m <GOD SAVE THE SHINJI!>:第三十一話
 
 
 
 
GOD SAVE THE SHINJI!
 
 
 
 
 
第三十一話:えらい人のアイテムの実力
 
 
 
 
 
 その目に湛えた殺意に任せ、キラが何の躊躇いもなく引き金をひいた時、当のナタルは動けず、マリューもミサトも完全に間合いから外れていた。しかもその銃口はまっすぐにナタルの額へ向いており、コウゾウも覚悟を決めていたのだが、飛び散ったのはナタルの血漿ではなく――羽毛であった。
「『!?』」
 呆気にとられた皆が、それが羽毛だと気付くのに数秒かかり、視線がぎこちなく入り口へと向く。
「あーあ、俺のプーさんがボロボロだぜ?」
 ひとつ肩をすくめ、ぬいぐるみを手にしてシゲルが入ってきた。
「あ、青葉二慰!?どうしてここに…」
「不可能を可能にするの青葉クオリティ、と言ったっしょ」
 ふ、と笑ったシゲルが、
「気持ちは分かるが女に、それも素手の女相手にぶっ放すのはちょっとかっこ悪いぜ、子猫ちゃん?」
 キラの手から拳銃を取り上げたところへ、
「キラっ!」
 血相を変えたアスランが飛び込んできた。
 キラが飛び出していったので慌てて追ってきたのだが、怒りの度数が根本的に異なるキラにあっさりと引き離されてしまったのだ。
 ワンテンポ遅いかに見えたが、そのままキラに飛びついたのは正解であったろう。シゲルの思わぬ闖入で射殺は邪魔されたが、キラは単なる十四歳ではない。その手は腰に差したナイフへと伸びていたのである。
「止めろキラ、どうしてお前が…!」
 言いかけて、アスランの全身が硬直した。
「僕の邪魔をするの、アスラン?」
 手を振りほどこうともせず、冷たく見返した視線は、キラが未だかつて見せたことのないものであった。
(キラお前は…)
 言うまでもなく、シンジは遺書を残したわけではなく、自殺を仄めかしてもいない。単に元いたところへ帰ったのみだが、それでも怒りは恋人の自分さえ眼中にないのかと、キラをおさえたアスランの手から力が抜けていく。
(こりゃあ、やべえな)
 マリューとミサトは知らないが、シゲルはキラの本性を知っている。完全に死神モードに入ったキラを見て、これはナタルの両腕位は差し出さないと収まらないかと、内心で勝手に物騒な事を考えたシゲルだが、事態の収束主は思わぬ所からやって来た。
「始末を忘れて帰るほど、慌てていたのかしら?」
 鈴を振るような声と共に、姿を見せたエザリアに、コウゾウは内心でほっと安堵の息を吐いた。
 この場に於いて、最も客観的に事態を把握し、また口を出せるのはエザリア位のものだ。
 他の者では、悪い意味でキラに近い。一番親しいはずのアスランにさえ、キラは拒絶の姿勢を隠そうともしないのだ。
「それとも、僕は殺す暇ないからキラやっといて、と無言の依頼でもあったの?」
 ゆっくりと歩み寄ったエザリアが、白魚のような指でキラの手からナイフを取り上げた。
「アスラン・ザラ」
「は、はいっ」
「彼をお家に連れて帰って、連絡があるまで待機していてちょうだい。帰ると言ったのなら、仙台を捜索しても見つからないでしょう」
「分かりました…」
「ネルフに氷のオブジェを作るような従兄弟が、うっかり殺し忘れたりはしないものよ。キラ・ヤマト、あなたもいいわね」
「……」
 返答はなかったが、キラも黙って頷いたのを見て、やっと場の空気が緩んだ。キラがアスランに抱えられるようにして出て行った後、エザリアがナタルの前へと歩み寄った。
