爛れた生活とか言わなかった?」
「片方は中学生とは言え、男と女が家に籠もりっぱなしで、ただお茶だけ飲んでおしゃべりしている訳が…!」
(しまった!)
 言いながら、ミサトは内心で唇を噛んでいた。
 マリューはミサトと違い、男女の機微に免疫がない。未だに以て処女であり、何より男と女が引きこもる、と言う単語はマリューに取っては危険なスイッチなのだ。
 案の定その顔が上がり、たった今まで庇っていたナタルを睨んだかと思うと、その手が勢いよく上がった。
「!?」
 間に合わないと見て、体ごと割って入ったミサトの顔が勢いよく横を向く。
「ミサト!?」
「あっちゃー…いたた…やっぱりマリューの打撃は効くわね」
 頬をおさえてはいたが、さすがにミサトだけあって急所は外しており、ほんの少し頬が赤くなっただけで済んだ。
 ふ、と苦笑気味に笑ったミサトが、
「あんたまでキレたらこの子が袋叩きでしょ。ま、あたしも余計な事言いすぎたわ」
(ミサト…)
 こういう修羅場は、ナタルは無論マリューも経験値が少ない。
「でもマリュー、あの件は副司令も委細了承済みなのよ。だから大目に見ておいてちょうだい」
「…副司令が言われるなら…って、私だけのけ者だったわけね」
 むう、とふくれるマリューをまあまあと宥め、
「保護者、と言うより係留綱の役目。それすらも出来ず、シンジ君に出て行かれるとはね…私も予想外だったわ。まあ、黒服を付けていなかったのが、唯一不幸中の幸いだったかな」
「なんで?」
「シンジ君を止めよう、或いは後をつけようなんてしたら、全員氷漬けにされてから粉々になってるわよ」
「そ、そうね…」
 シンジはともかく、その仲魔達の脅威は今もこのネルフにくっきりと残っている。
「ただ、出て行っちゃったものはもう仕方ないわ。あとは…心当たりある?」
 半ばため息混じりに訊いたミサトに、ナタルは力なく首を振った。
「申し訳…ありません…自分には何も…」
 マリューがキレたのは、触れてはならぬスイッチが作動したからだが、ミサトの場合は違う。
 シンジが姿を消した事が何を意味するのか、分かっていたからだ。
 現時点で使徒に対抗できるのは、唯一初号機のみであり、それを操れるのはシンジを於いて他にない。
 そしてそのシンジは――過去十年間、人間界からその姿を消していたのである。
 すなわち、人類は使徒に対抗できる唯一のカードを失ったのだ。
 脳裏に絶望の二文字が浮かび、それを振り払うようにミサトが首を振ったところへ、
「葛城少佐っ!」
 血相を変えてキラが飛び込んできた。
「キラ君、あなたどうしてここに?」
 真夜中のことでもあるし、そもそもシンジが行く先を告げていれば、当人達がすっ飛んで来ていようと、二人に招集は掛けていなかったのだ。
「どうしても眠れなくて外に出たら、玄関にこれが射ち込んであって…」
 メモを受け取ったミサトが、
「これ紙よね…射ち込んであった?」
「矢が刺さっていて、それに巻き付けてあったんです」
 シンジ君らしいわ、とちょっと和んだミサトだが、内容を見た瞬間顔色が変わった。
「参号機と四号機を直した!?」
「『え!?』」
 ミサトの口から出た言葉に、マリューもナタルも驚愕の表情へと変わったが、
「本当だよ。私が直に見てきたからな、間違いない」
「ふ、副司令っ!」
 姿を見せたのはコウゾウであった。
 これも家で熟睡中だったが、キラからの緊急連絡を受けて急ぎ駆けつけたのだ。
 それでも、さすがに副司令らしく顔色を変えるような事はなく、
「シンジ君が“戻った”のかい…」
 呟くように訊いた。
「申し訳ありません…」
「まあ最悪の状況だけは免れた、という事か。出て行く時にもこんな事まで考えていくとは、シンジ君らしい…」
 どうやら置き土産に、参号機と四号機を直していったらしいと知り、ナタルの表情に僅かながら安堵の色が浮かぶ。
 だが、コウゾウの表情は険しかった。二機を直して行ったと言うことは、裏を返せば戻る気が無いという事になる。その意図が代替ではなく、単なる戦力の追加にあるならさっさと直していたろう。
 姿を消す直前で直したりはしなかった筈だ。 
(何らかの理由で今まで直せなかったのだ、と言うほど事態は都合良く運ぶものかね?)
 マリューとミサトも同じような事を考えていたのだが、その時誰もが忘れていた。
 少なくとも現時点では、最も危険な因子を――キラ・ヤマトの事を。
 そして、そのキラが俯いたまま肩を震わせていた事を、皆が見落としていた。
「…なたの…あなたのせいでシンジ君がっ!!」
 キラの顔が上がった時、涙の浮かんだ目に殺気があると最初に気付いたのはコウゾウであった。
「いかん!」
 許さない、と呟いたキラの手が腰の銃に伸びた、と気づき咄嗟にキラとナタルの間に割って入ろうとしたが、キラの方が早かった。気付くのが遅れたマリューもミサトも間に合わず、手を伸ばそうとした時にはもう、キラの銃口はナタルを捉えていた。
「『キラ君っ!!』」
 二人が叫ぶのと、キラの指が引き金を引くのがほぼ同時であった。
 そして室内に――銃声が鳴り響いた。
 
 
 
 
 
(つづく)

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