「誰に叩かれたのかは大体見当が付くけれど、血が付いたままじゃ、折角の可愛い顔が台無しよ?」
 取り出したハンカチを、エザリアがそっとナタルの頬に当てると、優しい声に緊張の糸が切れたのか、ナタルの双眸から一筋の涙が流れ落ちた。
(ナタル…)
 ナタルが人前で涙を見せたのは、生涯でこれで初めてである。
 がしかし。
「色々大変だったわね。家に帰ってゆっくりお休みなさい。連絡したら何時でも動けるように、自宅で待機していてちょうだい」
「…はい」
 ナタルを思いやっているように見えて、その実は絶対の自宅謹慎であり、しかも無期限ときた。
 階級的にはナタルより更に下のエザリアだが、直接の上司であるコウゾウは何も言わず、エザリアの指図に任せている。
(さて、呆れか怒りか)
 コウゾウは、この美人秘書が優しげに見える時程、内心は正反対である事をよく知っていたのだ。それに、エザリアはコウゾウの思考をよく理解しており、大きく逸脱した事はやらかさない――故意の場合を除いて。
 キラを家に放り込んでおく事と、ナタルの自宅謹慎はコウゾウも考えていたのだ。
「さてと、随分タイミングの良い乱入を、それも当直でないあなたがしてくれたようだけど、結果に免じて今回は追求しないでおきましょう。もういいわ」
「じゃ、俺はこれで」
 マリューが少しく平静であれば、ナタルの姿を見失った時と合わせ、明らかに妙だと気付いたかもしれないが、今のマリューにその余裕はなかった。
 未使用だったぬいぐるみを手に、シゲルが音もなく滑るように出て行く。
 残されたキラの銃を拾い上げ、
「私の一存で勝手に指示させて頂きました」
 コウゾウに渡したエザリアが艶やかに一礼した。
「ああ、構わんよ。君の命令はその大半に於いて、私のそれと重なっている。人事まで関わるには、この老体には些かエネルギーが足りん」
(副司令…)
 言葉の割に、さほどダメージを受けてなさそうな口調で言うと、
「もう、娘さんには連絡したのだろう?」
 と、エザリアに訊いた。
「はい、万一分かればすぐ連絡するよう命じてあります」
「そうか、すまないな」
「いえ」
 当然だが、エザリアがシンジ消失を知らされたのはコウゾウ経由である。それも、あえて気を遣わぬよう、携帯にメールで送られてきたのだが、それをすぐに知る程度にはエザリアの眠りは浅かったのだ。
 今回の件で一番被害を被ったのは、デートの夢を見ている最中に三十五回の呼び出し音で叩き起こされたイザークであったろう。
 しかも、母親に何かあったのかと思ったら、シンジが消えたのでもしそっちに行ったら連絡しろと、どう考えても朝一番で済むような話の為、文字通り真夜中の安眠を妨害されたのだから。
「シンジ君の行方は、またあの時と同じだろう。探すだけ無駄というものだ。葛城、ラミアス両少佐は参号機と四号機の出撃準備をしておくように。修理はされても、操縦者がいなければただのがらくただ」
「『はい』」
「それと、強羅に行ってな」
「はっ」
 強羅と言えば絶対防衛線であり、警備体制をもう一度見直せとの命令だと思ったのだが、
「あそこに道祖神があるから、お供え物をして拝んでくるように。できれば人外の世界から、気まぐれな少年をもう一度こっちの世界へ放り出してくれ、とな」
「『…了解しました…』」
 特務機関ネルフの副司令冬月コウゾウが、荒唐無稽な事を言い出したのではない。
 今は文字通り、道祖神にでも縋る位しか打つ手はなかったのだ。
 
 
 
 
 
 渦中のシンジはと言うと、十数時間ひたすら眠り続け、漸く心身共に回復しつつあった。
 しかし、こちらへ帰って来て早々メイヴには嘘をつかれ、機嫌は些か芳しくない。
 むくっと起き上がり、くしゃくしゃと髪をかき回したシンジの周辺には、不機嫌の精が十数匹漂っている。
 服を着替えたところへ、
「シンジ卿、朝食を持ってきてあげたですよ」
 ケットシーの声がした。
「開いてない」
(……)
 料理を載せたワゴンの柄を握ったまま、ケットシーが振り返って首を振る。
 切なげにため息をつき、悄然と戻っていったのは女王メイヴであった。もしかしたら、一晩経って少しは機嫌も戻ったかと思い、そっと着いてきてみたが、少しも戻っていないではないか。
(まあ、まだ切り札はある事だし)
 軽く首を振ると、ドアに手を掛けて勝手に開く――鍵はかかっていなかった。
「食事にしましょう?食べ終わったらタム様のところへお連れしますわ」
「んー、先に行った方が良くないかな」
「ちゃんと食事はしたんだろーなー、と言われたらどうするんですか」
 それを聞いて、シンジの表情が少し緩む。その声は、タム・リンにそっくりだったのだ。
「それは困る」
「じゃあ、ちゃんと食べて下さいな」
「はいです」
 先だって、シンジの初陣となった使徒戦の折、その身を挺してシンジを覚醒させたタム・リンは、クーフー・リンと共にシンジを保護し、養育してきたのだが、行状面の指導にはタム・リンの方がより細かかったのだ。
 朝食中のシンジを見ながら、ケットシーは内心で呟いた。
 即ち、
(少なくとも今は、あの女の事は心から消えているようね)
 と。
 この分なら殺っちゃってもと、ちらっと浮かんだような気もしたが、すぐに首を振って打ち消した。
 自分まで、メイヴの二の舞になる事はないのだ。
「ケットシー」
 こちらを向いたシンジが、不意に呼んだ。
「な、何かしらシンジ殿」
「今何か、ろくでもない事考えなかった?」
「いいえ、ちっともまったく全然考えてないわよ」
「そう、ならいいんだ」
「お疲れなのよシンジ卿は。食事が終わったら呼んで下さい」
 音もなく部屋を出たケットシーは、後ろ手にドアを閉めてから、さっきの自分は怪しく動揺していなかったかとひどく気になった。
 
 
 
 
 
「そうか…出て行ってしまったのか…」
 報告を受け、深いため息をついたゲンドウに、
(碇、口元の笑みが隠せていないぞ)
 コウゾウは内心で突っ込んだが、口にはしなかった。
「折角戦力になると思ったのだが、仕方ないな。幸い参号機と四号機を修理していってくれた事だし、今日付で籍を抹消して初号機を――」
 ゲンドウが最後まで言い切ることは出来なかった。
 コウゾウの指が僅かに動くと、天上から果物の入った袋がゲンドウの顔を直撃し、そのまま昏倒したのだ。
「まったく愚か者が…また胃痛の種を増やしおって」
 今のネルフにとって必要なのは、作戦時に有能で、尚かつそれなりに従順なパイロットであって、人格者の少年ではない。必要条件に限って言えば、シンジは合格点であり、初戦でいきなり勝利する実績を持っている。
 尤も――その勝利の方程式は、ゲンドウは無論コウゾウにも想定外のものではあったのだが。
 とまれ、需要のある少年が忽然と消失し、それだけでも胃がキリキリと痛いのに、ゲンドウは哀しむどころか喜んでおり、しかも二機が使える状態になったと聞き、完全に用無しとばかり、早速登録抹消しようとしているのだ。
 入院期間をまたしばらく伸ばす事にしたのは、胃痛を悪化させたくないコウゾウにとって、当然の措置であったろう。
 やれやれ、と呆れた顔を隠そうともせず携帯を手に取った。
 ボタンを押すと相手はすぐに出た。
「ああ、私だ。碇が負傷したよ。何やら悪夢に追われたようだ。悪いが来てくれたまえ。場所は――」 
 
 
 
 シンジの退散は、運営側以外にも影響を及ぼしていた。
「アスラン、さっきはごめんね…」
 何とか家まで帰ったキラは、アスランに力弱く謝るとそのまま自室へ籠もってしまった。一方のアスランにとっても、キラが初めて見せた拒絶の色はショックだったし、何よりも十年間会っておらず、簡単な矢文だけ残して身勝手に消えた――アスランにはそう見えた――従兄弟が優先だったのは、決して小さくない衝撃であった。
「俺は…一体どうしたら…」
 しょんぼりと項垂れていたアスランだが、十分ほど経ってその顔が上がった。
「そうだ、カガリに電話くれって言われてたんだ。すっかり忘れてたぞ」
 嬉々として電話に手を伸ばすアスラン。
 その相手はドイツの許嫁で、たまにはそっちから電話しろと言われていたのは事実だが、実際の魂胆はキラに冷たくされた傷心への慰めを期待していると知ったら、カガリはなんと言ったろうか。
 なおドイツとの時差は7時間であり、今時計の針は午前8時を回ったところである。
  
 
 
「これじゃ新古品、じゃなくて新品ね…」
 格納庫に仕舞われていた参号機と四号機は、修理するのにそこそこの日数とえらい金額がかかりそうだと、代替品としてシンジを召喚する程だったのに、今二人の前で固定されている機体は、修理を通り越して新品の状態にまで戻っていた。
 外見だけの修理でない事は、既に技術班が機関部まで調べたから分かっている。しかも、分解された形跡も無いときた。一体どんな技術を持ってすればここまで綺麗に、そして修理の形跡すら無く直せるのかは、二人にも皆目見当がつかなかった。
「でもミサト、これ…どうするの」
「どうするって…ちゃんと直してあるか信用できないってこと?」
「そんなんじゃないわよ。シンジ君が仲魔に依頼してくれたのでしょうし、それなら間違いなんてないわ。シンジ君と仲魔達は強い絆で結ばれているもの。どこかの誰かさんみたいに、血が繋がってるのに隠し事しないものね」
「だ、だからあれは悪かったって言ってるじゃない。それにあなただって、あたしの事ひっぱたいたんだからおあい…ひたたた」
 言い終わらぬうちに、ミサトの両頬が思い切り左右に伸びた。
「自分が勝手に割り込んだんでしょ!自分から叩かれに来たくせに、おあいこってどういう事よ!」
 そう、確かにミサトがマリューに叩かれたのは事実だが、真実ではない。マリューの手が伸びたのはナタルの頬であって、そこへ勝手にミサトが割り込んだのだ。しかも、その原因となったシンジとナタルの甘い同棲生活を、ミサトは知っていながらマリューには告げなかったとあって、マリューの怒りはまだ収まっていないのだ。
 ナタルを庇ってマリューの平手を浴び、ただでさえ赤くなっている頬を更に思い切り引っ張り回され、やっと解放された時、ミサトは痛みでしばらく口を開くこともできなかった。
(これだから処女は面倒なのよ、まったくもう)
 ミサトが二人のことを知ってもあまり目くじら立てずにいたのは、まだ経験の浅いナタルではシンジを虜にするまでにはいかない、と読んでいた部分が大きい。いうなれば、経験からくる余裕である。
 が、マリューはそれがない。諸般の事情があってまだ男を知らないマリューは、ミサトほどのんびり構える余裕が無かったのだ。
 尤も、シンジが去っていなければ、マリューも手をあげるまでは行かなかったろうが、ミサトの頬が痛んでいる原因にマリューの処女が絡んでいるのは間違いない。
 とはいえ、ここで真実を突いて燃えさかる劫火にガソリンを投下するほど、ミサトは経験不足でも短慮でもなかった。
「そう、怒ってばかりだと、乳首にしわが増えるわよ。乳首が皺だらけだと、シンジ君とえっちする時困るでしょ」
「!」
 間髪入れず、マリューの頬が赤くなっていく。
「わ、私は別にその…ねえ…?」
 指先をもじもじさせている従姉妹はこれで済んだが、本来の問題はちっとも片付いていない。
 そう、
「キラ君は…乗ってくれるのかしら…」
 と。
 ネルフの組織形態を考えれば、本来ならキラは懲罰房行きなのだが、それを告げればキラは躊躇いなくここを去るだろう。そして、戻ってきたシンジがそれを知れば、それこそジオフロントは炎に包まれかねない。
 しかも、キラはアスランにさえ拒絶の色を隠そうともしなかったのだ。
 その原因にして、何とかしてくれそうな少年は、この場どころかこの世界にすらいないと来ている。
 腕を組んだまま、ミサトが大きくため息をつくと、腕に載った乳房が小さく揺れた。
 
  
 
 
 
「えーと、タムいる〜?」
 シンジが頼んだのではないが、シンジを無理に覚醒させた反動を一身に引き受け、結果寝込んでいるとあって、配下から怨みを買っている事は覚悟してきたのだが、タム・リンの居城に着いてから寝室まで、誰にも会うことはなかった。
 無論、シンジに対する一切の敵意は此許さずと、クーフー・リンが目を光らせていたおかげだが、シンジは知る由もなかった。
 尤も、それを主に知られた時は生命の危険に直結するので、まだクーフー・リンの方が良かったろう。
 とまれ、シンジが室内に入ると、タム・リンは半身を起こして出迎えた。
「人間界で負傷した騎士(ナイト)が居ると聞いて、とんできましたよ」
「うむ」
 クーフー・リンと並び称される騎士は、何故か嬉しそうに頷いた。シンジを助ける為の負傷だが、シンジに頼まれた事ではない。
 誇り高い妖精の騎士に取って、それを謝られたりするのは大いなる侮辱なのだ。
 だが、今までにタム・リンがこんな格好でシンジを迎えた事はなく、その症状は決して軽くないとシンジはすぐに気付いていた。
 それでも、僕のせいでごめん、と謝らない程度にはシンジも空気が読めたのだが、
「ところでシンジ殿、休暇か?それとも引き上げて来られたのか?」
「お帰り」
「そうか。それで、例の文通相手の従兄弟殿はどこにいる?一度会ってみたいものだが」
「従兄弟ってキラ?キラは向こうだよ。僕の勝手な退散に巻き込めな――」
「愚かな選択だったなシンジ殿」
 静かに遮られ、シンジは僅かに首を傾げた。単に、帰ってきた事を叱られたとは思えなかったのだ。
「シンジ殿抜きで、連中が手を打てると思うならこの俺がわざわざ身を挺したりはせぬよ。異形の化け物に襲撃され、落ちる命運の世界に従兄弟を置き去りにしてくるようなな精神(こころ)は、俺もクーも教えたつもりはなかったのだがな」
「…ごめん…」
 謝ったシンジだが、アスランやキラではどうにもならない、と思っていながら残った二機の修理を地霊達に頼んだ訳ではない。
 だから置いてきた、と言われたのは少し意外であったが、妖精騎士が自分をそこまで買っていたのも、また想定外であった。
 シンジの場合は自己評価だから、あまり高くないのもある意味当然だが、常識で考えれば未経験のシンジよりも経験があり、おまけに恋人同士のアスランとキラの方がより高い効果を出せると考えるのは普通である。
「まあいい。シンジ殿にはまた考えがあるのだろう。ところでメイヴにはもう会ったのか?」
「うん、昨日帰ってきてすぐに」
「そうか。何か変わったところはなかったか?」
「?」
 首を傾げたシンジを見て、タム・リンはにやっと笑った。
「まあ、頬がこけるまでにはなっていないからな。一目では分からんか」
「怪我を?」
「痩せたんだよ。シンジ殿が気になって気になって夜も眠れず、5キロ近く痩せたらしい。言っておくが、俺に聞いたとは絶対に言うなよ」
「わかってる。でも、あのメイヴが…」
「直情径行型だが、あれはあれでシンジ殿を想ってるんだよ。怒る気持ちは分かるが、許してやるがいい」
「タム…知ってたの?」
「何を?」
「メイヴが僕を怒らせたって事」
「知らん」
「…え?」
 ワハハハ、とタム・リンは豪快に笑った。
「その位の事は、シンジ殿がメイヴの匂いを全くさせずに来たのを分かる。それに、いくらメイヴでも、シンジ殿をこっちに連れ戻す手は打たん。となれば、事情は知らぬが帰ってきたのはシンジ殿の意志だ。シンジ殿の機嫌を相当損ねていなければ、数日は城から出さぬし、何とか逃げ出してここへ来てもすぐ分かる。痕跡が皆無と言うことは、折角帰って来たのにご機嫌を損ねて、メイヴが独り寝を強いられている証だ。それと、シンジ殿は向こうで人間の女と同棲していたろう。帰ってきたのならその女とは別れてきたのだろうし、こちらでメイヴに立腹するというのは、察するところシンジ殿の心を傷付けたとその女の抹殺命令を出したとか、大方そんな辺りだろうと推測するのにそう苦労はないよ」
「いつから推理小説の主人公に扮する趣味がついたのさ」
「シンジ殿は自分の意志で帰ってきたが、来てみたらメイヴが女の抹殺命令を出していたので立腹中。このどこかに外れがあったら妖精の羽衣を進呈しよう」
 妖精の羽衣とは、ある種族のピクシー達がその羽を織って作った衣装で、とても軽い上に夏は涼しく冬は暖かい。更に人間が着ると特殊効果が出る――それを羽織った人間は完全に姿を消すことが出来るのだ。
 人間界では天文学的な値段のつく代物だが、シンジは別段欲してはいなかった。
「遠慮する。対価にろくでもない物を要求されそうだから」
「陛下なら、イイ物を要求できそうだが、俺はシンジ殿から搾取できるものがないからな、心配は要らん。で、どこか違っていたか?」
「……」
 シンジが黙って肩をすくめる。
 それが答えであった。
「俺の脳細胞も、そう劣化していないようで安心したよ。久しぶりに戻ったのだから、しばらくは湯治でもして心身を癒されるがいい。俺の事なら、慣れぬ事をしたせいで消耗しただけだ、別に心配はない。のんびり湯にでも浸かりながら、今後の事を決めれば良かろう」
「うん…ありがとう、タム」
「どこかへ行きたくなったら、クーにでも俺にでも言うがいい。道行きは用意して差しあげる。無論――どこかの女を消したくなった時もまた、な」
 刹那、室内の空気が凝固したがそれも一瞬のことで、
「シンジ殿がいない間、部屋は誰も使っていなかった。手入れを怠らぬようにな」
「はーい」
 部屋の掃除を告げた口調は、シンジの教師のそれへと戻っていた。
「じゃ、僕はこれで。その…早く良くなってね」
「ありがとう。シンジ殿が来てくれたせいで、寝ていられる期間が一ヶ月は縮んだようだ」
「タム…」
 出口に向かったシンジの足が、扉の前でふと止まった。
「あ、そうだタムにお願いがあるんだけど――」
 
 
 
 
 
「シンジが消えただと!?」
「ああ、今朝方母上から連絡があった」
 真夜中に叩き起こされた、とは言わなかった。
「相変わらず、警戒網に影一つひっかかる事無く消えたそうだ。もしこっちに来たら知らせるようにと、母上は言っておられたが…」
「それで、シンジがのこのこと戻ってくると想ってるのか、お前は」
「……」
 イザークは力なく首を振った。元々、イザークよりディアッカの方がシンジの上京には強く反対しており、そのシンジが消えたと聞いてほら見たことかと機嫌はすっかり悪化している。
 険しい表情のまま宙を睨んでいるディアッカに、掛ける声が見つからないイザークだったが、やがてふっと息を吐き出した。
「まあいい、シンジなら仲魔がついている。シンジに何をしたか知らないが、ボンクラ共に捕まる事は無いだろう。しっかし…ネルフってのはほんとにバカしかいな…」
 言いかけて気付いた。
 イザークの母親は、ネルフの副司令に秘書として就いているのだ。
「いや、いいんだ…本当のことだから…」
 余人なら蹴飛ばしているところだが、シンジとディアッカが親友であるだけに、怒る事はイザークには出来なかった。
「ところでイザーク」
「え?」
「シンジが消えた事に、まさかお前の母親が絡んでいたりしないだろうな」
「それは…多分ないと思う。母上はシンジの上司じゃないし、一度会ったきりだと聞いている」
「ならばいい。ただでさえシンジがこっちの世界に愛想を尽かした可能性があるのに、お前の母親が原因だったなんてご免だからな」
(ディアッカ…)
 イザークとシンジは、友達ではあるがそれ以上の関係ではない。ディアッカとは付き合っている間柄なのだが、何故かディアッカの中で自分よりシンジの方が大きな存在になったような気がして、イザークはそっと俯いた。
 自らも予期せぬ処で他人の交友関係に傷を付けるのは、或いはシンジがどこかで身につけた“特技”だったろうか。
 
 
 
 帰って早々にシンジを怒らせてしまい、しかも回復する気配すらないとあって、妖精界の女王メイヴは、一日中、半ば抜け殻のようになっていた。引きこもりはしないし、任務も変わらずこなすのだが、その前に出た者達は皆、退出してからこう囁き合った。 今日の女王陛下は心を喪っておられるかのようだ、と。
 見かねたクーフー・リンが、午後からの謁見を禁じメイヴを城外へと追い出した。
 正確には、気晴らしが必要だと護衛を付けずに散策へ行かせたのだ。普段なら余計なお世話だと反発するところだが、そんな気力は残っていなかったのか、メイヴは言われるまま素直に出て行った。
 午後の陽光が穏やかに差し込む森の中を、メイヴは行く当てもなく彷徨っていた。足取りはしっかりしているし双眸は前方を見つめているが、そこには意志が全くといっていい程感じられない。
 肉感的過ぎれば緩くなり、知に過ぎれば冷たくなる。普段のメイヴは、ちょうどその中間で整った雰囲気を醸し出しているが、今のメイヴは妖精の女王どころか冥府をさまよう女ゾンビよろしく、存在感も意志も感じられぬまま、ただ歩き続けていた。
 以前はよく、シンジをその羽根にくるんで木の頂へと飛翔し、二人して景色を眺めては帰った後、仕事を放り出したとクーフー・リンに叱られたりしたものだが、今のメイヴにはその腕に抱く者もいない。
 悄然と歩き続け、ふと気がつくと沼の畔へ来ていた。
 ここもまた、シンジを伴って幾度も訪れた場所であった。一見すると何の変哲もない沼だが、水底からはわずかながら妖気を発しており、自然もそのざわめきを控えたかのような静謐な空気はメイヴも気に入っていたのだ。
(僕は…こんなところへ何を…)
 シンジがいるわけはなく、まして許してくれていないのに、何を未練がましく来ているのかと妖精の女王が自嘲気味に笑った直後――いきなりすっ転んだ。
「!?」
 自分の足で歩くようになって以来、何も無い所で転んだ事など一度もない。
 怪訝な表情で起きあがろうとした刹那、
「ひゃぅ!?」
 今度はいきなり胸が揉まれ、一瞬にしてメイヴの表情が変わった。空虚だった双眸に怒気が漲り、手がすうっと下がっていく。不意に、空間に現出した刀がメイヴの華奢な手に握られたそこへ、
「勝手にぶつかって転んだ挙げ句刀を振り回すとはなんて物騒な」
「…え!?」
 笑みを帯びた、あまりにもよく知っている声にメイヴの殺気が急速に萎んでいく。
「シ…シンジ君?シンジ君なのっ!?」
「どう見ても僕です本当にありがとうございました」
 どう見ても、と言われてもまだシンジの姿は見えない。しかも不埒な手が胸を揉んだ位置と、声の聞こえた場所が違うのだ。
「やあ、メイヴ」
 ひょい、と軽く手を挙げたシンジが姿を見せた時、最初に声がした場所から数メートルも離れていた。
「ど、どうしてここに…」
「昼寝しに来た。タムに羽織るもの貸して、と言ったらこれを貸してくれたんだけど、そういえば人間が身につけると姿が消えるんだってね。すっかり忘れたよ」
 忘れていた、と言いながらついさっき、実験成功と言ったのはシンジ本人ではないか。メイヴは笑ってみようとしたが、まだ笑みは口元に出てこなかった。
「結構暖かいけれど、姿が消えるんじゃ誰にも分からない。眠っていてケルピーとかに踏まれたらえらい事になるな――」
 ちら、とメイヴに目を向け、
「女王が昼寝してれば、少なくとも近寄ってきて僕が誰かに踏まれる事はない。僕の昼寝の目印にするから…メイヴ、ここにおいで」
 一方的に決定し、自分の横をぽんぽんと叩いた。
(シンジ君…)
 
 この日――メイヴの初めての笑みは泣き笑いになった。
 
 
 女王陛下が沼の畔で、それもおかしな姿勢で熟睡中、との報告をピクシーから受け、やってきたクーフー・リンは、シンジと抱き合って眠るメイヴを見つけた。
 頬に涙の痕があるにもかかわらず、ひどく幸せそうな寝顔のメイヴを見て、
「あれは…そうか、タムが所有する羽衣であるか」
 と、妖精の騎士は呟いた。
(タムが計らってくれたのだな)
 人間が羽織れば姿が消えるから、ピクシー達が仰天したのも無理からぬ事だが、全ての妖精に通じるわけではなく、そしてクーフー・リンは、その効果が通じぬ数少ない中に含まれていた。
 
 メイヴに仕えてもう永いクーフー・リンだが、この日見たメイヴの寝顔は、後にも先にも最高のものだったという。
 
 
 
「どう思う?」
「女王陛下の方が一方的に甘えているように見えるのがちと気になるが、まあ、あれはあれで良いのだろう。さて、今宵は我らも久方ぶりに月の欠片を摂るとするか」
「そうね、邪魔しちゃ悪いからさっさと行きましょ」
 
 
 
 
 
(つづく)

TOP><NEXT>